屋敷の庭にカナさんと陽炎の姿はなかった。
シマにもお礼を言いたかったが、チビを咥えていったきり庭はしんと静まりかえっている。
誰にも会わずにここを抜けられたのは、かえって良かったのかも知れないと思う。
会えば最後に彩ちゃんに会う時間さえ与えて上げられなかったことを、謝らなければならないだろう。
「さてと、説教でも喰らいにいくか」
響子さんの家へ向かおうと思った。
なけなしの決意を固めたくらいで何とかなる状況だとは、お気楽な自分でもさすがに思ってはいなかった。
響子さんと蓮華さんに力を借りる必要がある。
目的は同じなのだから、同じ方向に向かって走ればいい。
でも響子さんは怒るだろうな。フライングしたぼくの行為を、怒るだろう。
響子さんは手加減を知らない、優しい鬼だから。
「いっそのこと、このままスルーしたいな」
理由はどうあれ叱られることを好むわけもなく、溜息と共に本音が漏れる。
「わたしに何か言うことがあるだろう?」
通り過ぎたばかりの背後の道から、低く抑えられた声がかかった。
怒鳴られたわけでもないのに、一瞬にして身が竦む。
「響子さん?」
振り返らずに問いかけると、ずかずかと足音が近づいてくる。
目的地といってもいい相手が向こうから出向いてくれたというのに、生存本能が足を一歩前に動かした。
「逃げるとはいい度胸だ。逃がすか! このボケが!」
言うが早いか、響子さんの指で耳を捻り掴まれた。
「ごめんなさい! 痛い!」
「なんだ? 何か謝る必要のあることでもしでかしたか。あん?」
あとは黙って引き摺られた。
この前より指に力が籠もっているのは気のせいだろうか。あっという間に耳の感覚がなくなった。
「このまま気絶してぇ」
「なんか言ったか?」
耳を引っ掴む響子さんの腕にしがみついて、口をむんずと閉じた。ずるずると全身を土まみれに引き摺られながら、歩くって楽だな、と意識の遠い所でひとり呟く。
響子さんの家の前に放り出されて、仰向けになったぼくの目に映ったのは、心配そうな顔のまま目を見開き口元に手をあてた蓮華さんだった。
「こんにちは」
何となく場違いな挨拶をしたぼくの横っ腹を、響子さんが靴の先でとんと蹴る。
「残欠の小径の匂いが変わった。爽やかな夏の風といった香りだったのに、今は鈍臭いクソ真面目な匂いがする。変わったのはほんの少し前でな。おまえ、何をした?」
質問に答えさせたいなら、せめて五体満足のまま運ぶべきだろうと思うのだが、そんな常識を響子さんに言うだけ無駄だろう。
「彩ちゃんは、ここへはもう来られないよ」
たった一言で、響子さんは事情を悟ったのだろう。
見開いた目を閉じると、ふっと息を吐く。
「残欠の小径に介入する彩の力を和也が奪ったというのか? いったいどうやって奪ったという。血に受け継がれてきた力だぞ? まさか鬼神のように己に彩を取り込んだわけでも無いだろうに」
地面に片手を着いて半身を起こすと、予想したとおり体のあちらこちらが痛かった。
「そんなことはしていないよ。彩ちゃんの力を引き継いだだけ。ぼくはこっちで生まれたからね。もともとこちらの世界の色合いが強い力なら、受け継ぐのにぼくほどの器はないだろう?」
腕を組んで響子さんは考えるように眉根を寄せる。
「確かに残欠の小径を守る膜は、以前より強固なものになったかもしれません。まさか和也さんの力だったなんて」
蓮華さんはどうして良いかわからないという風に、ぼくと響子さんを交互に見る。
「ぼくの力じゃありません。もともとの力が宿主を変えて安定しただけでしょう。彩ちゃんはキャミに収めたナイフを維持しながらこの世界を守り、回復できるような体力など残っていなかった」
「だから引き継いだと?」
「女の子がぼろぼろになるまで頑張ったんだ。もう、血の鎖から解放されて、普通の幸せを手にしたっていいと思うから」
「お人好し、馬鹿、脳天気、ノープラン! 真っ直ぐな奴だとは思っていたが、ここまで真っ正直に突き進むとはな。しかも何の相談もなしか」
「すみません」
ぼくがへらへらと笑うと、響子さんに靴の裏で頭を蹴られた。
脳震とうを起こしかけた頭が、続けざまに放たれた横腹への蹴りの痛さに意識を引き戻す。
「響子さんの言うとおり、まったくのノープラン。どうしよう……かな?」
知るか! と響子さんが口を真一文字に引き締める。
「とりあえず、中に入ってお茶でも飲みませんか?」
蓮華さんが巨木に取り付けられた戸口に手をかけた時だった。
「繋ぎでございます」
聞き覚えのある女性の声がした。
確かに声が聞こえる茂った草は、葉先ひとつ揺れてはいない。
「雪さん?」
ぼくの問いかけへの返事はない。
草陰のギョロ目からですら感じられる気配が、まったく感じられなかった。
「和也様、水月様がお呼びです。今すぐ御出立を」
「雪さん、どこにいるの?」
おそらくすでに姿を消したのだろう。
ぼくだけじゃない、響子さんにまで感づかれることなく声が届くほど近くに寄ってくるなど、あまり考えられることではなかった。
「町の小屋で会った娘だな。あの時は確か、役に立てるかも知れないといっていたな。記憶の壁が壊れたとも。すでに水月と接していることや、立ち回り方からみて生前はどこかの間者だったとでもいうところか」
「雪さんが間者?」
「あぁ、昔は老中などが手元に置いて、敵の情報を盗ませたりした者達のことだ」
「忍者みたいなもの?」
ふふふっと響子さんが笑う。
「忍びの者と、役目は似ているかもしれないな。どっちに転んでも、捨て駒扱いの汚れ仕事だ」
汚れ仕事という言葉が、ぼくの心を重くさせた。
ぼくが触れることで思い出させてしまった雪の記憶は、彼女を苦しめてはいないだろうか。
「気に病むな馬鹿が。どうせ自分の所為で苦しんでいないかとか思ったのだろう? さっきの声を聞いただろう? 出会った当初とはまるで別人だ。嫌な過去だとしても、それも含めて雪を造り上げる一部なのだよ」
下を向いたまま無言でいると、解ったのか間抜けが、といって響子さんがぼくの頭をごつりと叩いた。
思わず笑いが零れる。
「うん、そう思うことにするよ。響子さんは、馬鹿みたいにいい人だ」
黙って聞いていた蓮華さんがにこりと笑う。
「いい奴は、この残欠の小径で生き残ったりしないんだよ。さっさと行け!」
蓮華さんを残して、響子さんさんはさっさと家に入ってしまった。
「照れているのですよ」
可笑しそうにいう蓮華さんに、ぼくもにこりと笑い返す。
「頬の傷のように心の傷も癒えたらいいのにと、どうしても思ってしまうのです」
胸の奥が杭で打ったように痛む気がした。
言葉にした蓮華さんは、柔らかな笑みを浮かべている。
だったらぼくも笑っていよう。同情も共感も響子さんは望んでなどいないだろうから。
「水月さんの所へいってみます」
頷く蓮華さんを残してぼくは走った。
あのお茶の効果はまだ残っているだろうか、走りながら浮かんだのはそんな心配だけだった。
川辺に立つ小屋は以前のままで、少し警戒していたが鬼神は現れなかった。
大きく息を吸い込み、戸をノックしようと拳を上げると、中から戸が開かれ水月が顔を出した。
「早かったな。まあ入りなよ」
のんびりとした口調に少しだけほっとする。
小屋の中は相変わらず閑散としていて、およそ生活感が感じられないままだった。
「雪さんが連絡してくれました。彼女は間者ではないかって、響子さんが言っていたけれど、本当のところはどうなのかな。あまり危険なことをしなければいいけれど」
水月がカップに入れて目の前に置いてくれたのは、忘れもしない味のあのお茶。
「これ飲むんですか?」
「ちゃんと飲めといったのに、飲んでいないだろう? 必要になったら飲むのをやめればいい」
まるで考えを読まれた気分だった。確かにぼくはこのお茶に、もう口を付けないでおこうと思っていたのだから。
「やろうとしていることは理解できる。だが今は存在を安定させろ。おまえさんは、自分で思うよりずっと不安定なんだよ。こっちから見ていると、突けば割れるシャボン玉みたいだ」
水月は自分用のカップから旨そうに茶を飲むと、はぁーと満足そうに息を吐く。
「いただきます」
鼻をつまんで一気に流し込んだ努力は、無駄としかいいようがなかった。
気絶しそうな風味が口いっぱいに広がる。
「うえぇー」
悶絶するぼくの様子をみて水月が笑う。
ぼくが落ち着くまで、水月は柔らかな笑みを浮かべるだけで何も語らなかった。
ようやく平常心を取り戻し、涙目のまま顔をあげる。
「ここを守っていた力を、その身に引き継いだのか?」
責めるような口調ではない。淡々とした事実の確認。
「彩ちゃんにはもう無理でした。だから、誰かがやらないといけないでしょう?」
「血縁に頼った力を抜き取られたその子は、残欠の小径に関する記憶を全て失うだろう。自分が何をしてきたのか、母親が何を守ろうとして、どうやって命を落としたのかも」
それは覚悟していた。こうなった以上その方が彩ちゃんの為だとも思う。同じ悲しみでも、母親が普通に亡くなったのだと思えた方が、幾分かは幸せに思えた。
だが、次ぎに水月が発した言葉は、ぼくに衝撃を与えた。
「和也のこともいずれ忘れる。今すぐじゃないが、目の前にいて毎日会っているにもかかわらず、和也という存在が、彼女の中から消えていく。燻った炭がいずれ燃え尽きて灰になるように、少しずつ変化は起きる」
彩ちゃんの中から自分の記憶が消える。
もう笑いかけてもらえない、そんな日が来るなんて想像していなかった。
自分が死ぬ以外に、彩ちゃんの笑顔を失う日が来るなんて。
「大丈夫です。心の整理ならその内きっと。自分で選んだ方法だから」
ちっとも大丈夫には見えんがな、とぽつりと水月が言う。
「なあ和也、鬼神と本気でやり合うつもりか?」
「はい」
そうしなければ何もかもが無駄になる。
水月は相変わらずゆったりとした、優しい笑みを目元に浮かべてぼくを見ていた。
「雪という娘は役に立ってくれるだろう。本人も望んでいるから、必要があれば使ってやるといい」
「手伝ってもらうかもしれません」
生乾きのまま丸めておいたシャツみたいに、心の中がぐちゃぐちゃだった。
ぐしゃぐしゃの心に、水月のひと言が更に黒く深い穴を穿つ。
「俺の魂を、喰らってみないか?」
返事などできなかった。驚いて顔を上げた先に見えた水月の表情からは、先ほどまでの柔らかい笑みは消え、射貫くような鋭い双眸だけが真っ直ぐにぼくを見つめていた。
読んで下さったみなさん、ありがとうございました!
次話もお付き合いいただけますように。
では(^^♪