キャミにナイフ   作:紅野生成

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35 岩に染みいる青白き川の先

 互いに顔を見合わせたが、解らないというように水月は首を静かに横にふる。

 

「あんた達には仲間がいるといったな? そいつらは我らが鬼神を迎え入れてくれるだろうか」

 

 細身の男が笑みを浮かべたまま、遠慮がちに口を開く。

 

「仲間はいるけれど、あなた達の知る鬼神がいったいどういう者なのか。それによって答えは否。どうしてもぼく達には、あの鬼神しか思い浮かばないから、今は答えようもありません」

 

 そうか、と男は僅かに目を伏せ頷いた。

 

「それにしても、ここにいる人達はみな鬼神を慕っているような、大切にしているような印象を受けるのですが、そのような相手をどうして鬼神などと?」

 

 この問いに答えたのは、嗄れた声の老人だった。

 

「ここにいても噂だけは耳に入る。我々の知る者と同じような姿形であるにも関わらず、その者が鬼神と呼ばれていると。だがあくまで噂で、確信を得たのはたった今だからのう。おぬしらの言葉に合わせただけよ。文字にしたためるなら、その者の本質はまるで違う。外見は同じでも、中身がまるで違うようにな」

 

 にやりと悪戯っぽく笑う老人の目元は皺に埋もれ、窄めた口元から放射線状に深い皺が伸びる。

 

「我々が知っていた者の名は希神、希望を統べる者という意味だった。闇に埋もれ散らばっていた我らにとって、差し伸べられた手は、希望以外の何ものでもなかったからのう。いつ誰が呼び始めたのか、我々の手を引いて救い出してくれた者は、希神と呼ばれるようになった」

 

「神なのですか?」

 

「どうであろうな。まるで己の存在が何であるかを理解していない風ではあったが、あの者がたとえ雑草の化身であろうと、土塊であろうと構わない。我々にとっては確かにこの手と心に触れた、確かな存在であったのだから」

 

 まだ見ぬ希神を思い描く。片頬を上げるような鬼神のにたりとした歪な笑いでもなく、オリジナルと呼ばれた少年の寂しそうな表情でもなく、あの少年の顔に浮かんでいたのは屈託のない笑みだったのだろうか、そんなことをふと思った。

 隣で腕を組み考え込むように首を傾げていた水月が、閉じていた瞼を開ける。

 

「ここにあんた達を縛り付けたのも鬼神だといっていたが、それは俺達が知る鬼神のしたことなのかい? それともあんた達の知る希神の成したことなのか?」

 

 水月の疑問はぼくも感じていた。

 鬼神の仕業なら、彼らが噂でしか鬼神を知らないというのはおかしいし、かといって希神と呼ばれる者が、このような非道に走るとも思えない。それとも、彼らの為にここに縛り付けなくてはならない理由でもあったというのだろうか。

 

「耳を疑うでしょうが、そのどちらでもありゃしませんよ」

 

 大柄な花の模様が入った浴衣の袖をぐっと片手で握りしめ、女性が細い眉根をよせた。

 

「希神はあたし達を解き放つためにここに集めたんですよ。だから、ここを離れようと思えば、おそらくここにいる全員が、己が進むべき道へと戻っていけた。けれどあたし達はそうしなかった。もう一日、もう一日だけと、その日を先送りにしていたんです」

 

「それはまたどうしてですか?」

 

 これだけの人数が思いとどまった理由は何かと、ぼくは思わず身を乗り出した。

 

「さあねえ、あたし達のもよく解っちゃいないんですよ。ただ、広大な闇の中に、希神が一人で残されるのかと思うと、できなかったのかもしれないねぇ。まあこれだけの人数がいるんだ。碌な生き方をしていない奴だって大勢いますよ。だから自分の為なのかもしれませんねえ。希神の側にいて、あの笑顔を見ていたかった、ただそれだけかも」

 

 懐かしむように、女の目元に柔らかな笑みが浮かぶ。

 

「俺たちをここに縛り付けた者については、語るほど知っている者はいない。そうであったのだろうという、あくまでも憶測に過ぎん。運が良ければ知ることも叶うだろうさ。それを知ることは、あんた達の鬼神が何者であるのかを、知ることにもなるのだろうよ」

 

 そういって、細身の男が手を高く頭上に翳す。男に倣ったように、人々がぴんと腕を伸ばし天井を見上げていく様は、まるで盛り上がる波を見ている様だった。

 中央に位置する人々が、墓標と共にその位置をずらし、真ん中に何もない一本の道が出来上がる。

 地鳴りと共にずれていく墓標は、やはり岩の欠片ひとつ零すことはなかった。

 地鳴りが治まり、岩間に静寂が滲みていく。

 

 ミャ

 

 何を思ったか、チビがひと声鳴いた残響が木霊となって広がった。

 人々が出来上がった道に向かって、一斉に内側を向く。

 

「アイヤ――!」

 

 語尾を伸ばした老若男女の声が折り重なり、周りを囲む岩に反響する。

 チビの前足が片方、そっと前へ踏み出した。

 壁を形成する岩の隙間から漏れ出ていた青白い光りが、まるで意思があるかのように光りを岩の内に閉じ込めていく。

 灰色だった岩の縁さえ青白く色を放ちはじめると、光りの線は下へと流れ落ち、床に敷き詰められた平坦に切られた岩の隙間へと流れ込む。

 中央の道に向けて急な傾斜がついているのかと錯覚するほど、青白い光りの流れは速く淀みない。

 

「なんだこりゃあ」

 

 隣で目を見開きながら水月が呟く。

 このような異質な空間であることを忘れさせるほど幻想的な光景は、青白い光りの線があっというまに床の岩間を埋め尽くし、道に流れ込んだかと思うと平坦な岩の表面を濡らしたように輝かせながら、真っ直ぐに闇の向こうへ続く青白い光りの川が出来上がった。

 どこまで息が続くのかと、感嘆するしかない叫びがぴたりと止む。

 止まることなく目の前で繰り広げられる光景に、今度こそぼくは息を呑んだ。

 

「人の姿が消えていく」

 

 向かい合って中央に体を向け、両の手を高く掲げる人々の足元から白く濃い煙りが湧き上がり、腰から胸元へと、徐々に体を覆い尽くしていく。

 煙のように見えるが、おそらくそのような物ではないのだろう。

 焚き火から立ちのぼる煙のようにゆっくりと渦巻きながら、決して天井へ昇ることなく人々の体に絡まっている。

 ぴんと伸ばされた指先まで白い渦に巻かれた頃には、足元の白い塊は完全に平坦な岩面を離れ、その後には見えるはずの足も腰も、在りはしなかった。

 

「まいったなこりゃ。世の中知らないことはまだまだあるもんだねぇ」

 

 感心しているのか巫山戯ているのかわからない口調の水月を、ぼくは肘の先でぐいと突いた。

 

「これから何が起こるか予想も付かないのに、呑気なこといって。水月さんだけが頼りなんだから、しっかりしてよ」

 

「おれは巻き込まれただけだっていっただろう?」

 

「巻き込まれに飛んで入ってきたんでしょうが?」

 

 あまりにも現実味のない光景に、会話までもが呆けたように浮き足立つ。

 そんなやり取りの間にも、白い煙のような塊は下から人々の体を呑み込み、手のあった辺りに辿り着くと先端から伸びたちらちらと光る糸に引かれるように、道の上へと集まっていく。

 ちらちらと光る糸は、どれひとつとして同じ色の物はなく、薄い橙、濃い紫とひとりひとり違う糸を紡ぎ出してる。

 広い空間に人の姿はなく、残された墓標だけが主のいなくなった後を守っているようだった。

 

「見ろよ和也。まるで雲でできたトンネルだ」

 

 道を半円に覆う白い塊がこちらへと伸びて、ぼく達が立つ真上を覆い尽くす。

 

 ミャ

 

 まるで餌でも取りに行くような気軽さで、チビが軽い足取りのままトンネルの奥へと歩いて行く。

 

「チビ? おい待てよ!」

 

 慌てるぼくの背中を、水月がそっと押した。

 

「行ってみようじゃないか。ここに居たって、どうせ外へは出られそうもない」

 

 確かに水月のいうとおりだ。頷き返して、ぼくはチビの後を追った。

 少し進んでから振り返ると、背後を白い煙の塊が壁となって閉ざし、今さっきまで立っていた場所を見ることさえ叶わない。

 悪意は感じなくとも、人を不安にさせるには十分な演出だった。

 

「そんなに何度も振り返るな。少しは腹を据えて落ち着きなよ」

 

「水月さんが落ち着き過ぎなんですよ。ぼく達が前に進んだ分だけ、背後の白いもこもこした壁も間を空けずに迫ってくるなんて。岩に囲まれていたあの空間よりも、完全に逃げ道を失った気分です」

 

 目を細めて水月はくくっと肩を揺らす。

 

「どうなるかは知らないが、直ぐにとって喰われるわけでもないだろうさ。見ろよ、彼らが守ってくれている。そんな気がしないか?」

 

 水月の指差すトンネルの壁に目をやった。

 壁から天井までぐるりと半円形に覆われた様は、まるで水族館に造られた水槽の下を歩けるトンネルにいるようで、さしずめ魚の代わりに色とりどりの短い糸が泳いでいる、といったところだろうか。

 

「そんな悠長な。けれど、綺麗ですね。色も輝きも違う糸が、白い煙の中を泳いでいるみたいだ。いったいこの糸は何なのかな」

 

 ちらちらと光りながら、入れ替わり立ち替わりに姿を見せる光りの糸を眺めながら、水月のいうとおり少し落ち着こうと息を吸う。

 相変わらず前をいくチビの背中を見ていると、のんびり裏路地を散歩しているようにしか見えないのだから、自分の小心者っぷりにだんだん嫌気がさしてきた。

 

「コンビニに売ってないかなぁ……強い心の種」

 

「はあ?」

 

「ひとりごとです。お願いだから聞き流して」

 

 くすくすとお笑う水月から顔を背けて、べっと舌をだす。

 

「おっと、こりゃあ早々に現れた分かれ道ってやつだな」

 

 その言葉に目を向けると白い煙のトンネルは途切れ、岩の壁に人ひとりがやっと通れる程度の通路が三本、隣り合わせて穴を広げていた。

 三本のトンネルの前でチビはぺたりと座り込み、歩き疲れたといわんばかりに白い毛に覆われた手を舐め始めた。

 

「どっちに行けばいいのかな」

 

 三本のトンネルの手前中央に、ぽつりと大きな水瓶が置かれている。

 何の変哲もない焦げ茶色の大きな水瓶を覗き込むと、中にはたっぷり水が溜められていた。

 

「それぞれの通路をちょっと覗いてみませんか? あまりに暗くて長いようなら、このまま入る訳にもいかないし」

 

 水月は右端へと向かい、ぼくは左端の通路へ足を向ける。

 おそらくは奥の方で通路が曲がっているのだろう。通路その物は灯りひとつ無く暗闇に満ちているが、かなり奥の方で曲がった先にある光源から、漏れた淡い光りが見えた。

 あの光りを頼りにゆっくりと進めば、歩いて行けないこともないだろう。

 少しだけ足を踏み入れようとしたぼくは、歩く速度に合わせて何気なく前後に振っていた手を見て首を傾げる。

 軽く前に振り出した右手の先に、柔らかな感触を確かに感じた気がしたからだ。

 もう一歩前へ出て、そっと手の平を前に押し出してみる。

 

「どうなっているんだ? まるで透明な水の壁が張っているみたいだ」

 

 手が触れたところから水紋が広がって、暗いながらもはっきりと見えていた先の景色が歪む。

 水底から見上げたような揺らぎは水紋と共に治まり、再び何もないかのようにトンネルの入り口がそこにあるだけとなった。

 

「まさかとは思うが、その呆けた様子だと和也の方も中には入れないようだな」

 

 指先を顔の前でうねらせて、水月が自分の見た水紋の広がりを知らせてきた。

 

「まいったな。これじゃあ前にも後ろにも進めやしない」

 

 背後には白く渦巻く煙の壁、前には水のような膜で入り口を閉ざしたトンネルが三つ。

 これでは完全にお手上げ。

 もっと詳しいことを人々に聞いておくべきだった、という後悔も今更だ。

 もう一度だけ手を前へと突き出し、湧き上がる水紋から目を離さずにゆっくりと後退る。

 

「緊張して喉がからからです。水瓶の水、まさか飲めたりしませんよね?」

 

「やめておいた方が身のためだ。たぶん、腹を下すくらいじゃすまんだろうよ」

 

 そんな事は解っている。ただ何か話していないと、息が詰まりそうだったから。

 のんびり手で顔を洗っていたチビが、ゆっくりと立ち上がったかと思うと、野生の跳躍力で器用に水瓶の縁に飛び乗った。

 

「チビ、それは舐めちゃ駄目だよ!」

 

 いうより早く、チビの舌がぴちゃりと水を舐めた音が響く。

 白い煙の塊の中を泳いでいた色とりどりの光りの糸が、一斉にその光量を増した。交代に姿を見せては奥へ潜っていくのをくり返していた糸が、一斉に表面に浮いてきたとしかいいようがない。

 眩い光りをちかちかと放つ糸を呆然と見上げていると、何事もなかったかのようにチビがぼくの足元へ寄ってきた。

 

「チビ、いったい何をしたの?」

 

 しゃがみ込んで頭を撫でようとしたぼくの手の甲を、いきなり伸ばされたチビの爪が引っ掻いた。

 

「痛ったい! 駄目だろチビ!」

 

 こつりと叩いてやろうとした、げんこつをするりと避けて、再びチビは水瓶の縁へと飛び乗った。

 

 ミャ

 

 水瓶の中を覗くように小さな頭を垂れる。

 

 ミャ

 

「そこに何かあるっていうのかい?」

 

 チビを叱りつけることを諦めたぼくは、水瓶の縁に手をかけ一緒に中を覗き込む。

 

「何か見えるのか?」

 

 つられて水月もひょっこりと顔を出す。

 

「飲めそうもない水があるだけです。チビ、後で腹をこわしても面倒みてやらないぞ?」

 

 しかめっ面で睨んだぼくの顔をちらりとだけみて、チビはぼくの方にひょいと飛び乗った。

 その時だった。

 手の甲にチビが付けた傷から、指先へと一筋の血が流れ落ちた。

 血の臭いが、ぼくの鼻孔を刺激する。

 水瓶の縁から手を離そうとした反動で、指先に垂れていた赤い血の珠がぽとりと一滴、水瓶の中に溜まった水へと落ちた。

 

「えっ?」

 

 たった一滴の血が、水面で筋を成していく。透明な水に溶けることなく伸びる赤い筋は、水瓶の中央でぴたりと動きを止めた。

 沈むことなく沈黙を続けたぼくの血が、竜巻にも似た渦を描き水瓶の底へと潜っていく。

 中央をへこませて、ぐるぐると渦巻いていた水が動きを止め、最初に覗いた時と変わらない、凪いだ水面が何事も無かったかのように揺れている。

 

 ミャ

 

 チビが小さく鳴いたと同時に、足元に水が流れてきた。

 最初に触れた左の通路から、支える物を失ったかのように水の壁が落ちて流れた。

 本当に水の壁が張っていたのかと思えるほど、見慣れた動きで水が流れてくる。

 

「どうやら、道は開いたようだな」

 

 立ちすくむぼくをそのままに、水月が水の流れた通路の前に立ち、すっと腕を持ち上げた。

 

「ほらな、道は繋がったらしい」

 

 明らかにトンネルの内側へと差し出された水月の腕は、何に阻まれることなく真っ直ぐに伸びている。

 ふと見上げると、あれほど鮮やかな色彩の光りを放っていた光の糸が、すっかり姿を消していた。

 

 ミャ

 

 チビが悠然と先を行く。

 

「ほら、チビも早く行こうとさ」

 

 苦笑を浮かべて、ぼくは水月に頷き返す。

 

「そうですね。先へ進みましょうか」

 

 暗闇の満ちた通路の中、先に見える淡い光りだけを頼りに進んでいく。

 この先に何があっても、選択の余地はない。

 そこにあるのは多分、ぼく達が知るべき光景なのだと今はそう思えていた。

 

 

 

 

 

 




 今日ものぞいて下さった皆様、ありがとうございました!
 では!

 

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