巴とひまりが、(恐らく)彩ちゃんと花音先輩と同じ店でバイトしているのを何人が知っていただろう。
私は少し前まで知りませんでした。
「あーもう、どこ行っちゃったんだろ……」
放課後、夕暮れが校舎の窓に反射して眩しい晴れの日。ブラウンカラーの長髪を風に靡かせながら、1人の少女が人混みを縫うように歩いていた。
キョロキョロと周囲を見渡して、誰かを探しているようである。
「確かに5分は過ぎてたけど……あ、いたいた。友希那ーーっ!」
やがて目当ての人物を見つけたらしい。名前を呼びながら、その人に向かって小走りで駆け寄った。友希那と呼ばれた少女は、そんな声に反応して振り向く。
「リサ。どうしたの」
「どうしたのじゃないよ。待っててって言ったのに、先に行っちゃうから追い掛けて来たんだよ」
「私は5分も待ったわ。でも来なかったじゃない」
「うっ。まあ、そうなんだけど……」
痛いところを突かれた、とリサという名の少女が呻いた。"5分で良いから待ってて"と言ったのは他ならぬリサであるから、友希那の言葉は真っ当な正論だったのだ。
そうやってリサが怯んだ隙に、友希那は止めていた足を再び動かし始めた。
「それじゃあ、私は行くわ」
「え?!ちょ、ちょっと待って、一緒に帰ろうよ!」
「今日は入り時間早いの」
リサの静止を求める声も聞かず、友希那はずんずん先に進んで行く。比較的小さな体は、あっという間に人混みに飲み込まれて見えなくなった。
「ああもう、待ってって!」
今日のリサは、そんな友希那を追いかけて帰路についた。
羽丘女子学園に通っている高校2年生、今井リサには1人の幼馴染が居る。
良く言えばクール、悪く言えば無愛想。他人からの評価は"とっつきにくい"という、蘭と似たり寄ったりのもの。それが外様から見たリサの幼馴染、湊友希那という存在だった。
「はぁ、はぁ……もう友希那。歩くの早すぎ」
「リサ。家はこっちの方向じゃない筈よ」
友希那は疑念の目をリサに向ける。リサが道を間違えるような初歩的ミスを犯すはずが無いという、ある種の信頼から向けられたものだった。
「いやー。今日はアクセショップを見に行こうと思ってさ。そうだ!良かったら友希那も一緒に……」
「行かない」
言葉を断ち切るような、容赦の無い物言いだった。最後まで言い切れずに拒絶されたリサは、一瞬だけ悲しそうな表情を見せた後、それを隠すように空笑いを見せる。
「……ん、そっか。でもほら、途中までは一緒に行こうよ。アクセショップも、こっちだからさ」
「…………」
そんなリサに友希那は何も言わず、駅前に辿り着くまで無言の状態は続く事となった。
「……友希那さ。ほんと忙しそーだよね。毎日毎日、いろんなライブハウス行ってさ」
「そうね」
最近はガールズバンドが流行っているが、その中で友希那は珍しくソロで活動していた。鳥籠の歌姫なんて呼ばれるくらいの技術と人を惹きつける声を持つ友希那は、連日連夜ライブハウスに足を運んでいる。
「だけど、毎日歌ってるんじゃないでしょ?」
「…………」
無言は肯定と同義だとリサは捉えた。話をするならこの流れしかない。リサはそう考えて、友希那にとっての禁忌に足を踏み入れた。
「…………この話したくないのは分かってるけど、さ。バンドのメンバー、まだ探してるんでしょ?」
「当然よ。『フェス』の参加条件は3人以上。あと2人、見つけてみせるわ」
断固たる意思。その眼差しには1点の曇りも無い。
そんな友希那を見たリサは、今度は悲しそうな表情を隠さずに友希那に向き直った。
「でもさ。なんか、そういうのって……!」
「私はやる、そう決めたの。リサだって知ってるでしょ。お父さんの事」
「それは、そうだけど……。でもだから、アタシは友希那に──」
「私はただ、自分のしたい事をしてるだけ。リサがアクセサリーショップに行くのと同じ事よ」
明らかな拒絶。冷たい眼がリサを射抜いた。
「友希那っ」
「じゃあ、ライブハウスに着いたから。アクセサリーショップ、早く行かないと日が暮れるわよ」
すぐ隣を歩いて行く友希那。手を伸ばせば届く距離だ。友希那の手も、肩も、掴もうと思えば掴める。
「あ……」
だけどリサは動けなかった。ただ目を動かして、友希那が隣を通り過ぎるのを見送る事しか出来なかったのだ。
振り返った時には、友希那は長い髪を風に靡かせながら駅前の人混みに消えていく所だった。
「……相変わらず、頑固だなぁ」
やろうと思えば振り向かせる事は出来た。だけど身体が動かなかったのは……きっと自分に、その程度の覚悟しか無かったという事なのだろう。
(アタシは友希那と違って強くない。一つの事をやり遂げる力も、ストイックに結果を追い求める事も……)
かつてやっていたベースも、"ネイルがやりたいから"という女子高生らしい理由で辞めてしまっている。
全てを捨てて音楽に費やすなんて、そんな事はリサには出来なかった。
「……だけど、そんなアタシにも出来る事はある」
友希那の幼馴染は自分だけだ。同い年で、一番近い場所に居るのも自分だ。
「アタシには、友希那の覚悟を見届ける権利と義務があるんだから」
最後まで、その覚悟を見守るって決めたんだ。
◇◇
「はぁ……」
バイト終わり。バイトの制服から学校の制服に着替えながら、ピンク髪の少女が溜息をついた。
「どうしたんですか?彩さんらしくもない」
「あっ、巴ちゃん。あはは……みっともないところ見せちゃったね」
今日は偶然にも同じ時間帯にシフトに入っていた巴の心配する声に、彩と呼ばれた少女は気落ちした様子を隠さない。
滅多に見ない彩の様子は、巴でなくても気になってしまうものだった。
「何かあったんですか?アタシで良ければ相談とか乗りますけど」
「……ありがとう巴ちゃん。じゃあ、ちょっとだけ聞いてくれる?」
どこか寂しさを感じる疲れた笑み。これは本気で──それこそ、いつぞやの星野兄妹クラスでヤバい問題だと巴は直感した。
「ええ。でも場所を移しませんか?ここで話す内容じゃない気がしますし」
「あー……うん、そうだね。そうしよっか」
事の重大さを察した巴と、察された事を察した彩。2人は何処か緊張感の漂う空気を保ちながら、一先ず2人で話せる場所を探しに街へと繰り出した。
コンビニで小さな紙パックのジュースを買って、近くにあった公園のベンチに座る事にした2人。
2つ並んでいるベンチのうち、横にゴミ箱が近い方に彩が、ゴミ箱から遠い方に巴が、それぞれ座る。
座ると同時に紙パックにストローを刺して口へ。そうして紙パックのジュースが半分くらい無くなった所で、彩は口を開いた。
「私ね、アイドル研究生なの」
「アイドル研究生……初耳です」
「言ってなかったからね」
彩の告白は、巴を驚かせるのに充分すぎる威力を持っていた。巴の中にあるアイドルは、画面の向こうで集団で踊ったり歌ったりしているグループであり、何処か遠い存在。というアナログなイメージで構築されていたから、身近に研究生が居たというのは意外だったのだ。
「いつ頃からなんですか?」
「もう3年になるかな。長かったよ、この3年間は」
3年、と言ったところで、彩の表情は暗くなった。そこに何かあるのだと巴は思った。
「3年もですか」
「そう、3年。長いよね…………でも、ただの1度もチャンスが来なかったんだ。もう今年で卒業なのに」
「それは……」
彩から明かされた事情はあまりに重く、苦しいものだった。巴はアイドルに詳しくないが、『1度もチャンスが来なかった』という言葉と『今年で卒業』という言葉から、何が起こっているかは察するに余りある。
「ねえ巴ちゃん。小学生の頃に持ってた夢って、まだ覚えてたりする?」
「え?ええ。まあ、一応……」
あまりに唐突な話題の転換に、話の矛先を向けられた巴は思わず変な声を出した。
不自然な事は承知しているのか、彩が申し訳なさそうにする。
「ごめんね、急で。でも良かったら聞かせてくれないかな」
「そうですね……そんなに大した夢じゃないんですが。みんなと何時までも、バカやれたらなって」
「……それは、叶ってる?」
「ええ。1度は危なくなりましたけど、何とか上手くやれてます」
何になりたいかという、具体的な物は当時の巴には想像がつかなかった。そんな先の事を考えるより、楽しい毎日が続く事を願うように、いつしかなっていたからだ。
そういう意味では、巴の夢は叶い続けているのだろう。これからは分からないが、少なくとも今は。
「そう、なんだ……」
この時、彩がどう思ったのか巴には分からない。羨望、嫉妬、怒り、哀しみ。それらの感情が全て混ざっていたからだった。
「……彩さん?」
「私ね、気づいちゃったんだ。夢は遠いんだなって」
彩は空を見上げた。それに釣られて巴も見上げた空は、ネオンの光に消されかけた、僅かな数の星しか無かった。
「この空と同じ。輝けるのは……夢を掴めるのは、ほんの一握りだけ。殆どの人は、かつて見た夢を諦めて、自分が選べる道を選んで生きていくんだって」
伸ばした手はあまりに短い。地の果てから伸ばした手は、天で輝く光には届かない。
最初の夢を語った人間の何人が、そこに辿り着けた?
「私は昔から、ずっとアイドルになりたかったんだ。画面の向こうのあの存在に、ずっと憧れてたの」
自分の夢を語る彩は楽しそうで、しかし、その口調からは一切の情熱が消え失せていた。
「………………過去形、なんですね」
「──そう、過去形。もう昔の話」
彩は自嘲気味に笑った。その痛々しい姿に巴は目を逸らしかけたが、すんでのところで逸らさなかった。
ここで逸らせば、それは彩への侮辱になると思ったからだった。
「成功した人が居るって事は、反対に失敗した人が居るって事なんだよね。表に出ないだけでさ」
なんで気付かなかったんだろう、こんな単純な事実。スポットライトが当たらない人の方が多いってさ。
巴は何も言えずに、ただ言葉を聞いている。夜を照らす近くの電灯が、チカチカと点滅しているのが煩わしい。
「私は選ばれなかった。でも……」
電灯の明かりが消えた。一瞬で闇に染まった視界では、彩の表情はおろか姿すら確認できない。
「……巴ちゃんは折れちゃダメだよ。一度掴んだ夢は、絶対に手放しちゃいけない」
夢に敗れた先輩から助言。まあ、要らないかもしれないけど。
そう言った後、彩は立ち上がったらしい。靴が砂を踏みしめるジャリッという音と、続いてゴトンという音がした。
「話を聞いてくれてありがとう。お陰で、なんか吹っ切れたよ」
「でも忘れないで。巴ちゃん達が居る場所は、誰でも居られる所じゃない。何人も居る、選ばれなかった人達の上に成り立ってるんだって事を」
足音が遠ざかる。再び電灯が点いた時、彩の姿はもう何処にも見当たらなかった。周囲を見渡しても影も形もない。
まるで夢か幻のような時間。そんな時間が嘘ではないと、彩が確かに居たと証明出来るのは、ゴミ箱に捨てられた紙パックだけだった。
足下の影は色濃く伸びて、巴を無言のまま見つめている。
最後に彩ちゃんが、暗闇の中でどんな表情をしていたかは想像にお任せします。