最後の瞬間まで瞼を開いて相対する度胸など、彼は持ち合わせていなかった。
視界を塞ぎ、細い糸で繋がった意識の中でハインツは苦痛に備えた。志半ばで燃え尽きたケルビの子供も、今の彼のような気持ちだったのだろうか。知りたくもなかった知識のために支払うには、あまりにも高い授業料だ。
ああ、死にたくない。しかしこれが結果だ。受け入れるしかないのか。本当に?と、心のなかで受け止めきれない葛藤がせめぎ合う。
「囮するならっ――、事前に言ってっ――、下さいっ!!!」
荒い息遣いでありながらも凛とした声は響いた。途端に、ハインツの瞼の裏からは強烈な赤が透過してくる。瞼越しに照らされる光が人工のものだと確信したところで、彼の意識と気力は急速に浮上し始めた。
(閃光玉?)
「目を開けて――っ、離れてっ!!」
聞き覚えのある声は突き抜けるようにハインツの身に染み渡ると、彼に微かな希望を抱かせる。恐怖から逃れるように閉ざしていた視界を開くと、眼前では巨体が何もない空間に向かって藻掻いている。
この機を逃さんとばかりにハインツは起こそうとするが、身体がうまく動いてくれない。組み伏せられた時の衝撃が残存しているのか。
かろうじて上体を起こしたハインツが目にしたのは、アオアシラの背後に向かって大剣と言う驚異的な質量を抱えたまま地を駆ける少女の姿。
その圧倒的な身体能力を以って、走りながら不安定な体勢で鉄塊を大きく振りかぶる。弓のようにしならせた小柄な体躯は、必殺の間合いを詰めた。
縦から斜めに一閃。
まさに一瞬の出来事であった。
小さく声を漏らした巨体は、唸り声を発しきったのちに、次の一声を唱えることはなかった。重力に抗う力をなくしたその巨躯は、ゆっくりと大地にその身を預けようとする。
「や、やった……!」
「早くそこから離れて!!」
「あ……うぎっっっ!!!」
ドスリと崩れる巨体。絶命した巨体に下敷きになるハインツは、またも肺を圧迫された。特上の漬物石を胸に置かれた気分で仰向けに叩きつけられた彼は、急に訪れた静けさと痛みに、自分がまだ生きていることを再確認する。
「痛い……」
「……生きてる?」
抑揚は最低限でポツリと囁かれた一言。
物言わぬ青熊獣を挟んで、そう時間は経っていないはずなのに、久々に会ったような気分でハインツは少女と向かい合った。
「――けほっ……や、やあリィタさん。助かった、よ。君が声を荒げるなんて、珍しいものが見れたっ」
「……私としては、本当に囮になるなんて思ってませんでした。やるならやるって、事前に言わないと、じゃないと……」
必死に強がってみせるハインツだが、少女――リィタの反応は思いがけないものであった。
悲しげな表情を浮かべる彼女の姿に、ハインツも言葉を詰まらせてしまう。両手で握り続ける巨大な得物さえ見えなければ、その姿は儚げなものであった。
「わ、悪かったよ。こっちも想定外でさ。……それよりもここから出してくれないか? この布団、重たくて身体が起こせそうにないんだよ」
なんとか話題を別へ逸らそうと、ハインツは視線を胸元に覆いかぶさるアオアシラに向ける。
「……仕方ない人、ですね。少し体も鍛えた方がいいと思う」
「それはさっき常々思ったよ。さ、今度こそ帰ろうか」
◆◆◆◆◆
太陽が地平の彼方へ沈み、ナーバナ森丘全体が深い闇で覆われる中、ある一帯だけはポツポツと明かりが点在している。そこが大陸地図にも載っていない、辺境のナーバナ村であった。
ナーバナ村の一角、ひと際大きい民家では、家の主と思われる老人がケタケタと笑いながら話を聞いていた。
「すまんのすまんの。ここいらにはたまーに、アオアシラが餌を求めて山を降りてくることがあっての」
革製の柔らかなソファに座り対面する老人は、向かい合うぼろぼろになった青年と小ざっぱりした少女に、笑顔を絶やすことなく陳謝を述べる。この人物はナーバナ村の長なのだが、なんとも楽観的に話すのだろうか。まるで先刻ハインツが遭遇した、あの恩知らずなアイルーを彷彿させる。
ちなみに、森に危険なモンスターはいないと伝えたのはこの人物だ。言ってしまえば、今回の件の元凶とも言える。
「して、どうやってケルビの死体からアオアシラだと断定したのかの? 興味深い話での、ぜひ聞かせてくれんかの」
そんなことお構いなしと言った様子でグイグイ村長は切り込んでくる。怒る気も起きなかったハインツは、やれやれと一つ間を置くと、静かに語り始めることにした。
「ええっと、アオアシラの食性は雑食なんですけど、大の好物がハチミツなのは有名ですよね。で、ケルビの死因はお腹から下をがぶりと一口。このとき、アオアシラはきっとケルビのことを組み伏せてたと思うんですよ。で、掴みやすい場所といったら首辺りかなと思って。事実、首筋には蜜が少しだけ付着してたんです」
ほうほうそれで、と言った様子で村長は催促するようにあごを撫でる。
「アオアシラの手の平はとても甘いって話、かな? いつもハチミツを食べてるから、手のひらに蜜がついてて。けど、それを狙って舐めようものなら命がけって話」
ハインツの説明に、補足するようにリィタが続けた。
「そう。で、あと一つ気になったのがケルビを襲った理由なんですけど――多分、子ケルビがアオアシラの縄張りと知らずに、ハチミツを食べてしまったことが原因だと思います。事実、首の蜜を舐めた時、似たようなものが口に付着してました」
「それでアオアシラが蜜を横取りされたと勘違いして、怒って襲ったというわけかの」
「さすがに死骸とキスするのは億劫だったので、これは予想ですけどね」
手をぶらぶらさせながら今回の顛末を語り終えるハインツは、どっと疲れが体にのしかかるのを感じた。思い返せば非常に濃い一日であったと振り返る。
「あとはまあ、そこのリィタが無事討伐しましたので、ひとまずの脅威は去ったでしょう」
「それはありがたい。いつもは村の若い衆で狩ってたんだがの、今年は楽になりますな」
「ギルドに依頼してないってこと、かな。どうりで地図にも載ってないわけ」
大陸地図は各地へ根を広げるギルドを介して、王立古生物書士隊が編纂したものだ。当然のように未開の地は地図に存在しない扱いとなるのだが、この村のように自活のみで、外界の協力を得なかった村や地域はまだ大陸に数多く存在する。
「アオアシラ程度なら大きな害獣と変わらんからの。ほれ、いま着てるわしの"ちゃんちゃんこ"、これも五十年くらい前に皆で勝ち取ったものじゃ」
老人は自慢げに、自らが着飾る青い羽織を見せびらかす。だいぶ年季は入っているが、青い体毛はなおも艶を保ち続けており、持ち主がいかに大切に扱ってきたかが伺える。
「もし良ければ、お主らが斃したアオアシラも"ちゃんちゃんこ"にしてやろうかの? この村の密かな特産品なんじゃぞ?」
「いや、僕が斃したわけじゃないので遠慮しますよ。リィタさんは?」
相変わらず村長は楽しそうに言い放つ。夜なべで仕事をする時にあれば良いかもしれないと、一瞬ハインツの頭をよぎるが、今回アオアシラ討伐のMVPは紛れもなくリィタであり、彼の活躍はと言うと少々命の危機に直面した程度だ。素材をどうこう言える権利はないと彼は考えていた。
そのリィタの予想外な申し出に、ハインツは目を丸くする。
「じゃあ、ハインツさんの分だけお願いします」
「せっかくの素材を良いのかい? 素材はハンターにとっても貴重なものだろうに」
「私は前に一度討伐してるから。今回の分と合わせて装備を新調しても、余るくらい。ハインツさんを危険な目に遭わせた、せめてもの埋め合わせだと思って」
「まだ気にしてたのか」
律儀なのか責任感が強いのか、リィタはアオアシラが彼を襲ったのは自分の力量不足だったと責めているのだ。ハインツから言わせてみれば、あの状況は一匹の空気が読めないアイルーが作り出してしまったものなのだから、彼女には何ら非はないと感じている。
当然、リィタはあの場にアイルーがいたことを知らなった。その前にそそくさと逃げ出していたからだ。しかし、そのことを説明しても関係ないと彼女は言い張るのだから、一度言い出したら引いてはくれないのだろう。あのアオアシラを追うと言い出したときと同じように、だ。
「仲がよろしいようで何よりね。ああそうです。特産品といえば、このあま~いお茶はいかがです? 疲れた体に染み渡りますよ?」
穏やかな雰囲気をまとって部屋の奥から出てきたのは村長夫人。夫人が運んできたのは、透明感のある薄茶色かつ、沸き立つ湯気に燻ったような深い香りが特徴のナーバナ茶と呼ばれるもの。
「これは……ハチミツ? 甘さが程良くて美味しい。ハインツさんも頂いたら?」
ひと啜りしたリィタからは思わず笑顔がこぼれ出る。美味しいものを食べた時の反応は、一様にみなその人間の本質を映し出すとも言う。
一方のハインツはと言うと、何故か顔を強張らせている。
「おや、どうされたかの? 口に合わないかの?」
「……あはは。いえ、ハチミツはしばらく良いかな、って思いまして」
民家から笑い声が漏れ出ると、ハインツのナーバナ村での滞在期間は満了した。
後日、この調査報告をまとめるのことになるのだが、そのとき彼がハチミツで死にかけたことは伏せることにしている。
森丘編(プロローグ?)終了です。
ひとまず書ききることができました……良かった……!
次回から少しずつキャラクターが増えていくと思います。
ちなみに村長の若い頃の決め台詞はきっと、
「お前もちゃんちゃんこにしてやろうか?」
だったんだと思います(適当)