『離さないと言ったって』
巴と殴り合った日の夜、いつも以上にベッタリと、くっついてくる千聖との1日が終わりを告げようとしていた。
「んー、身体が痛い。明日は筋肉痛確定かなー」
自業自得とはいえ、明日は大変だなぁ。と思いながら
「仕方ないわね。兄さんが悪いんだもの」
「分かってるー。巴は完全に被害者なのも分かってるー」
明日、巴と、あこに土下座しよう。そう思い立った。ほぼ間違いなく身体が痛いだろうけど、何とかする。
千聖を抱き寄せながら、俺は、そう誓い……そして今更だが気がついた。
「なあ千聖」
「何かしら兄さん」
「俺達、どうして同じ布団で寝てるんだ?」
最近、ようやっと別の布団で寝るようになったというのに、どうして再び同じ布団で寝るようになっているのか。
そして、同じ布団で寝ている事にマジで違和感を覚えなかった俺も俺だ。慣れって怖いね。
「だって、兄さんが約束してくれたじゃない。もう離さないって」
「そうだけど、せっかく別の布団で寝られるようになったんだし……」
「…………ダメなの?」
「分かった。寝よう」
マジ泣き5秒前な千聖の言葉に逆らう術を、俺は持ち合わせてはいなかった。千聖には勝てなかったよ……。
と、まあ。こんな感じで千聖と同じ布団で寝ている訳であるが
(やべえ、トイレ行きてぇ)
アクシデントは突然に起こるからアクシデントなのだ。今日は寝る前にトイレに行くのを忘れていた事を、トイレに行きたくなって初めて気が付いた。
だが、普通なら何の問題もない。ただ起き上がって、部屋を出てトイレに行くだけ。普通なら、それだけなのだ。
(だけど……)
しかし体の上には千聖が寝ているので、このままでは動く事は出来ない。
動けば起こしてしまうし、寝ている千聖を起こすのは忍びない。だけどトイレに行かないと、今度は俺の尊厳の危機だ。
(考えろ……考えろ……!)
尿意が強くなってきて、着々とタイムリミットが迫って来る。それに伴って焦燥感も強くなるが、頭は一向に働かない。
相当ヤバい所まで来た時、俺の脳裏に一つの策が舞い降りた。
(……くっ。背に腹は変えられん……)
苦肉の策として、寝返りを打つふりをして千聖を布団に落としてからトイレに行く事にした。
ゆっくりと、なるべく自然体を装って横を向く。重機のように、ゆっくりと、こうする事で寝ている千聖を起こさずに、俺は自由になる事が出来──
「何してるの?」
目と鼻の先で、完全に見開かれた千聖と目が合った。
「ーーーーッ!?」
「ねえ兄さん。こんな夜に、私を置いて、何処に、行くの?」
チビらなかった俺を誰か褒めてくれ。
咄嗟に叫ばなかったのは、心のどこかで今の状況が"ありえる"と思っていたからなのだろうか。……それは今は置いておくとして、一体どうして見抜かれた?さっきまで千聖は完全に寝ていた筈だ。
寝たフリをしている事も考えたが、いつ起きるか分からない俺に対してそんな事をするメリットが薄すぎる。
「答えて?ねえ、どこへ行くの?ねえ、ねえ?」
「と、トイレだよ。ちょっと行きたくなったんだ」
考察は後回しにして、このまま放っておくと暴走しそうな千聖に目的を告げると、千聖は安心したように息を吐き出した。
「なんだ……なら、最初に言ってくれればいいのに」
「いや、寝てたからさ……とにかく退いてくれ。急がないと、大分ヤバいんだ」
「ええ、分かったわ」
ハプニングこそあったものの、どうにか起き上がる事が出来た。これで、後はトイレに駆け込むだけなのだが……
「……あの、千聖?」
千聖が、服の袖を掴んで離さない。挙句の果てに
「私も行く」
と言い出した。いや、トイレは何個かあるから、それ自体は構わないのだが。でもなんか、嫌な予感がする。
「……まあ、良いけど」
だが、俺の尿意も限界だ。今は嫌な予感よりも、トイレに駆け込む事を優先したかった。
なので千聖を連れ添ってトイレまでダッシュ。そんなに距離は離れていないから、すぐに辿り着けた。
「じゃあ千聖、先に終わったら部屋に戻ってて良いか「嫌」ら……」
閉じようとしたトイレの扉を、千聖が抑えた。かと思うと、スッと極自然な動きで同じ個室に入ってきたのだ。
「……いやあの、千聖さん?」
「大丈夫、目は閉じてるから」
相変わらず服の袖を掴んだまま、千聖は言った。そういう問題じゃないだろう、とツッコミを入れたかったが尿意が、暴発10秒前くらいまで迫って来ている。
俺は何も言えず、千聖に服の袖を掴まれたまま用を足さなければならなかった。
「なあ千聖、どうしたんだよ。さっきから変だぞ」
用を済ませて部屋に戻ったが、目は冴えていて、すぐには寝られそうにない。だから眠くなるまでの間で千聖を問い質してみる事にした。
すると、千聖は目を伏せて俯きながら呟くように答える。
「だって……目を離すと、兄さんが何処かへ行ってしまいそうだから」
「あ……」
そりゃそうだ。いくら離さないと言ったところで、それは所詮、口約束に過ぎない。
千聖から見れば、信頼を裏切った俺の言葉を完全に信じるのは難しいだろう。だから、目に見える形で証拠が欲しかった。
もしそうだと考えるならば、さっき暴走しそうになっていた千聖にも説明がつく。俺が千聖を置いていくと、そう判断されても不思議ではない。
「……悪い」
「気にしないで。兄さんの言う事を信じきれない、私が悪いのよ」
「それは違う。千聖の信頼を裏切ってドブに捨てた、俺が悪いんだ」
「でも……」
「それ以上は聞かん」
まだ何か言おうとしていた千聖を抱き寄せて、無理やり布団に倒れ込む。
「全て俺が悪い。はい、これで終わり!」
「だから、私が……」
「あーあー聞こえなーい。おやすみー」
ぎゅっと抱き寄せて強引に会話を打ち切る。……少ししてから、千聖が「おやすみなさい」と呟いたのが聞こえた。
『お姉ちゃん会議』
とある日の氷川家のリビングでは、珍しい組み合わせの2人がテーブルを挟んで向かい合っていた。
「……そろそろ話そうぜ」
その1人、巴は真面目な表情で目の前に座る紗夜を見据える。
「そうね。時間もあまり無い事ですし、本題に入りましょうか」
紗夜がそう言うと、巴の目付きが1段と厳しい物へと変化した。そして2人の間に置かれた皿へと目線を移す。チョコチップクッキーが無くなっていた。あと3枚は残っていた筈なのに。
さては食いやがったなコイツ。という意味を込めた眼差しを紗夜に送ると、意味深に食べかけのクッキーを見せつけられた。そして目の前で口に入れられて、何故かドヤ顔を見せつけられた。
巴は激怒した。
取り敢えず、後でマジパワーで紗夜の脛を蹴り飛ばしてやる。
実に恐ろしき、食い物の恨みであった。
「本日の、定例お姉ちゃん会議を始めるわ」
そんな事を思われている事など露知らず、本日の会議は幕を開けたのだ。
お姉ちゃん会議とは、姉が妹に関する話題を話したり、愚痴ったり、アドバイスを求めたりする会議の事だ。
参加条件は姉である事で、今のところの参加者は、紗夜と巴の2人しか居ない。
なのでこの会議は、実質的に巴と紗夜の、お茶会となっていた。
「巴さん。何か無いかしら」
「……あこが、最近になって変なキャラ付けをしようとしてる」
「具体的には?」
「一人称を"妾"にしてみたり、闇のどーたらこーたらって言ってたり、魔界の女王を自称したりしてる」
ちなみに、その魔界の女王は日菜の部屋で、日菜と一緒にマンガを読んでいる。†地獄から舞い降りし聖なる堕天使†とかアリだな……なんて思っている事など、今の巴が知る由もない。
「涼夜は何て?」
「一過性の物で、いつか黒歴史として葬られるってさ」
2人の頭の中に浮かんだ、最近は1段と妹ボケが激しいリーダーの姿。
「俺、考えたんだけどさ。俺が千聖になって、千聖が俺になったら、お互いにハッピーじゃね?」等と言われた時は、本気で病院に連れて行こうとしてしまった。
その後の「私と兄さんの眼球と腕を片方ずつ入れ替えれば、いつでも一緒って事にならないかしら」という千聖のトンデモ発言と合わせて、日菜がドン引いた数少ないエピソードの一つだ。
兄が兄なら、妹も妹であった。そんなだから、あの2人は実は血が繋がっているんじゃないかと、メンバーの間では専ら噂になっている。
「現在進行形で黒歴史を量産している人に言われると、説得力が皆無ですね」
「だから不安なんだよなぁ……。もしかしたら、このまま治らないんじゃないかって」
「しかし、私達では、どうする事も出来ませんからね。本人に、さっさと飽きてもらうしか方法は無いんじゃないでしょうか」
「やっぱそうなるかぁ……」
有効な解決法が見つからなかった巴は落ち込んで、思い出したかのようにクッキーを摘んだ。
…………そのクッキーは、紗夜が今まさに取ろうとした物であった。
虚しく手が宙を掴み、思わず紗夜が巴を見る。巴はドヤ顔で、見せつけるようにクッキーを口に入れた。
紗夜は激怒した。
取り敢えず、後で本気の力で巴さんの脛を蹴り飛ばしてしまおう。
実に恐ろしい、食べ物の恨みであった。
「……で、紗夜の方は?何かあるだろ、日菜だし」
「ええ、まあ。日菜なので当然あります」
酷い認識だが、これがAfterglow内における日菜の扱いである。メンバーからは人間ビックリ箱みたいな扱いをされているから、何をしても「まあ、日菜だし」で納得されてしまうのだ。
「日菜が皆で海に行きたいと言ってまして」
「海かぁ。確かに、全員で1度は、そういう所に行ってみたいよな」
海辺の街というわけでは無いから電車を使って移動する必要があるが、海は比較的に近い方である。
「ただ……蘭とモカは来ない気がする」
「同感です。あの2人とは縁遠い場所ですからね」
行かない。と拒絶する未来が、イメージするまでもなく鮮明に見えた。
「だな。でも、ひまり辺りが説得しそうな気もするけど……」
「たぶん無理だと思うんですけど」
「だよなー。ところで良いか?」
「何でしょう」
「さっきから、アタシの狙ったクッキーばっかを食べてるのは偶然か?」
ピタリと紗夜の動きが止まった。その隙を狙うように巴の手がクッキーへ伸びる。
「私も聞きたいことがありまして」
「なんだよ」
「さっきから、私が狙ったクッキーばかりを横から持っていくのは、偶然ですか?」
今度は巴の手が止まった。クッキーの皿の上で2人の手が牽制しあっている。
残るクッキーは、1枚のみ。
「アタシって、一応だけど紗夜に招かれた、お客さんだよな」
「ごめんなさいね巴さん。このクッキーは1人用なのよ」
メンチの切り合いが始まった。心なしか、目からビームのような物が飛び出しているようにも見える。
半分に割ればいいじゃん。と指摘する者は、幸か不幸か、この場に居なかった。
「そうか、1人用か。ならアタシが貰っても問題ないよな」
「その理屈だと、私が食べても問題はないですね?」
「…………」
「…………」
ガタッと椅子を引く音が同時に発生した。
お姉ちゃん会議
開催日程は不定期の、お姉ちゃんの集いである。なお、大体の場合は何かしらの理由でキャットファイトが発生する模様。
※残されたクッキーは、日菜が美味しく頂きました。
『離れても』
「そうか。やっぱり私立に行く事にしたのか」
蘭達の卒業式にギャラリーとして出席した俺と千聖と氷川姉妹は、久方ぶりに会った蘭達と話していた。
「あたしは公立でも良かったんだけど、父さんがね。ダメだって」
「嫌われてるわね、涼夜」
「仕方ないな。向こうからすれば、俺は可愛い一人娘を誑かす悪い男なんだし」
蘭の父さんが、俺を好意的な目で見ていないのは始めから分かっていた事だ。真っ当な親としては、俺のような変人と遊んでいて欲しくはないだろう。
「それで、つぐみ達も蘭のお
「お
「蘭は寂しがり屋だからね〜」
「モカ、うるさい」
蘭達は羽丘女子中学へ進学するのだという。花咲川ほどではないが、それでも中の上くらいはある。比較対象の花咲川が可笑しいだけだ。
「でも、今までも全員が揃いづらかったのに、別の学校に進んじまうから、今後は更に揃いづらくなるな」
「昔みたいには、中々いかないよね」
これから俺達は、どんどん会いづらくなっていくだろう。全員に都合があるのだし、学校も違うから予定が合わない事も多くなる。
「まっ、なんとかなるだろ」
「出た。涼夜君のノープラン」
「いつものね、兄さん」
「そう、いつもの。いつも通り、殆どノープランで行こうぜ」
と、そこで誰かの腹が空腹を訴えた。全員が顔を見合わせて笑い合う。
「あはは……まだ、お昼ご飯食べてなかったね」
「午後は、飯を食ってから集合だな」
「今日も、あたしのノーコン矯正?」
「直ってきたんだから良いだろ、あとちょっとだぞ」
やっと幼稚園児くらいのコントロール精度になりつつある蘭。犠牲になり続けた巴の為にも、この辺りで小学生レベルにはしておきたい。
「よーっし。今日も頑張るぞー!えいえい、おー!」
「ひまりー?何やってんだ、置いて行くぞー」
「ちょっとー!!?」