店は今日も大盛況だ。
だがこの大盛況には訳がある。
風邪を引いて寝込んだ彩ちゃんの不在を知らずに、朝早くから駆けつけた可愛そうな常連客達。
今いる店内の客が引いてから後は、彩ちゃんいないぞ情報があっという間に流れ、店には閑古鳥が鳴くだろう。
「彩ちゃん大丈夫かあ? 栄養のある物食ってっかー?」
「大丈夫、栄養満点の具だくさんおかゆを、ちゃんと食べさせました」
道具箱に首を突っ込んでいたタザさんが、ガシャンドシャンと荷崩れを起こしている。
「タザさん、大丈夫?」
声をかけると、道具箱からにゅっと出された片手がひらひらと振られた。
「タザさんはごっついから大丈夫だって。彩ちゃんが心配」
「そうそう、タザさんかゴリラかってくらいの、筋肉やろうの心配はいいって。彩ちゃん熱はないのか?」
さっぱり入らない注文の代わりに連呼される、彩ちゃんコール。
「彩ちゃんは大丈夫だから、さっさと注文してくださいって!」
「だって彩ちゃんいないから、飯食うったって……なぁ」
ぼくの方を見ながら、オッサン達が目配せする。
「ぼくの作った飯だって、売り上げは売り上げです! 今日の店の売り上げが、彩ちゃんの薬代になるんですからね! それでもケチるんですか? ぼくの作った味にビビるんですか!」
カウンターの客達が鼻を膨らませ、意を決したように次々と手を上げる。
「アルバイトの兄ちゃん! 恐怖のチキンライスキムチ散らし!」
「恐怖は余分です」
「アルバイトの兄ちゃん! こっちは 納豆ニラ餃子定食を半人前」
「一人前からにしてください」
「おーいアルバイトの兄ちゃん! あさりとラー油のパスタひとつ。あと口直しに、ホイップクリームっぽいものたっぷりのコーヒーね」
「口直しは余計ですってば」
あさりとラー油のパスタを頼んだ森田さんが、眼鏡の縁をくいっと上げながらけけっと笑った。
どれもこれも、裏メニュー化したぼくのレシピばかりときた。
常連客の悪ふざけである。
「頼んだからには、食べきってくださいよ」
「おー!」
「お残しは許しませんからね!」
「は~い!」
返事がだんだん、力なくなっていくのは気のせいだろうか。
まあいい、ぜんぶ作り上げてやるっての。
常連客の悪戯心で、十品以上全て違うメニューという地獄の厨房で、ぼくはひとり走り回った。
閉店後にぼろ雑巾と化したぼくに、タザさんが作ってくれたのはカップラーメンと店で残ったサラダの小鉢。嬉しくなくて涙が出る。
なんでもこの後は、道を二本挟んだ先にある家まで、雨漏りの修理に行くらしい。
彩ちゃんには野菜スープと、卵のおかゆを持って行ったとメモがあった。
タザさんには、ついでにぼくの分も作るという発想は、微塵もなかったらしい。
カップラーメンとサラダを胃に詰め込んで、ぼくはさっさと二階へあがった。
こんな日は早く寝るに限る。
彩ちゃんが復帰しないことには、常連客のおもちゃにされる日々が続くのだ。
豆電球だけを点けて、ぼくはあっという間に眠りに落ちた。
ガラガラという、馴染みのある音にぼくは目を覚ました。
戸が引き上げられ、野坊主が顔を覗かせる。
「これを預かってまいった。今宵は、これで失礼する」
丁寧に頭を下げて、がらがらと戸が引き下げられた。
畳の上に、四つ折りにされた紙が一枚置かれている。
部屋の電気を点けて、手の平ほどのメモ帳を開く。響子さんからの連絡だった。
『一時間後にこっちへ来い。あの町の男と会う段取りがついた』
色気も素っ気もなく、淡々とした伝達メモだが、響子さんらしいかも。
三時間も眠っただろうか。昼間の疲れが抜けてはいないが、今回ばかりは若さと気力で乗り切るしかないだろう。
あの男の話を、聞き逃すわけにはいかなかった。
それに彩ちゃんの体調も気になっている。本当にただの風邪なのか、最近の彩ちゃんの様子からしても怪しかった。
何かのせいで体力を奪われている、そんな気がしてならなかった。
一時間後、ぼくはカナさんと目を合わしていた。
「今回は響子さんに呼ばれました。だから心配しないで下さい」
「気をつけてお行きなさいな。その前に、これをお飲み、響子から飲ませるようにと預かったものだよ」
受け取った湯呑みの中身を見て、ぼくは顔を顰める。
「これを飲まないといけませんか?」
「飲まなければ、残欠の小径へ来ることは許さない、といっていましたよ」
着物の袖で口元を隠し、くすくすとカナさんが笑う。
湯呑みに入っているのは、匂いのない透明な黄色いお茶だった。
忘れるわけもない。水月が出してくれたお茶と同じ物だろう。
ただの嫌がらせなら、あとから響子さんにも飲ませてやる。
鼻をつまんで、一気に飲み干した。
舌に残った苦みに、感覚が麻痺している。
顰めた顔をそのままに軽く会釈して、ぼくは残欠の小径へと走り出した。
崖を転がったりはしない。真っ当なルートを走って、無傷で響子さんの家に辿り着ける。
全力で走って辿り着くと、響子さんと蓮華さんはすでに外に立っていた。
「急ぐぞ。もう少しで闇が満ちるかもしれない。あの町に着いたら、余計な脇目は振らずに、急いであの男の小屋に入りな」
響子さんでさえ予測の付かない不定期な闇の訪れを、いったい誰が予測したというのだろう。
ぼくに頷く暇も与えずに響子さんは走り出す。それに続いて、蓮華さんとぼくも全力で駆けだした。
町に近づき小高い場所から見下ろした町並みは、心なし以前見た時より広がっているように思えた。
ここから見る限り、人通りも多い気がする。
「行くよ!」
響子さんの合図で、急斜面の丘を一気に駆け下りた。
地面を擦る靴の音に混ざって、少しづつ町の喧噪が聞こえてくる。
町に入ってからは目立たぬように、できる限りの早歩きで進んだ。
前に来たときに見かけた女の子が、母親に手を引かれて通りの向こうを歩いている。魚屋は威勢のいい声で客を呼び込み、客達もにこやかにやり取りをくり返す。
時代も服装も違う人々が、互いに違和感なく共存している世界。
日常という名の異常。
町の風景から目をそらし、ぼくは響子さんの背中だけを眺めた。
この背中の向かう先に、求める答えの欠片があるかもしれない。
小屋に入るまで、何も考えないようひたすら歩いた。
小屋の中には男の他に、三人の男女がいた。
老婆と若い女性、そして三十歳くらいの男性が一人。
「待ってたぜ。今回はこの三人で手一杯だった。みんな違う場所からここへ来た奴ばかりだぜ」
男の言葉に頷くと、響子さんは重厚な扉の閂を確認した。
「確かではないが、もう少しで闇が満ちる可能性がある。無闇に外へは出ない方がいいぞ」
部屋の隅に固まっていた三人が、びくりと肩を跳ね上げる。
「闇が満ちる時を知ることのできる奴なんて、聞いたことないぞ」
男の言葉に、響子さんがにやりと笑う。
「残欠の小径には、点在してひっそりと暮らす者が多い。その中には物を売ったり情報を売る者もいるのでね」
草陰のギョロ目だ。ぼくには余計なことを漏らすなと脅しておいて、自分はちゃっかり情報を得ていたのか? 相変わらず抜かりない人だ。
「まあいい。今回は人が多い、悪いが床にでも座ってくれ」
男に勧められ、簀の子がひかれた床に丸くなって腰をおろした。
「話しはじめる前に、あんた達には言っておかなくてはならない事がある」
「なんだ?」
男と三人の男女の目が、一斉に響子さんに注がれる。
「お前達が噂している、幼稚な破壊者。その正体はこいつだ」
頭を殴られるより驚いた。響子さんの指が、ぴたりとぼくを差している。
「ひぃっ!」
若い女性の悲鳴を合図にしたかのように、ざざざっと腰を擦って住人達が壁際まで身を引いた。
老婆だけがひとり、眉さえ動かすことなく座っている。
皺に埋もれた目で、真っ直ぐにぼくを見ていた。
「危険じゃないからこうやって連れてきた。特に今日は鬼神に、馬鹿正直なクソガキの進入を知られる心配もないだろう。想像していた人物像と違っていたか?」
溜息混じりの響子さんの言葉にも、背中を壁に貼りつけたまま動く気配がない。
ぼくはそんなに、忌み嫌われた存在だったのだろうか。
何をしたわけでもないだけに、けっこう心理的に応えるものがある。
「戻ってこんか。でかいただの子供じゃ。喰われやせんだろう」
老婆が嗄れた声でいい、ところどころ歯の抜け落ちた口を開けてかっと笑う。
「わしは寸楽という婆じゃよ。歳をくってやっとあの世へ行けると思ったら、訳のわからん場所に立っておった。その場所で長い間暮らしてな、こんな身でもいつかはこの地で朽ちることができるかと、落ち着いた矢先にここへ飛ばされたんじゃ」
畑作業に着る野良着姿の寸楽は、この名は前の世界で友人に付けて貰ったのだといった。寸の間笑わせる、愉快な婆さんという意味だという。
「ぼくは西原和也といいます。ぼくが恐ろしくはないのですか?」
そう聞くと、寸楽はかかかっっと天井を見上げて笑う。
「今さら恐ろしいものなどあるものか。死なせてくれるなら、鬼にだって身をあずけるさ。ただねぇ、嫌なんだよ。自分の何か取られて、これ以上自分じゃなくなっていくのが嫌なのさ。それだけじゃよ、この世で恐ろしいと思うのは」
ぼくにはまだ、死にたいと思う気持ちはわからない。けれど深く刻まれた老婆の皺に、それを想像することだけはできたように思う。
「わたしは平岡宗慶。来世など信じてはいなかったが、今はあの世にいってやり直したいと思っておる。不毛に時間だけがすぎるなかを、長く生きすぎた」
広目に剃った月代に細めに髷を結い上げる姿と姿勢は、武士であった名残を色濃く残している。
羽織袴のようにかしこまった物ではなく、灰色地の着流し姿であるところを見ると、浪人になって程なく現世を去ったところだろうか。
「この静かな娘は雪。最近じゃ怯えて、ろくに口も利かない日もある。目隠しの長さが一番短いんだよ。いつ正気を失うかと、びくついても責められねえ」
男に紹介された雪が、少しだけ頭を下げた。
「すっかり遅れたが、おれは佐吉だ」
小屋の家主である男が、名を名乗り再度みんなに座るように促した。
響子さんと蓮華さんも簡単な挨拶を済ませると、小屋の中にある時計が鐘を鳴らした。
「ほう、姉さんの言った通り、闇が満ちやがった」
小屋の外では前に見たと同じ光景があるのかと思うと、煉瓦を避けて表の通りを覗く気にはなれなかった。
「まずは互いに掴んだネタの披露といこうか。こっちが掴んだのは住民のことだよ。消えている住人は確実に増えているのに、全体の人数が減っちゃいない」
佐吉が話しながら、煙管でふっと煙草をふかす。
「どうしてですか?」
「相変わらずの阿呆だな、おまえは」
響子さんを見て、佐吉はにやりと笑う。
「察しのいい姉さんだ。たぶん考えている通りだよ。毎日大勢が、存在を維持できないまでに鬼神に何かを吸い取られ、水蒸気みたいに跡形もなく姿を消している。その代わり、補充される餌が増えたってことさね」
背筋を怖気が這い上がる。
「昨日今日になってここへ来た奴は、みんなふらふらしてやがる。これは想像だが、あいつらの黒い目隠しは、間違いなく短いはずだ。煉瓦をずらして覗いてみろよ、賑わっているはずだぜ」
恐る恐る煉瓦をずらし、表の通りを覗く。
前とは明らかに違っていた。
黒い目隠しが口もとまでも届かない者が、大勢外を歩いている。
ぼくは静かに煉瓦を元に戻して穴を塞いだ。
「ここを守っていた力が、ほとんど効力をなしていないということか」
響子さんが呟いたひと言が、ぼくの胸に鈍い痛みを与えた。
「風邪だっていったんだ」
「誰がだ?」
「彩ちゃんだよ。でもあれは風邪なんかじゃない。もう限界なんだ。彩ちゃんはここを守る力どころか、今は自分の体を支えるだけで精一杯なんだと思う」
響子さんの目が真っ直ぐにぼくを見る。
「響子さん、できるだけ多くの情報を持ち帰ろう。それから、あのお茶まだある?ないなら水月さんにも会わなくちゃね」
ぼくは笑顔を作ってみせたが、心はすっかり凪いでいた。
彩ちゃんとタザさんの顔が目に浮かぶ。
「はじめようか」
ぼくの中に、異形の覚悟が降り立った瞬間だった。
覗いて下さったみなさん、ありがとうございました!
少しずつ話が、ころころと転がっていくかと思います。
次話もよろしくおねがいします(^^)