「野球しようよ!」
事の発端は、あこのこの一言だった。
「野球?」
「うん、野球!」
急にそんな事を言い出したあこを全員が怪訝な目で見る。あこが間違ってもそんな事を言うようなキャラではないのは、皆が知っている事だった。
なのでその目線は、必然的に姉である巴に向く事になる。巴なら何か知っているだろうという信頼からの行動だった。
「あー……あこ、昨日やってた野球のアニメにハマったらしくて」
目線に晒された巴はそう答えた。
なるほど、なんだかんだと影響されやすいあこだ。そのアニメが心の琴線に触れたのだろう。
しかし、昨日のか……
「……そのアニメのタイトルは"ラジャー"か?」
「そうそう」
ラジャーは教育テレビで放送されているテレビアニメで、大リーガーだった親を亡くした小三郎がメジャーデビューを目指すお話である。
……身も蓋もない事を言うならメ○ャーのパチモンだ。
「九回裏、ツーアウト満塁でツーストライクのピンチでホームラン!そして決め台詞の──」
「──コールドゲームだ」
なんつー決め台詞だと初見の時は思ったが、今となっては俺も結構気に入っている。
それあこのセリフー!と大声を出したあこを宥める役割は巴に丸投げるとして、今日はそれでいいのか。
「ちょっと良いでしょうか」
「どうぞ」
と、そこで紗夜さんが手を挙げた。
発言を促すと紗夜さんは俺たちを見渡して、確認を取るように言う。
「道具はあるんですか?」
……全員が隣に居る人と顔を見合わせて、首を左右に振った。全滅である。
「やろうにも出来ないじゃん」
ひまりの言葉は、これ以上ない現実となって重くのしかかってきた。
「でーもーやーりーたーいー!」
「なあ涼夜、なんとかならないかな」
あこが駄々をこねはじめ、巴が俺にそう懇願するが、しかし道具も無いのに野球なんて出来ない。
せめてサッカーであればどうにか出来たかもしれないが……なぜあこはカミナリ11にハマらなかったのだろう。
「気持ちは分かるが、しかし道具が無いことにはどうにも……」
「ねえ涼夜君」
「なんだつぐ」
今度はつぐみが手を挙げた。何か逆転の秘策でもあるのか。
「はぐみちゃんのお父さんが監督やってるソフトボールチームってあったよね」
「あったな。何度かヘルプで飛び込み参加した事もあった……ああ、なるほど」
何が言いたいのか、大体の事は分かった。
商店街で肉屋を営む北沢家。その親父さんに俺は、何故だか非常に気に入られている。
色々やらかしている俺達を見て「若い頃を思い出すぜ」なんて豪胆に笑っていたが、何をしていたのか少し気になるところだが、今回注目すべきはそこじゃない。
「借りられないかなって思ったんだけど、どうかな?」
「やってみるか」
少なくとも、分の悪い賭けではなさそうだった。
◇◇
「借りられた」
商店街の入口で待っていたメンバーに、思ったよりあっさりと借りることが出来た鍵を見せた。
「すぐ渡してくれたよね」
「それだけ信用されてるんだろ?
まあ、なんにせよ良かったよ。このままだと、あこがぐずりっぱなしで宥めるのも大変だったからな」
同じ商店街で店をやってるよしみで説得に協力出来ないかと、連れていったつぐみもビックリするくらいのあっさりさだった。あっさり過ぎてなんか怖い。
「……なんでそんな微妙な顔をしてるんですか?」
「ああいや、なんて言えばいいのか……塩気があると思ったスープが薄味だった、みたいな?」
「いや、疑問符を浮かべられましても……」
うん、俺も困惑してるんだ。要領を得ない返答に困惑気味の紗夜さんには悪いが、俺もそうだから諦めてほしい。
「みんなー!はやくはやくーー!」
「あこ!前見ないで走ると転んで野球できなくなるぞ!」
走り出したあこを追って走る巴。釣られて走る皆。
「おねーちゃん達も早くー!」
「今行くわ。さ、涼夜さんも」
「わーかってますって。今行くぞー」
という訳で、辿り着いたのは河川敷にあるグラウンド。平日のこの時間は、川の土手を犬の散歩中の人が通るくらいしか人通りが無い。
その端っこには道具を保管しているという100人乗っても平気そうな物置があり、その前であこはぴょんぴょんしていた。
「はやくっ、はやくっ!」
「まあ待て。そう急かすな」
鍵を差し込み、いざ鎌倉。今にも飛び出しそうなあこを手で制しながら物置の中へ踏み入る。
「バットが5本にー、ボールの入った籠が4つにー、グローブが……15全部あるな。よし、良いぞ」
「「わーい!」」
「転ぶなよー」
そう言うや否や、あこと日菜が飛び込んできてグローブとボールを持っていった。
他のメンバーも持って行くのを俺が見守る中、申し訳程度に注意喚起をした巴は俺の横に立った。
「何してたんだ?」
「どうせ使うなら、ついでに備品の個数を確認してきてくれと頼まれてたんだよ。ほれ」
「ふーん。よっ」
「あっ」
直筆のメモをヒラヒラさせると、巴は俺の手からメモをかすめ取って黙読した。
「ちゃんとあったのか?」
「ああ……にしても、手癖悪いなお前」
「ありがと。褒め言葉として受け取っとく」
グローブを一つ掴んで物置から出た巴の後を追うように俺も適当なグローブを見繕って装備する。
そして物置から出ると、蘭がマウンドに上がっていた。
「この短時間で何があったし」
「モカに乗せられたんじゃないか?」
バッターボックスの方を見ると、バットを握って打席に立つモカとが居る。
キャッチャーは居らず、普段は控えの選手や監督が座っているであろうベンチで皆が声援を送っていた。
「なんだろう、ぐだぐだになる未来しか見えない」
「初心者同士だしなぁ」
一先ず2人の邪魔をしないように外野の方をぐるっと回って行くことにした。
足を1歩前に踏み出しながら、モカがボールをぶっ飛ばしたら誰が取りに行くつもりだったのか、と考えずにいられない。
「でも、裏を返せばいい勝負にはなるってことじゃ──」
そこから先の言葉を俺は聞くことが出来なかった。いや、聞く余裕が無かったという方が正しいか。
視界の端から何かが迫って来るのを感じた俺は、そっちの方向へと顔を向けた。
ボールが俺を目掛けて飛んで来ていた。
「はぁっ!?」
咄嗟に避けられたのは、それこそ奇跡のようなものだった。
条件反射で動く体。鼻先を掠めるボール。尻もちをつく俺。物置に激突するボール。
全員が呆気に取られて、空気が静まり返った。心臓の鼓動がやけに五月蝿い。
「兄さん大丈夫!?」
いち早く正気に戻った千聖が動き出すと、それを見た他の皆も駆け寄って来た。
「どこも怪我とかしてない?!」
「ああ、うん。大丈夫。とっさだったが、なんとか避けられた」
ほっと胸をなで下ろす千聖。その直後に忙しなく周囲を見渡したかと思うと、ちょっと離れた所に居た蘭を見つけて手招き。
こっちからは千聖の表情を窺い知る事は出来ないが、間違いなく怖い事になっている。蘭の怯え方がそう示している。
「兄さんに言う事、あるよね」
底冷えするような声色に、俺を除く全員が1歩後ずさった。
千聖は気付いていないかもしれないが、マジギレした時の声色には覇気のようなものがある。人を萎縮させるオーラと言えばいいか。
「その……ごめん」
「いや、大丈夫だ。幸い直撃はしてないし、驚いたくらいで済んだから気にしてない」
強いて言うならズボンと掌が土まみれになった事くらいで、被害らしい被害は無かった。
心臓の動悸も収まりつつあるのを、俺は掌の土をはたきながら感じた。
「蘭、もう1度マウンドに上がれ。手の空いてる奴は全員で外野に分散だ。俺はキャッチャーをやる」
『えっ』
「でも……」
「モカとの決着はまだ着いていない。そうだろ?」
俺は立ち上がり、そして有無を言わさぬ足取りでキャッチャーバッターボックスの方へ向かう。
「勝負は一打席。一球でも打つか、フォアボールでモカの勝ち。逆に一球でもストライクを取れば蘭の勝ちだ」
「三振じゃないのか」
「蘭には無理だと判断した」
さっきの暴投は間違いなくワザとではない。蘭にそんな事をするだけの悪意は無い、はず。少なくとも恨みを持たれる覚えはない。
となると考えられるのは、蘭が想像を絶する……いや、神に愛されたレベルでのノーコンであるという可能性だ。
「さあどうする蘭。この勝負、受けるも
こう言っておいてなんだが、蘭が逃げないだろう事は確信していた。
蘭は負けず嫌いだから、こうやって選択肢を出した時は決まって挑戦する方を選ぶ。
そして今回は、敢えて"逃げる"を強調するオマケ付き。これで受けない蘭ではないだろう。
「……やる」
計 画 通 り
マウンドに上がった蘭と、いつものぼんやりとした面持ちでモカがバッターボックスに立つ。他のメンバーは外野へ散った。
俺も急いで移動しようとすると、誰かに腕を掴まれた。
「お、おい」
「巴か。早く外野に行かないと、いい席はみんな取られちまうぞ?」
「なんで、あそこまで蘭を焚きつけんだよ。さっきも危なかったんだし、もう終わりでいいだろ?」
「何故?それは愚問だな巴」
そんなこと決まっているだろう。
「その方が燃えるからだ」
燃える展開には緊張感が付き物だ。緊張感とは、ここでいうところのリスク。即ちスリル。
いつ暴投が起こるかというスリルと、どちらが勝つかという緊張感は間違いなく他では味わえない。
「…………お前に理由を求めたアタシが馬鹿だった」
「疑問が解決したなら腕を解放してくれ。蘭がこっち見てる」
「ああ、悪い。……でも何故か釈然としねぇ」
まだ疑問が残っているようだが、一先ずは納得してくれたらしく、巴は外野へと小走りで向かっていった。
「トモちんと何話してたの〜?」
「明日の天気の話」
「ふ〜ん」
キャッチャーがやってる顔を保護するやつは無いが、別に無くても問題はないだろう。どうせ、こっちには飛んでこない。
「さあ蘭。今、試合は九回裏のツーアウト満塁でツーストライク。一球でもストライクを取れればお前の勝ちだ」
蘭は無言で頷いた。やる気は十分のようだ。
「さあ、今こそモカとの決着をつける時だ。プレイボール!」
まず一球目。大きく振りかぶって投げられた蘭のボールは、やはりあらぬ方向へ飛んでいった。
「お前の力はこんなもんか、蘭!」
「まだまだ……!」
外すだろうとは思っていたので、予備のボールはキッチリ用意してある。
それを蘭に投げ渡し、続いて二球目。
「さあ、来い!」
「っ!」
投げる前に、蘭の目から焦りが見えたような気がする。
結果はまたも外れ。今度は真横に飛んでいった。
「まだ終わりじゃねえ、三球目行くぞ!」
残りは二球。蘭の目だけでなく、動きからも焦りが見えはじめた三球目。
投げたボールは斜め前に飛んでいった。
「……蘭、これで最後だ」
残るは一球。正真正銘、ラスト一球。
「難しい事は考えなくていい。ただ、ただ真っ直ぐに投げることだけを考えろ」
「………………それが出来たら」
「苦労しない、だろう?言いたいことは分かる。だけどな、こういうのはイメージだけで良いんだと俺は思うぞ」
イメージトレーニングという言葉が存在するように、想像するという行為は体を動かす上で大事な事だと思われる。
俺個人の勝手な推測だが、赤い弓兵も似たようなこと言ってたし間違っていないと思いたい。
「イメージするのは、常に最強の自分だ」
「最強の、自分……」
「ああそうだ。ストレート一発でバッターを打ち取る、理想の美竹蘭だ」
閉じていた蘭の目が開かれた。そこにもう焦りは無く、あるのはいつもの冷静さのみ。
「……見えたか」
「──行くよ」
モカがバットをキツく握りなおした。こころなしか、蘭が身動ぎをするだけで空気がざわめくような気がする。
蘭は大きく息を吸い、そして振りかぶった。
「いっけぇえええぇええぇええぇぇぇぇえ!」
全力の気迫と叫び声と共に放たれたボールは、さっきまでの暴投が嘘のように真っ直ぐに突き抜けて、そして────
「茶番だぁあぁあああああぁああああああぁああああふっ!?」
◇◇
「な、なんで、真後ろに……」
「いや、うん。俺も予想外だわ」
ちょっと蘭のノーコン度合いを舐めていた。まさか、まさかニュータイプ撃ちをするなど誰が予測できるのか。
「ごめん巴……」
「い、いや、気にするな……うぷっ」
どうやら鳩尾に直撃したらしい。今なお苦しそうな巴に蘭も物凄く落ち込んでしまっている。
「Mission:蘭のノーコンを矯正せよ。は失敗か……」
「いやいやいや、アレは1日じゃ直らないと思うよ」
「それこそ何年も掛けて直るか直らないかのレベルな気が……」
ひまりやつぐみの言う通り、アレは確かに一筋縄でいきそうなものではなかった。年単位の月日を費やす必要がありそうだが……それはそれで面白い。
「なら特訓だな」
修行で主人公が更なる力を得る、あるいは欠点を克服するのは王道だ。意味もなく山籠りをして強くなるとか、昔のバトル物なら必ずあった展開だしな。
つまり燃える展開ということだ。
「ダウンしている巴さんに変わって、一応聞いておきます。理由はなんでしょう?」
「お約束ありがとう紗夜さん。理由は無論、燃えるからだ!」
俺の中ではの話だが、もう蘭は完全に野球漫画の主人公という事になってしまっている。
それはそれで間違った配役でもなさそうなのは、蘭の隠れた主人公オーラを俺が感じ取ったからなのだろうか。
「あたし、別にノーコンのままで良いんだけど」
「そんなこと言って、本当は怖いんじゃないのか?」
「なに?」
蘭の動きが再び止まった。
「なんだかんだで優しい蘭の事だ。もしかしたら皆に迷惑が掛かるかも、と考えているんだろう」
「それは……」
「だがな、皆のためを思うなら、お前は余計にノーコンを克服すべきだ」
何故か?理由は単純な事だ。
「近い将来、お前は体育でボールを扱うスポーツをやる事になるだろう」
「ボールを投げなきゃ良いだけだし……」
「だが、その逃げがいつまでも通じると思ったら大間違いだ」
「でも……」
「諦めろ蘭。こうなったら涼夜は梃子でも動かない」
回復したらしい巴が蘭の肩に手を乗せて言った。そうしてから、それに、と蘭から目を逸らして言葉を続ける。
「正直な話、こんなレベルのノーコンのままだとアタシ達の命が危ないっていうか……」
蘭はモカを見た。目を逸らされた。
蘭はつぐみを見た。愛想笑いをされてから目を逸らされた。
蘭はひまりを見た。頷いていた。
その反応が全員の総意だった。
蘭は『神に愛されしノーコン』の称号を手に入れた。