キャミにナイフ   作:紅野生成

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33 細い血の川が誘う先に

 まるで他人事として傍観しているように、小さく縮こまったぼくの意識は、表層から深く沈んだ場所で、戻りつつある自分の五感が受ける刺激を感じ取っていた。

 幾度も繰り返し襲う頬への痛みに、幼子が膝を抱えたように眠りかけた意識がうっすらと目を開けた。

 背中が重力に引かれて沈んでいく。

 絵本を見て想像した、底なし沼に嵌っていく感覚だった。ただし沼のような湿り気はなく、乾ききった何かが体を覆い尽くし、底へ底へと押し沈める。

 力の入らない手首を、強く締め付ける力があった。

 シャツの襟ぐり深くに感じる違和感は何だろう。ひんやりと乾ききった感触に全身が包まれる中、胸の辺りだけがほんわりと温かい。

 再び意識が瞼を閉じる。

 体がゆっくと押し流される低い音が小さくなり、完全に遠退いて消えた。

 

 

 

「和也」

 

 ぼくを呼ぶ声と息苦しさに跳ね起き、口の中に溜まった物を吐き出した。

 何度吐き出しても口の中をざらつかせる物の正体は砂の塊で、いったいどこでこんな物が口に入ったのかと噎せ返りながら眉を顰める。

 涙目で見上げた先には、ほっとした様子の水月がいた。

 

「水月さん、いったいどうしてこんなことに? 山で意識が遠退いて、あとは記憶がおぼろげなんだ。それにしても、息苦しくないですか? 酸素の薄い場所にいるみたいだ」

 

 口の中の砂を吐き出して呼吸に支障がない筈だというのに、どんなに呼吸をくり返しても息苦しさが残る。肺に酸素が行き渡らない。

 

「息苦しい? 俺は特に感じないが、もしかしたら和也が人の世で暮らした時間の長さが、違いを生みだしているのかもしれないな」

 

 深く呼吸をくり返しながら周りに目をやると、さっきまでいたはずの山の中とは似ても似つかない場所だった。壁面は大小様々な岩で覆われ自然の形そのままに、ごつごつとした起伏を生みだしている。けっして広いとはいえない空間は、十畳ほどもあるだろうか。

 

「ここはどこ?」

 

 見上げても天井らしきものは見当たらず、ただひたすらに暗がりが色を重ねている。

 周りの様子を見られるのは、中央の空間にぽつりと浮く青白い灯りのおかげだった。蝋燭の芯を失った灯りが、ただそれだけで空中で青白く揺れている。

 

「血の臭いがするといって和也が気を失ったあと、気付け代わりに何度が頬を打ってみたが、何の反応もなくてな。どうしたものかと思っていたら、急に和也の体が地面に沈み始めた。まるで山の土が流砂になったようだった。慌てて手首を引いたが、俺の力でどうにかなるものじゃなくてな。一緒に引き摺り込まれてこの様だ」

 

 意識の底で感じていた感覚は、おおよそ間違っていなかったということか。

 

「おまえの体が完全に呑まれる前に、チビが飛び込んできた。どこから後をつけていたのか知らないが、チビが飛びついて直ぐに砂の山に覆われたから、俺にはどうすることもできなかったよ」

 

「チビ?」

 

 もぞもぞと胸元が動いて、真っ白なチビが襟元から顔をひょこりと出した。

 

「ついて来ちゃったのか? 何をしているんだか、チビったら」

 

 鎖骨に柔らかい肉球を引っかけて、チビは白い小さな体をぐいっと伸ばしたかと思うと、砂にざらつくぼくの顎をぺろりと舐めた。目を丸くするぼくをよそ目に、懐を飛びだすとくるりと身を捻って着地した。

 チビに舐められた顎を手で擦る。

 怪我をしているような痛みはないから、ただの挨拶代わりだろうか。

 はあ、と大きく息を吐いてから吸い込んだぼくは、今度こそ驚きに目を見開いた。

 

「水月さん、呼吸が軽い。まるで外の世界にいるみたいだ。息苦しさがまるでなくなった」

 

 水月がちらりとチビを見る。

 

「これを見越してついてきたってわけか? まったくこのチビ助はいったい何者なんだか」

 

 ぼくの横にぴたりと身を寄せて、自分の手を舐めているチビの頭を撫でる。

 

「チビ、ありがとうな。でも、無理しすぎだぞ。ぼくのことを気にかけるのはどうして? 君に何度も助けて貰うほどのことを、ぼくは何もしていないのに」

 

 チビは答えない。まるで言葉を理解しているかのような振る舞いを見せたかと思うと、肝心な問いには一瞥さえくれない気まぐれな子猫。

 呼吸と共に気持ちも落ち着きを取り戻し、改めて周りを見回した。

 床一面を埋め尽くす大小様々な岩は、壁面とは違い表面を平坦に切り取られた物を、無理矢理に形を合わせてはめ込んだ印象を受ける。訳のわからないこの場所に似つかわしくない、きわめて人工的な意図を含んだ造形だった。

 

「まったくどうやってここへ来たのやら。上を見ても天井さえ見えやしないだろう? 見えないほど上から落下したなら、こうしてぴんぴんしている方が有り得ない。指差したという女の子は、この場所を知っていて、こうなることを解っていておまえを導いたのか? おまえに何を見せたいのだろうな? あるいは、何をさせたいのかというべきか」

 

 珍しく眉を寄せて水月が、無精髭の生えた顎を擦る。

 

 座り込んだまま床についた指先に、ちくりと痛みが走る。

 棘が刺さったような微かな痛みに目をやると、森で木の幹に傷つけられた指先から血の珠が湧き上がっていた。

 

「ほら水月さん、いったでしょう? こういう傷は、後々まで地道に痛いって」

 

 笑いながら立ち上がろうと手を岩に押しつけた途端、べちゃりと濡れた手触りに浮かしかけた腰を戻す。

 

「いったいどうして? こんなに血がでるような傷じゃないのに」

 

 棘が刺さっただけの僅かな傷跡はそのままに、指先から連なった数珠のように血があふれている。

 滴り落ちる血が岩の隙間がつくり出す、十字路にも似た辻の真ん中に溜まっていく。

 ぼくの様子に気づいた水月が、腰を屈めて指先を凝視する。

 

「やっぱり水月さんは何も感じないの? ぼくは森にいた時よりもはっきりと感じる。血の臭いだよ。血の臭いが、この空間に満ちている」

 

「どうやら開かずの扉をこじ開けたのは、おまえの血ってことらしいな。このままゆっくり帰り道を探すってわけにはいかなさそうだ」

 

 寄り添っていたチビが、ひょいとぼくの肩に飛び乗った。ゆっくりと立ち上がり、小さな血溜まりからそろりそろりと身を引いた。

 岩の床から引き離された指先で、流れ続けていた血が止まる。まるで傷など無かったかのように、小さな傷口は既に閉じていた。

 

 ミャ

 

 耳元でチビが鳴く。

 

「水月さん、色々と見てきたけれど、ぼくは初めて自分の目を疑うよ。ぼく達は、来てはいけない場所に足を踏み入れたんじゃないだろうか」

 

 目の前の光景はあまりにも異様だった。指先から滴り落ちた血溜まりが、まるで意思を得たかのように岩の隙間を流れていく。

 岩が組み合わさる度にできる分かれ道を選ぶように、一筋の跡を残して進んでいく。

 流れた血の量などたかが知れているのに、岩の隙間を流れていく質量は変わらない。流れた後に血の色を残し進む様は、枯れることのない細い川を見ているようだった。

 

「これはまた……。まあ、俺は巻き込まれただけだがな。どっちにしろこちら側に選択肢はなさそうだ。来てはいけない場所ではないだろう。おまえにとっては足を踏み入れずに済ませたい場所だとしても、この場所がおまえを呼んだ」

 

「ありがたくないな」

 

「腹を据えて成り行きを見届けよう。安心しろ、あんたを一人にはしないよ」

 

 水月のひと言が心に染みていく。

 あの時心を支配した、ひとりぼっちという思いが流され、心の中心に一本の芯が立つ。ありふれたたった一言が、揺れる心を安定させていく。

 

「水月さん、離れずに側にいてください。何が起こるか予測が付かない以上、二人がはぐれてしまうのは、お互いにとって命取りです」

 

 そうだな、といって水月はぼくに身を寄せ、肩の上に手を置いた。

 細い血の川は止まることなく新たな道を刻んでいく。

 その流れが空間の中央にまで届いたとき、異変は起きた。空間にぽつりと浮かんでいた青白い灯りが、下を流れる血に油を注がれたかのようにぶわりと爆ぜる。

 爆ぜた後に残った炎が身を分かつように、ぽたりぽたりと滴って、流れを止めた血の筋の先端へと落ちていく。

 ぽたりと落ちる度に小さくなっていく炎の、最後の小さな塊が浮力を失って、血が作りだした道に溶けた。

 全ての炎を呑み込んだ、細い血の川がどくりと脈打つ。

 溶け込んだ青白い炎に突き動かされたように、血の川は勢いを増して流れていく。壁に辿り着いた流れは、そのままの勢いで岩の隙間を縫って這い上がり、今度は蜘蛛の巣のように四方八方に伸びていった。

 壁の岩の隙間を、青白い光りの線が満たしていく。

 目に見える全ての壁の岩の隙間が、青白い光りで満たされたかと思うと次の瞬間、目が眩むほどの閃光が岩の隙間を満たす光りの筋から放たれた。

 思わず腕で顔を覆ったぼくは、もう片方の腕で肩に乗るチビを引き寄せた。

 肩に置かれた水月の手に、思わずといったように力が籠もる。

 

どれくらい時間が過ぎただろう。

 周りがあまりにも静かすぎた。

 水月とぼくの息づかいだけが、過度の静寂を現実へと引き戻す。

 恐る恐る腕の隙間から外をみると、淡い光りで照らし出された岩が見えた。さっきまでと何らかわらない、平たく切り出された岩をつなぎ合わせたような床面。

 

「和也、見ろよ」

 

 水月の声に顔を上げ、ぼくは口を半開きに息を呑む。

 

「どこからこんな空間が現れたんだ?」

 

 壁面や床を覆う岩は何も変わらないのに、目の前に広がる空間はとてつもなく広かった。

 壁を造る岩の隙間から漏れ出る、青白い光りの筋が辺りをうっすらと照らし出している。

 平らに切り出された床の岩と岩の隙間からは、橙の淡い灯りがゆらゆらと漏れだし、見渡せないほどに広いこの空間をぼんやりと下から照らしだす。

 地鳴りを伴って、突如岩の床が揺れた。

 下から突き上げるような縦揺れに、踏ん張り切れずによろめいた。

 

「和也、下がれ!」

 

 水月に腕を引かれて、背後の壁に背を押し当てる。

 地鳴りが大きくなると共に、岩の床の一点が内から岩を砕くように盛り上がった。

 めりめりと盛り上がるのを呆然と眺めていると、ばりばりと岩を砕く音と共に、至る所で平らな岩が盛り上がりはじめた。

 

「墓標を見ている様だ」

 

 水月の呟きはぼくの受けた印象そのままで、各所に無数に盛り上がっていく岩は、砕けているというのに崩れることさえなく、五十センチほどの高さで動きを止め、先端の丸まった円錐を形作っていく。

 

「まるで岩の墓場だ。何の規則性もなく並んでいるけれど、完全に自然の摂理を無視している。これだけの岩を突き破って表に出たなら、割れた岩が無数に転がっているはずだ。なのに欠片さえ見当たらない。突き破られた岩その物がこれらを形作っているとしても、欠片も残さず盛り上がるなんて」

 

 岩から漏れる薄明かりでは見通すことのできない、暗がりに隠れた奥の空間でも同じ現象が起きているのだろう。遠くの方で、折り重なるように低い音が響いている。

 

「痛っ!」

 

 傷が閉じたはずの指先から、小さく血の珠が膨れあがる。小さな血の珠はそれ以上大きくなることも、滴り落ちることもなく、指先の痛みはぴたりと治まった。

 

「まただ、この臭い。血の臭いがする」

 

「俺にはまったくわからんな。いっそのこと少し大きめの傷をつけて、欲しいだけ血を与えてやったらどうだ?」

 

 本気とも冗談ともつかない水月の言葉に、ぼくは呆れて首を振る。

 

「人ごとだと思って。だいたい血を欲しがっているようには思えない。どちらかというと、そう、ただの媒体だ。たとえばこの空間を出現させるために必要な鍵」

 

「そうだな。おそらくは残欠の小径とあの小さな空間、そしてあの空間から今目の前に広がるこの空間を結びつけるための媒体が、和也の血だったと考えるのが妥当だろうな」

 

 この仮説が正しいとしても、後に残るのはどうして? という疑問だけだろう。

 遠くで響いていた地鳴りが止んだ。

 二人の息遣いだけが響く中、鼻腔を血の臭いが刺激する。

 俯いて口で息を吸うぼくの肩を、水月がそっと揺らした。

 

「顔を上げてみるといい。あれが答えだろう。和也を呼び寄せた正体だよ」

 

 想像さえしていなかった光景に、ぼくは背中を強く背後の岩に押しつけた。

 水月が墓標と呼んだ砕けた岩の塊から、ぼんやりと人の姿が迫り出していく。

 やがてそれは完全に人の形をとり、まるでそこが自分の居場所であるといわんばかりに、各々の岩の後ろで頭を垂れたまま立ち尽くす。

 

「水月さんの言うとおり、これは無数の墓標だ。継ぎ接ぎの町と同じ匂いがする。年齢も性別も違う人々が、自分が生き抜いた時代のままの姿でここにいる。ここは巨大は墓場だよ」

 

 水月にというよりは、自分に言い聞かせる為に口にした言葉だった。

 囁くような声だったといううのに、声に反応したのはチビでも水月でもなく、頭を垂れていた無数の人々だった。

 声が届く音の波を追うように、手前から人々の顔が上げられる。

 その視線は、真っ直ぐにぼくを見ていた。

 継ぎ接ぎの町の人々とは違う、意思を持った視線が折り重なって、射貫くようにぼくを捕らえていた。

 

 

 

 

 




今日も読んでいただいた皆様、ありがとうございます!
このお話も折り返し地点は過ぎておりますが、どうか最後まで付き合っていただけますように。
では!

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