キャミにナイフ   作:紅野生成

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16 辻が上に在る庭と存在

 翌朝になって格子戸を開け、彩ちゃんがにっこりと戻ってきた。

 どこまで足を伸ばしたかは知らないが、珍しく体に傷はなくキャミも土埃に汚れた様子はない

 

「お帰り彩ちゃん。トーストがもう少しで焼き上がるよ」

 

「やったー! お腹ぺこぺこー!」

 

 音を立てて自分の腹を叩く彩ちゃんの仕草にふっと笑い、部屋へ上がっていくその背中を見送りながら、昨夜の野坊主との会話を思い返す。

 彩ちゃんに欠けている感情。そんなものは思い当たらないし、見ている限り同年代の女の子と比べても、感情表現は豊かな方だと思う。

 良く笑い、ぷっくりと膨れてみせてはまたすぐ笑う。

 他人の事を思いやる半分でもいいから、自分の体や心を気遣ってくれたらと思うほどだ。

 

「ただの明るい女の子なのにな」

 

 答えの見えない疑問を頭から払い、ぼくはトーストに齧り付く。

 今朝は彩ちゃんがいなかったこともあって、食パンとコーヒーはぼくの係、タザさんは皿の上にでんとのせられた目玉焼きとサラダ担当。

 

「こりゃ人生で初めて見る千切りだな」

 

 ちょっと太いキャベツの千切りなんて表現は甘い。後ほんの少し太く切られていたなら、ノートに挟む付箋として十分に役立ちそうだ。

 そんなことを思いながら、箸の先でキャベツの千切りをつまみ上げて眺めていると、どしっと床を揺らす勢いで、タザさんが向かいの椅子に座り、丁寧に合掌してこれまた丁寧にお祈りをして、ようやっと朝食に箸を付けた。

 太すぎる千切りに何の違和感もないのか、もくもくと食べている。まあね、切ったのはタザさんだし、文句のいいようもないか。

 

「タザさん、器用なのにどうしてキャベツの千切りだけブキッチョなわけ?」

 

「全部均一な太さに切れているぞ?」

 

 いわれてみれば、確かに太さにムラがない。同じ太さに揃えられ、山盛りにされた緑色の山。

 

「さすがに、ちょっと太いかなって」

 

 ぼくのクレームの真意がまったくわからないかのように、タザさんが首を傾げる。

 

「細すぎる千切りなんざ、糸くず食ってるみたいでよ。このくらい太い方が、噛みでがあるってもんだろうに」

 

 満足そうに咀嚼を続けるタザさんに、それ以上の突っ込み所を見失ったぼくは、お陰様で丈夫な臼歯に全力で力を込め、浴びせ掛けたドレッシングと共にキャベツを口に放り込んだ。

 

「おっと、久々だね-。タザさんお手製サラダ、キャベツの千切り革命登場!」

 

 噛み切れないキャベツを口に突っ込んだまま、唖然とするぼくを気にする様子もなく、お祈りを済ませた彩ちゃんは、美味しそうにキャベツを口へと運んでいる。

 

「あー坊、いいネーミングじゃねぇか。キャベツの千切り革命! 気に入った!」

 

 ドヤ顔で上目遣いにこっちを見るタザさんに、ハムスターみたく膨らんだ頬のまま、にっと笑って見せる。

 ものはいいようだ。キャベツの千切り革命ときたか。

 彩ちゃん、侮るべからず。

 タザさんは彩ちゃんの話に相づちを打つだけで、黙々と朝食を食べ続けている。

 食事に夢中で反応の悪いタザさんの態度を微塵も気にせずに、彩ちゃんは今日店で出す予定の日替わり弁当のおかずのことを、楽しそうに語っていた。

 頬張りすぎて噎せ返ったタザさんに呆れた目を向けながら、しかめっ面で背中を叩いてやる彩ちゃん。

 深煎り豆で淹れた苦いコーヒーに、思わず舌をだして顔を顰める彩ちゃん。

 どれもみなぼくが知っている彩ちゃんで、大好きな同居人でかわいらしい雇い主。

 彩ちゃんみたいに開けっぴろげに色んなことを受け入れて、それでも笑える強さのある人になりたいと思ったことこそあるが、容姿にも心にも欠けている部分があるなど、思ったことはない。

 それでもつい見てしまう。

 考えてしまう。

 見慣れた彩ちゃんの様子に、野坊主の言葉の意味が隠れていやしないかと、探してしまう。

 

「ぼーっとしていると、お店が開いちゃうぞ!」

 

 彩ちゃんにいわれて、慌てて残りのキャベツを口に放り込む。

 噛みきれないキャベツに悪銭苦闘しながら、ぼくはひとり苦笑いする。 自分の出生すら答えを得られていないのに、他人の心配か、と。

 役に立たない小僧が粋がるなと、声なく自分を戒めた。

 

 

 店は相変わらずの繁盛ぶりで、彩ちゃん目当てのおっさん客でごった返している。

 ぼくが作った新メニューはことごとく裏メニュー化して、時折面白半分とからかい半分で頼む常連客がいる程度。

 この間作り出した、スパゲティーに薄めたカレールーをぶっかけて、目玉焼きとミニハンバーグをのせるという豪華な発案も、カレーうどんの方が旨いというひと言で、日の目を見ることはなくなった。

 タザさんはというと、相変わらず預かった赤ちゃんを負んぶしながら、店の隅で売り出している小物造りに精を出ている。 し

 こちらもぞくぞくと新作を送り出しているが、ぼくと違ってすこぶる評判がよろしいのがちと不満だったりする。

 店の常連客達に、バイトの兄ちゃんと呼ばれるのにもすっかり馴れた。

 客相手に冗談だっていえる程度に、他人と話せるようになったのは自分でも上出来だと思う。

 今この時を気に入っている。

 みんなに囲まれて働く、この空間が好きだ。

 いつか調理師免許を取得して、裏メニューという暗黒にぼくのアイデアを遠慮なくぶち込む常連客達に、旨い! と一泡吹かせてやるのが密かな夢だったりする。

 最後の客が帰っていった。

 

「閉店だね! 後片付けもそんなにないから、先に上がっていいよ。」

 

 彩ちゃんの言葉に甘えて、先に居間へと引っ込んだ。

 労働の後の心地よい疲労感が全身を包む。

 毎日コーヒーの香り漂う中で、何気ない日常をくり返していけるならどんなにいいだろう。

 

「普通に暮らしたいだけなのに、けっこう難しいもんだ」

 

 この先の日々を普通に暮らすためには、今を普通に過ごすことをぼくは許されないだろう。

 部屋に戻ったぼくは、秘蔵の酒を手に居間へと戻る。

 タザさんは頼まれた水漏れを直しに出かけていて、店のキッチンからは彩ちゃんが皿を洗う音が小気味よく響いている。

 

「落ちてやるさ。この生活を本当に手に入れるためなら、どん底にまで落ちてやる」

 

 酒を手にぼくは格子戸に手をかける。

 淡い光が漏れる格子戸は、軋むことなくするりと開いた。とび色の着物の袖から白い指先が覗く。

 

「カナさん、お酒を持ってきました。少しだけ、ご一緒してもいいですか?」

 

 切れ長な澄んだ目でぼくを見上げたカナさんは、口元に淡い笑みを浮かべて小さく頷いた。

 日が暮れることのない庭で、ぼくはカナさんの隣にゆっくりと腰をおろした。

 

「今日は残欠の小径へは行かれないのですね」

 

 カナさんの頬にかかる僅かな髪を、通り抜けた風が揺らす。

 

「はい。今日はカナさんに会いにきました」

 

「おや、それは珍しいこと」

 

 着物の袖で薄く紅を引いた口元を隠し、カナさんがくすくすと笑った。

 

「ゆっくりと酒を飲む相手が欲しかったから。それだけです」

 

「嘘が下手ですねぇ」

 

 俯いてぼくは唇を結ぶ。

 

「でもわたしは好きなんですよ。昔から、嘘を吐くのが下手な御仁が」

 

 ぼくの浮かべた笑みがほっとしたものだったからか、カナさんはもう一度だけくすりと笑った。

 庭の木々の葉が風に時折揺れるだけで、音ひとつない庭だった。

 前にこの廊下に座ったときには、騒がしい人がそろっていたから、この庭の静寂を感じることはなかったのだろう。

 

「静かですね。寂しくありませんか? 長い時間をひとりここで過ごされるのは」

 

 カナさんが、頬にかかる髪を指先でそっと払う。

 

「寂しいと思う時代はとうに過ぎてしまいました。良いこととは申しませんが、馴れるというのもまた、人の心が持つ防衛本能なのでしょうね。少なくとも、ずっと傷つき続けることはなくてすみます。それに、わたしはひとりではありませんよ?前にも申しましたが、ここに共に住む者も居りますし、季節ごとに訪れてくれる古き馴染みも居りますから」

 

 良かった。カナさんがこの静寂の中、一人きりで過ごす時間を想像しなくてすむ。

 寂しくないなら、本当に嬉しい。

 深く関わりをもってきたかといわれれば、きわめて付き合いは浅いといえるだろう。言葉を交わしたことさえ数える程度。だとしても、この女性を気にかけるには十分だった。

 ともすれば影さえ風に飛ばされそうな儚さと、とび色の着物に包まれた体に潜む静かな信念を感じさせる人、それがぼくの思うカナさんだ。

 

「陽炎、お客様に何か酒のつまみになるようなものを。盃も持ってきておくれよ」

 

 カナさんの言葉に返事はなかったが、カナさんの屋敷の部屋へと繋がるふすまの向こうで、人の動く気配がした。

 

「ようえんさん……とは女性ですか?」

 

「はい、夏の間だけわたしの屋敷を訪れてくれる者でございます。古き馴染みでございますから、お気がねなさいませんように」

 

 それほど時を空けることなくふすまが開かれ、着物姿の女性が姿をみせた。

 軋む廊下に素足ですっと足を進めた女性の髪は漆のように黒く、後ろで二段に分けて紐で結い止められている。歳の頃は、十七、八といったところか。

 白地に藍色で染め抜いた牡丹が、着物の裾と共に揺れている。

 控えめな様子で顔を伏せているが、それでも十分に魅力的な女性だと思った。

 陽炎は盃を置いて、小鉢に盛った酒の肴を静かに並べていく。

 

「和也さんですね。お話はいつも伺っております。陽炎と申します。よろしくお願いいたします」

 

 膝を揃えて正座し、三つ指をついて頭を下げる陽炎の姿に、ぼくも慌てて居住まいを正す。

 

「よろしくお願いします。それと、ご馳走になります」

 

 その言葉に陽炎は嬉しそうに口元を綻ばせた。一緒に飲むとばかり思っていたのに、盆を手にそのままふすまの向こうに姿を消してしまった。

 

「人見知りなのでしょう。いい子なのですよ。馴れたらそのうち、共に盃を交わす日もきますでしょう」

 

「はい」

 

 小鉢に盛られたのはこんにゃくの白和えという物らしい。初めて口にしたが、とても美味しくて、やさしい味がした。

 庭を通り過ぎる風の跡を眺めながら酒を舐め、言葉を交わすことなく時が過ぎていく。

 こんなにのんびりと過ごすつもりで訪れた訳ではなかったが、こうしていると庭の揺れる葉を眺めに来たのではないかとさえ思えてくる。

 このまま目を閉じて壁に寄りかかっているだけで、十分に得られたものがある気がした。

 

「おや、やっと匂いを嗅ぎつけたのかい?」

 

 カナさんの声に目を開けると、いつの間に用意されたのか小皿にのせられた目刺しがあった。

 細い指が皿を引き、廊下の縁に寄せられる。

 

 ミャアー

 

 姿を現したのは灰色の毛を持つ猫で、目の開かない子猫とはいかないが、大人というには小さい猫だった。

 

「シマ、おまえの分だよ」

 

 カナさんの言葉を無視して、シマと呼ばれた猫はじっとぼくを見ている。猫相手だというのに、まるでこちらが値踏みされている気分だった。

 ふいっと視線をそらした猫は、小皿の上の目刺しを咥え振り返ることもなく庭の奥の草陰に姿を消した。

 

「何だか、あの猫にじっと見られました。おまえはカナさんと口をきくのにふさわしい人物かと問われているようで、猫だというのに汗が出そうになりました」

 

 ぼくの本心だった。それを聞いたカナさんは、楽しそうに声を立てる。

 

「たぶんその通りだと思いますよ。あの猫は、気に入らない者の側には魚で釣られようと決して近寄りませんし、ここを訪れる者を、ある意味で選り好みいたしますから」

 

「ぼくは合格でしょうか?」

 

「まだ審議中、というところでしょうか」

 

 くすくすと笑うカナさんの横で息を吐く。猫にまで小馬鹿にされるようでは、お終いだ。

 

「ぼくがここにいて、残欠の小径に影響を及ぼすようなことはありませんか?」

 

 残欠の小径に足を踏み入れるわけではないからと思っていたが、庭の奥に続く道の先に残欠の小径があると思うと、不意に不安が胸を過ぎった。

 

「大丈夫でございましょう。この庭もわたしの屋敷も、今では残欠の小径と繋がっておりますが、見たままとは違い、ある意味独立した空間でございますから」

 

 ほっとして、残っていた酒を一気に飲み干した。

 

「ここはいったい、どのような場所なのです?」

 

「ひと言でいうのは難しゅうございますが、敢えていうならここは辻の上に存在する庭であり、屋敷なのですよ。あらゆる道が交わる辻であるが故に、この世に存在する者であるなら、いかなる者もここを訪れる可能性があるのです」

 

「いかなる者も……ですか?」

 

「はい。悪しき者も、澄んだ者も己の存在を見失った者さえ訪れます。遠い昔には、本当に多くの者達が訪れたものです」

 

「今はどうなのです?」

 

「己の存在に迷う者が少なくなったのでしょう。訪れる者はさして多くありません。いいかえれば、己の中に曲げられぬ何かを持つ者が減ったということ。求めるものがないのなら、彷徨うこともないのですよ」

 

 理解しづらい話ではあったが、これ以上問うのはよそう。

 多くを求めすぎると、庭で遊ぶ風にさえ逃げられそうだ。

 

「本当は話したいことがたくさんあって、教えて貰いたいこともあったのに、何だかどうでもよくなりました。今だけは、どうでもいいことにしようって」

 

「お酒と庭があれば十分という時も、たまにはございます」

 

「また、ここへ来てもいいですか?」

 

「いつでもお越し下さい。求めるものが見つかるまで、わたしが宵酒の相手をいたしましょう」

 

 盃を片手に、静かにカナさんが目を閉じる。

 その横顔に、ぼくは静かに頭を下げた。

 胸のつかえを庭を通る風がついでに攫っていった、そう思える一時だった。

 




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