夜。施設に戻ってすることといえば、飯食って、歯磨きして、風呂入って、後は宿題して寝るくらいしかない。
「兄さんやって」
「はいはい。まったく、髪を梳かすのくらい自分で出来るだろー?」
「兄さんより上手くできないもん」
「そりゃ毎日俺にやらせてれば上手くもならんよ……」
と言いつつも千聖から櫛を受け取ってしまう俺は甘いのだろう。こっちに背中を向けて座る、ちょっと乱れた千聖の髪を丁寧に梳いていく。この櫛は施設の公用物だから歯が欠けるような乱雑な扱いはできないが、そもそも千聖の髪にそんな乱雑な事はしないので関係ないか。
「そういえば千聖、宿題は?」
「兄さんとやる」
「俺、宿題やるの明日の早朝なんだが」
「一緒にやる」
「……悪い事は言わないから、目が冴えてる今のうちに」
「兄さんと一緒にやる」
「…………」
絶対にここは譲らないという鉄の意思を感じ取れる断言具合だった。こうなった千聖は何を言っても自分の意思を貫く一点張り状態になるので、こちらが諦めて折れるしかない。
どうでもいいが、このやりとりは毎晩のように行われている。そしてその度に帰ってくる答えも同じだ。
「……起きれなくても知らんぞ」
「私の、じ、じ、"じこうせきにん"だもん」
「自己責任な。……あれ?そんな難しい言葉なんで知ってんだ」
「兄さんがいつも使ってるじゃん」
「ああ、なるほど」
そんな風に何気ない会話を交わすこと数分、千聖の長い髪を梳き終えた。
「はい終わり。髪が乱れるような動きはするなよ」
「もう終わりなの?もうちょっとやっててもいいのに」
「もう梳かす箇所も無いのにどうしろと」
俺は職員さんに櫛を返すために立ち上がった。この施設には千聖しか女の子が居ないとはいえ、借りっぱなしはマズイだろう。
「じゃあちょっと行ってくる」
「行ってらっしゃい」
職員さんが敷いてくれた2組の布団の片割れに座った千聖に見送られながら俺は部屋から共用のリビングへ出たのだった。
職員さんに櫛を返してから部屋に戻るまで3分も掛かっていない筈だが、部屋は既に電気が消されて真っ暗になっていた。2組の片割れに座っていた千聖は既に布団に横になっているのが、暗闇に慣れた俺の目で確認できる。
間違って千聖の手足を踏まないように気を付けながら空いている布団に潜る。
すると、隣の布団がいきなりもぞもぞと動き出した。もぞもぞは徐々に俺が寝ている布団に近寄ってきて、やがて隣の布団から俺の布団に乗り移ってくる。
そのタイミングで俺は上半身を起こして布団を勢いよく捲った。
「…………」
「…………」
そしてもぞもぞの正体である千聖と目が合った。しばしの見つめ合いの最中で、俺は頭痛が痛くなるような思いをしていた。
「……1人で寝るって、約束したよな?」
「……えへへっ」
にぱっと満面な笑みを見せる千聖に思わず溜息が零れる。もう小学3年生になるのだし、そろそろ1人の布団で寝られるようにしないとと思った俺が千聖と約束を交わしたのだが、それが守られた事は過去に数回しかない。
「ほら、そっちの布団に戻れ」
「えいっ」
千聖をガラ空きの布団に戻そうとした俺は、いきなり抱きついてきた千聖の勢いに
「兄さん大好き」
「あーはいはい。俺も大好きだよこんちくしょう」
ちょうど鳩尾のあたりに頭をグリグリ押し付けてくる千聖に俺は毎日負けている。どうにかして布団に押し返そうとはしているが勝てた試しがない。
……と言えば聞こえはいいだろうが、実のところ抵抗なんて殆どしていない。できる筈もない。
「勝てないよなぁ……」
「なにか言った?」
「もう寝ようって言った。ほら、そっちの布団に戻れ」
「やだ」
「やだって、お前って奴は……このまま言い争ってても仕方ないか。今日だけだからな」
「やった。兄さん大大大好き!」
なにせ、ふとした拍子に見せる、今のところ俺以外は誰も見たことのないであろうこの満面の笑みに勝てないくらいには、俺は千聖に弱いのだから。
千聖には勝てなかったよ……
「はいはい。分かったから早く寝るぞ」
「はーい」
千聖の枕を置いて、一つの布団に二つの枕という場所が場所なら卑猥な意味合いに取れなくもないシチュエーションで寝るのももう慣れた。最初は前世ではお目にかかれないような美少女の寝顔が近くにあるので落ち着かなかったが、月日というのは恐ろしいものだ。
「おやすみ千聖」
「おやすみ兄さん」
とは言うが、暗がりに慣れた俺の目は向き合った千聖の目とバッチリ合っている。じーっと見つめてくる千聖の意図が掴めないから安心して瞼も閉じれない。
「……俺の顔に何か付いてるとか?」
「寝る前に兄さんを見てると、なんだか良い夢が見れそうな気がして」
「なんだそれ」
…………まあいいか。ただ俺が落ち着かないだけで別に害がある訳でもないし、千聖の好きなようにやらせておこう。
人、コレを思考停止という
「まあいいや。早く寝ろよ」
「うん。今度こそおやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
まだ見つめてくる千聖を無視して瞼を閉じるとすぐに眠気がやってきた。ドラなんとかののび某ほどではないが、俺も寝る早さにはそれなりに、じし、んが……
……ぐぅ
◇◇
「ねえねえ、千聖ちゃん達って放課後は何してるの?」
授業終わりの休み時間、次の授業の準備をしていた千聖に身を乗り出して日菜はそう聞いていた。
「なにって、普通に外で遊んでるけど」
「涼夜君と2人だけで?」
「そんな訳ないじゃん。友達と一緒」
「へー。千聖ちゃんと涼夜君って友達いたんだ」
「おいそれどういう意味だ」
聞いてる俺が思わず言葉使いを少々荒々しくしたのも仕方ないと自己弁護したくなるくらい今のは心にぶっ刺さった。今日も日菜の無自覚煽りは絶好調である。
「えー?だって2人ともクラスの人達からは避けられてるじゃん。だからおねーちゃんと同じで友達なんていないのかと」
「ちょっと日菜、人聞きの悪いこと言わないで。私にだって友達の1人や2人くらいはいるわ」
「本当に?お姉ちゃんのそういう姿、見たことないんだけど」
「そ、それは日菜が見てないだけで、別に友達がいない訳じゃ……」
ああ、アレは確実に友達いませんね……………過去に同じ言い訳をした事がある俺が言うんだから間違いない。ソースは俺という奴だ。ちゃうんや、友達を作ると人間強度が下がるから作らないだけなんや
「兄さん、大丈夫?」
「へ?あ、ああ。大丈夫だ、問題ない」
つい昔の出来事を思い出して遠い目をしてしまった。もう戻れない過去の話なのに、俺は未だに引きずっているらしい。
「それで、普段はどんな遊びしてるの?」
「何事も無かったかのように聞いてきやがって……」
日菜は今度はこっちに身を乗り出してきていた。あまりの切り替えの早さに思わず呆気に取られる。この滅茶苦茶さにはもう慣れたと思っていたが、そんな事はなかったようだ。
「どんなって言われてもな。色々としか答えられない」
「例えば?」
「商店街で辻ポスター貼りとか、山に行って秘密基地作ったりとか、まあよくある感じだ」
「辻ポスター貼りがよくある……?」
「わあ……!なにそれ、すっごいるんってきた!」
そんな俺の回答がお気に召したのか、日菜は目を輝かせて更に顔を近づけてきた。おお近い近い。
そして日菜が更に近づけてきた時、何故か千聖が対抗するように俺の背中から抱きついてくる。我が妹ながら何がしたいのかサッパリ分からん。
「ねえねえ涼夜君、私達もそれやりたい!」
「ちょっと日菜。私達って、まさか私も含んでないでしょうね?」
「お姉ちゃんはやらないの?絶対に楽しいよ?」
「うっ……」
紗夜さんの抗議に、日菜が今度は紗夜さんに思いっきり顔を近付けながらそう返すと、紗夜さんは困ったように呻いた。
「ねーねー。おねーちゃーん、一緒にやろうよー」
「………………………………仕方ないわね、今回だけよ?」
「やたっ!おねーちゃん大好きぃ!!」
たっぷり十秒近くの沈黙の末に折れたのは紗夜さんだった。その声色は本当に不承不承といった感じであるけど、日菜にはそんな事は関係ないらしい。それはもう、飼い主に飛びかかる犬の如く紗夜さんに飛びついた。
「分かったわ。分かったから離れて、ここは家じゃないのよ」
そんな事を言っている紗夜さんも口元が若干にやけているのを俺は見逃さない。なんだかんだこの姉妹も仲がいいようで何よりだ。仲が悪いより良い方がいいに決まっている。
「話は纏まったな。じゃあ昼休みにメンバーと顔合わせるから、時間貰うぞ?」
「昼休みだね、分かった!」
「紗夜さんもそれでいいですよね?」
「そっちに任せるわ」
それだけ言うと日菜はルンルン気分で自分の席に戻っていったが、楽しみで仕方ないという気持ちが所作に現れ出ていた。
「…………」
「千聖?もう日菜も戻ったし、そろそろ授業も始まるから戻った方が……」
そして千聖はまだくっついていた。
「というわけで、氷川姉妹だ。元気そうな方が日菜で、ローテンションな方が紗夜さんな」
「なにが"というわけ"なのか、アタシにはさっぱりなんだが」
昼休み、いつもの場所で初顔合わせである。初めて見るニューフェイスに興味深々が2人、なにがなにやらといった感じのが2人、どうでもよさそうなのが2人。見事に分かれている。
「分かりやすく言うならメンバーが増えた」
「聞いてないんだけど」
「アフターグロウ憲章の第1条、来る者は基本的に拒まず、去る者は基本的に追わず。を忘れたとは言わさんぞ」
「そんな"けんしょう"?なんて初耳なんだけど」
蘭の鋭いツッコミが輝く。アフターグロウ憲章は今作ったから初耳なのも当然だろう。俺がルールだ(キリッ)
「まあ良いじゃないか。メンバーが増えればやれる事も増えるし、知り合いの輪も広がる。悪いことではないだろ?」
「まあ、そうだけど」
「はい、じゃあ決定。氷川姉妹はついでに自己紹介どうぞ。参加の動機とか言ってくれればいいから」
「日菜、先にやりなさい」
「はーい。氷川日菜でーっす!参加した理由はねー、なんかるんって来たからだよ!
えっと、後は……ああそうそう、おねーちゃんは友達いないから仲良くしてあげてね!」
「おい日菜ァ!」
前半までは当たり障りない(日菜基準)自己紹介で安心していたが、やはり日菜は日菜。最後の最後でド畜生発言をぶち込みやがりましたよこん畜生。
だが当の本人は何がおかしいのか理解をしていない様子。キョトンとしてこっちを見ていて、隣で表情が伺えない紗夜さんの事を気にもとめていない。
「どうしたの涼夜君?」
「どうしたのじゃねーよ?!誰が紗夜さんの友達事情を暴露しろっつったよ!?」
「えー?でもお姉ちゃんって不器用だし、友達になろう!みたいな言葉は絶対に出ないだろうから、お姉ちゃんの友達作る良い機会かなって」
「その思いやりは素晴らしいけど言い方!紗夜さんにグッサグッサ刺さってるから!」
その紗夜さんは壁の方へそっぽを向いていた。一見すると堪えていないようにも見えるが、しかし、よく見ると肩が少しプルプル震えているのが分かる。
「ああ、紗夜さんが……大丈夫ですか?」
「べ、別に友達がいない訳じゃ……そう、友達を作ると勉強の方に支障がでるから作らないだけで、やろうと思えば1人や2人くらい──」
「日菜ァ!見ろよこの可哀想な紗夜さんの姿をよぉ!お前のせいで色々と大変な事になってるじゃねーか!」
「あははっ、おねーちゃん可愛い!」
今日、俺は紗夜さんのメンタルが思っていたより脆い事を知った。そして日菜の煽りが日に日に鋭さを増している事も。
「友達いないって、なんか蘭みたいだよね~」
「モカ。アンタはあたしを怒らせた……」
そんなやり取りもあったとか、なかったとか。
でも正直すまんかったと思ってる。