大浴場に「ぽい~」と気の抜けそうな溜め息がこぼれる。
「やっぱり出撃の後のお風呂は最高っぽい~」
色白の頬を桃色に染めながら、夕立は湯船に深々と浸かる。
見事に整ったスポーティーな裸体には、出撃によって負ったらしき軽傷がいくつかあったが、それが見る見るうちに治っていく。
特殊な配合で作られた大浴場の湯は、艦娘たちにとっての修復剤である。
大型の艦だと時間はかかるが、小型艦である駆逐艦の傷ならば、ものの数分で回復する。
もちろん傷だけでなく、心の疲れも癒す、通常の温泉としての役割も果たしている。
夕立はいまにも蕩けていきそうな顔で、湯の心地よさを堪能していた。
「ぽい~。こうしていると普段かかえている悩みとかも、どうでもよくなっちゃうっぽい。ね? 浜風ちゃん♪」
言うほど悩みとは縁のなさそうな天真爛漫な笑顔の先には、仏頂面で湯船に浸かる浜風がいた。
「はあ、そうですね。確かに、お風呂は、いいものです」
素っ気なく返答する浜風。
なんとも反応に困る、壁を感じさせる物言いだ。
場合によっては、その愛想のない態度に腹を立てる者もいるかもしれないが、以前から浜風の気性を知っている夕立は、特に気分を害した様子はない。
基本的に夕立は、提督を含めた艦隊の仲間たち全員には、友好的なのである。
「うんうん♪ お風呂は心のオアシスっぽい~♪」
夕立はますます機嫌良さげにパシャパシャと足をバタつかせたり、両手で水鉄砲を飛ばして「きゃっきゃっ」とはしゃぐ。
その様子は、歳相応の子どもというよりは、ワンコそのものである。
対して浜風は変わらず静けさをたもちながら、微動せずに湯船に浸かっている。
同じ駆逐艦でも、その落ち着きぶりは実に対照的。
第三者が見れば「やはり浜風は大人だ」と納得するような光景だった。
しかし実のところ、浜風の現在の心中は……
(き、気まずい。なにを話したら良いか、全然わからない!)
苦手意識のある夕立と二人きりになったことで、かなりテンパっていた。
戦闘、執務、果ては料理まで、あらゆる方面で優秀ぶりを発揮する浜風。
そんな彼女が唯一苦手とするもの。
ずばり、コミュニケーションである。
気心知れた姉妹や戦友たちならば、遠慮のないやり取りをすることはできる。
しかし、こと尊敬する提督や、普段触れ合わない艦娘が相手となると、途端に言葉が出てこなくなる。
浜風としては誰に対しても穏便な会話を試みたいと思っている。
が、相手を意識すれば意識するほど、本心とは真逆の言葉や態度が出てしまうその悪癖は、知る人ぞ知る、浜風の最大の弱点だ。
俗に言う、『コミュ障』というやつである。
二人きりなのが気まずいのならば、颯爽とお風呂から上がればいい話だ。
しかし、相手が入ってきたばかりで湯船から出るようなことをしたら「あなたと入りたくない」と無言で言っているようなものだ。
実に無礼なことだ。
真面目な浜風は、いかなるときも礼を尽くさないと、気が済まない。
なので、先ほどから浜風は、失礼に当たらないよう、出るタイミングを見計らっているところだった。
そう、こういうのはタイミングが大事である。
一般的には、当たり障りない世間話をしつつ、時間の流れを忘れさせたところで「すみません、のぼせてきたのでお先に失礼します」とひと言、断りを入れるのがマナーだ。
唐突な感じではなく、あくまで自然な流れに見せるのがポイントだ。
脳内でそう完璧なプランを立てている浜風であったが……しかし、その肝心な当たり障りない世間話が浮かばないのであった。
そもそも十七駆のメンバー以外と、ろくに会話らしきものをしたことがない浜風にとっては、世間話をすることすら難題であったわけだが。
まったくもって、重症である。
「あ、そうだ浜風ちゃん。せっかくだから背中流してあげる!」
浜風の困惑も露知らず、夕立は好意的な笑顔でそんなことを提案してきた。
浜風は、不意打ちを食らったようにビクンと背筋を張る。
「え? い、いえ結構です。そんな悪いですよ」
「遠慮しない! 夕立洗うの上手だから任せてっぽい!」
「いや、ですから夕立さ……って、チカラつよっ!」
強引に手を引っ張られ、成すがまま夕立に背中を洗われることになった。
「わぁ、浜風ちゃん! やっぱりお肌真っ白できれい~! 新鮮なミルクっぽ~い」
「は、はあ、ど、どうも……」
夕立さんのお肌も真っ白できれいですよ、と返そうと思ったが、そんな簡単な褒め言葉も出てこなかった。
姉妹以外の艦娘に背中を洗われるという慣れないシチュエーションに、浜風の緊張度はさらに高まっていく。
一方、夕立はますますテンションを上げながら、楽しげに浜風の早熟な裸体に泡を塗りたくっていく。
「ぽい~!?」
「っ! ど、どうされましたか夕立さん? いきなり叫んだりして」
「間近で見ると浜風ちゃん……おっぱい、本当におっきいね!」
「はい?」
「背中越しでも脇から見えるなんて凄いっぽい~!」
「ゆ、夕立さん? あ、あのっ、そこは自分で洗えますから……ちょっ、も、揉まないでください!」
浜風が夕立を苦手とする要因のひとつが、この遠慮のないスキンシップだった。
どんな相手とも難なく打ち解けられる夕立は、とにかく距離感の詰め方が急である。
一度、心を許した相手に甘えるそのさまは、まさに子犬のごとく。
それに対して浜風は、警戒心の強い、繊細な猫といったところだろうか。
決して嫌っているわけではないが、デリケートな部分まで踏み込められると、どう対応していいものかと、慌てふためいてしまう。
なので、たとえ同じ女性でも、丸裸の乳房を素手に触られるのは勘弁願いたかった。
「うわぁ! ふわふわなのに指を押し返してくるっぽい! 柔らかいっぽい! もちちもっぽい! 夕立の手じゃ収まりきらないっぽい!」
「あっ、ちょっと、ダメ、ですっ、そんなに、強く掴んじゃ……あっ! 先っぽも、そんなに、んっ、あっ、やっ……だ、ダメですぅ~!」
というか、このままでは変な世界が開けそうなので、無理やりにでも止めさせた。
なぜだかはわからないが「ぐすん、提督、お許しを……」と敬愛する相手に謝りたい気持ちになる浜風だった。
「はぁ~♪ やっぱり一緒にお風呂に入ると楽しいっぽいね~♪」
「ソウデスネ……」
ハミングを奏でている夕立に対して、浜風はゲッソリとした顔色で答える。
結局カラダのあちこちを洗われた後、浜風も夕立のカラダも洗ってあげた。
もちろん仕返しとばかりに夕立の胸を触るような酔狂な真似はしていない。
夕立は楽しかったようだが、浜風は相手のペースに振り回されて、すっかりタジタジになっていた。
もはや湯船から上がる気力もなく、ズブズブと肩どころか口元まで沈んでいく始末である。
「あ、そういえば……ねえ、浜風ちゃん。夕立、聞きたいことがあるんだけど」
「ナンデショウカ?」
夕立に話のネタは尽きないのか、立て続けに言葉のキャッチボールが投げられる。
浜風はもう半ば投げやりの姿勢だった。
もう何を聞かれたところで、反応らしきものを返せる気がしない。
しかし……
「あれから提督さんに甘えられたっぽい?」
ドボンという音と共に、湯船から飛沫が上がる。
油断していたところを背後から敵の艦載機に攻撃されたような衝撃的な質問で、浜風は思わず湯船の中に転がり落ちた。
「ぽい~、浜風ちゃん大丈夫?」
爆弾を投下した夕立は何食わぬ顔で、ブクブクと底に沈んでいる浜風を心配する。
「ぷはっ! な、なななななっ……」
お湯から這い出た浜風の顔は真っ赤に染まっていた。
無論、のぼせたわけではない。
「な、何を、おっしゃっているのですか、夕立さん?」
平静を装っているつもりだったが、その声は完全に震えていた。
笑顔で誤魔化そうとするも、頬の筋肉がヒクヒクと不自然に痙攣している。
どこから見ても不審げな態度の浜風に、夕立は「ぽい~?」と首を傾げる。
「何をって。だって浜風ちゃん、前会ったとき、提督さんに甘えたがってたでしょ?」
「っ!?」
そう。提督とじゃれついている夕立に、ジェラシーを覚えたあの朝。
誰が見ても、早朝から腑抜けている提督に怒りをいだいたと思われる浜風の不機嫌ぶりを、しかし夕立だけは違うと見抜いた。
しかも直感で。
仲間内にしか明かせない浜風の最大の秘密──提督に甘えたいという願望。
それを、よりによって苦手な相手である夕立に気づかれてしまったのだ。
できることなら隠し通したい、気恥ずかしい秘密である。
なので、浜風は全力でとぼけることにした。
「わ、私が提督に甘えたい? へ、変なこと言わないでください。夕立さんの思い過ごしですよ」
そう、自分が認めない限り、夕立の思い過ごしで済む話だ。
動揺から流れる汗はお湯のせいということにして、「ああ、いいお湯ですね~」と言いながら夕立から視線を逸らす浜風。
ハッキリ言って、怪しさ全開である。
浜風も自覚はしていた。
しかし、少々天然気味の夕立相手ならこのまま押し通せるかもしれない。
と、わりと失礼なことを考えているときだった。
「……浜風ちゃん」
「なんですか? いくら尋ねても私の返答は同じですよ……って近っ!?」
やたらと息遣いを感じると思い振り向いてみれば、いつぞやのときと同様、夕立の顔が急接近していた。
そこにさっきまでの朗らかな笑みはなく、「ぽい~」と唸りながら疑わしげな表情を浜風に向けている。
戦闘時にしか見せない、夕立の鋭い赤い双眸に射抜かれ、浜風は思わず身動きが取れなくなった。
普段は小動物のように愛らしいというのに、真面目な顔つきになった途端、狂犬じみた凄みを発するのが夕立という艦娘だった。
夕立の意図が読めないあまり、内心で「ふえ~提督ぅ、浜風怖いです~」とビクビク情けなく震えていると……
「ペロッ」
頬を舐められた。
文字通り、動物がするように、舌でペロリと。
「……」
何をされたのか理解が追い付かず、石のように硬直する浜風。
ぴちゃん、と滴が落ちる音で我を取り戻すと……
「ッッッ~~~!」
声にならない悲鳴を上げながら湯船から飛び上がった。
「にゃにゃにゃにゃ! にゃにをしゅるのでしゅか夕立しゃん!?」
驚きのあまり口調が猫っぽくなる。
度の過ぎたスキンシップを前に、うっかり「提督にだって舐めてもらったことないのに!」と失言をこぼしそうになった。
そのように動揺している浜風に対して、夕立は随分と落ち着いた態度で「ふむふむ」と首を振っている。
まるで味を吟味するように。
しばらくすると、合点がいったとばかりに頷いて、チラリと赤い瞳を浜風へと向ける。
「浜風ちゃん。夕立ね、汗を舐めるとその人が嘘をついているかわかるっぽい」
「は?」
お前はどこのイタリアンマフィアだ、とツッコミたくなるような突飛なことを言い出す夕立に唖然とする浜風だったが……
しかし、夕立ならばそんな超越じみた味覚を持っていても不思議ではないかもしれない。
そう思わせる妙な説得力が、夕立の声色に滲んでいた。
浜風の胸に危機感が走る。
先ほど舐められたときのよりも多量の汗が、ダラダラと流れてくる。
まさか本当に、見破られたというのか。
こんなことで、一番デリケートな隠し事を。
仲間以外には絶対に秘密にしたかった大望を。
ガタガタと羞恥で震える浜風に向かって、夕立はニコリと爽やかな笑みを浮かべる。
どこまでも無垢で、穢れが一切ない純朴な笑顔で、口を開く。
「びっくり! 浜風ちゃん、夕立よりも甘えん坊さんっぽい!」
大浴場に再び「はまあああああああああっ!!」と奇妙な悲鳴が響き渡った。
まことに夕立という艦娘は、どこまでも浜風にとっての、天敵であるようだった。