カナさんの庭までぼくを送り届けて、響子さんは段取りを決めるからと足早に帰っていった。
ついてきてしまったチビを見て、カナさんは口元を綻ばせ、陽炎は最高のおもちゃを見つけたと言わんばかりに駆け寄った。
チビに逃げる暇も与えるずに抱きかかえて、とろけそうな笑顔で頬ずりしているう。
「響子に怒られたのでしょうよ?」
心配ではなく明らかに楽しんでいる口調で、カナさんがいう。
「かなり怒られていたと思いますが、ほとんど聞こえませんでした。響子さんは人の耳を手綱か何かと勘違いしてますよ。いま両耳が千切れていないのが奇跡です」
美しい顔に笑みを浮かばせると、カナさんはまるで天女のようだと思った。
「あの白いのはチビといって、残欠の小径で出会った、水月という男性の住む小屋に居着いています。放浪癖のある子で、どうしてかぼくに付いてきてしまいました」
「チビという名なのですね? まあ、かわいらしいこと。和也様、この子は和也様がお住まいに連れて行かれるのですか? それとも和也様がお戻りになるまで、この庭で遊ばせておいてもよろしいのでしょうか?」
陽炎は、興奮のあまりものすごい早口になっている。
陽炎がぼくを見ている隙に、チビはするりと手の中を抜けだした。
「ぼくはいいのですが、シマがどう思うかな? 何しろ、チビは普通の猫ではないようなので」
腕組みしてチビを見ると、小さな目でぼくを見上げてくる。人情にかわいさで訴えようとする、小さな命の恩人め。
「噂をすれば、この庭の主がやってきたようですよ」
カナさんの声に庭を見渡すと、草陰から灰色の毛を纏ったシマが姿を現した。
飯を貰うとき以外に姿を現したことのないシマが、離れた所でぴたりと足を止め、チビの姿を目にしてざわりと毛を逆立てた。
異質な匂いにつられて出てきたものの、予想していた者とは違っていたのだろうか。
「自分に似た存在が現れて、驚いているのだろうねぇ。シマはこの庭を訪れる者を選り好みいたします。はて、シマはチビをどうするやら」
友好的な出迎えとはいえなかった。
危険を察知した猫が、毛を逆立てるのとは違って見える。どちらかというと、驚いて毛が立ったのではないだろうか。
シマが人であれば、げっ、と声をあげていたかもしれない。
「チビ、あの子はシマよ。シマ、いつまでそこに居るつもり? 自分より小さい子なのだから、庭を案内しておあげよ」
何とかしてシマに面倒をみさせようと、陽炎は少し必死。
突如現れたこのかわいい白い生き物を、まだまだ眺めていたいのだろう。
物怖じすることなく、チビは短い足で二歩前に出た。
シマがすかさず二歩下がる。
チビがぴっと前足を片方上げると、駆け出されると思ったのか、シマは体を後ろにぐいと引いた。
ミャ
チビの鳴き声はかわいい。陽炎の顔が緩む。
ミャ
ころりと仰向けになり、腹をみせたまま自分の手を舐めはじめる。
庭にいる三人の視線は、一点シマに集まっていた。
悠然とした歩調で、シマがチビに近づいていく。
見下ろすようにチビの脇に立ち、尻尾をぴんと立てた。
ミャ
僅かにシマの首が下がったのを、ぼくは見逃さなかった。ぴんと立った尾が、しなりと下がる。
「おや、早かったねぇ。シマがあっさり折れたじゃないか」
面白いものを見たとでもいうように、カナさんの目が大きく開いた。
シマがチビの首筋を咥え、ゆらゆらとぶら下げたまま庭の隅へと姿を消す。
咥えられたチビは、されるがままにぶら下がっている。
ミャ という鳴き声にやられたか? シマ陥落。意外と薄情な奴ではないのかもしれないとぼくは思った。
「和也様、シマが連れて行ってしまいましたよ? チビが出ていくというまで、この庭においてもよろしいですよね?」
喜々とした顔で陽炎がいう。
どうみても、シマが連れて行くように仕向けたとしか思えないが、まあいっか。
「チビのことをよろしくお願いします。ぼくは響子さんから連絡があるまで、残欠の小径には行かないと約束したので、しばらくはちょっと。あ、ここへ来るだけなら大丈夫かな?」
「大丈夫でしょうよ。それに、ずっと姿が見えなくなればチビが寂しがります」
寂しがるだろうか。どうみてもただの気まぐれで付いてきたとしか思えないが、助けてくれたのも事実だ。どんな理屈かは知らないが、チビがいなければ、ぼくは響子さんの家から、今日中に出ることなど不可能だったのだから。
「もしも帰りたそうにしたときは、自由に帰らせてあげてください。陽炎さん、チビをよろしくお願いしますね」
にこりと頷く陽炎とカナさんに頭を下げ、ぼくは格子戸を開けて居間へと戻った。
すっかり時間の感覚がなくなっていたが、窓の外はすっかり明るくなっていて、厨房からは、タザさんが道具箱を漁る音がする。
居間の時計は八時を過ぎていた。
「やっばい、急いで開店の準備をしなくちゃ」
タザさんに見つからないうちに、部屋に戻ろうと思った。
何もなかったように朝の挨拶を交わしたなら、そこからいつもの日常が始まる。
かけがえの無いぼくの日常。
そのままのぼくで居られる、大切は場所へ早くいこう。
店は開店と同時に、目がまわりそうな忙しさだった。
半年に一回の、小さなお客様感謝デー。
今日に限って食事をしたお客さんには、コーヒーがサービスされる日。大したことのないいサービスに見えるが、小さな商店街は、コーヒー一杯で十分に盛り上がるのだ。
些細なことでみんなが楽しくなれる、そんな小さなコミュニティー。それがぼくの愛すべき商店街。
「アルバイトの兄ちゃん、氷無しのアイスコーヒーひとつね!」
「アルバイトの兄ちゃん、俺、ぬるいホットで!」
「はいはい!」
好き勝手な注文にも、きっちり応えてみせよう。
「アルバイトの兄ちゃん! あれ入れてくれよ、ホイップクリームっぽいもの!」
常連の森田さんが、ずり落ちる眼鏡をしきりに揚げながら注文している。
「はーい! ホイップクリームっぽいものねー!」
ホイップクリームっぽいものを、一番最初に気に入ったのは森田さんで、中年のくせに甘い物好き。しきりにこれを勧めるから、他の常連客からも注文がはいるようになったのだ。
いうなれば、ホイップクリームっぽいもの育ての親といったところか。
「彩ちゃーん! 日替わり弁当っぽいものちょうだい!」
森田さんが、声色を変えて妙なトーンで注文した。
「残念でした! ぽいものは和也君の専売特許よ!」
厨房で彩ちゃんが叫んでいる。
やられたー、といって頭を掻く森田さんに、店の中に笑いと拍手が湧いた。
ムードメーカーの森田さんは、いつだって周りを明るい気分にさせる。
葉山のおばちゃんとの掛け合いは有名で、二人が揃うと客足が伸びるほど。
いつだったか彩ちゃんも、森田さんには小話料金払うべきかも、といって笑っていたことがある。
賑やかな一日が終わり、店じまいが終わっても隣接する作業小屋からは、タザさんが電動ドリルを使う音がする。
最近のタザさんは仕事で作っているのか、趣味なのか曖昧な部分が多々あるが、楽しそうだからいいだろう。
彩ちゃんも珍しく、自分の部屋にすぐに引っ込んでしまったから、話し相手もいなさそうだ。
彩ちゃんに、今すぐ何かを聞こうとは思っていない。
今朝のタザさんの話では、めっきり怪我が少なくなったらしいから、内心ほっとしている。怪我が少なくなったというより、あちらの世界へ行く時間が短くなったのではないだろうか。
聞きたいことは幾つもあるけれど、今はその時じゃない。そう思う。
部屋に戻って一人になると、何だか無性に寂しくなった。
屁理屈を捏ねてでも、チビを連れてきたら良かったな、などと少しだけ思った。
でもチビはこちらの世界に、来ることができるのだろうか? 疑問だな。
布団の上に大の字に寝転がっていると、焦げ茶色の扉ががらがらと開けられた。
「よろしいかな?」
目を瞑っているのかと見間違えるほど細い眼の、野坊主が丁寧に頭を下げていた。
「どうぞ、ひとりで退屈していたところです。小花ちゃんは?」
「小花は遊び疲れて眠ってしまった」
クマさんココアを入れてあげられないのが、ちっとばかし残念だ。
「野坊主さん、黒い渋茶を淹れてきましょうか?」
「ぜひ」
厨房へコーヒーを淹れにいき、湯気の立ちのぼるコーヒーの入ったマグカップを持って部屋に戻る。野坊主は相変わらず律儀に正座したまま、焦げ茶色の小さな戸口を、みっちりその体で埋めたまま座っていた。
「どうぞ」
律儀に頭を下げ、野坊主は美味そうにコーヒーを啜った。
「鬼神に会いました。ぼくは、響子さんの忠告を無視して残欠の小径に行ったんです。実験は見事に失敗して、響子さんに叱られました」
ぼくは野坊主に、残欠の小径での出来事を話して聞かせた。
己の存在を、相手に認知させたこと。
その為には、自分を極限まで押し殺すこと。
出会った水月のこと。
そしてチビの不思議な力。
野坊主は最後まで口を挟むことなく、黙って細い眼の奥から真っ直ぐにぼくを見ていた。
そしてぽつりぽつりと語り出す。
記憶を選び、言葉を選ぶように噛みしめるような口調で。
「わたしは飽きが来るほど長く、この身を失うことなく存在してきた。その中で、和也殿に似た条件下にて能力の発する者を、幾度か見たことがある。禁忌と呼ばれる術を使う者達だった」
「似ていますか?」
渋い顔のまま野坊主は頷いた。
「似ている。己を極限まで抑えることによって、常人では使えぬ術を使う。だが違うのだと思う。両者は似て非なる。事の根本が違うのだよ」
目を閉じた野坊主の胸の内は解らない。ぼくは黙って、野坊主の次の言葉をまった。
「術者達は己の感情、雑念を払うことによって意識を集中させる。それによって己の外部にある術という形式を、己の言葉や体を通して体現させる。だが和也殿はそうではない。認知させるという言葉を使っておられたが、その認識が事をややこしくしておるのだよ」
「認識が間違っていると?」
野坊主はゆっくりと頷き、細い眼を見開く。
「和也殿が蓋をして押し込めているのは、人の子として生きてきた間に得た記憶。想いと感情は、大切な人々を喚起させるであろう? それを全て消したとして、後には何が残る?」
何が残るだろう。何も残りはしない。あるのはただの器。
「上手くいえないけれど、残る物があるとしたなら、それはただの器。ぼくという名の、空の器」
野坊主の眼が、力を込めてかっと見開かれた。
「今の和也殿の記憶を取り去った後に残るのが、空の器だというなら、その器に残るのはいったい何者であろうな」
野坊主の言葉を受けて、脳裏にちらつく答えがあった。
曖昧に、空の器という名称でごまかしてきたが、確かに存在するもの。
「空の器に残るのは、ただひとつ。和也殿、あちらの世界で生を受けた、人では無い本来の和也殿の存在。存在するはずの無い者を認知した者は、その存在を見失う。そうであろう? 正確にいうなら、存在しない者ではなく、存在が不安定な者というべきであろうな」
存在が不安定な者、たったひと言で語られるこの命の在り方に、胸がざわめく。
握りしめた拳の中爪を立てれば確かに痛い。
音が聞こえそうなほど、心臓が激しく打っている。
心だってちゃんとある。
涙だって流れるというのに、それでも人ではないというのだろうか。
ならばいったい、何を持って人は人と呼ばれるのだろう。
「和也殿は、感情や記憶を押し込めることで、人として成長した自分の全てに蓋をして、本来の自分が表に出ることを許したに過ぎない。能力ではないのだよ。本来の自分の存在を相手に見せつけた、それだけのことなのだよ。本来の和也殿を認知したなら、そこに存在を見失う。認知するとは、あるはずの無い者を、無いと確認するに等しい」
頬を流れるものが、涙だと気づくのに時間を要した。
「野坊主、ぼくは人でいたかったな。ただ普通に、人で在りたかったよ」
野坊主は応えない。
言葉をかけないことを誤魔化すかのように、野坊主がコーヒーを啜る音だけが、狭い部屋に響いていた。
今日も読んで下さった方、ありがとうございました
これ以上話を、ややこしくしないようにと思う今日この頃です。反省(_ _;)
では!