ぎゅっと、何か強く掴まれるような感覚で、ふと目を覚ました。
カーテンの隙間から部屋に射し込んでくる僅かな光と寝る前に電気を消した時と同じ暗さが、まだ夜明けも訪れていないらしい事を伝えてきていた。天井に向けていた目線を壁掛け時計に移すと、今が午前の2時前後である事が分かる。
そこまでをぼんやりした目つきで把握してから、俺は目線を下げた。
いつものように一緒に寝ていた千聖が、段々と掴む力を強くしながら、どこか不安そうな目をしつつ俺を見ていた。
「どうした?」
「…………」
千聖は何も答えない。ただ無言で俺の胸元に顔をうずめるように密着してきたかと思うと、そのまま動かなくなる。
何か、良くない夢でもみたか。そう理解した俺は言葉を選びながら千聖の頭を撫でた。
「言ってくれなきゃ分からないぞ」
「…………私が、勝手に見た夢だもの。兄さんは寝てていいわ」
「原因は俺なんだ。放っておくわけにはいかない」
もう眠気など無くなっていた。こんな状態の千聖を見て、のんきに寝ている事なんて出来るわけがないだろう。
ぽつりと呟いた千聖の声には、抑えきれない湿っぽさが滲んでいた。それだけで、どんな夢を見たのかが概ね想像つく。
「その様子だと、また夢の中で俺が何かしたか」
ぴくりと千聖の肩が僅かに動く。元より隠し事なんてお互いに通用しないのが俺と千聖だが、こうまで露骨なら見逃すはずもない。
そして、また、というように、千聖がこんな状態になるのは今回が初めてという訳ではなかった。
「……で?今度は何をしたんだ」
「………………」
「なるほど。相当酷かったんだな」
口をつぐむという行為そのものが、その酷さを雄弁に語る。沈黙は金という言葉があるものの、それは常に当てはまる訳ではないのだ。
「兄さん……」
か細い声だった。今にも消えてしまいそうな声量だった。
そんな言葉と共に顔を上げた千聖の目にはハイライトが存在しない。元から千聖の目にハイライトというものは殆どなかったが、それが完全に無いということは今回は相当酷かったんだなという事を理解した。
「怖いの。私」
千聖は震えていた。
「分かってはいるのよ。兄さんはもう私を離さない、ずっと一緒に居てくれるって」
「だけど、ね。ふとした拍子に頭をよぎるのよ。また捨てられたらどうしよう、また置いていかれたらどうしようって……」
そこまで絞り出すように言ってから、千聖はポロポロと大粒の涙を零し始めた。
「ごめんなさい……私、兄さんの事を信じきれなくて……!」
「いや、それは俺が悪いんだ。千聖は悪くない、俺が全部……」
千聖の信頼を裏切ったのは俺で、その心を踏みにじったのも俺だ。千聖は誰より俺を責める権利があると思っているし、何度かそう言った事もある。
でもそう言う度に、千聖は今みたいに無言で首を横に振るのだ。
「兄さんが常に私の事を第一に考えてくれているのは知ってるわ。あの時は、それがちょっと空回りしちゃっただけって事も……。
だから私は兄さんを許すの。兄さんが私を愛してくれているように、私も兄さんを愛しているから」
千聖はどこかイカれている。
事ここに至って、俺はそれを認めざるを得なかった。
あれだけの出来事があったなら多少なりとも恨み言を言うだろうし、そうでなくとも悪感情を持つのが普通だ。
だから俺も恨まれる覚悟はしていたし、持つであろう悪感情を利用して兄離れをさせようとさえした。たとえ憎まれようとも、千聖が幸せになれるならそれでいい、と。
だというのに、千聖からは一切悪感情を持つような気配が無い。それどころか、愛しているからという理由で千聖は俺の全てを許してくれる。許してしまう。
その理由は何となく分かっていた。
(……捨てられたらどうしよう、か)
結局のところ、全てそこに行き着くのだろうなと俺は考えている。俺に捨てられるのが怖いから。俺に置いていかれるのが怖いから。
だから機嫌を損ねて居なくならないように、こうまで許してくれるのではないか。
あの騒動のあと、昔よりベッタリになって風呂もトイレまで着いてくるようになってしまったのも、根本の理由はそこにあるのだろう。
千聖は俺に対して過剰なまでに離れるのを嫌がるのは、目を離した拍子に俺が消えてしまうような気がしているのだろうと。
これは俺の勝手な推測だが、間違ってはいない筈だ。そうでなければ、学校の授業の都合で離れた後に合流した千聖が、やけにホッとしたような顔を見せるわけがない。
兄離れさせるどころか、より一層強くなってしまった依存。これは間違いなく俺の責任だ。
千聖を歪めてしまったのが俺のせいだという事に疑いの余地はない。ここがどんな世界なのかは遂に分からなかったが、俺がいる時点で本来の流れからは確実に逸脱しているだろう。
そして千聖は、その煽りを最も強く受けている。そんな気がする。だからこれは俺のせいなのだ。誰がなんと言おうと、俺だけが抱える罪なのである。
「ねえ兄さん、ぎゅってして。壊れそうなくらい強く、がっちりと。夢の中でも離れないように」
「…………ああ」
元から異端者の俺と、そのせいでイカれてしまった千聖。
もしかしたら白鷺家で平和に暮らしていくはずだったのかもしれない千聖を変えてしまったのは俺なのだという事実を、千聖が泣き疲れて眠るまでの間ずっと受け止め続けていた。
兄さんが私に対して罪悪感を抱いていることなんて、とっくの昔に気付いていた。
ふとした拍子に兄さんは私に申し訳なさそうな表情を向けて、何故か「ごめんな」なんて謝っていたから、気付かない方が難しい。
そして私は、そう言われる度に苦笑いと一緒に首を横に振った。そうすると兄さんは何も言わず、ただ困ったように頭を撫でてくるだけだった。
きっと過去の騒動を負い目に感じているのでしょう。兄さんは優しいから、そういう事を背負い込んでしまうもの。
でも私からすれば、もう過去のことなんて殆ど関係はない。今こうしていてくれるという事実があるなら、兄さんが私を突き放そうとした過去なんて些細なこと。
だから私は兄さんを恨んだりなんてしないわ。あのタイミングで空気を読まずにやってきた白鷺家の人に空気読めと思うことこそあれど、兄さんに負の感情なんて向けられるはずがないし、向けようとも思えない。
もし負の感情を向けるのだとしたら、それは白鷺家にのみ向けられるものよ。
白鷺という苗字は向こうから捨てさせてきたのだから未練なんて欠片も無い。私の苗字は星野、これは一生変わることは無いでしょう。
そもそも赤ちゃんの頃に捨てられている時点で、向こうとの縁は切れたのだと私は解釈している。どんな事情があったのかは知らないけれど、私にとって大事なのは縁が切れたという事実のみ。
そのはずなのに、ぬけぬけと戻ってくるなんてどういう神経をしていたのか。まったく、身勝手で図々しいにも程がある。
こっちの都合も考えずに勝手に現れたと思ったら、母親譲りらしい私の目の色を見て勝手に親近感を覚えて私を迎えに来たなんて妄言を吐く。……施設で会っていなかったら通報していたところよ。
私が言った通りに抱きしめてくれている兄さんの腕の中で、私はぴったりと兄さんの胸に耳をあてた。
(……暖かい)
とくん、とくんと一定のリズムで聞こえる兄さんの心臓の音が心地いい。
たとえ体が成長しても、この音は昔からずっと変わらない。いつでも私に安心感を与えてくれる魔法の音だ。
その昔、私の記憶には無い遥か彼方から、私は兄さんの心臓の音で泣き止んだと聞いている。私が転んだり、犬が怖かったりして泣き出した時、いつも兄さんが今みたいに私に心臓の音を聞かせて泣き止ませていたとも。
その音がなせる技なのか、ポロポロと零れていた私の涙は次第に引っ込みはじめて、それと共に恐怖心も和らいできていた。
「…………」
当然の事ながら、この時間にもなれば周りは夜の静寂に満たされていて、他の音は聞こえない。
誰もが寝静まっているだろう時間、この世界にいるのは兄さんと私だけ。兄さんがいて、私がいる……それがこの瞬間の全てだった。
…………ああいや、この瞬間に限った話ではないわね。
昔からずっと、私が自我を持った瞬間から、この部屋が私の全て。この部屋にある物、いる人が私を作るモノ。ここから外にある世界の事なんてどうでもいいし、無くても変わりはしない。
それは昔からずっと思ってきた事で、今でも変わらず思っている事でもある。
私に愛をくれたのは兄さんで、私に家族をくれたのも兄さんで、私に世界をくれたのも兄さんだ。
私の全ては兄さんから貰ったものだけで出来ている。それ以外の不純物なんて入る余地は無いし、あったとしても入れさせない。誰も、何も。
とくん。とくん。耳元の音は変わらない。兄さんが呼吸をする度に胸が上下して、鼻息が僅かに私の髪を揺らす。
兄さんに包まれている私は、さっきまでの恐怖心をやっと忘れて眠りにつこうとしていた。
うとうとしはじめた瞬間、兄さんの溶けて消え去りそうなくらい小さな呟きが私の鼓膜を揺らす。
「……ごめんな」
ほら、また言った。
私は訪れた眠気に意識を引きずり落とされながら、首を微かに横に振った。
兄さんはきっと、私が兄さんを許すのに何か深い理由があると思っているのでしょう。そんなもの、ありはしないというのにね。
私が兄さんを許すのは、兄さんが家族だから。それ以外に理由なんて無い。
だから、そんなに思い詰めなくてもいいの。それよりも兄さん、また昔みたいに笑って?
兄さんの笑顔と喜びが、私の喜びでもあるのだから。
◇◇
あの2人について真っ先に思う事といったら、いつ一線を越えるのかハラハラする。という少し下世話なものだ。
なんといえばいいのか……義理とはいえ年頃の兄妹の距離感ではない所に危うさを感じているのだろう。
……どうして私がこんなことを考えているのかというと、一緒に昼食を取っていた日菜の発言が原因だった。
「涼夜君と千聖ちゃんの距離感、おねーちゃんはどう思う?」
「距離感?」
お昼休みになるなりダッシュで駆け込んできた日菜と共にお弁当を広げながら、私は疑問を日菜に返す。
私達が同じタイミングで弁当箱の蓋を開けると、そこには全く同じおかずの入ったお弁当が広がっていた。
「そうそう距離感。ひまりちゃんみたいに上に兄が居る家の子から見ると、あの2人って異常に近いらしいよ」
「……まあ、それはそうでしょうね」
それには同意する。
私に一般的な距離感というものは分からない。隣に居るのが色々と近すぎる日菜だし、そもそも妹なのだから参考にはなるはずもなく、かといって身近にも兄妹の参考例が無いから『どの程度が適切な距離感なのか』というのすら分からない。
けれど、それでもあの2人が近すぎることくらいは分かっているつもりだった。普段から日菜がベッタリくっついて来る私がそう言う時点で、どれくらいかは察して欲しい。
「知らない人が見たら、あの2人ってバカップルに見えるんだって。見た目が似てないから余計に」
「血は繋がってないものね。無理もないわ」
「ところで涼夜君ってさ、性欲とかあるのかな」
「ぇえ?またあなた、そんな脈絡もなく話を変えて…………知らないわよ」
あまりに脈絡のない話題転換に思わず間の抜けた声を上げながらも、日の高いうちからなんて話を持ち出すのか、と眩暈に似たものを覚えながら話を受け流す。
こういう時はセメント対応をしないと日菜はすぐに暴走してしまうのだというのは経験で分かっていた。
「大体、なんでそんな話になるのよ。どう考えてもそっち方向の話じゃないでしょう」
「涼夜君は男子高校生でしょー。それで、聞いた話だけど男子高校生って凄いらしいじゃん?だけど涼夜君は全くそういう素振り見せてないよねーって」
「……仮にあったとして、日菜には関係ないでしょう。その劣情をぶつけられたとかならまだしも、そんな事ありえないでしょうし」
「そうなんだよねー。涼夜君、ひまりちゃんの無防備なスケベボディを見ても呆れ顔するだけだし」
上原さんが無防備なのは今に始まった事じゃないし、その度に居合わせた全員で注意もしている。
本人曰く「Afterglowのみんなの前だけだから大丈夫だよ〜」らしいけれど……だからといって、気を使わなくてもいいという事ではないでしょう。
「もしロリコンだったらあこりんにも欲情してないと変だし、やっぱ千聖ちゃんオンリーなのかもなー」
「涼夜は前から千聖さんオンリーでしょうし、千聖さんは涼夜以外は眼中に無いなんて分かっていたことじゃない」
「2人ともお互いが大好きだもんねー。5年後とか10年後はどうなってるんだろう」
そう言った日菜は、さも当然のように私の卵焼きを持っていきながら考え込むような仕草をした。しかしその直後、どうでもいいのか、それとも飽きたのかは分からないものの、とにかく考える事をやめた日菜が別の話題を振ってくる。
「まっいいや。それよりおねーちゃん、FUTURE WORLD FES.には行けそうなの?」
「さて、どうかしらね。この調子だとギリギリかもしれないわ」
白金さんや今井さんのメンタル面は実際のライブで鍛えてもらうしかないから置いておくとしても、まだバンド衣装も決まっていないし、技術面でも課題が残っている。
それ以外にも、楽曲の用意やセットリストの作成など……考えるまでもなく問題は積まれていた。
「大変だねぇ」
「一つずつ地道に解決していくわ。幸い白金さんや今井さんがバンド衣装の草案を纏めてくれているから、衣装の問題はすぐに解決しそうよ」
「デザイン見れる?見れるならちょっと見せて!」
「別にいいけど……はい」
トークアプリに貼られたデザインを画面に表示して日菜に渡すと、画面をスワイプしながら次々と見ていく。
その隙に日菜の弁当箱からウィンナーを持っていきながら、私は日菜が見終わるまで待った。
「……うわぉ。一つだけ凄い異彩を放ってるこれ、あこりんのデザインって一目で分かるよ」
「それは真っ先に却下されたわ」
「だろうね」
うんうんと頷きながら、日菜はスマホを返してきた。それをポケットに入れながら、私は食べ終わった弁当箱をカバンの中に仕舞う。
「今日も練習?」
「ええ。今日は全員の予定が合うらしいから、スタジオで合わせる事になっているわ」
「うーん……あたしはどうしよっかな」
「どうって?」
「何もすることない」
そんな馬鹿な……とは言えない。美竹さん達はガルジャムに出る準備で忙しいだろうし、私達は言わずもがな。そして涼夜や千聖さんはバイト尽くし。
私達の中で日菜は1人だけ何もやっていないから、暇を持て余しているのでしょう。
「ギターの練習でもしておけばいいじゃない」
「1人でやっててもつまんないんだもーん」
「じゃあ何か……趣味を見つけるとか、あるいはバイトでも始めるとか」
「バイトかぁ……それもアリかも」
…………でも、日菜がバイトって全く想像つかないわね。どうしてか上手く行くような気がしないのは、日菜のズバッと物事を言う性格を知っているからなのかしら。
「自分が納得いくまで探しなさい。今の日菜には、それくらいの時間はあるでしょう?」
「そうするー。ごちそーさまでしたっと」
気付けば、私の弁当箱は殆ど空になっていた。最後に残ってしまったにんじんを嫌々ながら齧っていると、現実逃避気味に高速回転した思考が一つの考えを出す。
「ところで日菜」
「なにー?」
「まさかとは思うけれど、にんじんを残すなんて言わないわよね?」
さり気なく隠していたけれど、私達のお弁当のおかずは同じものが入っている。つまり私の弁当箱ににんじんが入っていれば、日菜のにも入っているという事になるのだ。
ぴたりと日菜が一瞬動きを止めた隙を逃さず、私は閉じられかけていた弁当箱の蓋を持ち上げた。するとそこには、案の定一切手のつけられていない、にんじんが残されていた。
「……日菜?」
「にんじんいらないよ」
「食べなさい」
……取り敢えず、今は日菜ににんじんを食べさせる方法を考えないといけないわね。