ぼくの体は蛇腹のリズムを刻んで、軽快に波打っている。
それに伴う痛みのせいで、もはや意識を失う自由さえ失った。
階段を肩から先に下るという荒行に身を任せているのは、耳を捻りながら握りつぶす響子さんが、その手を離すことなくずんずんと階段を下りているからだ。
知っているかい響子さん、階段落ちというのはたとえ作られた映画の中でも、訓練された本職の人がやるものだってこと……。
ドスン
鈍い音を立て豪奢な居間に、ぼくは俯せ大の字のまま放り投げられた。
「和也さん!」
驚いた声をあげ、駆け寄ってくる蓮華さんの足音が響く。
「まあ」
驚きを一瞬にして哀れみの色に塗り替えたのは、自分でもコントロールできない完全に裏返った白目のせいだろう。
「いったよな、数日はここに入ってくるなと」
はい、いいました。確かに聞きました。
「返事もなしか? 大きな変動が起きなかったからいいようなものの。ただの阿呆かと思っていたが、考えなしの阿呆か? おまえの阿呆加減は底なし沼間か!」
すみません。返事? したいですよ。でもね、今ぼくの口は辛うじて、何とか呼吸をするためにあるんです。生命維持のために存在しているんです。しゃべる余裕なんざありゃしません。
「響子様、生身の人間相手にやり過ぎです。確かに和也様も悪い所はありましたが、大人の対応ではありません。ふふ、少しは手加減を……ふふ、しないと」
笑ってる、蓮華さんまで笑っている。残欠の小径に残る、最後の良心であるはずの蓮華さんが。今完全に、ぼくは味方を失った。
「蓮華、そのまま放っておけ! 与太れ過ぎて、床を拭く雑巾にもなりゃしない!」
阿呆から雑巾見習いに格上げか。いや、格下げか?
ぴくりとも体を動かせないのは、響子さんに引きずり回された所為だけではない。原因ははっきりとしている。河原で鬼神に会ったとき、ぼくは自分の存在を奴に認知させた。
体中の毛穴から力が抜けていく感覚の、主な原因はそれだ。
体の芯が砕けたようになる。
直後に来る場合もあれば、今回のように時差をつけて襲う脱力。
ミャ
白い子猫の声がする。とうとう響子さんの家の中にまで入ったのか。
響子さんに追い出されなければいいけれど。
ミャ
カナさんの庭にいるシマとは違って、まだ幼さの残る小さな鳴き声。
頬をぺろりとされた感触が走る。
白い子猫が自分を舐めている感触だと気づくのに、少し時間がかかったくらい、ちょろっとだけ舐めたらしい。
犬が人の顔を舐めるのは知っているが、猫は舐めたりしないだろう、そんなことを思ってふっと笑った。
息を漏らす程度にだが、笑えた自分にはっとした。
開けた目に力を込めて焦点を合わせると、白い子猫が緑色した綺麗な目でぼくを見ていた。
警戒する気すらないのか、子猫はころりと仰向けになって、自分の手を舐め始める。
腕に力を込めて半身を起こしてみた。
全身が軋んだが、それは響子さんに引き摺られた後遺症にすぎない。
いわゆる、普通の傷と痛み。
消えていた。
存在を認識させた後に襲う、あの脱力感が体から完全に抜けている。
「ありえない」
呟いた。
「思ったより早く起き上がったな。どうした? そんな難しい顔をして」
放心とも困惑ともつかぬ表情で目を見開くぼくに、響子さんが歩み寄る。
「こんなこと、あるはずがないのに」
「何の話だ?」
ぼくは真っ直ぐに響子さんを見て、しゃがみ込んでぼくの顔を覗き込むその腕を強く握った。
「さっきまでの、ぼくの状態を見ていたでしょう? こうやって体を起こして普通に話せるなんて有り得ないんだ! 少なくともあと半日、下手をすれば丸一日はまともに話すことさへできないはずなのに。ぼくは今、こうして普通に話している」
ぼくの様子に異常を感じ取ったのか、響子さんは腕を掴むぼくの手をゆっくりと引き剥がし、僅かに目を細める。
「どういうことだ? 解るように説明しろ」
蓮華さんが肩を貸してくれたおかげで、ぼくは何とか倚子に辿り着くことができた。足はまだ震えを残している。それでも、自力でここまで歩けた異常。
「水月さんの小屋が建つ河原で、鬼神と会った」
響子さんは表情を変えずに頷いた。
「鬼神が姿を現したという噂は、すでに残欠の小径全体に広がっている。まさか、和也の元に現れていたとはな」
「鬼神は、ぼくを取り込むような愚行は犯さないといいました。ぼくを殺そうとした。だから逃げる隙を作るために、鬼神にぼくの存在を認知させたんです。一度目の認知で鬼神の目の前に迫り、その直後に水月さんの姿を見つけて、そこまで移動する隙を作るために再び鬼神に認知させた」
「認知?」
「はい。ぼく自身も上手くは説明できないけれど、自分の中で感情を喚起させるような記憶を全て封印し、今動いている目的だけを頭の隅に残しておく。その状態のぼくという存在を相手にぶつける……という感じかな」
「それでどうなる?」
「認知させられた相手は、ぼくを見失う。そこに隙が生まれる。ただそれだけのことです。でも他人に自分を認知させた後は、体力と気力の消耗が激しくて、それが直後に訪れるか、今回のように時差を持って訪れるかはわからないけれど、とにかく、身動きできないほど自分の中の何かを削がれる」
「なのに和也は動いている」
ぼくは強く頷いた。
「この体に残っているダメージは、響子さんに引き摺り回された擦過傷と打撲だけです。それだって、けっこうな傷手ですけどね」
肩を揺らして響子さんが笑う。
蓮華さんが温かい紅茶を持ってきてくれた。
一度嗅いだら忘れられない、ほっとする香りが立ちのぼる。
「和也さんは、その能力に前から気付いていたのですか?」
蓮華さんの問いに、ぼくは曖昧に首を傾げた。
「これが特殊なことだと気付いたのは、ここへ来ていろいろな人と会うようになってからだと思います。幼い頃は無意識に使っていました。結局は思いに反して母親の機嫌を損ねてしまいましたけれどね」
幼い頃は母親に構って欲しかった。自分を見て欲しかった。だからお母さんは自分を嫌いなのかな? という感情に蓋をして、満面の笑みで母親に近づいた。 そして直後に倒れていたのだから、まったく世話の焼ける子供だ。
母親にしてみれば、迷惑以外の何ものでもない。
薄気味悪いことしか言わない子供が、満面の笑みで近づいてきて、ほんの一瞬目眩を起こした瞬間に、子供が床の上に倒れているのだから。
あの頃は思いもしなかったが、ぼくが己の存在を母親に認知させるということは、母の子供であるという紛い物の皮さえぬいで、本来のぼくを晒すということ。 その存在は実の子を失った母の心の深部を、幾度も抉ったことだろう。
「ということは、得体の知れない能力であると薄々感じながら、意図的にそれを使ったのは最近ということになるな」
「彩ちゃんを助けにいって、響子さんが迎えに来てくれた日のことを覚えている?」
「ああ」
「あの日、鬼神の信望者だという二人の目を欺くために、初めて故意に能力を使った。彩ちゃんは、ちょっとだけその余波を受けちゃったけれど」
考え込むように目を閉じた、響子さんにつられてぼくも黙った。
壁時計の音だけがチクタクと響く中、蓮華がぼくの体に残る生傷を、丁寧に消毒してくれている。
白い子猫のチビは、同じ場所でまだころころと自分の手で遊んでいた。
「水月は知っているのか?」
響子さんが問う。
「話したよ。感情に蓋をしたぼくを見ているからね。その時のぼくを見て、水月さんは器のようだったと喩えていた。故意にやっているなら、あまり進めないともいっていた。たしかに、あの状態のぼくは、傍からみたら空っぽの器だから」
感情も思い出もない、入れるものを持たない空の器。
「この目で見ていない以上は何とも言えんが、体力と気力があそこまで削がれるなら、良いことではないのだろうよ。それにしても、急に元気になった原因はなんだ?」
「さあね。目星はついているけれど、確信がないから公表は保留」
生意気だ、といって響子さんのつま先がふくらはぎに食い込む。
「痛いっての!」
怪我の手当をする蓮華さんと怪我を増やす響子さん、迷コンビだな。
「もう歩けるな?、手当が終わったらさっさと帰れ」
「はいはい」
立ち上がった響子さんが、ふと立ち止まる。
「忘れるところだった。あの町で会った男と繋ぎが取れた。意識を保っている者を集めてくれるそうだ。日取りが決まり次第連絡する。それまでは、死んでもここへ来るんじゃないぞ」
響子さんに額を指で小突かれ、ぼくは大人しく頷いた。
「それとな、わたしは利口で立派な空っぽの器より、脆くて阿呆の欠片が山ほど詰まった器の方が、断然好きだ」
口の端でにやりと笑って、響子さんは階段へと向かう。
ぼくは少しだけ、心の中が泣きそうだった。
「ところで、この子猫は和也さんの猫ですか?」
いつもとは違う調子の蓮華さんの声に我に返る。
子猫に触れることなく、興味津々といった感じで眺めている蓮華さんは、まるで小さな女の子みたいだ。
「いえ、水月さんの所からついてきてしまっただけです。名前はチビ。自由に出歩く子猫らしいから、ぼくと一緒に外に出してやってください」
蓮華さんはこくこくと頷きながら、視線だけはチビに釘付けになっている。
触りたいけど触れない、どうしよう可愛い! そんな心の声が聞こえそうな表情をしていた。
響子さんと一緒に外に出ると、当たり前のような顔をしてチビもついてきた。
名残惜しそうな蓮華さんに手を振って、ぼく達は歩き出した。
蓮華さんが持たせてくれた、焼き菓子の入った袋から甘い香りがする。
考え事でもしているのか、どんどん歩いて行ってしまう響子さんの背中を眺めながら、短い足を全力で動かしながらぼくの横を歩くチビに目をやる。
「チビ、おまえだろう?」
響子さんに聞こえないように囁く。
「ぼくの頬を舐めて、何をしたんだい? ずいぶんと調子が良くなったけれど」
ほんの少しチビの白い毛がぶわりと逆立ったのを、ぼくは見逃さない。
「チビ、ありがとうな」
今度は目に見えて、毛が一気に逆立った。
短い足をピンと張り、一瞬硬直したチビはころころと逃げ出した。
「幻覚じゃなかったのか」
思わず口元がほころんだ。白くてまん丸い毛玉が、響子さんの背を追って転がっていく。いったいチビが何者なのかは謎のまま。
「可愛いからいいか」
危険なものへの警戒ランク付けが、明らかにずれてきたと自分でも思う。
ころころと転がっていたまん丸い毛玉が、ひょいと跳ね上がり子猫の姿に戻った。
響子さんが、草むらの横で立ち止まっている。
仁王立ちで腕を組み、草むらを睨み付ける響子さん。
チビはさっさとぼくの隣に逃げてきた。
「お前達だろう? クソ真面目な青年に、余計な事を吹き込んだのは」
草むらがごそりと動く。
「余計なことはいわないように、その口をがっちり縛っておくんだね!」
響子さんが歩き出す。
その後をチビも、ちょこちょことついていった。
「大事なのは商売だろう?」
小声でいって、蓮華さんに貰った焼き菓子を、ぼくは草むらに投げ込んだ。
袋を拾って遠ざかっていく気配がする。
響子さんが振り向く前に、何食わぬ顔でぼくは歩き出した。
あの焼き菓子は、ギョロ目への賄賂だ。
また次ぎも頼むぞ、響子さんの言葉は忘れろ、という賄賂。
ギョロ目の情報網はいつか必ず役に立つ。
ギョロ目は商売を一番に考えるだろう。金にならない脅しより、商売になる客の方がいいに決まっている。
たぶんね。
チビがころころと毛玉になって転がっている。
響子さんに見つからないように、元の姿に戻るタイミングは絶妙だ。
「シマと喧嘩にならなければいいな」
一人息を吐いて、ぼくは響子さんの背を追いかけ走った。
読んで下さった皆様、ありがとうございます。
次話も読んでもらえますように。
では!