月明かりが眩しい夜、カーテンの隙間から僅かに光が漏れていた。風が強いのだろう。吹き付ける風が窓枠を揺らし、カタカタと音を立てる。普段であれば気にもとめない筈の微かな音だが、それさえも煩く聞こえるくらいの静寂だった。
涼夜は横で寝ている千聖を見た。最近ではようやっと別の布団で寝てくれるようになったが、まだ慣れていないのか、その手は何かを探しているように少しずつ動いていた。
涼夜は布団から起き上がると、静かに動いて引き出しを開ける。そこには昼間に見つけた白い便箋が置いてあった。
月明かりを頼りに中の紙を心の中で読み上げる。
(4月6日には早いですが、お誕生日おめでとう、千聖。か……)
千聖の誕生日は涼夜と同じ7月7日で通っている。だから4月6日というのは全く違って、つまりこれは別の千聖さんへと送る筈だったのではないか……と、最初は考えた。
だが冷静になって考えるうちに、それが大きな間違いであるという事に気がつく。当たり前すぎて気付けなかったともいうか。
2人は孤児であるから、当然どこかの時期で親に捨てられてここに居る。そして2人が捨てられたのは赤ん坊の時であり、千聖は名前以外を確認する物が無く、涼夜はそれすらも無かった。
千聖は名前だけを与えられ、涼夜はそれすらも与えられずに施設に入れられた。だから戸籍なんかを作る時に、足りない部分を施設側が埋め合わせるのは当然の事だろう。
そして、そんな風に誕生日が分からない子供であれば、保護された日が誕生日として設定されるのは珍しくない。
千聖は自分の誕生日を元から知らないし、涼夜は今の7月7日を今生での正式な誕生日と自分で定めていたため、その可能性を思い付く事が難しかった。
それは、2人の誕生日はあくまでも仮のものであり、本当の誕生日は別にあるという事だ。
千聖は知らず、涼夜も忘れていた事だが、7月7日は本当の誕生日ではないのだ。
そして、この4月6日という日付が本当の誕生日だとするならば、全ての説明ができる。出来てしまう。千聖がここに居ると知っていた理由も、千聖の名前を知っていた理由も……
「産みの親であれば、可能か」
紙の裏面には、『近いうちに迎えに行きます』という一文が、これまた手書きで書かれていた。
この文の通りであるのならば、白鷺麗華という人物の目的は──
もうそろそろ、潮時なのかもしれない。
誰に言うでもなく、そう呟くと同時に月明かりが消えた。
◇◇
「なあ。涼夜はどうしたんだ?」
河川敷の土手で一先ずの休憩を入れていた時、巴は小声でそう言った。
「涼夜君がどうかしたの?」
「いや。なんか少し変じゃないか?」
涼夜は川の方をぼんやりと眺めている。隣には千聖がちょこんと座っていて、それだけ見れば何も変わらない。
「……そう?いつも通りに見えるんだけど」
「具体的に何処かって聞かれると困るんだけど、なんか普段の覇気が無いっていうか……」
言葉に出来ないのがもどかしいのか、巴はガシガシと乱雑に頭を掻いた。何を言いたいのかが分からない蘭達は首を傾げる事しかできない。
「直接聞いてみたら?」
「やっぱそれしかないかなぁ……」
少し悩んだ末、分からないことは聞くに限ると巴は涼夜に近付いた。
「なあ涼夜」
「…………ん?ああ、巴か。どうした?」
「なにか悩んでるのか?」
単刀直入に切り出すと、涼夜は驚いたような顔を一瞬だけ見せた。だがすぐに表情を戻すと、川の方へ向きを戻して言った。
「どうして、そう思ったんだ?」
「どうしてって言われてもな。ただなんとなく、そう思っただけだけど」
「なんとなくって、お前……」
困ったように言葉を詰まらせた涼夜は、不思議そうに見つめる千聖を片腕で抱き寄せた。
春風がそよいで、長く伸びた草や細い木の枝を、ゆらゆらと揺らす。雲の合間から僅かに射す光が、水面に当たって煌めいている。
少し強いと感じる春風に服の袖を靡かせながら、巴は涼夜の言葉を待った。
「……まあ、気にする事じゃない。すぐに解決する問題だからさ」
「そうか?そうなら良いんだけど……」
そうは言ったものの、巴の内側では疑問は、ますます膨れるばかりであった。すぐに解決すると言うのなら、どうしてそんなに憂いを帯びた表情をしているのか。
悩み事が解決する、或いは直ぐに解決できるのは喜ばしい事のはずなのに、何故そんな顔をしているのか。
「ああ、気にするな。万事OKだ」
疑念は残るが、このように言われては巴も引き下がるより他にない。今の涼夜が間違いなく口を割らない事は、暫くの付き合いで分かっていた。
「……何かあったら言えよ。アタシ達は仲間なんだからさ」
「分かってる」
今の巴には、そう言って戻ってくる事しか出来なかった。
「どうだった?」
「間違いなく何か隠してる。でも、それが何かは教えてくれない」
あんな顔は初めて見た。きっと、何か大変な事が起こっているのだろう。だからこそ力になってやりたいという気持ちが燻って、言いようのない思いを抱かせていた。
「おねえちゃん、怖い顔してる……」
「そ、そうか?」
「なんか、怒ってる感じだよ」
明らかに何かおかしいと分かっているが、向こうが話してくれるのを待つしかない口惜しさが、自然と巴の表情を固くしていた。
あこに手を握られて気がついたが、いつの間にか手をキツく握ってしまっていた。
「怒ってなんてないさ」
ただ、不甲斐なく思っているだけなのだ。
「よし、鬼ごっこやるぞ!」
そんな思いを遮ったのは、後ろから聞こえた涼夜の声だった。
「鬼ごっこ?」
「鬼ごっこなら、昨日やったじゃん」
ひまりが疑問符を浮かべて、蘭がツッコむ。だが涼夜はチッチッチッと指を振りながら言う。
「バッカお前、それは団体戦だっただろ?今回のは鬼が増える、バイオなハザードの鬼ごっこだぞ?!」
「バイオなハザードって言われても、あの作品系列は見たことないから良く分からないんだけど」
金曜日のロードショーでやっていたような気がする、あの作品。それと鬼ごっこが、どうやったら結びつくのだろう。
「ルールは単純。最初は1人だけの鬼が、他の人間を捕まえて鬼を増やして行くんだ。つまり鬼が感染していく」
「それ、ただの増やし鬼じゃ……」
「こまけぇ事はいいんだよ!俺が最初の鬼やるから散らばってホラ」
涼夜の思いつきは今に始まった事ではない。さっきまでの憂いを帯びた表情は、なりを潜めて、今は調子を取り戻しているようだし、参加しないという理由もなかった。
「まったく、仕方ないな」
「範囲とかは?」
「テキトーでなんとか」
「うっわ……」
また行き当たりばったりか、という意味合いを込めた蘭の呟きは、涼夜に届く事はなかった。
とにかく、鬼ごっこであるのならば逃げなければならない。
考え事は一旦置いておいて、逃げるために巴達は走り出した。
◇◇
「雨止まないなー」
リビングの窓に貼り付いている日菜の言葉の通り、今日は朝から雨が止む事は無かった。真っ黒な雨雲が空を覆い尽くし、ただひたすらに雨粒を吐き出し続けている。
「せっかくの休みなのに」
「今日は諦めなさい。1日中雨よ」
紗夜が見つめているテレビは、今はお昼の天気予報をやっている真っ最中である。それによると、今日は夜中まで降り続けるという事だった。
「明日はー?」
「天気予報だと曇り。だけど夜には予報も変わっているかもしれないわね」
「えー……あ、そうだ!」
予報はあくまでも予報なのだから。と紗夜が言うと、日菜は何を思ったのかいきなり窓から離れてリビングから飛び出した。
日菜がいきなり飛び出すのはいつもの事だと、紗夜が放置していると、程なくして日菜がドタドタと騒がしく戻ってくる。
「おねーちゃん!」
「なに?」
日菜は紗夜の目の前に、さながら黄門様の印籠の如くつきつけた。実に今作って来ました感の溢れる、それの名前を
「てるてる坊主、作ろうよ!」
人はてるてる坊主と呼んだという。
「……てるてる坊主?」
「そう!明日が晴れますようにって、おねーちゃんも一緒にお願いしよう!」
紗夜は日菜を見た。断られるなんて全く想定していない、満面の笑みだった。もう紗夜がやる事を前提に、材料まで用意している。
今更やらない、なんて言えそうな雰囲気ではなかった。
「…………仕方ないわね。いいわよ、一緒に作りましょう」
「やったあ!おねーちゃん大好きぃ!」
まあ、手持ち無沙汰だったのも確かだ。このままぼんやりテレビを見ているよりは、ちょっとでも手を動かした方が暇つぶしになるだろう。
紗夜はそう思いながら、日菜と隣合って、てるてる坊主を作り始めた。
「ねーねーおねーちゃん。涼夜君、次はどんな、るんって来るような事を始めるのかな?」
手を動かして少ししてから、日菜が手元から目を離さずに紗夜にそう問いをした。
「さあね。私は涼夜じゃないから、そんな事は分からないわ」
「だよねー。まっ、だからこそ楽しみなのかもしれないけどさ」
あのクリスマスの夜に抜け出してから、日菜はやけに涼夜を気に入るようになっていた。その理由は紗夜には分からないが、似たもの同士でシンパシーでも感じたのだろう。
だんだんと楽しくなってきた作業に意識を傾けながら、紗夜はそう分析する。
(だけれど、まさか私達に友達が出来るなんてね)
無自覚に煽りを入れる天才の日菜と、日菜に及ばないまでも充分すぎる才能を持った紗夜。幼い頃から才覚を発揮していた2人は、教師からも気に入られていた。何かと贔屓されるくらいに。
2人の圧倒的な才能に惚れ込んだのか、それとも別の意図があったのか。詳しいことは分からないし、聞く気もなかった。
そんな2人と周囲の間には、いつの間にか溝が出来ていた。2人が贔屓されているのが気に入らなかったのだろう。イジメのレベルにまでは行かなくても、露骨に避けられるくらいには、その溝は深かった。
「ねー、おねーちゃん」
「何かしら」
「高校、どうしよっか」
作業をしていた手がピタリと止まった。
「…………」
「中学校はなんとか誤魔化せたけど、高校はそうもいかないと思うんだ。あたしは」
紗夜の脳裏に掘り起こされるのは、今年の1月から中学受験が行われるまでの日々。
両親だけに留まらず、親戚一同までやって来て紗夜と日菜に花咲川女子中学の受験を薦めてきた時は、流石にうんざりとしたものだ。
更には学校の教師まで隙あらば薦めてくるのだから気苦労は推して知るべし。滅多にキレない日菜でさえ、半分以上キレていた。
「どうしたのよ、いきなり」
「別に、ただ気になっただけ。おねーちゃんならどうするんだろうって」
親に負担を掛けたくないから断った、と涼夜に話した内容は嘘ではない。魅力を感じなかったというのも本当だ。
しかしなによりの理由は、そこにあの2人が居ないからだった。
「さあ、分からないわ。その時になってみないとね」
「涼夜君みたいなこと言ってる……」
「でも実際そうでしょう。3年もあるんだから、考える時間は充分あるわ」
そうは言ったが、多分また公立に行くんだろうな、と考えている。
花咲川女子中学を蹴った理由もそれなのだし、あの2人の行く場所がそのまま紗夜の行く場所になるだろう、という確信めいた予感がした。
(どうして、ここまで私は、あの2人に執着しているのかしら)
今更すぎる問いと言えばそうなのだろう。その問いは中学受験の前にするべきだったのかもしれない。
だけれども、裏を返せばそれは、そんな事を考える事もなくなるくらい、共に居るのが当たり前になっていたという事なのだろう。
「まっ、結局あたしは涼夜君と千聖ちゃんに付いて行くと思うけどねー。あの2人と居た方が間違いなく楽しいし、毎日るんってしそうだし」
「それ、お父さんとお母さんには言わないでよ?」
「分かってるよ。もう煩く言われるのも嫌だから」
2人は顔を合わせて苦笑い。そうしてから再び手元へ目線を戻して気がついた。
「ねえ日菜」
「言わないで、お姉ちゃん」
テーブルの上には、溢れんばかりに、てるてる坊主が並んでいた。無意識のうちに手を動かし、作りすぎたらしい。
「……どうしようかしら。この、てるてる坊主の山」
「とりあえず、全部の部屋に飾ろうよ。それから……皆に押し付け、じゃなくて。分けてあげよう」
紗夜が無言で頷くと、テーブルの端のてるてる坊主が落下した。