「前まではな、身近な者が姿を消せば騒ぐ者が居た。それがどうだ? ここ数日で姿を消す者が異常に増えたというのに、誰一人騒ぎゃしねえ。向かいの婆さんは、ここへ来る前からガキみたいにつるんで歩いていた、ソメって婆さんが昼過ぎに不意に姿を消したってのに、ソメのソの字もだしゃしねえ」
妙な話だった。秩序なく寄せ集められたように見えるこの町でも、人々の交流は存在している。 店先でのやり取りもそうだが、寄せ集めとはいえ町ともなれば、個人の交流もあって当たり前だと思えた。そこには相手を想う気持ちもあるはずなのに。
「黒い布が短くなっている奴は、闇が満ちていない時でも記憶が曖昧なんだ。普通に暮らしてはいるが、肝心な何かが抜けてんだよ。他の奴らは闇が満ちている時間帯以外はまともだった。自分たちの置かれた状況を異常だとも思っていたし、どうしたら鬼神から逃げられるかと、頭を付き合わせて思案したりもしたものさ。ところがどうだ? 今じゃ自分たちがどんな状況に陥っているか、気にかける奴すら少ねえ。わかっていても、周りの様子が変わったのを察知して、てめえも知らん振りを決め込む奴まででる始末だ」
佐吉は鼻に皺を寄せ、太ももを拳で叩く。
口を開いたのは響子さんだった。
「佐吉はどうして己を見失わずに済んでいる? ここに集まって三人にも同じことがいえるが、ある意味この町では異常な存在だ。何かあるはずだろう? その他大勢とは違う道を辿った何かがね。それが解らないことには、この先の謎を解くのは難しいと思うが」
目を瞑ったまま佐吉が首を捻る。口から漏れる溜息は、その答えを知らないのだと暗に示してしいた。
「なぁ佐吉、あんたは死ぬとき何を思って死んだかね。宗慶と雪にも同じことを聞こうか。思い出してみんか、いまわの際に何を思った? 浮き世に未練があったかね? それとも……やっと死ねると思ったかね」
嗄れた寸楽の声が、澱のように小屋の中で沈んでいく。
「わたしは辻斬りに襲われた。二本差しなど日々の飯に消えていたから、形ばかりに添えられた脇差しは竹光だった。皮肉なことに、離縁される前に妻に贈ろうと買い求めた、紅珊瑚の簪を売った金を持ち帰る途中で襲われた。浪人になって長屋暮らしに身を落とし、妻と子供を失っても、その日暮らしの傘張りで何とか糊口を凌いでいた。もはや人の世に何の希望も持ってはいなかった。斬られた苦しみよりも、浮き世から去れる安堵が勝っていた」
俯いたまま宗慶が嗤う。
「そうじゃと思ったわい。わしは心の臓が締め付けられて死んだ。病死じゃよ。だが心底ほっとした。死ぬのだと解って安堵した。わしはもともと野良仕事の家に生まれた訳じゃない。お取り潰しとなった武家の娘は高く売れるでな。浮き世には残った記憶だけでも、死ねたら楽だと思えることは掃いて捨てるほどあるさ。わしも過去から逃れなんだ。てめえの生き様に、押し潰されとった」
けけけっ、と寸楽が笑う。武家の娘の名残は微塵もなかった。野良仕事に生きた女。寸楽は、そのようにしか見えない老婆だった。
「言われてみりゃあ、おれも死んでほっとした口だ。まあ詳しくは言わねえが、しくじったツケの責め苦でよ。死ぬなと悟った瞬間は、体の力が抜けたぜ。安堵しちまったんだろうよ」
まるで人ごとのように爽やかな口調で佐吉がいう。時の流れは、感じた苦しみさえただの絵空事に変えるのだろうか。
「雪といったね、あんたはどうだった?」
響子さんに名指しされ、雪は少し身を縮めた。
そして恐る恐るといった風に口を開いた。
「わたしは死ぬ前の記憶がないのです。未だに自分が何者であったのかさえ、まるで見当が付きません。雪という名は、前にいた場所で雪が振る季節に隣人がつけてくれました。雪みたいに冷たい手だからだと」
名付けた人の顔を思い出したのか、雪の表情がふわりと和らぐ。
「それでどうなんだい、寸楽。今の話を聞いて、答えに確信は持てたのかい?」
あぁ、と寸楽は皺をくしゃりとさせた。
「わしらが正気を保っていられるのは、おそらく生に未練がないからさ。鬼神は魂の何かを吸い取るといわれているが、どうやら死にたがりの魂は不味いらしいな」
寸楽が、くくくっと肩を揺らす。
死にたがりの魂、死してもなお存在し続ける事を望む者が多いということか。
鬼神は生を求める魂に飢えている。だとするなら、そこから鬼神に欠けている何かが見えてくるのではないだろうか。
「鬼神は、何を望んでいるんだろう。人間への復讐? こちらの世界への復讐? どちらにしても、動機となる出来事があった筈だ。鬼神を凶行に突き動かしている、その原動力が知りたい」
独り言に近いぼくの呟きだった。
「狙いは、おまえさんだろうよ」
寸楽が、皺の隙間からぼくを見た。
「ぼくは一方的に鬼神に目を付けられているだけで、何もしていない」
「おまえが生き延びた、数少ない者の一人だからだろうな」
ぼくを見ることなく響子さんがいう。
「こっちの世界で身籠もった子は、例外なく死を迎えるといっていい。だが生き残る者も皆無ではないのも事実。わたしが知る中では、生きて腹から生まれ育ったのは、おまえともう一人、水月だけだ」
水月の笑顔が目に浮かぶ。
「水月と和也の違いは、追う者と追われる者だということ。水月は鬼神を追い、おまえは鬼神に追われている。鬼神はなぜ水月を追わないのだろうな? 水月と和也の存在を分けるものは何だ? それさえわかれば、少しは先が見えるのだろうが」
そうだ、水月はなぜ鬼神を追っている? 知りたい事とは何だ?
いったい何の為に?
頭を振って、ぼくは居住まいを正した。まだすることは残っている。
ここに住む人々の受け身の姿勢を、変えなければならない。
変えることはできないだろう。人を変えることなど、不可能に等しい。
自分で気づいてもらうしか、道はない。
「皆さんにひとつだけ、伝えておくことがあります。代々ここを守ってきた家系の女の子が、寝込んでいます。もう小さなナイフさえ象れないほど、弱っているのだと思います。鬼神が強くなった訳じゃない。ここを守る力が、弱まっているんだ」
雪が両手で顔を覆う。
寸楽は皺の奥で目を閉じた。
「思えば甘えていたのかも知れぬな。若いおなごに守られ、それを当たり前のように思っていたのも事実。そろそろこの足で踏み出さねば、事は動かぬかもしれぬよ」
宗慶の言葉は静かだった。己に言い聞かせるように、静かに重く部屋を満たす。
そうだ、少しずつでいい。その心に剣を持ち、立ち上がって欲しい。
「和也、おまえ……何を考えている?」
ぼくを見る響子さんが、僅かに目を細める。
「何も考えちゃいないよ。作戦だってないから当たって砕けろさ」
「それが一番恐ろしいのだがな」
にかっとぼくは笑って見せた。
呆れたように響子さんが息を吐く。
「こちらからも言うことがあったのだが、話を聞いて考えが変わった。もう少し時間をくれないか? 何かがずれている。わたし達が考えている鬼神像と、現実の鬼神像。それに取り込まれた魂が、鬼神の中で人格を保っていると思われる。それがもたらす事柄は、はっきり言って予想がつかん」
響子さんは鋭い。
思わぬ所から、答えの糸口を見いだすだろう。
ぼくのするべき事は決まったから、今日はそれだけで十分だ。
みんなが心に剣を翳すなら、ぼくは余計な想いを全て捨てよう。
「そろそろ闇が明けます」
蓮華さんの言葉に、宗慶が煉瓦を避けて表の道を覗いた。
「町は元通りだ」
膝を抱えて蹲る雪の肩に手を置いた。大丈夫かと、声をかけるだけのつもりだった。肩に指を触れた途端、雪の体が激しく揺れた。
「大丈夫? 目眩でも起こしたの?」
目の焦点が定まらない雪の肩を支え、ぼくは静かに声をかける。
数分ほど経っただろうか。
雪の目の焦点が定まり、真っ直ぐにぼくを見た。
「わたし、お役に立てるかも知れません」
雪の言葉に、響子さんが訝しげに首を傾げる。
「何ができるというのだ? 何か思い出したのか?」
頷く雪の表情は、先ほどまでとはまるで別人だった。
怯えていた瞳に知性と力が宿ったように、ぼくには見えた。
「和也さんの手が触れた途端、頭の中が真っ白になりました。幼稚な破壊者と呼ばれる方は、わたしの中に閉ざされた、記憶への壁を破壊したのかもしれません」
そんな力が自分にあるとは思えないが、偶然というにはタイミングが合い過ぎた。
「数日の時間をください。この中で町の住人の会話から、情報を得られるのはわたしだけ。信じて数日、待っていただけませんか?」
互いの顔を見合い、全員が頷いた。
雪という女の子は、いったい何者なのだろう。
まるで気弱な女の子を演じていた女優が、素に戻ったほどの違いを感じる。
「内容があったような無かったような集まりだったが、これでお開きとするか」
響子さんのひと言で、一人ずつばらばらに小屋の外へと出て行った。
ぼく達は無言で町の中を通り抜け、木々の立ち並ぶ道へと入った。
「何をするつもりか知らんが、どうせ碌でもないことを考えているのだろう? 前にも言ったが、阿呆は阿呆のままでいい。正直は阿呆は、嫌いじゃないんだよ」
そう言い残して、響子さんは別の道を走っていった。
蓮華さんが心配そうな表情をしていることに、ぼくは気付かない振りをした。
響子さんの家の前で、ぼくは蓮華さんを待っていた。
「和也さん、これを煮だして飲んで下さい。水月さんから貰ってきました。欠かさず飲むようにとおっしゃっていましたよ」
ごっそりと乾いた薬草の詰まった袋を受け取り、ぼくはひとりカナさんの庭へと向かった。
響子さんの言ったとおり、ぼくは碌でもないことを考えている。
けれど実行するにはまだ時間がかかる。
何しろカナさんに、あのお茶を飲まされたばかりだからね。
チビを部屋につれて行ったら、陽炎が寂しがるかな。
庭でしばらく、チビと遊んでいてもいいだろうか?
庭の木々の隙間から、廊下に座るカナさんの姿が見えた。
「カナさん、戻りました」
涼やかな笑顔で、カナさんは迎えてくれた。
前より少しだけ、元気を取り戻したようにみえる。
チビが側にいるからかなと、そんなことをふと思ったりした。
それよりチビはまだ、この庭にいるのだろうか?
「チビ! 一緒に遊ばないか?」
庭の隅から、白くて丸い毛玉が転がってきた。
ひょいと跳ね上がり、子猫の姿になる。
「そんなに転がっていると、いつか黒猫になっちゃうぞ?」
ぼくは笑ってチビを抱き上げた。
ミャ
小さく鳴いて、チビはぼくの鼻先をぺろりと舐めた。
次話もよろしくお願いします。
では!