(……ライブまで、あと2週間)
夜通し動かしてボンヤリとした頭でカレンダーを見れば、ガルジャムはもうそこまで迫ってきていた。
もうそれだけしかないのか、と驚くと同時に時の流れの速さを感じる。
2週間と聞くと一見余裕がありそうだが、実際のところは全く余裕などない。演ると決めた曲の順番決めや調整など、まだまだやらなければならない事は山積みだ。
振り返ってみれば、一ヶ月という長そうな月日すらあっという間だった。それより短い2週間など、もっと早く過ぎ去ってしまうだろう。
この残り2週間は一切無駄に出来ない。本当は学校にも行かないで練習したいくらいだが、それは流石に許されないだろう。学生の本分が勉強だという事は蘭も分かっている。
しかし放課後だけでは、あまりにも時間が足りなさすぎるというのも事実であった。ならば何処かで練習時間を確保するしかないが、これ以上は日常生活に支障をきたすという所まで来てしまっていた。
例えば昨日の夜から今までのように、完徹でギターの練習をすれば練習時間そのものは確保できるだろう。だがそれは翌日以降の学校に影響を与えるし、なにより繰り返していては身体が持たない。
ほぼ確実に放課後の練習まで悪影響を及ぼすと考えると、これは禁じ手に近い所業だった。
冷静になって振り返れば、なんて馬鹿な事をしたんだろう。と蘭は思考能力が低下した頭で思う。どうやら焦りすぎるあまり、冷静な判断力さえ失ってしまったらしい。
そんな感じで日常生活……というか睡眠時間を犠牲にする事のデメリットは今の蘭が身をもって実感しているが、しかし他に削れそうな場所も見当たらない。
ならば練習の密度を濃くするしかないだろう。時間が無いなら無いなりに、その時間を最大限有効に活用しないと。
そう結論を出しながら蘭は呟いた。
「みんなは上手くなってるんだから、あたしだけ立ち止まってるわけにもいかない……」
誰もが成長しているのは分かっている。モカやひまりは勿論、巴やつぐみもドンドン上達していっているのは感じていた。
しかし自分はどうだ?個人の勝手な事情に囚われて、上手くなるどころか足を引っ張っているではないか。
部屋に置いてあるギターに目を向ける。もちろん、無機物のギターは蘭に何も語ってくれはしない。
ただ陽光を反射して煌めくだけで、その胸のモヤモヤとは正反対に輝いていた。
「…………なのに」
気付けば自然と歯を食いしばっていた。胸の内で暴れる不安と苛立ちが、蘭の心をかき乱す。
「なのに、なんで進めないの……!?」
頭では分かっている。このままではいけない、どうにかしないとなんて事は。
だけど、どうすればいいのか分からない。何をすればこの苦しみから解放されるのかを考えれば考えるほどドツボにハマって、頭の中がぐちゃぐちゃになって、今すぐにでも狂ってしまいそうだった。
「く、うっ……!」
胸が苦しい。今まで気にもとめなかった心臓の鼓動が、やけに五月蝿く耳に残る。ぎゅっと胸元を掴みながら、動悸を抑えようと深呼吸を繰り返した。
やっと呼吸が元通りになってきた時には、時計の針が起きる予定の時間を過ぎていた。
「………………起きなきゃ」
寝不足で鈍い痛みを発する頭を抱え、力の入らない身体に活を入れて立ち上がる。すると、昨日見ていたRoseliaの特集が載った雑誌に、自然と目線が吸い寄せられた。
広げっぱなしだったそのページには堂々とした友希那の姿と、その覚悟とやらを語っているインタビュー記事が載せられていた。
そこから目を外すと、今度は窓ガラスに僅かに写った、疲れきった蘭の姿が見える。
なんてザマだ。蘭は自分に向けて嘲笑を浮かべた。
追いつきたいと願った相手が更に先へ進む一方で、自分は後退する一方。つぐみやひまりの背中を見ているような現状では、友希那の背中など見ることすら叶わない。
部屋を出る直前に少しフラッと揺れながら、蘭は思わず呟いた。
なんで、あたしだけ。
蘭の胸の内は晴れやかな朝とは正反対に暗く、先が見えない森のような陰鬱さを持っていた。
「よう蘭、おはよう」
「ら~ん~。おはよー」
「蘭ちゃん、おはよう!」
「らーん!」
いつも通りの何でもない朝、昔から変わらぬ4人と待ち合わせる。
でも何故だろう、今日はいつにも増して幼馴染たちが眩しく見えた。気を強く保たないと、思わず目を逸らしてしまいそうだ。
「…………おはよ」
「おー?ら~ん、今日はご機嫌ナナメですかなー」
挨拶の声は自分でも驚くくらい低い声だった。気持ちに引きずられて暗くなっているのだろう。
そんな様子をモカは見逃さない。若干茶化すような軽い口調で、しかし何かを探るような目を向けてくる。
こういう時、察しのいいモカの存在は厄介だ。普段は頼りになる筈の洞察力が、今はとても鬱陶しい。
「寝不足」
「ああ、なら仕方ないね。あたしも眠いと、なんだかイライラしてパンが欲しくなるし」
「……イライラしてパンが欲しくなるの?」
「長い付き合いだけど、モカの事はまだ良く分からないな」
「トモちんひどーい」
寝不足という嘘ではないか真実でもない理由を答えれば、モカが勝手に話を別方向に逸らし始めて、どんどん話が脱線していった。
モカが山吹ベーカリーのパンの良さを語っているのを尻目に、蘭は見つからないように軽く息を吐く。
なんとか誤魔化せただろうか。気持ちに引きずられて、暗くなってはいないだろうか。
長い付き合いだし、もし暗くなっていたら簡単にバレてしまうだろう。そして心配されてしまう。だけどガルジャムが間近に控えた現在、みんなに負担は掛けたくなかった。
(どうにか隠さないと)
あともう少し、2週間の辛抱だ。そこさえ乗り切れれば後は何とかなるに違いない。
そう信じ、蘭は鈍い痛みを発する頭を抱えながら学校への道のりを歩いて行く。
「だよねー蘭?」
「……ごめん。話聞いてなかった」
「えー。モカちゃんのありがたーいパンのお話を聞きそびれるなんて、いま蘭は凄い損したよ。人生最大のミスだよ~」
「人生最大は言い過ぎでしょ」
他愛のない会話と何も変わらないみんなの様子。そこからは、まだ察せられたような雰囲気は出ていなかった。
大丈夫だ、まだバレていない。
「1時間目って生物だったよね?私、今日の小テスト自信ないんだ……」
「ひーちゃんって、いつも自信ないって言ってるよねー」
「でも、ひまりちゃんがそう言って本当にダメだった事って、あんまり無いよね?」
「まあほら、本当にダメだと紗夜が……ね」
下駄箱で上履きに履き替えて階段を登る。高校に進学した当初は登りきるだけで息切れしていたが、慣れた今ならそんな事も無かった。
既に自分の席に荷物を置いたらしい生徒が廊下で雑談している様子も、朝の日常の一コマだ。
そんないつも通りの廊下の、いつも通りの場所で、蘭は進む方向を変えた。
「じゃあ、また後で」
「後でねー」
蘭とそれ以外の4人はクラスが違い、蘭はA組で4人はB組だ。A組とB組は体育なんかは合同でやるし、教室の位置も隣同士だが、少しの間でも離れるのには違いない。
今立っている位置から見て、蘭が入っていった手前側の教室がA組なので、残る4人は蘭とは一旦別れて奥側のB組に入る。
A組に入っていく蘭の背中を歩きながら見送るのも、いつも通りの事だった。
それを終えた各々がB組に入って自分の机に鞄を置き、丁度いい位置にあるモカの席に集まった時。4人の顔は、皆一様に渋い様子になっていた。
「蘭ちゃん無茶してるよね」
最初に切り出したのはつぐみ。話し合いの内容は、さっきまでの蘭のこと。
蘭はまだ隠せていると思っているようだが、バレていない筈がなかったのだ。
自分では気づいていないだろうが、どこか上の空だったり顔色が微妙に悪かったりと、明らかな異常が見て取れた。それは蘭を見慣れていなければ見過ごしてしまいそうだが、蘭を見慣れているなら分かりやすすぎる変化である。
異常を見せておきながらバレてないと思う蘭の見込みが甘いと言えばそれまでだが、裏を返せば少し鏡を見れば分かりそうな自分の変化に気づけないくらい、蘭が切羽詰まっているという事でもあるだろう。
「蘭は抱え込みやすいですからな〜。でも、そこまで蘭が抱え込む問題となると……」
「家のこと……だろうな。あそこまで蘭を悩ませる問題っていったら、アタシにはそれしか思いつかない」
歴史ある華道の家に生まれた一人娘の幼い双肩に掛けられる責務とか重圧とかは、裕福とはいえ一般家庭の生まれな4人には分からない。
だけど良いことばかりではないんだろうな。というのは何となく分かっていた。過去に何度も、華道の稽古とかで蘭と遊べなかった事を経験しているからだ。
そして歳を取るにつれ、段々と今の年齢に近くなるにつれて、蘭が稽古を嫌がるようになっていった事が、強く印象に残っている。
「いやいや。もしかしたら恋をしているという可能性も」
「それならそれでいいさ。どっちにしろ、解決しなきゃならない問題に変わりはないんだし」
ひまりの発言は如何にも今どきの女子高生らしいものだった。巴はそれを口に出して否定こそしなかったものの、無いんじゃないかな。と心の中で思う。
「どうするー?蘭、あの調子だといつか倒れちゃいそうだけど」
「そりゃ決まってるさ。涼夜の時と同じように、多少強引にでも話を聞く」
なにかと溜め込みやすい性格をしている蘭だが、しかし自分から話そうとはしないだろう。ガルジャムも近いし、恐らくこちらに気を使って1人でなんとかしようとしている。と半ば確信していた。
もう10年近い付き合いだ、蘭が考えている事なんて容易に想像がつく。
「でも蘭ちゃんって、ちょっと意地っぱりな所があるよ。正直に話してくれるといいけど……」
「部外者でも話を聞くだけならできるって、昔に言ったのは蘭だ。嫌とは言わせない」
気を使ってくれているのは嬉しいが、だからといって1人で苦しむ蘭を見たくはない。こういう時に力になってこそ友達なんじゃないのかという思いが巴にはあった。
「巴らしい強引なやり方だね」
「アタシらしいって、そんな風に思われてたのか?…………まあいいけど、とにかく蘭にはこれくらいが丁度いいさ」
ほぼ間違いなく言い争いに近い事が起こるだろう。だけどそれは仕方ない事だと割り切っていた。
真に友達を想うのならば、多少荒々しい手段を取らなければならない時もある事を、巴は知っている。そして、それをしなければならないのは今だと確信していた。
「いつやるの?」
「今日の放課後かな。アタシの予定が空いてるから、そこで仕掛けてみる」
今仕掛けても意味は無い。蘭から話を聞き出すには相応に時間が必要だし、途中で逃げられないように場所を整える事も必要だ。
それらが出来る時間的な余裕があるのは放課後しかないだろう。そして幸いな事に、今日は予定が空いていた。
「蘭の事は心配だけど……こんな時に限って部活なんだよねー……」
「私も生徒会が……」
「いいさ。アタシとモカで何とかするから、2人は自分のやるべき事に集中してくれ」
「吉報を期待しててよー」
方針は決まった。ならば後は行動に移すだけだ。モカと巴は頷き合いながら、どうやって蘭から話を聞くかという事を考え始める。
(涼夜達に頼るのは本当に最後の手段だ。一番付き合いの長いアタシ達で解決できるんなら、それが一番いいに決まってる)
事情を話せば助けてくれるだろう。もしかすると助けるどころか、彼一人で話し合う舞台を整えてくれさえするかもしれない。
だけど、それじゃあ何時まで経っても自分達は成長できない。何でもかんでも"彼に任せればいいや"では思考停止もいい所だし、望む望まぬに関わらず、いつか別々の道を歩まなければならなくなる時は必ず来る。
いつまでも彼という補助輪が存在する訳ではない事は分かっているのだから、その補助輪を外すためにも、この問題は自分達で解決したいのだ。
(…………本当は、蘭が自分から打ち明けてくれるのが一番なんだけどな)
少なくとも今は期待できないか、と巴はその考えを切り捨てた。
──蘭がふと顔を上げると、そこは学校から離れた商店街だった。
「あれっ?」
唐突に意識を取り戻した蘭は、目の前に広がる夕日色に染まる見慣れた商店街に困惑しながらも周りを見る。
「ここって……」
なぜ、こんなところに立っているのだろう。さっきまで自分は学校に居たと記憶しているのだが……。
鞄の中からノートを取り出してパラパラとめくってみれば、それなりにノートは取ってあるみたいだった。まるで覚えていないが、これは紛れもなく自分の文字だ。授業は受けていた……のだろうか?
他には何かないかと鞄の中を更に漁れば、朝には持っていなかったプリントが入っていた。
その一枚を手に取ってみる。夕日に照らされたプリントには『授業参観のお知らせ』という、今の蘭が見たくないお知らせが書かれていた。
「……」
それをぐしゃっと潰して鞄に押し込み、スマホの画面に映る時計を見た。普段練習を始める時間から少し遅れている。
(何があったのかは分からないけど、早く練習を始めないと。もう時間もないんだから)
自分の身に何があったのか気にはなるものの、気にしたところでわかるものでもない。
だからさっさと考えを変えて一歩を踏み出そうとした瞬間、
「あら?あなた……」
それを阻むかのように背後から声がした。一度だけだが確かに聞いたことのある声に蘭が振り向くと、そこには予想通りの人物が立っていた。
「湊、さん」
「確か……美竹さん、だったわね」
紗夜に友希那が声をかけた日から顔を合わせていない2人が、この日、偶然出会した。