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「…………………………………」
千聖が飛び出してから、ゆうに1時間が経過した。千聖は、まだ帰ってこない。
「これで俺を嫌った筈だ」
手応えはあった。出来れば一生、感じたくはなかった手応えだが、これで千聖の心に大きなヒビを入れられた筈だ。
ここまで拒絶しておいて、それでも付いて来る奴なんて居ないだろう。少なくとも俺は付いて行かない。だから、いくら千聖でも、完全に愛想を尽かして嫌ったに違いない。
…………つくづく自分に嫌気がさす。もっと他にマシな方法があった筈なのに、よりによって1番傷付ける方法を選んだ自分に、何より腹が立った。
「言っても変わらないけどさ……」
とにかく、これで千聖は施設に留まる理由を無くす。千聖は引き取られて、そっちで新しい人生を歩めるのだ。
(そうだ。そっちの方が、千聖の将来にとっても正しい選択だ)
このまま孤児で居るより、新しい両親に囲まれて、色んな場所に遊びに行って、美味しい物を食べて、やりたい事をやった方が楽しいに決まってる。
孤児では出来ない事が、向こうでは出来る。出来ない事を沢山体験していって、多くの人との出会いを経験していけば、俺の事なんて簡単に忘れられるに違いない。
それに関して、間違っても"悲しい"などと思ってはならない。どこまで行っても、俺は所詮イレギュラー。本来なら存在しない筈の人間なのだから、むしろ今までが間違っていたのだ。
俺は間違いを正しただけ。千聖に兄なんて居ないのが、きっと正しいんだから。
(そうだ、忘れるな。俺は外様なんだ。この世界で産まれた人間じゃない、言うなれば異物だって事を)
異物が紛れ込む前の、この世界が、どんな物なのかは知らない。もしかしたら俺の知ってる漫画の世界かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
どちらにしても、もう十分だろう。今までは夢でも見ていたのだ。
可愛くて美人に育った妹と、生前では、お目にかかった事の無い美少女達と知り合えて、バカをやって楽しめた。
一度、己の命すらも失った男が、こんな幸せな夢を見れた。それだけでも贅沢ってもんだ。これ以上を望むのは、流石に罰当たりだろう。
もしかすると、次の瞬間には、死ぬ寸前に触れた、あの冷たいコンクリートの上に倒れていても不思議じゃない。
神様に会ったというのだって、もしかすると死ぬ寸前に、痛みが見せた幻覚なのかもしれない。
そう考えると、世界が、なんだか凄く浮世めいた風景に見えてきた。
俺が、ここに居るという保証も無く、全ては夢なんじゃないかと思えてくる。
(…………あのまま死んでいたら)
こんな気持ちになる事は、なかっただろう。
ただ、手足から感覚が消えて行き、胴体が消え、頭と視界が消え、最後に意識だけが沈んでいく"死"と、どっちがマシなのかは分からないが。
ちらり、と机の方へ目線を向けた。
死のうと思えば死ねる。引き出しには工作用のハサミがある。ナイフが有ればベストだろうが、ハサミでだって自殺は出来るだろう。
だが、それをするには度胸が足りない。イメージとしてではなく、れっきとした感触で"死"という概念を味わっているから、アレに自分から触れに行く勇気はない。
(結局、2回の人生を通して分かったのは、俺が何も出来ないヘタレだって事と、目的の為なら女の子を平然と泣かせられるド畜生って事か)
忘れるな。周囲からの"変な奴"というレッテルの方が正しいのだという事を。
忘れるな。俺が存在しなくても、世界は問題なく回るという事を。
忘れるな。異物は異物らしく、身の程を、わきまえなければならないという事を。
「ああそうだ。俺の存在は無くてもいい、オマケなんだって事を忘れちゃいけない」
だけど、そんなオマケにも、まだ、やるべき事が残っている。
残るは憎まれ役の幕引きのみ。
どんなに良い夢でも、いつか醒めなければならない。それが世界の理なのだから。
◆◆
「嘘……?」
「そそ、嘘」
私には、日菜ちゃんが言っている言葉の意味が分からなかった。兄さんが、嘘をついている?
「……日菜ちゃんは見た事ないから言えるのよ。あの冷たい目をした兄さんは、本気で…………うっ」
手が震えた。ダメ、また吐き気が……
「落ち着いて千聖さん。……あの時、外で涼夜と相対した私も分かるわ。アレは嘘を言うような目ではないわよ……!」
落ち着くように背中を、さすってくれている紗夜ちゃん。私が白鷺夫婦と面談している間に何があったのかは分からないけれど、どうやら紗夜ちゃんと日菜ちゃんも兄さんの冷たい目を見たらしい。
でも、それなら尚更、本気だって事は分かっている筈なのに……
「そりゃそうだよ、おねーちゃん。あの時の涼夜君は、本気で言っていただろうしね」
意味が分からない。日菜ちゃんは何が言いたいの?私が混乱していると、同じ事を思っていたらしい紗夜ちゃんは言葉にして日菜ちゃんに詰め寄った。
「……意味が分からないわ、分かるように説明しなさい。日菜」
「はいはい、せっかちだなぁ。そんな、おねーちゃんに簡単に言うと、涼夜君の発言は本気だけど、ほぼ間違いなく本音じゃないって事」
…………余計に分からない。日菜ちゃんの頭の中では、何がどうなって、そんな答えが出たのかしら。
「……まあ、これだけじゃ分からないよね。だから順を追って説明するんだけど、涼夜君の目的は何だと思う?」
「目的?」
「そう、涼夜君が目指すゴール地点。……時間が無いから説明しちゃうけど、これは千聖ちゃんを幸せにする事だよ。ほぼ確実に」
「……嘘よ」
もしそうなら、兄さんが私を拒絶なんてする筈がない。だって私の幸せは、兄さんの側に居て、兄さんと同じ事をして、兄さんと笑っている事なのに。
「嘘じゃないよ。少なくとも涼夜君は、本気でそう思ってる筈。ただ、千聖ちゃんの幸せを、涼夜君の目線で勝手に判断しているってだけでね」
「つまり、千聖さんにしか分からない筈の幸せを、涼夜の目線で判断しているから食い違いが起こっている。という事かしら?」
「そうなるのかな。涼夜君はね、きっと、お金と心の、どっちが、千聖ちゃんを幸せに出来るかを考えていたんだと思う」
「それで、千聖さんは心が欲しかったのに、涼夜がお金を取ったと?」
「そう。だから養子に行く事を薦めたんだと思うよ」
そういえば、さっき 「いつも考えてた。金があれば、千聖に、悲しい思いをさせずに済むのにって」と兄さんは言っていた。直後のインパクトで忘れそうになっていたけれど、そう考えると兄さんが、お金を取った理由が少し分かったような気がする。
…………でも私は、お金より心の方が欲しい。
「確かに、お金は大事だけれど、それでも千聖さんとの毎日を捨てるほどの価値がある物なのかしら」
「そこまでは分からないよ。あたしは涼夜君じゃないんだもん」
あくまで、あたしの推測なんだからさ。と言われたところで、私は全てが日菜ちゃんの推測だった事を思い出した。
……それにしては、随分と納得がいくというか、まるで心の中を覗いたみたいに話していたけれど。
「でも、涼夜君が千聖ちゃんを愛している事は、あたしでも分かる」
「……そう、なのかしら」
自信がない。だって、さっき散々に拒絶されたのに、そんな言葉を信じる気にはなれない。
「だって、あの涼夜君だよ?何があっても千聖ちゃんloveな涼夜君が、千聖ちゃんを嫌いになるなんて、有り得ないと思うんだ」
未だに震える手を包み込むように、日菜ちゃんが私の両手を握った。
「ねえ、千聖ちゃんにとっての涼夜君って、どんな人なの?」
「私の……兄さん、は……」
冷たい目をしていた兄さんがフラッシュバックする。あの冷酷な目をした姿が、今の私には一番、印象に残っていた。
あの冷たい様子も、きっと兄さんの姿なのだろう。今まで私が見た事の無いだけで。
『よっし、行くか!』
『良いか?何を聞かれても、俺にやらされたって言えよ。そうすれば、お前は怒られない』
『子供は大人しく、大人に甘えればいい。千聖の場合は……俺?そうなの?』
「いつも元気で、常に私の事を思っていてくれて、そして……何かあると、いっつも自分1人だけで責任を負って……」
気が付いた時から、私は、あの部屋に居て、隣には何時も兄さんが居た。
気が弱くて、泣き虫だった私の側に居てくれて、絵本を読んだりもしてくれた。
「そして、優しかった」
優しかった。成長しても、その優しさだけは変わらなかった。
分かってる。兄さんの事だから、私じゃなくても同じ事をしていたに違いない。
けれど、それに私は救われた。
「その涼夜君のイメージ、信じてあげようよ」
「そう、よね……私は兄さんの妹だもの。星野千聖だもの」
正直に言うと、まだ怖い。帰ったら、また拒絶されるんじゃないかとビクビクは止まらない。
だけれど、私は兄さんを信じる。そして伝えたい、一緒に居たいって。
「だけど、それを伝えた所で、また拒絶されてしまうのではないかしら?向こうは、未だに養子に出す事が幸せになる事だと信じているのでしょう?」
「うっ。それは……」
言われてみればそうだ。私が、そう言ったところで兄さんが聞く耳を持つかは分からない。
「ふっふっふ……!」
しかし、何故か日菜ちゃんは怪しげに、かつワザとらしく笑ったかと思うと、ドヤ顔で胸を張りながら言った。
「あたしに良い考えがある!」
◆◆
あれから、俺と千聖の間に会話は無かった。何も話さず、同じ部屋に居るのに、まるで壁があるみたいに別々に行動した。
そんな俺達を見て、職員さんも不自然に感じたのだろう。「喧嘩でもしたの?」と俺に聞いてきたが、俺はノーコメントを貫いた。
6年生になってから別々の布団で寝るようになったから、もう、かつてのように一つの布団に2人が入る事もない。
それに慣れていた筈なのに、突き放した日の夜は、どうしてか懐が寂しいような気がした。
次の日、早い時間に千聖は部屋を出て行った。何をしているのかは知らないが、お昼すぎまで戻って来なかった。
……大方、蘭や紗夜に別れを告げに行っているのだろう。そういえば、アイツらには何て説明しようか。
……素直に全部説明するか。全て俺が悪いんだし。間違いなく嫌われるけど、それは自業自得という奴だ。
「千聖ちゃーん。電話が来てるわよー」
「……はい」
そんな事を考えながら、部屋から出る千聖の背中を俺は見送った。
……多分、養子縁組の話だろう。どうやら俺の目論見通りに、事は進んでいるようだ。
(千聖との別れも近いな)
だけど、それに何を思ってもいけない。元より喜びなんてしないが、悲しむ事もダメだ。
最後まで、無慈悲を貫かなければ、突き放した意味がなくなってしまう。
「涼夜くーん。居るかな?」
「……はい?何ですか職員さん」
と思ったら、今度は俺も呼び出された。何かあったのかと扉から顔を覗かせる。
「友達、来てるよ」
「友達……」
自慢にもならないが、俺の友達といえばAfterglowのメンバーくらいしか居ない。
つまり、どういう事だと事情を聞きに、やって来たんだろう。
何処から説明したもんかと靴を履いて外に出ると、そこには真面目な顔をした蘭、巴、ひまり、つぐみ、モカ、あこ、の6人が居た。
「場所、移そうぜ」
「ああ、そうだな」
これは間違いなく、他人には聞かせられない事だから。
次話 : だいたい1日後くらい