キャミにナイフ   作:紅野生成

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30 ふらりと立ち寄る懺悔の影は

 誰もいない庭を抜けて居間へと戻った。

 いつまで作業を続けるつもりなのか、作業場からはタザさんがノコギリを使う音が響いている。

 

「少し休むか」

 

 彩ちゃんの部屋へと続く床板を見上げ、それから足元に視線を戻す。

 梯子を登って、明かりのない部屋に大の字で寝転んだ。

 

「片付けるほどの荷物もないって、いったいどうやって気持ちに区切りをつけりゃいいんだか」

 

 疲れに全身が痺れる感覚があった。

 腹が減っているのかも、そんなことを思いながらいつの間にか眠りの中に引き込まれていった。

 

 

 雀がちゅんちゅんと鳴く声に目を覚まし、まだ眠い目を擦りながら居間へと下りた。

 昨夜遅くまで作業していたであろうタザさんは、まだ自分の部屋から出てくる様子はない。

 タザさんにしては既に寝坊の部類に入る時間だから、これ見よがしに朝の準備を一人でこなして、今夜はラーメンでも奢らせようかと、少し姑息な手段を思いついたりした。

 

「先に店の掃除でもするか」

 

 今日の朝飯当番はタザさんだから、腹が減っても食う物がない。代わりに朝食を作ってもいいが、みんなの舌の健康を考えると、自分の当番は回数が少ない方がいいだろう。

 なにより彩ちゃんのためのお粥は、タザさんがいつも作っているから、ぼくが代行してもあまり意味がない。

 隅々まで丹念にモップをかけながら、椅子の位置を綺麗に直していく。

 いい加減買い換えたらいいのにと思うほど古びた椅子だというのに、今はずっとこの椅子がこの店にあって欲しいと思う。

 触れる椅子それぞれに、いつもここに座るお客さんの顔が胸に浮かんだ。

 

「この掃除も、後何回できるのかな」

 

 力を入れて雑巾をかける。

 人生のほんの少しを過ごしただけだというのに、十八年を過ごした地元より家より、ずっと大切な場所になったこの店を立ち去る日、ぼくは泣くんだと思う。

 誰にも見送られることなく、一人泣くのだと思う。

 

 森田さんがいつも座っていたカウンターの席。背もたれの塗装が剥げて、地の木が所々見えている。

 

「そんなに不味かったかな、ラー油のパスタ」

 

 思い出し笑いをしながら厨房へ向かう。

 彩ちゃんが復活するまで後しばらく、ぼくの裏メニューが店の売り上げを伸ばすのだから。

 彩ちゃんの薬代になるといったのが効果てきめんで、不味かろう面白かろうと常連客がいつにもまして店に足を運んでいた。

 

「早いな。飯、パンでいいか?」

 

 ぎょろりとした目を寝不足で腫らしたまま、タザさんが居間の入り口に立っている。

 

「うん、腹減ったからぼくの分は、食パン二枚にしてね」

 

 おう、といってタザさんは洗面所へと消えていった。

 店の掃除が終わる頃には厨房からいい匂いがして、バターで焼いた食パンの上にレタスと目玉焼きを載せて、マヨネーズとマスタードをかけたものが大皿にでんと並べられた。

 ぼくの淹れたコーヒーを飲みながら、何を話すことなく朝食の時間が過ぎていく。

 

「終わったのか」

 

「終わったよ」

 

 皿を片づけるタザさんが、背中越しに呟いたひと言にぼくが答えただけ。

 今すぐ全てを伝える必要はないと思った。ひとつひとつ、タザさんの中で消化されていくのを待って、少しずつ話していこう。

 

「タザさん、彩ちゃんのお粥持って行ってもいいかな?」

 

 背中を向けたまま、タザさんが黙って頷いた。

 お粥を盆にのせて、ゆっくりと梯子を登る。

 

「彩ちゃん、起きてる?」

 

 もぞもぞと布団が動いて、彩ちゃんが顔を覗かせる。

 

「和也君、おはよう」

 

「はい、タザさん特製のお粥。今日のは胃に優しい、やさいと卵バージョンだってさ」

 

 背中を支えて布団の上に起こして上げると、彩ちゃんはスプーンですくって、少しずつお粥を口へと運んでいく。

 

「おしいね。お店、忙しい?」

 

 最近の店の様子を、おもしろ可笑しく話して聞かせた。

 森田さんのことはまだ内緒だ。彩ちゃんが泣くのは、泣けるほどの体力が付いてからでいいと思うから。

 

「何かあったら呼んでね。そろそろ店を開けてくる」

 

 彩ちゃんを寝かしつけて厨房へ向かった。

 ぼくうに普通に話しかけてくれたことに正直ほっとした。

 けれどあの様子では、昨夜の記憶は残っていないのだろう。

 彩ちゃんの中にぼくが居られる日々が、少しでも長くありますようにと願う。

 ぼくの戦闘服はこの店の黒いエプロンだ。

 ふと自分の手首に目をやった。彩ちゃんのナイフは、ぼくの中でどうなっているのだろう。

 試してはいないが、おそらくぼくはナイフを出せる。

 今はどう使えばいいのかわからないけれど、彩ちゃんとぼくの色が混ざったナイフが出てくるのだろう。残欠の小径の匂いが変わったように、ナイフもぼくの色に染まっているはずだった。

 

「ちわーっす」

 

 常連のお客さんだ。

 

「いらっしゃい! 彩ちゃん復活まであと少しだよ」

 

「お、だいぶ良くなったのか? 彩ちゃんいっぱい食ってるか?」

 

 首に巻いたタオルをぐっと握って聞き返すお客さんに、ぼくは笑顔を向ける。

 

「大丈夫、だいぶ良くなったからね。だから今日もぼくのオリジナルレシピが食べ放題!」

 

「そりゃ迷惑な話だな、へへへ」

 

 また入り口のドアが開けられる。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 アルバイトの兄ちゃんの、忙しい一日が始まった。

 

 

 

 夕方最後の客が引けて、クローズにドアのプレートをひっくり返す。

 下手な料理とはいえ、一日にばらばらのメニューをひとりで四十食以上作ると、さすがにバテる。

 本職の料理人の労働量など、想像しただけで気絶しそうだ。

 凝りまくった首を回していると、からんからんという音と共に、入り口のドアが開いた。

 

「すみませーん。今日はもう閉店です。もう材料も残ってなくて……」

 

 営業スマイルで入り口を振り返ったぼくは、きっと呆けた顔をしていたと思う。

 

「久しぶりだな。ちょっと戻ったついでに寄ってみた」

 

 もさもさの天然パーマに混じった白髪が、前より更に増えている。

 目の前にいるのは、何ヶ月かぶりに見るシゲ爺だった。

 

「シゲ爺! はあ?」

 

グレーのポロシャツの襟がよれよれなのも、前に会ったときそのままで、一瞬離れていた時間を忘れるほどだった。

 ちょっと買い物に出かけて戻りました、とでもいうように少し首を傾げて、にこにこと笑うシゲ爺を見ているうちに、ふつふつと湧いてくる怒りのマグマ。

 

「どこ行っての? メモ書きひとつでふらふら遊びにいっちゃってさ! こっちがどんだけ大変だったと思ってんの!」

 

 ごめんごめん、シゲ爺は頭を掻く。

 

「今回は少し長く店の仕事をできるんでしょうね?」

 

 放浪癖のあるシゲ爺を睨み付けると、急に目線が明後日の方向を向きだした。嫌な予感しかしない。

 

「いやぁ、色々忙しくてな。今夜中にはまた出かける」

 

 もう文句も出てこない。

 店の仕事を放棄して、何が忙しいだ。

 もうひと言だけ文句をいってやろうと口を開きかけたぼくは、シゲ爺のひと言で口を噤む。

 

「森田さんのよ、位牌だけでも拝ませて貰おうと思ってな」

 

 そうか、森田さんのことが耳に入ってシゲ爺は帰ってきたのか。

 

「もう行ってきたの?」

 

 シゲ爺はにこりと頷く。

 古くから森田さんを知っているシゲ爺が感じる想いは、ぼくの悲しみとは違う物だろう。

 皺を刻んでにこりと笑う表情に、森田さんとシゲ爺の間にある年月の深さを思った。

 

「彩とタザ坊主は元気か?」

 

 シゲ爺はタザさんのことをタザ坊主、もしくはタザ坊と呼ぶ。

 タザさんは嫌がるが、絶対にこの呼び方を変えようとはしない。

 

「シゲ爺、ご飯まだだろ? 何か食べて少し酒でも飲もうか」

 

 冷や飯をチャーハンにしてやると、シゲ爺は旨そうにぺろりと平らげた。

 年の割には大した食欲だと、半場呆れてみているとどこかで買ってきたらしい焼酎を、コップに注いでぼくにもくれた。

 

「ぼくは炭酸で割るけど、シゲ爺は?」

 

「お茶」

 

 面倒臭いからお茶のペットボトルを渡すと、それをコップに足して旨そうに口へと流し込む。

 ふーっと息を吐くと、シゲ爺は壁の本棚へと目をやった。

 

「読んだのか? 日記」

 

 何と答えたらいいものかと、ぼくは少しだけ俯いた。

 

「話すと長くなるよ。シゲ爺は知っているような気がするけれど、小花ちゃんという女の子がシゲ爺の日記を読んでいた。それをぼくも読んだ。それを目にしてから色々なことが起こって、彩ちゃんは今寝込んでいる」

 

 シゲ爺が眉の間に深く皺を刻む。

 

「でも大丈夫だよ。直ぐに良くなる」

 

「どうしてそう言い切れる?」

 

「ぼくが、彩ちゃんの業を受け継いだから」

 

 敢えてナイフといわなかったのは、シゲ爺がどこまで見聞きしているか解らなかったから。

 深く知らなければ、知らずにすませた方がいいことだって、この世にはあるはずだ。

 だが、シゲ爺が次ぎに口にした言葉は、ぼくの期待を完全に裏切った。

 

「彩はもうナイフを所持していないということか? もう戦わなくてもいいということか?」

 

 残欠の小径に入ったわけではないだろう。誰から聞いたのかも解らない。けれどシゲ爺は、かなりのことを知っているのだろうか。

 

「シゲ爺の望みは彩ちゃんが、普通に幸せな生活を手に入れることじゃないの? だったら大丈夫。その願いは叶うと思う。小花ちゃんのことも知っているの?」

 

 シゲ爺は孫を思い浮かべたように、目尻を下げて頷いた。

 

「だったら小花ちゃんが彩ちゃんにとって、どのような存在なのかもわかっているよね? ぼくは、彩ちゃんに小花ちゃんを返した」

 

 シゲ爺がきつく目を閉じると、瞼に細かい皺が幾重にも刻まれる。

 

「こうなるかも知れないと予感しながら、おまえを巻き込んだ」

 

「うん」

 

 シゲ爺の深い溜息だけが、狭い居間に響く。

 

「和也の人の良さを結局は利用した。出会った頃の和也は心底何かを諦めていて、なのに求める物へ手を伸ばそうともしていた。彩やタザ坊主と関わって、和也が何を得て何を失うかは、本人に委ねたつもりだった」

 

「そうだね」

 

「今思えば、単なる責任逃避にすぎんな」

 

「まったくだ」

 

 すまない、とシゲ爺は顔を伏せる。

 

「何を謝ってるの? 頭のてっぺんのハゲが見えるからやめてよ」

 

 ぼくが声を立てて笑うと、シゲ爺は奇妙な物を見るような目で顔を上げた。

 

「シゲ爺の罠にまんまと嵌ったけれどさ、後悔していない。まあ、こん畜生とくらいは思っているけれど、心のすまっこで」

 

 苦笑いするシゲ爺は、もう一度すまないな、といった。

 

「中途半端な力などなければいいのにと何度も思った。助けることもできないのに、この目にはっきりと映る光景は辛いだけだ。見える光景に手を伸ばすだけの何かを持っている、それだけは和也に会って直ぐに解った。羨ましかったよ。だがその思いは否定しよう。手を差し伸べる者は、いつだって自分さえ追い込むのだと、忘れていたわけではなかったのに」

 

 腰を上げるとシゲ爺は、肩にかけていたよれよれの黒いショルダーバッグを襷にして肩にかける。

 

「行っちゃうの?」

 

「あぁ、これでもなかなか忙しくてな」

 

「野坊主さんに聞いたけれど、彩ちゃんのお婆ちゃんと友達だったの? だから彩ちゃんを自分の孫のように、最後まで守ろうとしている?」

 

 シゲ爺はゆっくりと首を横に振る。

 

「勘違いするな。一緒にいてくれたのは彩の方だ。この歳になると寂しくてな。一緒に居てくれた者を手放したくなかった。単なる我が儘だ」

 

「もっと沢山話してくれるかと思ったのに、まるで駅弁を買うみたいにすぐに居なくなるんだね」

 

 声を立てずにシゲ爺が肩を揺らす。

 

「また来るさ。ここしか帰る場所などないからな」

 

 よれよれのショルダーバッグのチャックを開け、シゲ爺は封筒を取りだした。

 

「置き土産だ」

 

「あんまり戻って来るのが遅いと、ぼくはここに居ないかもしれないよ。ぼくの記憶は彩ちゃんから徐々に奪われていくらしいから、すっかり忘れられて不法侵入者と間違われる前に、ここをを出るつもり」

 

 封筒を受け取って、ぼくはひらひらと振ってみせる。

 

「そうなるだろうということも、昔ある人から聞いて知っていた。この歳になってようやく身に染みてわかった。幸せと苦難は天秤のようなものかもしれんな。片方から重りを除けば天秤ば傾ぐ。誰かを救うということは、別の犠牲者を生みだすことに繋がることもある」

 

 封筒を指差し、無くすなよというと、頭の上で手を振ってシゲ爺は店の外へと出て行った。

 

「気に病むなよシゲ爺、若くないんだから」

 

シゲ爺の背中が消えたドアを見ながら、ぼくは一人苦笑する。

 手の中の茶封筒をあけると、中から一枚の便せんが出てきた。

 

「推薦状?」

 

 便せんにはシゲ爺の字で、よく働く青年だからという内容の推薦状が書かれていた。

 最初は意味がわからず首を傾げたぼくだったが、思い当たったことにふっと笑みをもらす。

 

「ここに居られなくなることを、シゲ爺は知っていたから、再就職に使えってこと?」

 

 今どきこの推薦状で雇ってくれる企業など皆無だろう。

 それでもシゲ爺の気持ちが嬉しかった。

 

「ありがとうな、シゲ爺」

 

 ぼくは便せんを封筒に戻そうとして手を止めた。

 もう一枚入っているしわくちゃの紙をつまみ出す。

 ぼくの目は釘付けになった。

 それは千切られていた、シゲ爺の日記の続きだった。

 

 

 





次話からまた、少しずつお話が動くかと思います。
このあとも、どうぞよろしくお願いしますね。
では!

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