小花ちゃんの後ろから梯子を登り四角い床板を押し開けると、部屋の中は豆電球一つしか灯されていない薄暗さで、彩ちゃんの少しだけ荒い息づかいが聞こえてきた。
「小花ちゃん、彩ねえちゃんにお水を持ってくるから、先に部屋に入っていい子で待っているんだよ。お姉ちゃんはもう少しだけ、眠らせておいてあげてね」
頷く小花ちゃんを部屋の中に押し上げて、ぼくは一度厨房へと戻った。
水を入れるコップを出していると、入り口の戸が開いてタザさんが戻ってきた。
裏に入り口があるっていうのに、いつだって店の入り口から入ってくるんだから。
そうだ、タザさんには言わなくちゃいけないな。
人としてずっと彩ちゃんを守ってきたタザさんには、今から自分がしようとしていることを、ちゃんと伝えよう。
タザさんにも解りやすいように、かみ砕いて話せるだろうか。
タザさんは怒るかな。
今の彩ちゃんが変わっていくことを、嫌がるだろうか。
どんな風に変わるかなんて、ぼくにだってわからないよ。
「どうした?」
無意識に動きが止まっていたのだろう。
呆けたようなぼくの様子に、タザさんが先に声をかけてきた。
今日は何の仕事を引き受けたのやら、顔中煤だらけになっている。
ぼくは手にしたコップに、ゆっくりと水を注いだ。
「タザさんはどうして彩ちゃんを大切にしているの? シゲ爺が居るときも留守の間も、タザさんがこの店に居るのは、彩ちゃんを見守るためのような気がするから。その為だけに、生きているようにさえ見える。ぼくの思い過ごしかな?」
面食らったようにタザさんは目を見開き、それから瞼の力を抜いてふっと息を吐く。
「だったら、おまえはどうして彩を助ける? 放っておけばいいだろう? ここで働いていれば給料は入るし、これは男の感だが彩に惚れたって訳でもなさそうだ。彩は体に傷を負ってこの家に帰ってくる。おまえは体の内側に傷を負って帰ってくる」
タザさんは自分の胸を、拳でとんとんと叩いてみせる。
「なぜそこまでする必要がある? あっちに俺の覗けない場所があるのは知っている。だが雇われている奴が、どうしてそこまでする? 彩に頼まれたわけでもないだろうに、自分がぼろぼろになってまで、なぜ彩を助ける?」
淡々としたタザさんの問いに、ぼくは思わず返答に詰まった。
なぜかとか、考えたこともなかった。
「俺はおまえや彩と違って、若い時代を畜生みたいな生き方しかできなかった男だ。どうしてその道に足を踏み入れたのかなんて、今となっちゃ覚えてもいないが」
喉から声を絞り出すように、タザさんの表情が歪む。
「俺は兵隊だった」
思っても居なかった告白に、ぼくは返事すらできなかった。
「もちろんこの国でじゃない。この国の外にでたら、外人だろうが捨て駒に雇いたいって場所があんだよ。自分には本来何の関わりもない争いに、首を突っ込んで俺は仕事をした。無我夢中に働いたさ。必死に敵兵を……人を殺したんだ」
戦争、内戦、独立運動、世の中に争いは掃いて捨てるほどある。けれどその只中に立った人が身近に居るなど、想像した事さえなかった。
「彩ちゃんと会ったのは、日本に戻ってから?」
「そうだ。肺をやられてな、働けなくなった。何があったか知らないが、近くの神社の鳥居の前で倒れている彩を見つけてな、ここまで抱いて運んだのさ。その時シゲ爺と会った。あの変わり者の爺さんは、行き先がないならここで働けといった。有り得ないだろ? 身元どころか、名前さえ名乗っていない俺をここに住ませるといったんだ」
その時の事を思い出したのか、タザさんはふっと優しい笑みを浮かべた。
「それで雇われたってわけか。シゲ爺のこぼした果物を拾って雇われたぼくと変わらないね」
雇われた日にさ、といってタザさんはもう一度息を吐く。
「床に体を横たえてやったら、彩が俺の目を見ていったんだよ。怪我をしていただろうに、にっこり笑ってありがとう、てな。抱いて運んだだけなのにあいつはありがとう、てこの俺にいってくれたんだ。嘘みたいな話だが、他人にありがとうなんて言われたのは、生まれてて初めてだった。
俺は頭が悪いから単純でよ、その時に思っちまった。この手は人の命を奪うことも、ありがとうって言葉を生みだすこともできるんだってな」
ガキみたいな発想だろう? とタザさんが笑う。
ありがとうのひと言に、それほどの重みを感じたタザさんの気持ちがぼくには解る。誰かが呼びかけてくれる声、投げかけてくれる笑顔、そんな事に死ぬほど憧れたから。
飢えて乾いた者にだけ染みこむ小さなひと言を、僅かな表情を知っているから。
彩ちゃんに出会うまで、タザさんは苦しかったのだろうと思う。
ありがとうのひと言が、自分の中に何かを芽吹かせるほどに、飢えて生きていたのだろう。
「彩ちゃんが新しい生き方を指差してくれたから、手にした人生と共に彩ちゃんの側に居るんだね」
「そんなご立派なもんじゃねぇよ。他に行く当てもないから、仕方なし無しってとこだ」
鼻の頭に皺を寄せて、タザさんがくくくっと笑う。
手芸用品を買ってまでタザさんが小物を作ったり、小さな子供の面倒をみたり、たった三千円で値段以上の物を作ってしまうのは、その手で作り出した物が生みだす笑顔の価値を知っているからなのだろう。
ぼくは少しだけ、前に踏み出したタザさんの一歩を羨ましく思った。
「タザさん、今夜ぼくは彩ちゃんに、失われていた彩ちゃんを返そうと思う。上手に説明できないけれど、たぶん彩ちゃんは戦うために、感情の一部を自分から分離させた。一番楽しかった幼い日の、ひたすら楽しく笑って、ふくれて、泣いていた豊かな感情を、自分の内から追い出したんだと思う。一種の防衛手段だよね。苦しくても悲しくても、自分の心が壊れないように。おそらく自分でやったわけではないだろうね。でも彩ちゃんのために、そうしようとした誰かの意思を受け入れた」
タザさんは、きつく目を閉じて唇を僅かに歪める。
「明日の朝、彩は俺のことを覚えているか?」
タザさんの声が沈む。
「大丈夫だと思うよ。彩ちゃんは彩ちゃんだもの。今までより、ずっと騒がしくなるかもしれない。すぐには無理でも、美味しい物を食べさせて休ませれば、明日からはきっと良くなる。何の確証もないけど、これはぼくの感だね」
当てになんのかよ、とタザさんは肩を揺らした。
「タザさん、変な質問して悪かったよ。そうだよね、ぼくもタザさんも、彩ちゃんに幸せになって欲しいだけだもんな。理由なんてこの際、キャミの紐を弾く様子がかわいいから、とかでいいと思わない?」
「自分で振っておいて、結局その答えかよ」
「ぼくが何をするか、気にならないの? 心配じゃない?」
「心配だし気になるさ。だから徹底して気にしない」
ひらひらと手を振って、タザさんが作業場へと戻っていく。
コップの水を手に、ぼくも彩ちゃんの元へと向かった。
豆電球のままの薄暗い部屋で布団で眠る彩ちゃんの傍らに、小花ちゃんがぺたりと大人しく座っていた。
「ごめんね、電気を点けていくのを忘れちゃったよ」
小花ちゃんでは手が届かなかったであろう、スイッチに手を伸ばして部屋の明かりを点ける。
「おねえちゃん、ねてるね」
小花ちゃんが小さな顔を近づけて、眠る彩ちゃんの顔を覗き込む。
「彩ちゃん、起きてよ。水を持ってきたから飲んで」
布団からでた肩を軽く叩くと、彩ちゃんはうっすらと目を開けた。
「和也君?」
「勝手に入ってごめんね。具合はどうかなって、知り合いの子を預かっているから、一緒にお見舞いにきた」
彩ちゃんの視線が、ゆっくりと小花ちゃんに向けられる。
「こんばんは」
彩ちゃんが細い声で淡い微笑みを浮かべると、小花ちゃんは元気ににっこりと手を上げた。
「こんばんは!」
ぼくはそんな小花ちゃんを彩ちゃんの横に引き寄せ、胸の上に乗せられた手に小さな手をそっと絡ませた。
「彩ちゃん、もう一方の手で、ぼくの手に触れて。それと、お願いがあるんだ」
彩ちゃんが何だろうというように目を瞬く。
「こんなに調子が悪い時に申し訳ないけれど、ナイフをだして欲しい。彩ちゃんがキャミの中に収めているナイフ。それがあるとね、二つの魂を救えるんだ。ちょっとだけ、無理してもらえないかな?」
軽い調子でいったが、この状況でナイフを出現させるなど、彩ちゃんにとってはかなりの精神力を要するはずだ。
辛いのは解っている。
だからこそ、辛いのを知らない振りして笑って見せた。
彩ちゃんが不信に思わないよう、戸惑わないよう、馬鹿なおねだりをするアルバイトの兄ちゃんを演じよう。
「今すぐに?」
「うん。見せてくれたら後はゆっくり休んで。もうお願いしたりしないから」
彩ちゃんはまだ力の籠もらない目で、じっとぼくを見ている。
彩ちゃんはどんな無理をしても、ナイフを出すだろう。
それで誰かが助かるなら、そう思って生きてきた子だから。
彩ちゃんはいつだって無理をして生きてきたんだ。
でもね、これが最後のお願い。最後の無理な頼み事だから。
小さく頷いて、彩ちゃんはキャミの胸元に指先を入れる。
「小花ちゃん、お姉ちゃんの手をぎゅって握ってあげていてね」
ぷっくりとしたほっぺたを揺らして、小花ちゃんが元気に頷く。
彩ちゃんの片手を握る小さな手の指先が、込めた力にきゅっとなる。
「こんな小さくっちゃ……何の役にもたたないよ?」
囁くようにいった彩ちゃんの手には、以前見た時より遙かに小さくなったナイフが握られていた。
ぼくの手の平にすっぽりと収まりそうなナイフに、そっと手を伸ばす。
何かいおうと口を開きかけた彩ちゃんを、しっと唇に指を立てて押し留める。
「彩ちゃん、頑張ったね」
「和也君、何を……何をする気なの?」
彩ちゃんという女の子に雇われた、アルバイトの兄ちゃんの顔でぼくはにっと笑ってみせる。
「おまじないかな? 頑張った彩ちゃんが、幸せになれるおまじない」
そっと指先でナイフに触れる。
冷たい金属の手触りはなく、ぬるい風呂の湯に手を入れた時に似た、ほっとする温もりをナイフは持っていた。
「彩ちゃん」
「なに?」
「ありがとう」
彩ちゃんがはっと目を見開いたのを視界の隅で確かめながら、ぼくは指先に意識を集中した。
ナイフの形を保っていた物は、砂を崩すように光りの粒となり、さらさらとぼくの方へと流れてくる。
長袖のシャツの袖からぼくの手首に入り込んだ光りの粒は、鈍い痛みを伴って最後の一粒さえ姿を消した。
彩ちゃんの体が、喉を仰け反らせて僅かに跳ねた。
視線が宙をおよぐ。いまはもう、この部屋の風景ではない何かが見えているのかも知れないと思った。
彩ちゃんの手を握る小花ちゃんは、眠い目を開けようと頑張っていたが、瞼を閉じるとそのまま彩ちゃんの胸の上にことりと身を倒す。
「小花ちゃんも、ありがとうね」
小花ちゃんの体が、彩ちゃんへと吸い込まれていく。
彩ちゃんも重くなった瞼を閉じて、今は静かな寝息を立てていた。
二人の寝息が同調するように、存在が溶け合っていく。
彩ちゃんの手を握り続けた小さな手が、水面に沈むように姿を消した。
「明日から、彩ちゃんも怒ったら膨れるのかな? 小花ちゃんの大きくなったバージョンだとけっこう手強いかも」
ぼくは一人苦笑した。
「あのナイフの源は、残欠の小径そのもの。そこで生まれたぼくの元に、帰ってきただけさ。今日だけは、人の子じゃなくて良かったって、少しだけ思えた」
立ち上がって床板を開ける。
居間にタザさんの姿は無い。
言葉通り、徹底的に気にしないために、作業に没頭しているのだろう。
「タザさんらしや」
厨房で薬缶を火にかける。
ふつふつと音を立てて沸き始めたお湯の音が耳に心地いい。
「たとえ肉体を裂くわけじゃないと解っていても、お母さんの魂が宿った鬼神を、彩ちゃんは殺せない。鬼神を滅することができなくて、守りに入ったから弱っていった。無尽蔵の力なんて在るわけ無いんだ。期限の見えない戦いは、自分を滅ぼす」
挽いた豆にお湯を注ぐと、白い湯気と共に茶色い泡からコーヒーの香ばし薫りが漂う。
「好きだったのにな、この匂い」
コーヒーを注いだカップを手に、タザさんのいる作業場の戸口の前に立った。
中からは、ノコギリを挽く音が響く。
戸口の横にコーヒーのカップを置いた。
「終わったよ、タザさん」
ぼくは作業場に背を向けて、居間の壁を占める大きな本棚で息を吐く。
力を込めて本棚をスライドさせた。
障子の向こうから、淡い明かりが漏れる。
「ここからは、ぼくの戦いだ」
ぼくは大きく息を吐き、格子戸に手をかけた。
少しづつ書き上げていきますので、よろしくお願いします。
では!