「あああああああああああああああ?!!!」
旅立ちの朝は、青年の絶叫から始まった。
「おや、どうしたのかなハインツ君。顔が真っ青じゃないか」
村のゲストハウスで呆然と立ち尽くすハインツの傍ら、声をかけてきたのはリィタと同じく、書士隊の護衛として就いているハンターのウィンブルグだった。第一印象を問うと怪しいほど髭が似合う、と言われるこの中年男性だが、年齢に見合う熟練したハンターでもある。
そもそも書士隊と行動をともにするハンターは自分の身だけでなく、他人の身を守る必要もあるのだから、皆実力がある一定の水準に達しているのが周知の事実だ。
そんなウィンブルグに気づいたハインツは、焦点の合わない瞳のまま唇を震わした。
「ななな、ない……と言うよりも、森に忘れてきたみたいなんですよ。……僕のスケッチブック」
あまりの動揺からかハインツの声は裏返り、そのうちに秘める感情は音階に例えると二オクターブは下落している。
スケッチブックに残した情報は、書士隊員が見て得た情報を具現化する唯一と言っても良いコミュニケーションツールだ。いわば、書士隊の命とも言うべき必須ツール。
どうやら彼は、アイルーを捕まえる際にスケッチブックを手放したことを、すっかり忘れていたようなのだ。
「い、急いで取りに行かないと!」
「今からであるか? ならば、よしたまえ」
「なんでですか?! 僕の命の次に大切な成果が詰まってるんですよ? いわば僕の半身! それを諦めろと言われて諦めるなら書士隊失格で……」
「いやね」
ウィンブルグがクイッと促すように視線を外へ向けると、ハインツの顔色はまたも真っ青になる。
「雨だ。諦めるのだ」
「うわあああああああああああああああ!!!?」
◆◆◆◆◆
「僕の……記録……はは……」
一行は、送迎用の竜車でナーバナ村を発っていた。雨の中現れた女御者は、三度笠の下から絶やさない笑顔で一行を受け入れていた。営業スマイルとは言え、火の消えたようなハインツの心には染み渡るものがある。
二頭の温厚な
「ハインツさん。泣かない」
「泣いてなんかぁないよ!……悔しいのさ。言葉だけじゃ伝えきれないから、せめて形に残してって」
「気持ちは分からんでもないがね。なんでもツガイのケルビを追っていたんだったかな?」
ナーバナ村を発って以降、ハインツの瞳はずっとぶつけようのない感情を含みながら涙を溜め込んでいた。そんな彼の様子を不憫に感じたのか、揺れる車内で対面に座る二人の護衛ハンターは、なだめるように優しい眼差しを向けている。
「そうなんですよ! リィタさんも見たから分かるだろう?」
「うん。あれは……とても素敵だった」
消沈した雰囲気から一転し、やたら興奮気味に語るハインツに対してリィタは小さく頷いた。二人は森で見たケルビの求愛行動を思い起こす。
雌雄一対で行動する姿に、互いの首をすり寄せ合う仕草。確かめ合うように行われる愛情表現は、外敵を見つけるとすぐさま逃げてしまうケルビの習性から、中々目にすることができない珍しいものだ。
息をすることも忘れた二人は、ひたすら気配を隠し茂みから見届けていたことを想起する。特にハインツに至っては、その瞬間を忘れない一心で画紙に筆を走らせていた。
「そう……、そうなのさ……っ」
「あ」
「うーむ」
不意に今まで悲壮の様相を醸し出していたハインツの雰囲気が変わる。ハンター二人は、持ち前の危険察知力からすぐに変化に気がついた。それはまるでモンスターと相対したときに必ずや経験する、嵐の前の予兆とも言える。
「そうなのさっ!! 僕らは知識としてそれを知っている。でも実際に目にしたことは今までなかった。いいかい。これがどんなに歪んだ事実なのか。昨今の書士隊事情は実に由々しき事態なんだよ? ジョン・アーサー氏の失踪以降、ギュスターヴ・ロン氏を中心に机上での研究・討論で十分だという流れが広まっている。理由は簡単、ハンターたちが優秀すぎるんだ。これは決して悪いことではないさ。でもね、そのせいで貴重な素材や情報が机に座ったままやってくる。この風潮が良くないよろしくない! フィールドワークなんて時代遅れだと、突きつけられている気がしてならない!」
(ハインツさんのメンドくさい性格、出た)
しかし、荒れ狂う青年と向かい合う二人は至って冷静に、ことの成り行きをそれぞれの胸三寸に納めていた。驚いたのは竜車を操る女御者であったろう。同時に車を引く
「たしかに我輩たちからしてみれば、護衛先の書士隊に引き籠もられると、商売上がったりなのは事実であるからなぁ」
熱を帯びて弁を飛ばすハインツに、熟練のハンターはやや困り気味に言葉を返す。
「そうです! すでに僕ら書士隊の中では当たり前の知識でも、実際にそれを目にしたことがあるのは何割なのかっ! 僕はね、あのケルビの求愛行動を実際目にもしてないような人達がさも当然のように議論できるのが不思議でならないんですよ! 同期も篭ってばかりで外に出ようと、見聞を広めようとしない! なんてもったいないんだろうか! 知識は自分の目で見て、初めて自分のものになるというのにっ!!
そして一通り言いたいことを言い切ったのか、冷めてきた熱が発した台詞は
「だからその……あのさ、やっぱり今から取りに戻るのは……?」
出発する前の弱りきった青年のものに戻っていた。
「だめ」
と、バッサリ切り捨てるのはリィタ。
「割り切るのも人生の秘訣である」
ウィンブルグも同様だ。
「だよね……ああ、今から憂鬱だよ……。同期のみんなに、ケルビのこと啖呵切ってきちゃったよ……これで記録してないなんて言ったら何言われるか……」
「結局そこなのね」
荷車の窓辺で項垂れた青年を尻目に、呆れた様子のリィタは窓の外を覗く。
「命があっただけ良いではないか。実体験も貴重なもの。特にアオアシラの件は、中々に聞くことのできない武勇伝だろう。なにせ無傷であるからな!」
「……うん。咄嗟だったけど、ハインツさんが閃光玉を投げてなかったら間に合わなかった」
ウィンブルグの言うとおり、アオアシラに組み伏せられて無傷で生還したと言う報告は、ほとんど上がったことがない。それだけモンスターとの接触が危険だということを暗に示しているとも言える。
ヒヤリハットの場面を思い返していたのか、安堵した様子で何気なく発したリィタの言葉。そこに項垂れていたハインツの背筋がピクリと反応した。
「無傷じゃないですよ。今でも胸のあたりがじわじわと……ん? 投げたのはリィタさんじゃ?」
「……え? 私じゃないよ?」
荷車の外で振り続ける雨は、大地を進む草食竜の足元を捉え、ぬかるんだ道に大きな足跡を残させる。気の長い草食竜はそれでも確実に一歩、一歩と歩みを続け、背後から響く喧騒に二度も気に留めることなく仕事を果たす。
営業スマイルを崩していた女御者も、きっちり職務を果たす愛竜たちの手綱を握り、残り十日の道のりを思い浮かべていた。
◆◆◆◆◆
ハインツ達が村を旅立って幾ばくか。出立前に散々に振りつけていた雨はからりと上がり、気持ちのよい日差しが大地に照りつける。書士隊一行が出発したと思われる痕跡は、ぬかるんだ土に残る足跡や
ナーバナ村の農夫によると、未だ乾かない地面を蹴って大地を駆け出すその背には、小さな体躯が持つには不釣り合いな長方形が括り付けられていたという。
轍の繋がる遙か先。いつしか竜車で不貞腐れる青年は、万事に備えて懐に忍ばせていた閃光玉が一つ、なくなっていることに気付くことはなかった。
つづく
幕間ということで会話多めです。
とても地味な感じでキャラクターが一人増えました。
荷車の中であえてハインツの隣に誰も座らなかったのは、なんとなく二人が後から起こることを察していたからだったりします。