珍しく全員が揃った梅雨のある日、今日はスタジオで練習をしている。
「ゔあっつい〜〜〜!」
その練習の間に、我慢出来ない!と床に倒れながら、ひまりは服を勢い良くバタつかせ始めた。目の前に俺がいるのにだ。
「おい待てひまり。俺が居るのに何やってんだ」
「んん〜〜?良いじゃん別にぃ。涼夜だし、どうせちーちゃんにしか興奮しないでしょ?それより暑いんだもーん」
「ええ……?何だよその理由」
ひまりからの信頼が厚い。しかし、へそチラしてるひまりにラッキーという思いよりも心配の思いが最初にやって来るのは、俺がひまりを見る目が、親が子を見る様な物だからなのだろうか。
……そんな風に考えてから、確かに微塵も興奮していない事に気がついた。
「ひまりちゃん。流石に女の子として、それはマズイと思うんだけど」
「そうそう。それとこれと話は別だ」
俺がひまりに反応しなかった事は置いておくとして、つぐみの言う通り女子として今の行動は宜しくない。此処で野放しにしていると、ふとした拍子に男子の前でやりかねないから、注意はしておかなければ。
「つぐと涼夜の言う通りだぞ。まったく……そんなに暑いんだったら、アタシが冷房の温度下げて──」
「誰か巴を止めろぉ!」
立ち上がった巴を、近くに居た紗夜と日菜、そしてあこの3人が取り押さえにかかった。
「巴さん、電気の無駄は止めてください」
「ともちんは座ってて」
「おねーちゃんストップ!」
「なんだお前ら!?アタシはひまりの為を思って……」
無理やり座らされた事に巴は少し憤っているが、俺達には巴に空調の温度を弄らせてはいけない理由があるのだ。
「巴ちゃんの感覚で温度を下げられると、みんな凍えちゃうじゃない」
「千聖の言う通りだよ。巴の涼しいって、あたし達の寒いと同じじゃん」
体感温度の差なのか、巴に温度の調節を任せたら全員が凍える事態になってしまうと発覚したのは、去年の事だった。
「しかし、巴がこんなだと、宇田川家の冷暖房事情が気になるな……」
「ねーあこりん。トモちんって、そこのところどうなってるの〜?」
話に乗ったモカの質問に、あこは「うーん?」と蒸し暑さで鈍くなった反応を隠さずに答えた。
「おねーちゃんに触らせたらダメって言うのは、家の中でも言われてるよ。だから、あこがおねーちゃんの部屋の分まで調整するの」
「ほほー」
ぶおー、と駆動音を無機質に響かせる扇風機の前をモカは蘭と陣取っている。
「声禁止」という小さな張り紙が中心に貼られた扇風機は2台あるが、その1台を占領していた。
「…………っていうか、蘭とモカずるい!私も扇風機使う〜!」
「ちょ、流石に3人は暑いって!」
「ひーちゃんは肉々しいですなー……向こうに扇風機あるよ?」
「私は此処が良いのー!」
暗に向こうに追いやろうとしているモカの気持ちを無視して、如何にも暑そうに3人でゴチャゴチャやり始めた。
そんな横で、つぐみが紗夜に声を掛けている。紗夜はこの騒動の傍らで、一人静かにギターを弾いていた。
「紗夜さんはいつも通りクールですよね。何か涼しくなる物とか使ってるんですか?」
「特には何も。ギターに集中していれば、そんな事にまで気が回りませんから」
「なるほど……」
本人の性根だからか、練習や暑さにすらストイックな姿勢を見せる紗夜に、つぐみは驚いたような、感心したような声をあげた。
「言われてるぞ、そこの3人」
「……うっさいシスコン」
「それ罵倒のつもりか?」
蘭の罵倒も元気が無い。湿気にやられたのか、あっという間にバテた3人に苦笑いが向けられる。そんな3人は、ぐでーっとなって扇風機を使い始めた。
「暑い……」
「ジメジメー……かびるー……」
「海行きたいなー……でも今ってシーズンじゃないしなー……」
「海ねぇ……ま、アリじゃないか?」
「お、涼夜が乗り気だ」
夏と言えば海だ。今年は1度きりなんだし、やれる事はやっておきたい気持ちがある。
「えー……?でも海って、モカちゃん溶けちゃうよ〜」
「ならプールだ。最近はほら、室内アミューズメントみたいなのあるんだろ?」
一度も使った事なんて無かった(というか、その手の娯楽施設で使ったことあるのはバッティングセンターくらいだ)から詳細は分からないが、色々遊べる場所だと聞いている。
「おー!いいねいいね!最近は暑くて何もやる気出ないし、ここらでパーッと行っちゃいますか!」
「私は行かないわ」
「えー……」
ギターから目を逸らさずに紗夜は言った。そんな紗夜の様子に日菜は露骨に落ち込んだ後、何かを閃いたのかイタズラな笑顔で紗夜を見る。
「……あっそっか。そういえば、おねーちゃんって最近腰周りが少し……」
「日菜!」
顔を真っ赤にした紗夜がギターを手早く置いて日菜を追い回し始めた。流石の紗夜も、乙女の秘密を暴露されればクールでは居られないようだ。
「うう……腰周り……」
そして腰周りという単語が、ひまりの方に流れてダメージを与えていた。
ひまりの体型を保つ努力も、紗夜とは方向性が違うが、かなりストイックと言えるのではないだろうか。
「……ひまり、また?」
「蘭、またって何!?大事な事だよコレ!」
「いやだってさ」
「だっても何もなーい!」
ひまりは腕をブンブン振るって、あからさまに"怒ってます"アピールを蘭にしている。そんなひまりを見て、思わず口から言葉が零れた。
「そのスタイルで腰周り気にするとか、世の中の女性に完全にケンカ売ってやがる」
「ほら、涼夜もああ言ってる」
「涼夜は男子だから分からないんだよ!この、女子特有の心理が!」
「じゃあ女子に聞いてみるか?ひまりが気にしすぎかどうかを」
「良いよ。でも、ちーちゃんとモカと蘭は無しね」
千聖は俺が言った事を殆ど全部肯定するから、そして蘭はさっきのやり取りから考えて当然として、何故モカもなのか。
「モカって学校でも毎日食っちゃ寝を繰り返してるんだけど、見ての通りスタイルに変化無いじゃん?」
「よく金持つな」
「モカちゃん流の節約術が有るのですよ〜」
「マジか。今度教えてくれよ」
「山吹ベーカリーのパン10個で手を打とうかな〜」
「うっわ。阿漕ぃ」
完全に足下見て物言ってるモカ。気にはなるけど、でも流石にパン10個は出費が痛い。
「話ズラさないでよ?!」
「どうどう。それで、スタイルに変化無いのが何だって?」
詰め寄ってくるひまりを押し返しながら、話の続きを促す。すると、ひまりはムスッとしながらも話を続けた。
「それで巴がモカに"太らないのか"って聞いたら、モカはなんて言ったと思う!?」
「体質」
「"ひーちゃんにカロリーを送ってるから"って答えたんだよ!」
モカの方を見る。無言のピースサインが帰ってきた。俺もピースサインを返してから、ひまりに向き直る。
「まさか信じてるのか?」
「信じてはないけど……でもモカなら出来そうな気がして」
「……まあ、モカがダメな理由は分かった。じゃあ日菜、分かるか?」
「太らないから理解できない」
「この裏切り者ーーっ!!」
座っている俺を盾に紗夜から逃れた日菜の答えに、ひまりが悔し涙を流して吼えた。涙はほぼ確実に演技だろうけど、吼えたのは多分マジだと思う。
「うう……それでもちーちゃんなら、ちーちゃんなら私の味方をしてくれる筈!」
「千聖は身長相応だぞ」
今絶賛、俺の膝の上に座ってるから言える。千聖は軽い。
「むー……なら──」
「…………一体いつまで休憩するつもりですか?」
味方を求めて室内をキョロキョロしたひまりを、紗夜の冷たい目が射抜く。反射的に謝りたくなるランキング1位の紗夜の目線をモロに喰らったひまりは、消え入りそうな声で「……やります」と言ってベースを手に取った。
「はぁ……休んでた筈なのに、どっと疲れた気がする」
「あんだけヒートアップしてたら、そりゃそうなるだろうな」
自業自得だと言うしかなかった。
◇◇
「兄さん。隣いいかしら」
「いいぞー……って言う前から、もう来てるじゃんか」
夜、風呂から上がった千聖と一緒に布団の上に座る。小学生の時は広いと感じた部屋も、高校生2人で使えば多少手狭に感じられた。
「今日もお願いね」
「はいはい……結局、自分で髪を梳かせなくなりやがって」
バイトで貯めた金で買った、千聖の毛質に合う櫛で千聖の髪を梳かすのは、もう夜のルーチンワークに組み込まれているくらい続いた行為だ。
「別に良いじゃない。私より兄さんが上手くやってくれるんだし、私達はもう離れないでしょう?」
「その理屈は無理があると思うんだがなー。単に面倒臭いだけなんじゃないのか?」
黄金色に煌めく髪を真っ直ぐ丁寧に梳いていく。
「そのついでで聞いておきたいんだが、お前ってオシャレとかする気あるのか?」
「いきなり何?」
「お前がファッション雑誌とか読んでるの見たことないから」
この年頃の女子は少なからずオシャレに興味がある。というのは偏見だが、あながち間違いでもないだろう。
しかし、千聖からは一向にそんな気配は漂ってこない。手が掛からないという意味では有難いが、やはり兄としては不安だ。
「読む必要があるの?」
「いやお前な……巴も嘆いてたぞ。千聖は素材が良いのにって」
俺でさえ思うのだから、Afterglowでもトップのオシャレさんな巴からすれば余計に思うのだろう。
実際、ショッピングモールで鉢合わせた時は2時間近く千聖が着せ替え人形にさせられた事もあった。途中で千聖が逃げなければ、夕暮れまで続いただろう。
「巴ちゃんは趣味がファッションだから良いでしょうけど、私は興味ないから」
「そういう問題かなぁ……」
「それに、大勢の人が好むオシャレより、兄さんが好きなオシャレをしていた方が嬉しいもの」
「まーたそういうこと言って」
髪を梳き終わった。俺が櫛を置くために立ち上がろうとすると、太ももに千聖の手が置かれる。
俺が立ち上がるのを阻止した千聖は、そのままグイッと距離を詰めてきた。互いの鼻息を感じられる距離である。
「兄さんの好きにしていいのよ。私は兄さんに全てを委ねているんだから」
「……さいですか」
義妹からの信頼が厚い。嬉しそうに指を絡ませてくる千聖に応えるように、腰に片腕を回して軽く抱き寄せる。
すると千聖が、あからさまに俺に体重を預けてきた。幾ら軽いといっても、唐突に体重を掛けられたらバランスは崩れる。
ぐらりと視界が揺らいだかと思うと、俺が下で千聖が上になるように布団に倒れていた。千聖の重みで僅かに胸が圧迫される。
「いきなりどうした?」
「全てを委ねたのよ」
「何だそれ」
顔を見合わせて笑う。いくつになっても、根っこの部分にある甘えたがりな部分は変わらないらしい。
そのまま少し千聖の頭を撫でていると、されるがままだった千聖から欠伸が聞こえた。
「さて、もう寝ようか。やる事ももう無いし、明日も早いからな」
「ええ、そうしましょう」
布団は常に、2つをくっ付けて一つの大きな布団にして使っている。寝る時も離れたくないと可愛い妹に言われて逆らえる兄は居るだろうか?いやいない。
電気を消して布団に潜ると同時に、千聖がもぞもぞと布団を移動してくる。この時期に密着なんてしたら蒸し暑くて寝れないだろうに、千聖が離れた事は1度も無い。
「蒸し暑くないか?」
「平気よ。これくらいなら」
近くで見れば見るほど、千聖が整った容姿をしている事を強く認識する。なるほど、ファンクラブが出来るのも納得出来る。白鷺家の血は優秀なようだ。
「なら良いけど。おやすみ」
「おやすみなさい兄さん」
昔と変わらず、意識が落ちる瞬間まで千聖は俺の顔をじっと見つめていた。
次回はゆっきーなさん登場。たぶん