彩ちゃんが店に戻った途端、露骨に客が増えだした。ネットに彩ちゃん戻りましたよ、なんて情報を流したわけでもないというのに、恐るべし地域のコミュニティー情報網。
これはこれでいい味よ、なんていいながらぼくの炒めたチャーハンを、三日に一度は食べてくれていた葉山のおばちゃんさえ、彩ちゃんお手製日替わり弁当にさっさと鞍替えという薄情さ。
シゲ爺がいない間も通ってくれていた常連客の間で、ぼくお手製のチャーハンは、この店の暗黒歴史として記憶の片隅に追い遣られたらしい。
「アルバイトの兄ちゃん! コーヒー、ホットでひとつ」
「俺はアイスでね。あ、アルバイトの兄ちゃん! ストローはいらないよ」
「はーい。ホットとアイスひとつずつね」
そうだ、ぼくにはコーヒーがあるじゃないか。
暗黒歴史と化したチャーハンと違い、コーヒーだけはみんな、ぼくが淹れたのが一番だといってくれる。
お湯を回しかけて蒸している間、挽いた豆にふつふつと浮かぶ茶色い泡から香るコーヒーの匂いがぼくは好きだ。
お湯の太さが変わらないように、外から内へ渦巻きを描きながら、ゆっくりと湯を注いでいく。それにしてもなぜ常連客はみんな、ぼくのことをアルバイトの兄ちゃん、と呼ぶのか。
「もう、アルバイトじゃないのよ。和也くんは社員になったんだから」
彩ちゃんがいうと、へぇえーっ、と呆れ混じりの溜息とも、地味な歓声とも聞こえる声が店の中に溢れた。
「社員の兄ちゃん! 駄目だよ彩ちゃん、これじゃ語呂が悪いって。やっぱアルバイトの兄ちゃんの方が呼びやすいよ」
「どっちでもいいけどね」
彩ちゃんのひと言とオヤジ殺しの笑顔で、ぼくの呼び名改善議論は即時打ち切りとなった。
別にどうでもいいけどね、呼び方なんてさ。
「コーヒーお待たせしました。どうぞ」
コーヒーの香りが満ちた店内に、タザさんの姿はない。
コの字のカウンターには左右に椅子が二脚ずつ、正面に四脚。その前に広がるちょっと狭めの店内には、丸テーブルが三つ置かれていて、それぞれに椅子が三脚ずつ備え付けられている。
今日はめずらしく丸テーブルの一つに、女子大生風な女の子が二人腰掛け、洋風日替わり定食を食べながら楽しそうに話していた。
タザさんが、店内から姿を消した理由はこれ。
理由は知らないが、若い女性が苦手なんだとか。葉山のおばちゃんクラスになると、全然平気らしい。あとは彩ちゃん。子供の頃から面倒をみてきたから、彩ちゃんは平気だといっていた。
「今日は和也くんの引っ越しがあるから、三時にはお店閉めちゃうからね」
彩ちゃんの早く帰れ的な号令にも、店内の客は気分を害した風もなく、のんびりした返事がばらばらと返ってくる。
いい忘れたことがある、と彩ちゃんがいってきたのは、社員になれという命令が下った日の夕方。
社員になるなら、この家に住んで欲しいといわれた。個室もあるし家賃は破格に安い。
家を追い出されてからひと月、友人のアパートを転々としていたぼくにとって、これ以上の申し出はなかった。
そして今日がその引っ越しの日。とはいっても、荷物はスポーツバックひとつだから、店を閉める必要などないとぼくはいった。
でも彩ちゃんは、今日はゆっくりしたほうがいいといって、店を閉めることを断行したのだ。
洗い物をほぼ終わらせて、客から見えない部分の閉店作業をしていると、奥の居間からタザさんがこっそり顔をのぞかせた。
「帰ったか?」
小声で聞いてくるタザさんに頷くと、ほっとしたように息を吐き、サンダルをつっかけて厨房の中に入ってくる。
「おしゃべりしながらご飯食べてるだけの、ふつうの女の子だったのに。あれも駄目?」
「別に駄目じゃない。存在そのものが苦手なだけだ」
ボデーガード顔負けの、筋肉保持者の言葉とは思えない。
「あと十分で閉店だよー」
店内に常連のオッサン連中しかいなくなったのを良いことに、彩ちゃんが本腰を入れて追い出し作戦に打ってでる。
飲み終わったカップは下げられ、お冷やのお代わりもなしとは鬼の所業なり。
「ひでーな彩ちゃん、こんな店、もう来ねーよー!」
「来なくてけっこうですよ。今度来たら、罰としておかず一品抜いてやるんだからね!」
顎をくいっと上げて言い放つと、彩ちゃんは舌をぺろりとだし、人差し指で白いキャミの紐を浮かせてパチンと弾く。
ゴミの日のゴミ袋並みの勢いで店から追い出された客達が、笑顔で手をふり帰っていく。
明日になったら、性懲りなくまた飯を食いにやってく来るのだろう。
一人で生きている人間が街灯に引き寄せられる虫のように、わらわらと集まって来るのがこの店だ。
クローズの飾り板を戸口にかけて、彩ちゃんがカウンターの中に戻ってきた。
「さてと、取りあえず奥の居住スペースの説明ね」
さっさと靴を脱いで奥へと入っていく彩ちゃんを追いかけ、ちらりとタザさんの方をみる。
ばっちり目があったから、後で飯でも、といおうとしたのに視線をずらされた。 完全にわざとずらしたね、タザさん。
ぼくが口を開きかけると、話しかけられるのを避けるかのように、タザさんは工具箱に頭を突っ込んだ。
タザさんがこの行動を取るときは、隠し事があると決まっている。風貌に似合わず、嘘を吐くのが下手なタザさん。かわいそうだから、ここで突っ込みを入れるのはやめておこう。
湧き上がる小さな不安をかき消すように、ぼくはわしゃわしゃと頭をかいた。
「和也くんこっちこっち。これが二階にある和也君の部屋に続く階段式ハシゴだよ」
彩ちゃんが指さした先には、天井に空いた四角い穴からするすると伸びた折りたたみのハシゴがあった。テーブルと椅子だけが置かれた居間にはなんの飾り気もなく、奥の壁の半分を占めるほど大きな本棚だけが、人が住んでいるのだと感じさせてくれる家具だった。
「あっちはわたし、あれはタザさんの部屋、その横はシゲ爺の部屋に繋がるハシゴなの」
「一部屋にハシゴがひとつずつ? 二階は完全に部屋が別れているってこと?」
「まあ完全とはいかないんだけど、一応ね。用があるときは、それぞれにぶら下がっている、この紐を引っ張ってね。中でノックしたみたいな音が聞こえるようになっているから」
何がしたくてこんな造りにしたのだろう。まあ、プライベートが完全に守られているのは悪くないか。
ハシゴを登ると現れたのは、四畳半のこぢんまりした部屋だった。大きめの窓が二つもあって、狭い部屋にしては、閉塞感はまるでなかった。ただひとつ変わっているのは、部屋の四隅の一角が角になっていないこと。窓から見える景色をもとに建物の構造を考えると、おそらく建物の中心側にある部屋の隅だ。正確には、角に当たる部分から、部屋の中に向かって五十センチほど内側に、細長く壁が張り出ている感じ。そしてその壁もどきには、焦げ茶色の戸がついていた。
へこみを付けただけの取ってから考えて、どうやら上下に開閉する戸のようだった。
「彩ちゃん、これって小さな押し入れみたいなものかな?」
「その向こう側は使えないの。別の人っていうか、間借り人の……部屋だから」
珍しくちょっとだけ困り顔の彩ちゃんは、落ちつきなくキャミの裾を指で引っ張っている。
「ぼく達以外にも、入居者がいるってこと?」
ここに来て二年以上になるが、そんな人など見たことがなかった。ここに住んでいるのに一度も店に顔を出さないなんて、そんなことありえるのだろうか。
「入居者っていうか、間借りしてる人って感じかな。居たり居なかったりだから、めったなことでは会わないし、少しだけ変わり者だから挨拶の必要もないよ。いや、けっこう居たり、わりと居たりかも」
「え? どっち?」
「気にしないで! のんびり行こうよニューライフってね」
アーモンド型の大きな目でぼくが覗き込み、わざとらしく口を開きかけると、彩ちゃんはあからさまに視線をそらした。
幼い頃から面倒をみて貰ったというだけで、仕草がこうまで似るとは驚きだ。見た目だけなら可愛らしい彩ちゃんの顔に、厳ついタザさんが被って見えるぞ。
「彩ちゃん、正直過ぎると生きづらいだろ、このご時世」
「何かいった?」
くるりと振り向いた笑顔は、騙しきったという安心と自信に満ちあふれている。
騙し切れていないよ、彩ちゃん。
「何でもない。とにかく、部屋を貸してくれてありがとう」
肩をちょこっと竦めて微笑む彩ちゃんは、何かを思い出したようにガッツポーズをした。
「今日の夜はちょっとした宴会だよ。わたしの手料理と、タザさんお得意のカクテルパーティーだから、楽しみにしていてね」
そういうことか。
もしかしたら、挙動不審なタザさんの隠したかったことは、これかもしれないな。
彩ちゃんがハシゴを下りて姿を消すとぼくは窓を開けた。どうやら店の向かいの道に面している部屋のようで、見慣れた商店街が左右に広がり、路上は夕暮れ時の活気に溢れている。
公共の交通手段を使えば、都会と呼べる場所にあっという間に行けるというのに、この町の住人は頑ななまでに自分の町を愛している。だから、こんな商店街が潰れることなく続いている。
新鮮な空気が流れ込む四畳半の部屋の中、ぼくの視線はどうしたって、焦げ茶色の戸に吸い寄せられる。間借りしている人が居るということは、おそらく戸の向こう側は部屋になっているのだろうが、四方を別の部屋に囲まれているのだから、ここよりはるかに狭いのではないだろうか。外光は、天窓からでも取っているのだろうか。
「鍵が付いていないけど、大丈夫かな。それに出入り口としては小さいよな。正座した大人の頭くらいまでの高さしかないなんて」
数着の服をカラーボックスに詰め込むと、バックの中は空になった。
ひと息吐くと同時に、ここ最近胸を占めるもやもやが鎌首をもたげる。
「親を殺されたって本当? なんて、聞けるわけないよな」
二年以上を共に過ごしてきたタザさんにさへ、聞けずにいることは山のようにある。
ここへ来る前はどんな仕事をしてきたのか、家族はいるのか、彩やシゲ爺との関係も。
立ち入らない方がいいと思ったから、敢えて聞こうとも思わなかったけれど、同じ屋根の下に住むとなると、何だか気になって仕方ない。
「親しき仲にも礼儀あり、だよな」
ぼんやりと考え事をしているうちに、すっかり日も暮れた。宴会のことを思い出したぼくは、窓を閉めてみんなのいる居間へと下りることにした。
「うわ、すごいご馳走だね」
食欲をそそる料理の匂いに、思わず腹がぐぅっと鳴る。
「今日は和也くんの入居と入社祝いなんだから、お腹いっぱい食べてね」
中華風炒め物にちらし寿司。一口ハンバーグは、濃厚なデミグラスソースの中にひたひたに浸かっている。海鮮サラダなんて、いったい何年ぶりだろう。短大に入って実家を離れてからは、一度も口にした記憶がない。
「いただきます!」
勢い良く料理に箸を伸ばそうとしたぼくは、斜め向かいで今だ手を合わせ、食前の祈りを捧げるタザさんの姿に慌てて箸を置いた。
そして、再度の合掌。
タザさんに倣って、彩ちゃんも静かに手を合わせているから、まさかぼくだけ腹の虫に任せて食べ出すわけにもいかない。
薄目を開いていたぼくは、ようやっと目を開け箸を手にしたタザさんを見て、ほっと手を下ろした。
「いただきます!」
仕切り直して箸を持つ。タザさんいわく、毎日こうして美味しいご飯を食べられるのは人生の奇跡なんだとか。だから食前のお祈りはいつも長い。いったいどんな半生を送ってきたのやら。いい意味で、得体の知れない人であることは間違いない。
最初のお祈りをぬかせば、あとは楽しい普通の宴会だった。
タザさんが作るカクテルは、ほろ甘い最高の味で、本人が飲む量も半端じゃない。
白いキャミを着た彩ちゃんは、いつにもまして良くしゃべった。それに相づちを打つタザさんと、突っ込みをいれるぼく。
オーブンで焼き上がったばかりのグラタンを持って、厨房から彩ちゃんが戻ってきた。
「たまらないね、溶けてふつふつと泡立つチーズって最高!」
一番乗りでチーズたっぷりのど真ん中をいただこうと、握りしめて伸ばしたスプーンを持つ手が止まる。
熱々のグラタン皿をテーブルに置いて、床に落とした鍋つかみを拾おうとした彩ちゃんの白いキャミが、伸ばした手に引っ張られて僅かに上がる。思わず目に入ってしまった白い肌に、ちょっとだけにやけたぼくの表情が固まった。
見られたことなど気付かずに、彩ちゃんは厨房に戻っていく。
ウエスト辺りの白い肌に見えたのは、赤く浮き上がる真新し傷跡だった。
ぼくは大きく息を整え、戻ってきた彩ちゃんににっこりと笑ってみせる。
「すっげー美味いよ、これ」
あわてて口に突っ込んだグラタンが熱くて、少しだけ涙が出そうになった。
そんなぼくを見て彩ちゃんが笑っている。
今はこれでいい。何か辛いことがあるなら、笑ってくれたらそれでいいや。
酒が進むにつれ、それぞれがトイレにいく回数も多くなる。
タザさんがスペシャルだといって作ってくれた、生のオレンジを使った果汁100%のカクテルは最高で、我が儘をいって二杯目のお代わりをしたところ、タザさんと彩ちゃんが同時にトイレに行こうと席を立った。
いつもなら当たり前に彩ちゃんに譲るはずのタザさんが、酒の勢いもあってか、にやりと笑いトイレに向かってダッシュした。
「ずるい! レディーファーストでしょ!」
彩ちゃんも負けじと後を追う。
「二人とも子供かよ」
笑いながら立ち上がったぼくも、立った途端に急に酔いが回ったのか、足がよろけて壁に手を着いた。だが手を着いたのは壁ではなく、シゲ爺の蔵書を詰め込んだ、壁の半分以上を占める大きさの本棚。
「おっとっと!」
天井まである本棚が支えになって、体勢を立て直せるはずだったぼくの体は、予想外の感触に完全にバランスを失った。
足元よりはるか前方に傾いだ上半身を支えようとする右手に押されて、本棚が中央から外側へとずれていく。
――スライド式?
通販で見た左右に開いて、その奥にはさらに本を収納できるスペースがあるという、お洒落な商品を思い出す。
支えきれない勢いにでんぐり返ったぼくは、引っ繰り返ったまま本棚を見上げた。
部屋の外から、まだトイレの順番を争っている二人の声がする。
これからはしばらく在り続けるであろう、当たり前のぼくの日常。
そして不意に訪れたのは、日常とはかけ離れた光景。
「本棚の後ろに、格子戸の障子?」
半分開かれた状態の本棚の奥には、想像していたような二重の本棚など姿もなく、代わりに見えているのは、木の格子に張られた障子から漏れる、淡い光。
それはまるで、朱色に染まる寸での夕暮れを思わせる、光の淡さだった。
酔っているのだと感情で騙そうとしても、とても人工的に照らされるとは思えないその光が、ぼくの神経をちりちりと撫でる。
格子へと、手が伸びるのを止められない。
「止めた方がいい……」
思わず漏れた言葉は自分に言い聞かせる為なのか、ただの独り言なのか。
木の格子に、指先が触れる。
誰かの個室だったらどうする、という理性の囁きは、少し飲み過ぎた酒に溶けて消えた。
「和也くん!」
すごく遠くから、彩ちゃんに呼ばれた気がした。
欠片ほど残っていた、現実と自分を繋ぎ止める細い糸が切れたのはその直後。
「彩……彩だね」
格子の向こう側から、さざ波にたゆたうような女性の声がする。
僅かに力を込めた指先より早く、すいと格子が開けられた。
だらりと落とされたように、その隙間から細く白い手がのぞく。その手を半分隠すように、とび色をした着物の袖が見えた。
「和也くん!」
彩ちゃんが、どこかで呼んでいる。
力が抜けて床に落ちたぼくの指が、格子からのぞく白い指先に僅かに触れた。
夕暮れに似た朱の色に、ぼくは視界を奪われ意識を失った。
最後に格子戸の隙間から垣間見えたのは、灰色がかった薄ら青い空の下、サワサワと葉を揺らす木々と、舞散る一枚の枯れ葉だった。
(改)が付いたものは、全て見つけてしまった誤字脱字直しです。
間違うなよっ……この一言につきますね。すみません
お話をかえることはないです。
また読みに来ていただけることを祈りつつ……(#^.^#)