キャミにナイフ   作:紅野生成

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31 幼い黄眼の示す異変

「どうしたよ?」

 

 タザさんに呼ばれてはっと我に返った。

 

「ああ、いまシゲ爺がきた。もうちょっと早かったら会えたのに」

 

 手にしていた封筒を、タザさんから見えないように尻のポケットへとねじ込む。

 

「シゲ爺が? まさかもう出ていったのか?」

 

 目をぱちくりさせて、タザさんの視線がシゲ爺を探して右へ左へ忙しく動いた。

 

「また帰って来るってさ。ここの仕事もしていないくせに、忙しいんだって。ありゃ湯治だよ、ぜたい湯治だ」

 

 少しだけがっかりした様子で頷くタザさんは、それ以上何も聞いてはこなかった。

 

「彩はまだ粥しか駄目か? 少し栄養のある物を食わせたいんだが」

 

「消化のいいものなら大丈夫じゃない? まだいっぱいは食べられないと思うよ。量より質でよろしく。出来上がったら、またぼくが持っていってもいい?」

 

「おう」

 

 タザさんがさっそく厨房で鍋を火にかけ始める。

 

「タザさんは作ろうと思えば、店でだす料理も作れるの?」

 

「おまえよりはマシだ」

 

 リズミカルな包丁の音が、その言葉が嘘でないと物語っている。

 裁縫に工芸に料理、非の打ち所なし。

 

「タザさん、いい嫁さんになれるよ」

 

 口先だけで呟いたというのに、野生動物並の耳の良さでタザさんはぴくりと振り向く。

 

「おっと肉が足りねぇな。ここは彩の胃袋を優先しよう。野菜も煮たら量が減るしな、こりゃどうみても一人前しかないな」

 

 タザさんの棒読みは、日暮れも相俟ってかなり恐い。

 

「タザさん」

 

「あん?」

 

「今日は弁当でも買ってくるよ」

 

 にやりと口の端を上げると、再び包丁がまな板を小気味よく叩きだす。

 十秒前の自分を殴りたい。

 粗方片付けも終わった店を後にして、財布を片手に商店街をぶらついた。

 たまに顔を出してくれる商店街の住人達は、すれ違う度に彩ちゃんの様子を聞いてくる。

 彩ちゃんの周りにはこれだけ多くの人がいるのかと思うと、少しだけ心強い。

 一人きりで残すわけではないのだと思えるだけで、いつか店を後にする自分を許せる気がした。

 

 ふと顔を上げると道の向こうに十数人に行列が見えた。

 久しぶりに店の軒先で商売をしているのは、開かず食堂のお婆ちゃんだ。

 ユリ食堂というちゃんとした名はあるが、どうしたって開かず食堂といってしまう。

 近づくと徐々に腹の虫を鳴かせる匂いが、風に乗って流れてきた。

 

「今日は煮物か。醤油のいい匂いだ、筑前煮かな?」

 

 人の隙間から覗き込むと、予想通り大鍋の中で筑前煮が白い湯気を昇らせている。

 

「旨そうだけど、この列だと時間がかかるかな」

 

 なにしろ腰の曲がったお婆ちゃんがひとりで売っているものだから、タッパに商品を詰めるのも会計するのものんびりなのだ。

 

「タザさんのご機嫌取りにとか思ったけれど、諦めるか。腹減ったし」

 

 旨そうな筑前煮の匂いを嗅ぎながら、商品を売りさばくお婆ちゃんの横を通り過ぎようとしたときだった。

 

「にいちゃん、ほれ」

 

 お婆ちゃんがぼくに向けて、タッパの入った袋を差し出した。

 

「え、これぼくに?」

 

 客達が双方を見比べる中、お婆ちゃんが顔中の皺を寄せ集めてにこりと笑う。

 

「彩にもってけ。里芋の煮物だよ。筑前煮よりこっちの方が柔かいから」

 

 お婆ちゃんの言葉に、並んでいた客達が納得したように首を振る。

 

「お婆ちゃん、ありがとう」

 

 袋を受け取って、ぼくは笑顔でお婆ちゃんに頭を下げる。

 ひとつ頷くとさっさと客の相手に戻ったお婆ちゃんの後ろ姿は、なんだかとっても楽しそうだった。

 

「とはいっても、ぼくの分まではないな」

 

 ひとりゴチながら弁当屋へ急いだ。煮物が冷めないうちに、彩ちゃんに食べさせようと思った。

 

 

「彩ちゃん、開かず食堂のお婆ちゃんが彩ちゃんにって。こっちはタザさん特製のチーズとヨーグルトの……なんとかって名前の料理」

 

 皿に盛った料理を見て、彩ちゃんは嬉しそうににこりとした。

 体調は著しく回復し、自分で起き上がり布団の上で座れるようにまでなっていた。

 この異常なほどの回復は、彩ちゃんが守ろうとした世界に、どれだけの気力と体力を削がれていたかを物語っていて、ぼくは奥歯をぎちりと鳴らす。

 

「和也君、お料理の腕は上達した?」

 

 彩ちゃんの瞳に悪戯っぽい光りが宿る。

 まるでキャミの紐を弾いていた頃の、元気な彩ちゃんを見ている様だ。

 

「そっちは全然。でも売り上げは好調」

 

 くすりと彩ちゃんが笑う。

 

「二、三年かけてみっちり仕込んであげよっか?」

 

「お願いします」

 

「約束だよ」

 

 ぼくは笑った。

 彩ちゃんも笑う。

 果たされることはないだろう約束に、胸の奥がちくりとした。

 

 

 

 彩ちゃんがぐっすりと眠ったのを見届けて、ぼくは残欠の小径へと向かった。

 カナさんの庭を通ったとき、草の茂みからころころと転がり出てきたチビは、ぴょんと跳ね上がると子猫の姿となり、ちらりとだけこっちを見てまるで行き先が解っているとでもいうように、ぼくの先を歩いて行く。

 

「チビ、行き先ちゃんとわかっている? 違う方向にいったらついて行かないからね。それと、この間はありがとう、ほんと嬉しかった」

 

 最後の方でチビの片耳がぴくりと動く。

 それでも知らんぷりをして前を行くチビの後ろを、ぼくは苦笑いしながらゆっくりと歩いた。

 横の茂みがざわりと動く。

 立ち止まったぼくの気配に、チビも足を止め器用に首を回してこっちを見た。

 

「半刻もしないうちに闇が満ちるぞ。おまえがいない間にも幾度か闇は満ちたが、どうもその様子が妙な感じでな。急げば間に合う。その目で直に確かめちゃどうだ?」

 

 草陰のギョロ目の声だった。

 

「ぼくは何も尋ねていないし、取引できる品も持っていないよ。商売にならないことは一切口にのぼらせないのが君たちじゃないのかい?」

 

「こっちにはこっちの事情があってな。情報料なら他からたんまり貰っている。だから今回はおまえから貰う必要はないのさ。じゃあ、しっかり伝えたからな」

 

 いつものように草の隙間から目をギョロつかせることさえせずに、草陰のギョロ目は気配を消した。半刻で闇が満ちるというなら、たとえ草陰のギョロ目でもどこかに身を隠すのだろう。

 いったい誰から情報料を受け取ったのか、という疑問が頭の隅で小さく渦を巻く。

 雑念を払うようにぼくは頭を振った。

 

「チビ、急ぐぞ!」

 

 全力で響子さんの家へと向かう。

 チビはいつの間にやら猫らしさを捨て、くるりと丸まった白い毛玉となって横を転がっていた。

 息を切らせて辿り着いた、響子さんの家の前に立っていたのは意外な人物だった。

 

「水月さん、どうしてここへ?」

 

「闇が満ちた町に潜り込むつもりだろう? こっちも妙な噂が耳に入ったのはついさっきだよ。響子達は先に町へ向かった。調達したい物があるらしい。俺達も急ごう」

 

 走り続けてきたぼくはすっかり息を切らしていたが、しばらく走っても併走している水月の息は少しも荒くなる様子はない。走った距離を差し引いても残る年の差に、日頃の運動不足を感じずにはいられなくて、心の中で情けなく溜息を吐く。

 眼下に町が見えてきた。

 寄せ集めの町は、やはり以前より少しだけその規模を広げている。

 坂を下り町の入り口に辿り着くと、急に周りの空気が薄暗くなりぼくは空を見上げた。

 

「鴉の群れ」

 

 空を埋め尽くして、黒い鴉の群れが空の端から端へと渡っていく。

 

「ああ、鴉の群れさえ見られない内に、何の前触れもなく闇が満ちる日々が続いていたというのに、数回前から鴉の群れが空を渡るようになった。これも異変のひとつといえるかもしれない」

 

 走りながら水月がいう。

 町を行き交う人々は、闇が満ちる気配を気かける様子もなく、あまりにも普通な様子で道を行き交い、店先でありふれた日常のやり取りをしている。

 この当たり前の光景が、まともな意識を保たないまま行われているなど、幾度目にしても信じがたかった。

 急ごう、水月のひと言でぼく達は小屋へ向けて、全力で町中を駆け抜けた。

 

「待ってたぜ」

 

 観音開きの重厚な扉を押し開けると、佐吉が待ちかねていたと言わんばかりに腰を上げた。

 平岡宗慶、寸楽はいたが雪の姿は無く、響子さんと蓮華さんもまだ小屋に辿り着いていないらしい。

 

「響子さん達少し遅すぎやしないか?」

 

 既に闇が満ちていてもおかしくはない。

 戸口から外を覗こうとしたとき、勢いよく開け放たれた重い扉から、身を滑り込ませるように響子さんと蓮華が入ってきた。

 響子さん以外には無理な力業だろう。

 額を押さえるぼくを心配してくれるのはチビだけだ。くるりと丸い目でぼくを見上げ、少しだけ小首を傾げている。

 

「すまない、少し手間取った」

 

 戸口に額を打ち付けて火花を散らしたぼくに構うことなく、響子さん手招きして小屋の中にいるみんなを一所に集めた。

 響子さんが床に並べたのは、人数分の黒い布。

 

「わかっているとは思うが、この面は偽物だ。少しばかり細工は施されているが、周囲にばれないという保証はない。私たち三人はもちろんだが、宗慶と佐吉にもこれをつけてから小屋の外へ出てもらう。寸楽はここに居てくれ。いざというとき、走って逃げるのは無理だろう? ここでみんなの帰りを待っていて欲しい。雪が来たとき、みんなの動向を伝えて貰う役目を頼む」

 

 寸楽は背中で腕を組みながら、こくりこくりと頷いた。

 

「闇が満ちたならわたしと佐吉には、他の者と同じように黒い布の面が顔面に垂れ下がる。布に顔を覆われても、他の者達のように意識を持って行かれることはまだないと思うが、それでもその布を新たに付けて出る必要があるのだろうか」

 

 宗慶が口にした疑問はもっともだ。佐吉と宗慶が布を付ける理由は見当たらない。

 

「いったであろう? ちょっとした細工が施してあると。お前達がこれを付けたなら、本来の面が顔を覆うことはない。本当の意味で正気で居続けられるということだ。わたしたち四人は、布を付けるることで周りに紛れ込む。この黒い布の面はわたし達の見た目だけでなく、面を付けた者達とは異質の存在であるという独特の匂いを消してくれるらしい。まあ、雪のいうことだ、信用してもいいだろう」

 

 響子さんは話ながら既に、自分の頭に黒い布の面を括り付け始める。

 その様子を見て他の者達も各々に、黒い布の面を手に取り頭に縛り付ける。

 黒い布がふわりと顔を覆う。顎の下まで伸びる布からは、なぜだろう微かに削りたての木の香りがした。

 

「外に出たらみんな散れ。闇が明けたら、見咎められる前に面を取るのを忘れるな」

 

「待ってよ響子さん、ぼくたちはいいけれど佐吉さん達は闇が明けたら、ある意味正気そ失うわけだろう? 前に言っていたじゃないか。闇が満ちる少し前から正気を保てるって、だったら闇が明けたら面を外す余裕なんてないだろう?」

 

「その心配は多分ない。前回闇が満ちた後から、彼らはずっと正気を保っているらしい。理由ははっきりしないらしいが、これも異変のひとつだろうな」

 

 水月が言うと、佐吉がこくりと顎を引いて肯定した。

 

「行くよ!」

 

 響子さんの言葉を合図に、部屋を明るく照らしてだしていた蝋燭を寸楽が吹き消した。

 暗闇の中細く開け放たれた扉から、外へと身を滑りだす。

 闇に紛れて全員が外へ出ると、寸楽の手で観音開きの扉はゆっくりと閉ざされた。

 おそらくは闇が満ちたばかりなのだろう。

 黒い布で顔を覆った人々であふれかえる道の向こうから、ちらちらと揺れる明かりが灯っていく。

 締まりかけの扉の隙間から、白い塊がするり抜け出したのは目にしたが、チビの姿はどこにも見えなかった。

 

「あー あぅあー」

 

 隣で細身の男が言葉にならない声を漏らしながら、ふらりふらりと歩いている。

 黒い布の面は、既に鼻の下まで短くなっていた。

 目立たないようにふらりふらりと歩きながら、ぼくはさりげなく周囲の様子を覗った。

 前とは明らかに何かが違う。

 ぼんやりと天を仰ぐ者、ゆらゆらと身を揺らす者、全体にぼんやりとした様は変わらないというのに、以前に煉瓦の隙間から覗いた時とは、どこか違う空気が流れている。

 その違いを言葉にすることはできなかった。

 違うと感じる、そう表現する以外にない。

 闇が満ちる間隔が短くなったように、異変が闇の満ちている時間を狂わせていないとはいえない。

 日焼け後のように、肌がひりひりするのはぼくだけだろうか。

 肌がひりつく感覚が薄れたとき、闇は明けるのだと頭の隅で直感が告げる。

 

「急ぐか」

 

 口の中で呟いて、ぼくは少しずつ歩みを進めた。

 草陰のギョロ目がいう、妙な感じという言葉が指す事象がいったい何なのか、この町あるいはこの残欠の小径で何が起きているのか、それを確かめるにはあまりにも時間が少なかった。

 彩ちゃんのナイフを吸い込んだ、手首に自然と目がいった。

 ナイフは宿主を変えて、力を僅かばかりに増したのは確かだろう。

 自分が宿主となったせいで、ナイフの輝きがその質を変えていたら……想像が胸を過ぎる。

 余計なことは考えずに今は動こう。

 道を一筋の風が吹き抜けた。

 体を弛緩させて天を仰ぎ見ている三人の男女の顔で、風に煽られた黒い布が捲れ上がる。

 布がふわりと浮き上がって垣間見えた男達二人の表情は、まるで夢でも見ているかのようにぼんやりとしたものだった。

 背の高い女性の顔を覆う布が、細い顎から眉にかけて半分に捲れ上がったまま、黒い布がふわりと顔面に着地した。

 思わず漏れそうになった声を抑えるため、ぼくは布の下で唇を噛む。

 黒い布から完全にはみ出した女性の片目は、少し驚いたように見開かれ、息を短く吸ったように唇が震えて隙間を広げる

 細い指が黒い布をはらりと元へと戻した。

 よたよたと歩く女性の背中がゆっくりと遠ざかる。

 

 あの瞳は完全に意思を持っていた。

 布が捲れて顔が露わになったことに驚いて見開かれた目。

 彼女は感情を失っていなかったことになる。

 自分を見失っていないのに、呆けた振りをしていたというのか?

どくどくという音が聞こえそなほど、ぼくが心臓は早鐘を打つ。

 

 道の向こうで前にも会った女の子が、風車を持って母親に手を引かれていた。

 立ち尽くす母親の横に女の子は立っている。

 黒い布の面が鼻の下辺りで途切れているのも、依然とさほど変わらない。

 さっきよりも強い風が吹き付けて、土埃を散らす風に風車がからからと音を立ててまわる。

 ぼくの顔から黒い布が浮き上がる。

 小さな女の子の黒い布の面が、風に押し上げられて額まで持ち上がった。

 ほんの一瞬の出来事だったと思う。

 お互いに顔を露わにしたままで、双方の視線が重なった。

 ゆらゆらと漂う明かりに、女の子の目が黄色く光る。

 風が通り過ぎて浮力を失った布がふわりと戻る様は、まるでコマ送りの映像を見ているようだった。

 女の子の口元を残して、黒い布の面が顔を覆う。

 その小さな口からは、子供特有の小さな白い歯が覗いていた。

 確かに女の子は、にこりとぼくに微笑んだ。

 明かりを反射し黄色く光る瞳で、幼い表情のまま微笑んでいた。

 

 

 





早く春にならないかな~
どうぞ次話も読んでいただけますように。
では!

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