「どうしたい……だと?」
「そう。どうしたいの?」
初めて聞いた冷たい声と、それとは正反対の、まるでバカンスを楽しんでいる最中のような気楽な声。
蚊帳の外に置かれたメンバーは、そんな正反対な2人の会話を遠巻きに見守る事しかできなかった。
「今の涼夜君からは、方向性が見えてこない。いや、正確に言うと、ブレにブレまくってるって言うべきなのかな」
「日菜?一体なにを……」
急に語りだした日菜に、紗夜は何か変な物を見るような目を向けた。姉の紗夜から見て、今の日菜は妙だと言えた。
「ゴールは多分同じ。千聖ちゃんの事だよね」
「…………」
「無言は肯定と見なすよ」
今の日菜からは、普段の、おちゃらけた雰囲気を感じる事は出来なかった。声こそ穏やかだが、何かが違う。
「涼夜君の事だから、千聖ちゃんの何かをゴールに設定してる。その何かまでは分からないけど、少なくとも千聖ちゃんにとってプラスになる事なのは間違いない」
千聖ちゃんの事、大好きだもんね。と日菜が言ったのを涼夜は無言で見つめた。
「だけど、いや、だからこそかな?この露骨なまでの豹変は」
「何が言いたい……!」
「あたしは最初から言ってるよ?どうしたいのって」
ブロック塀に背中を預けながら、日菜は腕を組んで涼夜を見据えた。
「どうするも、こうするもない。千聖の道は千聖が決める事だ」
「そういうのじゃなくてさー……私は、涼夜君が、千聖ちゃんを、どうしたいのかを聞いてるんだけど」
読めない。この場に居る全員の考えが一致した。
さっきから日菜は何を言っている?何処を見据えて、こんな事を言っている?
「だから、それは千聖が決める事で、俺が口を出す問題じゃ……」
「じゃあ聞き方を変えよっか。涼夜君は千聖ちゃんに、施設に残ってて欲しいの?それとも、引き取られて欲しいの?」
日菜の、その言葉は、涼夜の目を見開かせるのに十分な威力を持っていた。
「日菜、もういいわ。止めなさい」
「お姉ちゃんは少し静かにしててよ。今は真面目な話をしてるんだからさ」
日菜の声もまた、姉である紗夜でさえ聞いた事のない冷たさを伴った。
底冷えする空気。今は春先の筈なのに、ここだけ冬に戻ったみたいな──
「何を、言って……」
「あのダンボールが来たのは何日か前だったけど、昨日までは涼夜君は千聖ちゃんに優しかったよね」
ちょっと様子は変だったけどさ。と言う日菜に涼夜は内心で舌打ちをする。
視線も幾分か鋭くなった筈だが、日菜が、それに気付いた様子はない
「今日になってだよ、豹変したのは。……その理由は多分、千聖ちゃんと今も面会している夫婦だよね」
「どういう事……?何を言っているの日菜ちゃん」
つぐみは分からなかった。日菜が何を言っているのか。そして、それが涼夜の豹変と、どう関係があるのかを。
いや、つぐみだけではない。蘭も、巴も、ひまりも、モカも、紗夜も、あこも。
この場に居る、当事者を除いた全員が、日菜を訳の分からない者を見るような目で見ていた。
「つぐちゃん。あの夫婦が乗って来た車、駐車場に停まってるけど見た?」
「え?う、うん。多分だけど、見るからに高そうな黒い車だよね?」
「そう。しかも運転手まで付いてる。これは尋常じゃないくらい、お金持ちって事だよね」
運転手を日常的に付けられて、しかも高級車。あの夫婦は、つぐみや日菜でも分かるくらいの金持ちである事は想像に難くなかった。
見栄を張っているという可能性も無くはなかったが、子供に、しかも孤児に見栄を張るメリットはないだろう。
「でも、それとこれと、一体なんの関係が……」
「考えてみなよ、ひまちん。もし千聖ちゃんが引き取られたら、千聖ちゃんは…………ああ、なるほど。そういう事なのかぁ」
「へっ?」
1人で納得し始めた日菜は、暫く「はいはい……だから豹変したんだ」なんて呟き、混乱したままの、ひまりをシカトして涼夜に向き直った。
「そういう事でしょ?涼夜君は、そっちの方が良いと思ったから豹変した。あっちと、そっちで比べて、そっちの方が千聖ちゃんが幸せになると思ったから」
「日菜!もう、いい加減に……」
「黙れよ日菜」
一触即発の空気が流れた。
「……分からないなぁ。何をそんなに必死になってるの?」
「必死……?」
蘭は困惑した。今の涼夜からは、必死な様子など何処にも見受けられないからだ。
一体、日菜は今のキレている涼夜の何処に必死さを見出したのだろう。
「必死だと?俺が?」
「誰が見てもそう思うよ。ねえ、おねーちゃん?」
「え?」
誰が見ても、という日菜の言葉に反して、日菜以外の誰もが全く分からなかった。キレているのは分かるが、必死なようには、とても見えない。
「……あれ?もしかして、分かってないとか?」
「……ええ」
そんなー。と日菜は肩をガックリと落とした。が、すぐに気を取り直したかと思うと「でもさ」と涼夜に言った。
感情の起伏が激しい奴だと、涼夜は思った。
「あっちと、そっちじゃあ、あたしは、あっちの方が良いと思うんだけどなー」
抽象的な言葉を使いながら、日菜は涼夜に語りかける。
「だけどまぁ、涼夜君の言いたい事も分かるよ。確かに大事だよねー、無いと世の中を生きていけないもん」
「そこまで分かっているなら……」
「だけど、あたしは賛成できない」
日菜が目を閉じた。ブロック塀に寄り掛かったまま、話は続く。
「自分が、らしくない事をしてるっていうのは、理解してるんだよね?」
「だから、どうした」
「慣れない事は、する物じゃないよ。あたしでも分かるくらいにボロが出てるんだから、千聖ちゃんなら間違いなく見抜く」
それはそうだろうと、涼夜は思っていた。今までも、上手く隠していた体の不調を、ふとした拍子に見抜かれた事だってある。
だが、だからといって、止められない理由がある。
「千聖ちゃんは、どう思うんだろうね。怒るかな、悲しむのかな、それとも……」
「御託はいい。それで、どうして、こんな事を言い出した」
お節介なら止めろと言うつもりだった。だが、その後の日菜の発言が涼夜の度肝を抜いた。
「理由?そんなの決まってんじゃん」
「お手伝いだよ。ちょ〜っと、お・て・つ・だ・い♪」
その笑みは、何処か邪悪さを伴っていた。
◇◇
──私が、貴女を此処に捨てたからよ。
その言葉は、意外なほど、ストンと千聖の胸の内に落ちた。もっとショックを受ける筈だと、自分でも思っていたのに。
なんだか拍子抜けだ。千聖は扉に手を掛けたまま、そう思いつつ言った。
「だから、私が麗華さんの子供だと?」
「………………ええ。今でも覚えているわ。でも信じて、私は、好きで貴女を捨てたわけじゃないのよ!」
懇願するように訴える麗華。嘘ではないのだろう、声は必死に思えた。
──だが
「だから、なんですか?」
「え…………?」
「聞こえなかったんですか?だからなんだと、言ったんです」
その言葉は、千聖には届かない。
「わ、悪かったとは思っているわ、本当よ!」
「もう1度だけ言います。だから、なんですか?」
小学3年生の時であれば、揺らいだだろう。それより幼ければ、もしかしたら頷いていたかもしれない。
でも今は、何も感じない。
「理由なんて、どうでもいい。世の中は結果が全てです。そうでしょう?」
"頑張った。で評価されるのは、小学生までなんだよ。悲しいことにな"
いつか聞いた涼夜の言葉が、千聖の脳裏に思い出された。あの時は確か、ニュースを見ていて、とある大会で、自社の選手が1位を取った時しか賞金を出さない。と明言した社長の言葉に疑問符が浮かんだ時だった。
「私は星野千聖です。貴女の娘ではない、此処で産まれた星野千聖。それが、私の全て」
ボタンを一つ掛け違えた。きっと、ただそれだけなのだ。
もし掛け違えが起こらなければ、親に捨てられる事もなく、芸能界へと入って、そしてアイドルバンドに入っただろう。そうして今とは違う幸せを手にしていたに違いない。
夢を見た事は何度もある。両親が居れば、どうなっていただろう。と何度も考えた事もあった。
授業参観で親が来れば、涼夜が"親なし"だと言われて馬鹿にされる事は無かっただろう。
運動会に親が来れば、出来合いの──涼夜曰く、こんな弁当──ではなく、周りの子供達が食べているような豪華な弁当を涼夜と食べられたのだろう。
…………親に捨てられなければ涼夜と会っていないという事実は見ないふりをして、千聖は、そういうifを考えた事があった。
「やっぱり人違いですよ。だって此処に居るのは、たった一人の兄が家族の、星野千聖なんですから」
だが掛け違いは起こった。だから、この"もしも"に意味はない。その未来は、もう、この千聖には、関係の無い事なのだから。
(……ああ、そっか。だからなのね)
さっきの麗華の告白に、全くと言っていいほど動じなかった理由は、きっと千聖が"星野"だからなのだろう。
どうでもいい事を人は気にしない。千聖にとっては、両親という存在は、もう、どうでもいい物となっていたのだ。
(これに気付けただけでも、時間を費やした甲斐があったのかもしれないわね)
「それでは、失礼します」
今度こそ話すことはない。千聖は扉に掛けた手に力を入れた。
「…………なら」
今度は健人の声がした。
「なら、それでいい。それなら僕達は、星野千聖ちゃんを娘に迎えたいと思う」
再び千聖の手が止まった。
「確かに千聖ちゃんの言う通り、人違いなのかもしれない。だけど、それはそれとして、君を養子として迎えたいんだ」
それは、千聖に多少の衝撃を齎した。麗華の娘だから会いに来ていると思っていたからだ。
「何故ですか?人違いなら、養子にする理由も……」
「今までの会話を見て思った。千聖ちゃんは、これから中学校に上がる歳にしては、とても賢い娘だと」
「私より賢い人なんて、幾らでも居ますよ」
兄さんがそうなのだから。と千聖は内心で呟いた。もし千聖が賢いと言われるのなら、それは千聖を賢くした涼夜にこそ相応しいと、千聖は考えていた。
この考えを涼夜が知れば、「俺なんかより、氷川姉妹の方が、よっぽど賢いっての」とツッコミを入れていたに違いない。
「そうかもしれない。だが、僕は千聖ちゃんが良いと思った。君を迎えたいと思った」
だから、と健人は、こう言い放った。
「もう数日、時間をくれないか。もう少しだけ、千聖ちゃんと話がしたいんだ」
千聖は振り返った。健人のイケメンフェイスが、じっと千聖を見据えていた。
◇◇
「お手伝いだと……?」
「日菜。ふざけるのも、いい加減にしなさい」
「いやいやいや、ちゃーんと、あたしは真面目だよ。おねーちゃん」
突然のお手伝い発言は、場の空気を白けさせるのに十分すぎる威力を持っていた。
シリアスな雰囲気の中から、急にお手伝いである。ふざけている、と紗夜が判断をするのも仕方ないだろう。
「踏ん切りがつかないなら、誰かが背中を押してあげるしかないじゃん?あたしは、それをしただけだよ」
「言っている意味は分からないけれど、碌でもない事なのは分かるわ」
「酷いや。あたしは本気で、涼夜君と千聖ちゃんの事を考えているのに」
紗夜が見た涼夜は、脱力したように肩の力を抜いていた。どうやら、此処で言い争うのは辞めにしたらしい。
紗夜にとっては意味不明な、お手伝い発言だったが、どうやら最悪の事態は回避できたらしい。こんな所で言い争って仲を悪くするとか、冗談ではない。
「…………もう、それでいいわ」
「おろ?おねーちゃん、お疲れなの?」
誰のせいだ。そう叫びたかった。そんなに時間は経っていない筈なのに、疲労感がドッと襲ってきている。
それはどうやら蘭や巴達も同じようで、安堵と披露の篭ったような溜息を吐き出していた。
「…………今日さ。もう、解散にしない?」
そんな、ひまりの言葉に逆らう人間は誰もいなかった。
「じゃあ、そういう事で……また明日ね」
「ああ……」
何処か疲れたように、涼夜も空を見上げていた。そこに太陽は無く、代わりに一面を覆い尽くす暗雲が立ち込めていた。