キャミにナイフ   作:紅野生成

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32 血の臭いが誘う感触

 反射的にぼくは女の子から体を背けた。

 明るい町中ですれ違った日のことを、まさか覚えているとは思えない。

 佐吉達の話を当てはめるなら、無邪気に風車を手に町を歩いていたあの子も、普通に見えるだけで意識は正常といえる物では無かったはず。

 はっきりとした意識を持たずに日常生活を送る人々の中、あの子だけが意識を保っていたというのか? まだ異変が起きる前のあの日に、あの子だけが?

 

「どうかなされたか?」

 

 さりげなく立ち止まって、声をかけてきたのは宗慶だった。ふらりと体が傾いだ風に顔を耳元へ寄せ、微かな声で囁いた。

 声には出さずゆっくりと首を横に振り、ぼくは静かにその場を離れた。

 

 黒い布の面を付ける人々の、表情を覗うのは容易ではない。微々たる動きだったが、群れの流れから浮き立つ者を見つけては、確証を捕らえようと傍らで佇んでみる。

 道に立つ人々の隙間から、遠くにいる響子さんの黒いスーツ姿を見つけ、ぼくは思わずチッと舌を鳴らしそうになった。

 さすがに派手に動き回ることは自重しているようだったが、立ち姿に呆けた雰囲気が微塵もない。

 真っ直ぐに背筋を伸ばし、くいと顎を引いた姿勢は嫌でも人を率いる力を持つ者の威厳を醸しだし、黒い布の面が秘密結社の頭的な色合いを濃く演出していた。

 あれじゃあ密偵にはなれないな、と心の中で舌をだす。

 視界の隅でだらりと歩く人々が少しずつ、己の立ち位置を変えていくのを捕らえていた。

 響子さんに奪われていた視線を足元に落とすと、自分の靴の直ぐ脇に泥だらけの素足があった。

 骨張って幅の広い足の甲は男の物だろうが、その足はなぜか徐々につま先をこちらへと向ける。

 ぞわりと背筋を這うような悪寒ではなく、もっと鋭利に研ぎ澄まされた邪気に、みぞおちがぐいと内側へ押し込まれる。

 ともすれば浅くピッチを上げた呼吸に、激しく上下しそうになる肩を必死に押さえた。

 視線を向けられない以上、隣に立つ男の正体を知ることはできない。

 横を向くという、たったそれだけのことをぼくは躊躇した。

 みぞおちに感じる邪気を見誤ってはならない。顔を向けて相手の正体を知ることは、知られてはならない者に、自ら存在を明かすことに他ならないのだから。

 

 裸足のつま先が、完全にこちらへと向けられた。

 

 面の隙間から顔を覗かれないように、ぼくは僅かに顔を上げると左に向けて少しだけ首を傾げた。

 ゆっくりと土の道を擦る音と共に、男がぼくの正面へとまわる。

 黒い布を通して見えた男の顔に、面の下でぼくは思わず息を呑む。

 目の前にいるのは、彩ちゃんのナイフを初めて目にした日に、立ちはだかっていた男女の片割。見間違えるはずもなく、あの日の男だった。

 ダークグレーの半袖シャツの袖口はよれよれで、面を付けずに露わとなっている顔のなか、分厚い下唇が何度も上唇を舐め上げる。

 思案する時の癖なのだろうか。

 団子っ鼻に皺を寄せ、細い眼をにたりと歪ませた。

 

「まったく、わかりずれえんだよ」

 

 いつの間にか男の手には、あの日見たと同じナイフが握られていた。

 本能的に後ろに引こうとして、何とか思いとどまる。

 男が手にするナイフは、腕の肘から下ほどの長さがあり、大きさから見ても彩ちゃんのように力が弱まっているとは思えない。

 黒い布の面を端から捲ろうとするナイフの動きに、逃げるという選択肢が頭を過ぎる。

 それを躊躇させたのは、この町に散っている仲間の存在だった。ここで動けばみんなの身に危険が及ぶのは避けられない。

 逃げるにしても戦うにしても、ぎりぎりまで待つ忍耐が必要だった。

 死の瀬戸際を見極めるため、ぼくの目は瞬きすら忘れていた。

 

「ちっ、余計なときに」

 

 憎々しげに呟いた男は、布の端に引っかけていたナイフの切っ先をふいに引く。

 緊張に固まった体の振動を伝えて、面が小刻みに揺れる。

 

「ちっ」

 

 二度目の舌打ちを残して、男が走り去っていった。

 面の下で思わず息を吐く。

 一点に集中していた心が解けると、見上げた空はうっすらと光りを取り戻し始めていた。

 気付くとちりちりと肌を刺す感覚が、不快を感じないほどにまで薄れている。

 

「そういうことか」

 

 もうすぐ闇が明ける。

 闇が満ちてからさほど時間は経っていないが、あの男はそれを察知してここを去ったのだろう。

 ふっと疑問が過ぎる。鬼神も男も、いったいどこを根城にしているのか。

 一時も休むことなく、残欠の小径を彷徨っているなど考えられない。

 答えの見えない疑問を頭の中でこねくり回し、ぼくは目立たぬように道の脇に立つ建物の横に身を滑り込ませた。

 まだ完全には明け切っていない闇の中、人々の顔を覆う面が端から紙を焦がすように消えていく。

 黒い布が完全に消えても、その下から現れた人々の顔の表情は乏しく、完全に心が停止しているようだった。

 剥ぎ取った面をポケットにねじ込み、刻一刻と色を変える空を見た。

 突如として道の往来がざわめき、人々が動き出す。

 何もなかったかのように、各々に道を歩く人々の表情は、普通の人となんら変わりない。

 普通に見えることが、これほど気味悪いと感じたことはない。

 ぶるりと背を震わせ、何食わぬ顔でぼくは道の表へ出た。

 

 視線を感じて横を向くと、風車を持った女の子が立っていた。

 小さな手を母親と繋ぎ、きゅっと唇を窄めてぼくを見上げている。

 話しかけていいものか戸惑っていると、女の子の顔が町の奥へと向けられた。

 小さな人差し指が視線と同じ方向を指して、すっと腕が肩の高さまで上げられる。

 母親が振り返ったのを見て、ぼくは開きかけた口を閉ざし、通りすがりの笑顔で会釈した。

 にこりと会釈を返して、母親は店先の店員との会話へ戻っていく。

 今だ同じ方向を指差す女の子が、ぼくを見て小首を傾げた。伝えたいことを、この場で言葉にするのを躊躇うような仕草に、ぼくは黙って頷き小さく手を振る。

 ほっとしたように、女の子が小さく白い歯を見せて笑った。

 うっすらと光りを纏う空気の中、女の子は丸い黒目をくるりと回す。

 胸の前で手を振る女の子を後に、ぼくは指差された方角へと歩きだした。

 あの男の存在が気がかりだったが、道を彷徨いている姿は見られない。ある程度人の波が少なくなった町外れでぼくは走り出した。

 

「どこへ行く?」

 

 声に振り返ると、涼しい顔で斜め後ろを走る水月がいた。

 

「どこまで行けばいいのかは、ぼくにも解りません。何があるのかもね」

 

 町並みがぷつりと途絶え、平坦な林の中へと入り込む。

 疎らに生えていた木は奥へ行くごとに密度を増し、足場もでこぼこと起伏の激しい山道となっって、ぼく達は走ることを諦めた。

 

「ずいぶんと息が荒いな。若いくせに」

 

 水月の嫌みったらしい笑顔に、ぼくは歯を見せてにっと笑い返す。

 

「これが普通ですって。その歳で息も乱れないなんて、水月さんの方が人として疑問です」

 

 水月が声を立てて笑う。

 密集した木立の間を縫うように、枝に手をかけながら前へと進む。

 

「響子の話だと、みょうな町が姿を見せるまでは、こんな所に森はなかったらしい。見えるには見えていたがあまりにも遠くて、まったく現実感などなかったといっていた。蜃気楼のようだったそうだ。森まで行こうと試みたことは何度もあったそうだが、進めど辿り着けないんだとさ」

 

「それじゃあ」

 

「あぁ、響子が行ってみようとした森は、案外おれたちが居るこの森なのかもしれない。そこに何の意味があるのかといわれれば、答えようもないが」

 

 似たような背丈の木と、生い茂った草に囲まれていると、自然と方向感覚が失われる。

 木々の上の方で葉が風に擦れる音が響く。どこかで虫が鳴いていた。

 それほど奥まで来たとは思わないが、目的の地も解らずにこれ以上奥へ行くことも躊躇われる。

 

「一応安心のため、水月さんは方向音痴じゃないですよね?」

 

「どうしたんだい急に」

 

 行く手を塞ぐ小枝を折りながら、ぼくは水月をちらりと見る。

 

「いや、ここまでの道程をちゃんと覚えているのかなって。ほら、森は似たような景色だから迷うっていうじゃないですか。ぼくは自慢できるほどの方向音痴なもので」

 

 はぁ? と水月の呆れたような声が後頭部に投げかけられる。

 

「てっきり何かに目星をつけて、見当の付く道を進んでいると思っていたよ。まさか、ここまで当てずっぽうに進んでいたのかい?」

 

「はい、平たくいうとそうなります。水月さんは大丈夫ですよね?」

 

 尻にげしりと蹴りが入って、ぼくは前へつんのめる。

 

「おれは無類の方向音痴だ。責任はとらないぞ? 聞かなかった和也が悪い」

 

「すみません」

 

 背後でぶつぶつと文句を言い続ける水月だったが、その声には微塵も責めるような色はない。

 迷った状況を楽しんでいる、そんなからかい口調の文句が続く。

 

「ほら、水月さんが蹴飛ばすから、木の幹に手をついたときに棘が刺さったじゃないですか。こういう傷は地道に痛いんですよ」

 

 振り返って笑いかけたぼくは、はっとして視線を指先へと戻す。

 抜いた棘の後から、赤い血の珠が膨れあがる。ビーズほどの小さな赤い粒から、鉄臭い血の臭いが漂った。

 

「水月さん、この辺りって鉄臭いような、血、みたいな臭いがしませんか?」

 

「いや、森特有の青臭さしか感じないが。臭うのかい?」

 

 頷いて血の珠が浮く指先を水月に見せる。

 

「こんな少量の血に、臭いなんかないって解っているのに。確かに鼻が嗅ぎ取っているのは否定できません。口の中を切った時の味、血の臭いが急速に広がっている。気のせいでしょうか? できるなら気のせいだって、水月さんにいってもらえると、ほっとするな」

 

 黙り込んだ水月は、探るような視線で辺りを見回す。

 森の様子は何ひとつ変わったとは思えない。それでも水月の視線は慎重に森の隅々まで睨め回す。

 

「水月さん、ぼくは町で見かけた女の子が指差した方向に向かってきました。あの子は闇が満ちている間も、多分自分を保っていたと思う。隣にいる母親は、正気を失ってぼんやりとしていた。それにね、以前に会ったことのある男に、危うくぼくの姿を見られるところだった。そいつは面で自分を偽ることさえせず、どうどうと道を歩いていた。何をしようとしていたのかは解らない」

 

「どうしてそんな大事なことをすぐにいわなかった?」

 

「ごめん、女の子が指差した方に意識が引き寄せられて、他のことは頭から抜けていたのかもしれない。町の中には間違いく、呆けた振りをした人が混ざっている。正気なんだよ。どうしてそんなことをするのだろうね。みんなと合流して、そのことを話し合おうと思ったのに」

 

 水月が額に手を当てる。

 

 あぁ、嫌だ。

 こんな感触を、いったい自分はどこで覚えたのだろう。

 誰かが自分から引き剥がされていく感覚。

 手も出せない、声も出ない。

 行かないでと、行きたくないといいたいのに、表現の全てを失ったこの感触。

 体に力が入らない。

 現実に自分を引き留める感覚が、ひとつずつ自分から遠ざかる。

 

「和也?」

 

 水月の口が、ぼくを呼んだように動く。

 風に擦れる葉の音が消えた。

 疲れていたはずなのに、足の感覚がまるでない。

 目の前にある森の景色に、違う映像が重なっていく。

 ここからどこかへ向かう道程を、ビデオで見ている様だった。

 

「手を伸ばせ!」

 

 水月の声が聞こえた気がして、ぼくは感覚の失われた腕を前へと伸ばす。僅かに残る肩の感覚が、使い慣れた自分の腕を前へと押し上げる。

 水月の指先がぼくの手に届こうとして、そこでぷつりと視界が途切れた。

 体温と同じ温度の湯に浸かったような、体が失われる錯覚と混乱にぼくの意識は逃避を試みる。

 ひとりぼっちだ。

 意識が途切れる寸でに、心の底に浮かんだ他愛ない言葉だった。

 

  

 





みなさまも、風邪にはお気をつけて。
次話も読んでいただけますように(^o^)
では!

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