別に待ちに待っていない運動会の日がやってきた。
運動会といえば、これはさっきまで忘れていた事なのだが、朝に普段から使っているイスを校庭に運び出す作業がある。
その為に俺達は、普段より早い時間に学校を訪れなければならなかった。
「早く早くー!」
「待ちなさい日菜。階段ではしゃがないの」
「転ぶなよー…………はぁ」
朝っぱらからテンションが上限を振り切ってる日菜と比べて、俺のテンションは下限を振り切っている。このまま地中を抜けてブラジルまで到達しそうだ。
「兄さんどうしたの?」
「俺は面倒が嫌いなんだ」
「なにそれ」
そもそも俺は生前から生粋のインドア派なのである。その俺が、アウトドア派の祭典である運動会に乗り気な筈がない。
最近の……というか、今世の性格だって意図的に作っているモノだし、本来の俺はいわゆる陰キャと呼ばれるに相応しいモノであるのだから。
「いや、なんでもない。ただ運動会が好きじゃないってだけだ」
「え〜なんで?楽しいじゃん運動会」
「日菜はそうだろうけどな」
天元突破したテンションを持て余しているのか、日菜が廊下を行ったり来たりしている。開会式すら待ちきれないんじゃなかろうか。
そこで俺が、そこはかとなく千聖に目を向けると、表情は変わらないように見えて実はかなり気落ちしているのが分かった。その証拠に千聖の歩幅が少し小さい。
千聖は表情を大きく変えるという事をあまりしないし、口達者というわけでもないが、行動そのものは真っ直ぐなので読み易い。
今だってそうだ。歩幅という形であからさまに自分の気持ちを表現している。
「そうじゃない人もいるんだよ」
「そういう物なのかなー。あたしには分かんないけど、お姉ちゃんは分かる?」
「そうね。そういう事も、あるんじゃないかしら」
そっかー、とどうでもよさそうに日菜が呟いたくらいで昇降口に辿り着く。
しかしそこは全校生徒がほぼ同じ時間に此処を使う所為で、人口密度が半端ない事になっていた。
「それにしても、気を抜くと簡単にはぐれてしまいそうね」
「例えはぐれたとしても、どの道校庭で集まる事になるんですから問題は無いでしょうけどね」
とは言っても、仮にはぐれたとして、日菜が紗夜さんを置いて校庭に行くとは思えない。逆もまた然りで、紗夜さんも何だかんだで日菜を置いて行く事は無いだろう。
俺も千聖とはぐれたなら、千聖との合流を最優先にするだろうし、千聖もそうである筈だ。
「まぁゴチャゴチャしてること……長居は無用だな、こりゃ。千聖は付いて来てるか?」
「うん。なんとか」
混雑した昇降口を抜けると、秋の朝に相応しい、冷たく清々しい空気を肺一杯に吸い込んだ。人混みが発する熱気に暑くなった身体が冷やされていく感覚は嫌いじゃない。
「ん〜〜〜、今日も良い天気だ」
「雲一つない青空だもんね」
深く深呼吸してから気がついた。氷川姉妹の声がしない。まだ、あの人混みの中に居るんだろうか。
しかし、振り返ってみても人でゴチャゴチャとしている昇降口で特定の個人を見つけるのは難しい。例え2人が目立つ髪色をしていたとしてもだ。
「さてどうするかな。待つか、それとも先に行くか」
「どうせ校庭で合流するんだし、待たなくても良いんじゃないかな」
「それもそうだ」
どうせ最後に辿り着く場所は同じなのだ。クラスや学年が違うならまだしも、氷川姉妹とは同学年の同じクラスだし、座る場所はそんなに離れない。
それに、だ。既に熾烈な戦いは始まっている。此処は先遣隊として俺と千聖で場所を確保するくらいはしておかなければいけないだろう。
突然だが、ここで問題だ。保護者サイドから見た運動会で、学校に着いたら真っ先に行わなければいけない事はなんだと思う?
「そうと決まればカカッと行こうか。良い場所は取り合いだからな、早いうちに取っておかないと」
「カカッと?」
「ささっと、の類語みたいな奴。覚えなくていいぞ、むしろ忘れろ」
簡単だったと思うが、答えは場所取りだ。
最近では運動会の場所取りの激しさは大人のばかりがメディアに取り上げられるが、子供のそれも大人に負けず劣らずの激しさを持っている。
何故なら、運動会がある今日この日だけは、席順が生徒側で好きに決められるからだ。
クラス毎に決められたスペース内なら何処に座っても今日は怒られない。であれば、友達同士で固まって座るのは当たり前で、そのスペースを取る為に無言の争いが白熱するのは当然と言えた。
何故か口をついて出た謙虚なナイトの言葉を忘れるように千聖に促しながら俺達は校庭へと歩を進める。今の時間なら、目当ての場所は取れるんじゃないだろうか。
(中学や高校じゃないんだし、こんなに急がなくてもいいかもしれないけどな)
そんな事を考えた俺の視界の端で、誰かが動いていた。俺は何となしにそっちへ気を取られて、そして呟く。
「ああ、そういえば……」
「どうしたの?」
ふと漏らした言葉を耳ざとく聞きつけた千聖に俺は、とある場所を指差して言った。
「モカは寝起きが悪過ぎるって話を聞いたなって」
遠くの方で、見慣れた4人が1人を押したり引っ張ったりしている光景を繰り広げていた。2人が両手を掴み、2人が背中から押しているのが分かる。
言うまでもなく1人はモカで、残る4人はそれ以外の面子だ。ひまりとつぐみが押して、蘭と巴が引っ張っている。
「……助けるの?」
「できるなら何とかしたいけど、今回はパス。アイツらならなんとかするさ、多分」
それを一瞥した千聖の問いに、俺は首を静かに横に振る。 ちょっと無責任な気もするが、こっちも時間に余裕がある訳ではないのだから。
大丈夫、百戦錬磨なアイツらならば何とか出来るはずだ。多分、きっと、恐らく、めいびー。
「そうだね。蘭ちゃん達ならなんとかするよ」
「ああ、きっとな」
とは言ったものの、俺の脳内では"次回、Afterglow死す。デュエルスタンバイ!"というセリフが例のBGMと共に流れていたのだった。
選手宣誓に始まった運動会だが、競技が目白押しのように見えて、参加しなければならない物は実はそれほど多くないのは、1度でも運動会に参加した人なら分かる事だろう。
しかもまだ小学生のやる物ということもあって、中高でたまに見かけるガチガチな雰囲気はそこには無く、とても和気藹々としたものだった。
「頑張れー」
そして今、目の前で繰り広げられているのは2年生の玉入れである。
戦略性も何も無く、数うちゃ当たる理論でひたすら玉がポイポイされていた。
「まだかなー、まだかなー」
「落ち着きなさい日菜」
「えーでもー」
さっき100m走を終えて戻って来たばかりの日菜は、早くも次の出番を待ちわびるかのように体と椅子をガッタンガッタン揺らしている。上がりっぱなしのボルテージは下がる事を知らないらしい。
「そんなにテンション上げてると最後まで持たないぞ?お前がトリを飾るんだから、その時まで体力は取っておけって」
「鳥?」
紗夜さんが首を傾げた。あれ、何か首を傾げられるような変な事を言ったかなと思ったところで、
「涼夜君、運動会で鳥なんて飾らないよ?」
という日菜のツッコミを受けて認識の齟齬を確認した。確かに音だけ聞けばトリも鳥も変わらないし、勘違いも当然だと言えるだろう。
「……一応言っておくけど、トリって空を飛んでる方じゃないからな?最後って意味だからな?」
「そんな言葉あるの?」
「あるぞ。昼休みに日菜の父さんか母さんに聞いてみるといい」
ちょっと話している間に、玉入れも終盤に差し掛かっていた。赤も白も頑張れ的なアナウンスが響き、ポイポイが一段と激しくなった。
それをボーッと見ていると、なんか1個だけ明らかに軌道がおかしい玉がある。俺はそれを誰が投げているのかを目で辿り、そして一人で納得した。が、それと同時に別の疑問も浮かんでくる。
「蘭って本当にノーコンなのかな」
「蘭ちゃんがどうかしたの?」
「いや、投げた玉が全て巴に向かうのは本当にノーコンと呼べるのかと思ってな」
何をどうやったらそうなるのか、上に投げられた玉は全てが巴の居る場所のみを狙って落ちていた。
巴が俊敏な動きで左右に動きまくっているのに、さも当然のように巴の居る場所のみを狙って落ちていく。
運動会特有の謎選曲なBGMと放送委員のアナウンスが煩いが、耳をすませば僅かに巴の言葉が聞き取れた。
らぁぁぁぁぁん!!お前、実はアタシのこと嫌いだろぉぉぉぉぉ!!?
ちっ、違う!玉が勝手に巴の方に!
ンなわけ有るかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!
「……何をどうしたら、あんな事が出来るんですか」
「やっぱり蘭ちゃんって凄いなー」
あれで本気だというのだから世界は広い。そしてあれだけの暴投具合ならば、共に体育の授業を受ける巴達の危惧も最もだ。事あるごとにあんな暴投されたら身が持たないだろう。主に巴の身が。
「蘭の神に愛されたノーコンが直るのが先か、それとも
「蘭ちゃんのノーコンって直らなさそうだし、犠牲者が出る方かな。兄さんは?」
「千聖に同じく。……こんなんじゃ賭けにならんな」
賭け事は良くないですよ。と生真面目な声に、願掛けみたいなモノなのでセーフです。と適当に流して、競技時間が終わり、皆で籠の中に入った玉をカウントしている光景を見た。
「そういえば……」
さっきの勘違いのままだと、トリノオリンピックが鳥のオリンピックになるのかな。なんて、しょうもない事を思った運動会の最中だった。
◇◇◇
午前の競技が全て終わり、昼休みを迎えると、生徒達は瞬く間にそれぞれの両親が取った場所へと小走りで向かう。
小学生の運動会は、給食より豪華なお昼ご飯の為に頑張っている生徒が過半数を占めると言っても過言ではないだろう。頑張った後の豪華な手作り弁当は、子供達の腹と心を満たすのだ。
しかし、そんな運動会で肩身が狭い思いをしている者達が居る。親類縁者が誰もいない、孤児と呼ばれる子供達。
涼夜と千聖もまた、そんな子供達の1人だ。
「……本当に良かったのか?」
「なにが?」
「蘭達の誘いを断った事だよ」
自分のイスに座って、施設から出された出来合いの弁当を食べながら涼夜は千聖にそう聞いた。
時計の針を少し戻し、氷川姉妹と別れた後、昼休みに入って少ししてから、蘭達が涼夜と千聖の元に来て一緒にお昼ご飯をどうかと誘っていた。
生前を引き摺り、外側はともかく内側は社会人な涼夜はそこまで迷惑は掛けられないと断り、その代わりに千聖だけでも行かせようとしたが、千聖もまた、その誘いを断っていたのだった。
「別に」
「……施設には悪いけど、こんな弁当より美味い物が食えただろうにさ」
「これも十分に美味しいじゃん」
「それもそうだけど、こう、おふくろの……じゃあ分からないか。えっと、母親の愛情っていう隠し味がだな……」
「食べたこと無いから分かんない」
提案を快刀乱麻に叩っ斬られ、そっち方面での誘導は無理だと悟った涼夜は、弁当に目線を落として言った。
「じゃあほら、滅多に施設じゃ出ない物とか、好きな物を食べれるかもしれないし」
「好きな物なんて無いし、メニューとかどうでもいいもん」
「……お前なぁ」
千聖には分からない事がいっぱいある。
母親だとか、父親だとか、それらが居ると何故幸せで、居ないと如何して不幸なのか。
友達はなんで必要なのか。
どうして自分には父親や母親がいないのか。
「兄さんは嫌?私と一緒に居るの」
「なんでそうなる」
「だって、さっきから私を蘭ちゃん達の所に行かせようとするから」
「よかれと思ってなんだけどな……それと、お前と居るのが嫌だなんて1度も思った事は無いぞ」
目に不安を隠さない千聖を安心させるように、涼夜がちょっと雑に頭を撫でると、安心したように千聖が目を細めた。
両親が居ないということに関して、不都合な点は涼夜が思っている以上に多い。授業参観や、運動会の弁当などといった学校行事は勿論だが、それ以外にも多大な影響を及ぼしている。
その最たる例が千聖だ。
本来なら世界を広げる役割を果たすべき両親が居ないというのは、深刻な影響を千聖に及ぼしていた。
その影響が一番出たのは、人格とか価値観という、その個人の根幹を成す場所。本来なら歩んでいた未来で見られる社交性や協調性といったものは、この千聖には存在しない。
幼稚園児か、あるいはそれよりも幼い赤子か。それくらいの視野しか持つことが出来なかった千聖が描く世界は非常に狭く、そして歪に出来上がっていた。
「私も兄さんのこと好きだよ」
「ありがと。そう言われると兄冥利に尽きるってもんだ」
「みょうり、に……?」
「お前の兄で良かったってこと」
千聖の世界を形作るのに必要なモノは少ない。
そもそも千聖にとっての全て──つまり世界とは、千聖と涼夜に割り当てられたあの一室のみしかないのだ。
小学生の2人にはまだ広いが、いつかは狭くなる程度の、そんな広さしかないのだから、必要としている人間も、また少ない。
というより、たった1人しか必要としていなかった。
「私も兄さんの妹で良かった。こういうのを"妹みょうり"って言うんだよね」
その1人が誰かなど言うまでもない事だ。
「尽きるが抜けてるぞ。それを言うなら妹冥利に尽きる、だ」
繰り返しになるが、千聖には分からない事がいっぱいある。むしろ分からない事の方が多いだろう。しかし、そんな千聖にも分かることが一つだけあった。
それは、髪型が乱れるくらい雑に千聖の頭を撫でた涼夜の言葉が、紛れもない真実であるという事だ。
涼夜が仕草で千聖の気持ちを大体推し量れるように、千聖もまた涼夜の仕草や声色で涼夜の気持ちを大体推し量る事が出来る。
それ故に、千聖がただ1人の兄を愛しているように、涼夜もまた、ただ一人の妹を愛しているという事実が確認できた。
それで良いじゃないか。
それだけ有れば良いじゃないか。