朱に交われば紅くなる【完結】 作:9.21
夏『休み』とは言うが、それは俺たち受験生には縁のないものだった。1日も無駄にできない俺にとって、夏休みはむしろ大事な学習期間。俺みたいに志望校の判定が危うい奴からすれば、その差を埋めるまたとないチャンスになる。
だからこそ、俺はどこかに遊びに行くこともなく勉強漬けの毎日を送っていた。時には家で、たまに気分を変えて図書館で……と場所を変えながら。
そして今日は、黒澤の家―――というか部屋に来ていた。どういうわけか分からないが、黒澤が唐突に誘ってきたのだ。自分よりも学力が上の奴と勉強するのはプラスになるし、俺としても断る理由はなかったのだが。
「んー、疲れマシター!!」
どこで聞き付けたのか、小原までいるのは謎だ。どうせ、黒澤辺りがポロっと漏らしたんだろう。やってることが勉強なので、松浦は来ていない。
「鞠莉さん、ちゃんとやりましたの?」
「イェスイェス。ほらほら、ね?」
一足先にシャーペンを置く小原に、黒澤が注意を呼び掛ける。それに対して自信満々の小原は、言葉通り今日のノルマを終わらせていた。
相変わらず、飲み込みは良いというか何というか。黒澤の影に隠れがちだが、そういや小原も成績は良い方だったっけか。普段があんな調子だから、つい失念しがちだけど。
「あ、あら本当……。失礼しましたわ」
「自分の分終わったのはいいけど、こっちの邪魔すんなよ」
「ハイハイ。眺めるだけならいいでしょ?」
「好きにしろ」
小原に釘を差してから、自分のノートに目を戻す。俺の当面の目標は、中学の教科書内容を一刻も早く終わらせる事だ。学校の授業で教科書を終えるのは、早くても冬休み前。そこから受験対策をしていたのでは、明らかに時間が足りなくなってしまうからだ。
とはいえ、本来授業でやるものを独学でやるのは楽ではない。ずっと教科書と参考書を行ったり来たりで、あんまり進んでいる気はしなかった。
「シンヤも無茶するわよねぇ。無理して夏休みに全部やらなくてもいいのに」
「早いに越したことはないだろ。わりぃかよ」
「んーん、別に。シンヤがそういう風になって、むしろなんか嬉しいかも」
妙にしんみりした様子に、俺と黒澤はきょとんとする。肘をついて手に顎を乗せ、軽く微笑む小原は大人びて見えた。普段とは違うから、何か調子が狂う。
「変わった……って言いたいのか?」
「ザッツライト。戻ったって言った方がいいかしら?」
敢えて『戻った』と言った小原の意図に、俺はようやく気付くことが出来た。俺と小原にしか伝わらないことだ。嬉しそうなのが見てとれて、俺も少しだけ顔を綻ばせる。
2年の生徒会で出会った黒澤、同じく2年のクラスで知り合った松浦。そいつらに比べて、更に付き合いが長かったのが小原だった。コイツは、中学校に入学した2年前の時から同じクラスにいた。
つまり――――小原は俺の昔を唯一知っているということになる。
「さぁな。どれが正しいかなんか知らん」
「分からなくていいの。マリーは今のシンヤの方が好きだから」
「……あっそ」
結局、勉強の弊害だ。視線をノートに移すが、結局問題はさっぱり分からない。気晴らしにクルクルとペンを弄ぶが、それすらも上手くいかなかった。シャーペンは手から零れ落ち、床に転がる。
俺が拾うよりも先に、小原が反応した。いつも通りの、憎らしい笑みを浮かべながら。
「いまドキッとしたでしょー!! シンヤは照れ屋さんね!!」
「うっせぇ。さっさとペン返せ」
「ウフフっ。素直になったら返してあげなくてもいいけどぉ?」
結局、いつものうるさい小原に戻った。何だったんださっきのしんみりモードは。悪い物でも食べたのかと疑ったのだが。
小原は、俺を挑発するかのように指で挟んだシャーペンをプランプランと振る。とりあえず腹が立ったので、素早く奪い取って頬をつねっておいた。いつもの日常だ。黒澤も呆れて、注意をする素振りすら見せない。
「なんか言うことは?」
「ひ、ヒンヤいひゃい~!! ごめんなひゃーい!!」
謝っても許さない。つねる強さを調節しながら、適当に小原の頬をいじくる。勉強のストレス解消にはちょうどいいくらい。……こんな事をしているから、勉強進まねぇんだな俺。
ささやかな休憩は終わりだ、と小原の頬から手を離したその時。引き戸が静かに開いた。現れたのは、お盆を持ったルビィだった。
「えっと、お母さんがお茶を……って何してるんですか?」
「別に、コイツをいじってただけだ。サンキューな、ルビィ」
お盆の上には冷たい麦茶の入ったコップが3つと、和菓子が用意されている。黒澤の母さんのありがたい配慮だった。もういいや、もう少し休憩してしまおう。
「あの、ところで真哉さん」
一口サイズの小さな饅頭を口に入れる。甘い。疲れには糖分が良いとはよく言うが、実際間違いないと思う。
咀嚼しながらルビィの方を見る。どうぞ話してください、とでも言わんばかりに。口にまだ入ってるから答えられないし。
「えと、その……あさ、あさっ…………」
妙にもじもじしてるかと思いきや、視線は移ろいでいる。何か俺に伝えようとしているのは分かるのだが、その内容は全く入ってこなかった。
饅頭を麦茶で流し込み、口のなかを空にする。ルビィは諦めたのか、すっかり押し黙ってしまった。
「どうした?」
「な、何でもないです……。お勉強、頑張って下さい」
結局何を伝えたかったのか分からないまま、ルビィは部屋を出ていった。いつもとは違った様子に、俺は少なからず困惑を隠せない。今さら、何をしどろもどろになる必要があったのか。
「……何か言いたげでしたわね」
「何なんだアイツは」
黒澤にも、その理由は分からないようだった。一緒になって首を傾げるが、それで原因が分かるわけない。
「そういえば最近のルビィ、あまり元気がないのです。何かご存知ではありませんか?」
「知らんぞ。最後に会ったのは1週間前だし」
なるほど、今日唐突に誘われたのはそういう事か。麦茶を喉に流しながら、そんなことをぼんやり考える。妙に納得できた。
だが生憎、俺は最近のルビィの変化を知るよしもない。ランニングの時は本当に普通だったと思うし、元気のない様子も見られなかった。詰まるところ、本人に聞くしかないというわけだ。
「ちょっと聞いてきてあげよっか?」
「鞠莉さんが?」
小原もそれを分かっているようだった。こういう時、直接聞きに行こうと出来る行動力は見習うべきだと思う。時が経てば分かるだろ――とのんびり構えていた俺とは大違い。
それに、周囲によく気を配れる小原は相談役として打ってつけだ。ルビィも心を開いているだろうし、問題ないだろう。……多分。
「……いいんじゃねぇの? むしろ、適任だろ」
「そ、そうですか? じゃあお願いしますわ」
「オッケー、まっかせなさーい!!」
拳を作り、ドンと自分の胸を叩く小原。何がそんなに自信満々なんだか分からないが、それもコイツの明るい性格故だろう。任せて大丈夫……だと思う。多分。
ルビィは何かで苦しんでいる……か。力になってやりたいが、もう小原1人に任せた方がいいだろう。複数でいっても困惑するだけだ。
アイツみたいにすぐ行動に移ることが出来ない。面と向かって話を聞きに行こうとも思わなかった。行動が遅かったのだ。ここに来て、消極的な性格が出てしまった。
部屋を出ていく小原の背中を、俺はぼんやりと眺める。ちょっとだけ、積極的な性格のアイツを羨ましいと思いながら。今この時ばかりは、自分の性格を呪った。
★☆★☆★☆
「はぁ……」
ルビィは自分の部屋に戻ると、ため息を1つ。結局言い出せなかったなぁ……と、自分で握っているスマホに目を落とします。開かれているページには、花火大会の日程が書かれていました。
開催されるのは明後日。これに、真哉さんを誘おうと思っていました。いなくなっちゃうなら、せめて少しでも一緒にいれるチャンスを作りたかったから。
さっきもそのつもりで部屋にお邪魔したのに、恥ずかしくて言い出せませんでした。何だろう、すっごく意識しちゃって。ルビィから誘ったことなんて、1回もなかったからかな。
なんとかして声をかけなきゃ!! って思うと、むしろ焦ってしまう。でも、どうにかして一緒に行きたい。ルビィにもっと勇気があったら……。
どうすればいいんだろう。
「あら、いいわね花火大会。マリーもダイヤや果南と行くわよ」
「へっ!? ま、鞠莉さん!?」
いつの間に部屋に入ってきたんだろう。鞠莉さんは、ルビィの握るスマホを覗き込んでいました。いきなり現れたもんだから、小さくカラダが跳ねちゃった。
「フフっ、ルビィは誰と行きたいのかしら?」
「えっと、それは……その……」
笑顔で問いかける鞠莉さんから、必死に目を逸らす。行くつもりというか、誘えてないというか。まだお姉ちゃんにも言ってないし、花丸ちゃんにも話してない。口に出して誰かに話すと、漏れちゃうのが怖かったから。
それに、意識しすぎちゃっておかしくなりそうで……。ずっとずっと秘めてるまま。
「行きたがるようには見えないわよねぇ~。『彼』のこと、まだ誘えてないんでしょ?」
……だったけど、鞠莉さんには全部バレていたみたいです。狼狽えちゃったから気付かれたのか、前から知っていたのか、それとも勘なんでしょうか。
ルビィなんかじゃ誤魔化してもムダだと思うので、無言で小さくコクンと頷く。もうバレてしまった以上、鞠莉さんにも協力してもらっちゃおうかな……。
「もしかして、さっきお茶持ってきた時に?」
「は、はい。誘おうと思ったけど、なんか恥ずかしくなっちゃって……」
「あら、青春ねぇ~。ちょっと詳しく聞いてもいいかしら?」
そう言って、鞠莉さんはルビィの隣に腰掛ける。合わせて、ルビィも腰を降ろした。歳は2つしか違わないはずなのに、鞠莉さんの横顔は大人びて見える。
ルビィとは違って、鞠莉さんは誰とでも仲良くなることが出来るくらいの明るい性格を持っている。鞠莉さんだったらこんな悩みないのかなって思うと、少し羨ましいです。話してもいい……かな。
「真哉さんがもうすぐいなくなっちゃうんです。だから、最後にと思って……」
「い、いなくなる?」
鞠莉さんの顔が急に曇った。もしかして、引っ越すこと知らなかったんでしょうか。てっきり知らされてると思ってました。
「静岡市の高校に行くから……って」
「あ、アー。そのことね」
あ、やっぱり知ってたんですね。急に思い出したかのように、鞠莉さんは相づちを打つ。
残りで考えると、あと1ヵ月くらいかな。真哉さんは毎日お勉強で忙しいだろうし、そんなに会える時間もないはず。だから、何とかして誘いたいんです。
「で、誘えなくて困ってると」
「恥ずかしいのもあるんですけど、断られるのも怖くて……。ルビィと行っても、かえって迷惑かけちゃうと思うし」
自分で言っておきながら、ますます自信がなくなる。鞠莉さんも言ったけど、真哉さんはお祭り好きそうには見えない。それに、ルビィが人混みに行くとどうなるかは沼津駅に行った時に見られちゃってるし……。
1回誘いを断られちゃうと、次はない。また断られたら……なんて思うと、怖くて想像もしたくないですもん。今のまま、学校でお話しするだけでも充分楽しかった。それさえも崩れてしまいそうで。
だから、どうしても慎重になっちゃうんです。
「大丈夫よ。ルビィが誘うなら、シンヤは間違いなくついて行ってくれるから」
「……え? な、なんでそう言い切れるんですか?」
どういう事だろう。鞠莉さんは、ニコッと微笑む。そして、咳払いを1つ。
「昔々、仲の良い兄妹がいました。妹は泣き虫でちょっぴりドジだったけど、頼れるお兄さんが全部助けてくれました。お兄さんは素直じゃないけれど、妹の事を大切にしていました」
「ま、鞠莉さん?」
いきなり始まった昔話に、ルビィは首を傾げる。誰の事を話しているんだろう。そんなルビィの疑問を気にすることなく、鞠莉さんは話し続ける。
「でも、2年前の冬―――火事で妹が亡くなりました。お兄さんはとても悲しみ、心を閉ざしてしまいました」
2年前、そして火事という言葉にルビィは反応しました。今まで何の事か全く分からなかった話が、少し分かったからです。
「周りの人は何とか彼を励まそうとしました。特に仲の良かった女の子は、持ち前の明るさでどうにか彼の心を開こうとしました。たとえ避けられても、諦めずに」
鞠莉さんの表情は悲しそうでした。少し苦しそうで、どこか暗くて。鞠莉さんのこんな顔、初めて見た気がします。
「しかし2年後。そんな彼の心を開いた人がいたのです。その子は2歳年下で、彼の妹によく似た子でした」
ルビィはドキッとした。一瞬まさかという考えが浮かんだけど、そんなバカなと思って首をブンブンと振る。
でも前に真哉さんの家に行った時、妹さんの写真を見せてもらったことがある。ちょっと形は違うけど髪型は2つに縛っていました。鞠莉さんの言った妹さんの特徴も、ルビィと似ているところがあるし……。
それに、この前果南さんが似たような事を言っていた気がする。
「彼女はいつも彼の側にいました。とても頑張り屋で前向きなその姿は、段々と彼の考えを改めるようになったのです」
「そ、その子ってもしかして……」
「あなたの事よ、ルビィ。あなたがシンヤを変えてくれた。いや、戻してくれたって言った方がいいわね」
ルビィの早とちりなんかじゃなかった。鞠莉さんの言葉に、ルビィは自分の顔がカァーって赤くなるのを感じます。だって、やっぱり嬉しいから。
果南さんから初めて聞いた時は、悲しいばかりで何も考えられなかった。でも、真哉さんにとっては間違いなく良い事で、それをルビィが手助け出来たのならこんなに嬉しいことはないです。
ルビィは、自分の事を頑張り屋だなんて思ったことはないです。何も出来ないからこそ、一生懸命頑張るんだもん。むしろ、これしかないんです。
でも、そんなルビィを見て真哉さんが何かを思ってくれたなら。ちょっとでも影響を与えられたらと思うと嬉しいです。静岡市に行くのだって、仕方ないことなのかな……って。
「でも、このままだと
「は、はい。でも、こればっかりはワガママ言えないし……」
でも、それと寂しい気持ちを我慢できるのとは違う気がします。やっぱり離れてほしくない。本音を言えば、ずっと残ってほしいです。ただ、真哉さんを止めるような事はルビィには出来ません。
ルビィと真哉さんは、連絡先を交換していません。学校で毎日お話しできたし、ルビィの家はスマホを使う時間を1日1時間って決められてるから。でもそれは、毎日会えるから何とも思いませんでした。
「後悔しないようにしなさい」
「後悔、しないように……」
鞠莉さんの言った言葉を、ルビィは繰り返す。後悔しないためにやること……。ルビィは頭の中であれこれ考えます。
「電話なんかじゃ寂しいもの。直接会える時に、ちゃんと言っておかなくちゃね?」
全て見透かされているようで、恥ずかしくなる。鞠莉さんには敵わないなぁ。
いつからだったかは、もうあんまり覚えていない。気づけば一緒にいるのが当たり前になって、ルビィにとっては大事な大事な人になってて。
鞠莉さんと話して、今はっきり分かりました。
「自分の気持ちには正直に。それに女は度胸よ、ルビィ」
―――ルビィは、やっぱり真哉さんの事が好きです。
受け入れてもらえるかは分からない。自信もないですし、今みたいにお話出来なくなっちゃうかもしれません。でも……この気持ちは伝えたいです。面と向かって、しっかりと。
「は、はい!! 鞠莉さん、ありがとうございます!!!!」
「フフッ、いい笑顔ね。グッドラック、ルビィ」
鞠莉さんは笑顔でそう言うと、ルビィの背中をポンと押してくれた。今から行ってこい……って事なのかな。でも、早い方がいいよね。ルビィは廊下に出た。
どういう風に言い出そうかな、真哉さん来てくれるかな。鞠莉さんのお話を聞いたおかげで、少しだけ気分が楽です。本当に鞠莉さんに相談してよかった。
お姉ちゃんの部屋に近付く度に、心臓はドキドキと段々音を大きくさせている。どうにか止まってって思うけど、意識しちゃえばますます緊張してきて。それを感じるたびに、さっき言えなかったのも全部気持ちが抑えられなかったからなんだなって思います。
でも、今度こそちゃんと言うんだ。頭のなかでは、何て誘おうかをずっと考えています。自分から何も言わなかったら、始まらないって分かってますから――
だから、あと一歩踏み出せる勇気をください。
「し、真哉さん。明後日の予定なんですけど……」