朱に交われば紅くなる【完結】 作:9.21
体育祭が終わり、いよいよ春が終わりを告げた。1学期のイベントは体育祭が最後なので、残りはただ学校生活を無難に過ごすだけ。そんな平凡な日常に、学生たちはそろそろ飽きが出始める6月の下旬。
学生の次の楽しみといえば夏休みなのだろうが、楽あれば苦ありが世の常。そう簡単に楽しいことばかりは続かず、時には嫌で苦しいものもやってくる。
――――そう、期末テスト。
国語や数学を始めとする基本5教科は当然として、技術・家庭科や保健体育、音楽に美術といった副教科も含まれる。総勢9教科もある、まさに学期の総おさらい。範囲も超膨大の一言に尽きる。
勉強する前からやる気が失せそうだが、勉強しないわけにいかないのも事実。期末テストは成績に特に強く影響するからだ。高校受験を受けようと考える者は皆、個人差はあれど真剣に臨むはず。
かくいう俺もその1人。普段は無気力・無関心であることが多いが、期末テストにそんな事は言ってられない。俺なりにしっかり勉強はするし、高得点はキープしておきたい。
そういった訳で、テスト期間には近くの図書館へ足を運ぶのが日常になっている。ここは静かだし、テスト勉強を邪魔するような誘惑もないからだ。
「あっ」
図書館の自習スペース。朝早くに来ると大体俺が一番なのだが、今日は先客がいた。ルビィは既にノートと教科書を広げており、俺に気付くと軽く会釈する。だが、それもそこそこにノートに視線を戻すと、再びシャーペンを走らせる。
俺は、ルビィと1つ席を空けて腰かける。横目でルビィを見ると、一心にノートに向かっていた。いつもは放っておいても近寄ってくるくせに、何とも新鮮な光景だ。
「珍しいな、こんなところにいるなんて」
「鞠莉さんと果南さんがお家に来てるので、ルビィは邪魔しない方がいいかなって思いまして」
あぁ、そういえばそんな事も言ってたな。黒澤に松浦と小原の勉強を見るから、手伝ってくれと頼まれた気がする。まぁ、やんわりと断ったけど。黒澤には申し訳ないが、あの2人―――特に松浦に勉強を教えられる気がしないし。
特に話しかける事もなし、俺も自らの勉強道具をバッグから引っ張り出す。英語に理科、そして副教科の数々。今日のテーマは、ズバリ『あまり得意ではない教科』である。他の3つは平日にちょこちょこやってればどうにかなるし、休日である今日のうちに苦手を潰しておきたい。
今まで、勉強だけはそれなりに真面目に取り組んでいた。おかげで県内の進学校の判定は良い方だし、今のままなら受験も大丈夫だと言われている。
―――だが、何か目標があるわけではない。今まで漠然と問題を解き、授業を受けてきただけだ。いま思えば、よくこんな状態で好成績をキープ出来ていたな。
「……んやさん、真哉さーん」
「あ? あぁ、悪い。何だ」
「よろしければ、教えて欲しいところがあって……。邪魔でなければ、いいですか?」
少しボーッとしていた。ふと自分の真下を見ると、英語のノートはほぼ白紙に近い。……全然進んでない。
俺はシャーペンを置き、ルビィとの間にあった席を1つ分詰めて座る。それがOKサインだと思ったのか、ルビィは自分のノートを俺の方へ寄せた。
……言葉が無くても、案外伝わるようになったのな。
「ここの問題なんです」
ルビィが見せてきた教科は数学で、内容は一次方程式の応用だった。主要三科目である国語、数学、英語。その中でも、特に得意不得意が分かれがちなのがこの数学だ。
小学校でいう算数なのだが、その実全然違う。もはや別教科だと言っていいくらいに。算数が得意だったのに、数学はさっぱりだという奴も、そう珍しくはない。
「ふーん……全くさっぱりなのか?」
「は、恥ずかしながら……」
ルビィのノートを見るが、別段方程式が苦手なようには見えない。応用になった途端、問題が解けなくなったようだ。その証拠に、計算問題は9割方ミスがない。
となったらもしや、と俺はルビィのノートを更にめくる。するとそこには、事細かに公式や解き方が綺麗に纏められていた。それも何度も何度も。
……これが原因か。
「ルビィ、お前ひたすら公式を暗記してきただろ」
「え? あ、はい。公式さえ覚えてしまえば、どんな問題でも対応できるかなって……」
「今まさに出来てないだろーが」
「あぅ……」
俺がそう指摘すると、ルビィはしゅんと小さくなる。自分の勉強法が間違っているとなると、自信も無くなりやる気も失うのが当然。だが、ルビィのミスこそが数学で躓きやすい典型例なのも事実だ。
むしろ、今のうちに発見できて良かったというべきだろう。ルビィは素直だし、考え方を変えていけば今のところだって理解できるようになるはずだ。
「いいか? ノート見りゃ分かるけど、計算は出来てるんだよ。それなのに応用が解けないのは、答えだけ出して満足してるからだ」
「そ、それだとダメなんですか?」
「通用するのは算数まで。数学は解くプロセスが大事。解法の丸暗記なんて、何の役にも立たん」
俺がそう説明すると、ルビィは『ほぇ……』なんて間の抜けた声を出している。理解しているんだろうか、コイツは。
簡単に言えば『1+1=2になるのを教えるのが算数』で、『1+1がなぜ2になるのかを考えるのが数学』という事になる。つまり、1つ1つ立ち止まって理解する必要があるという事だ。
中学校の数学のテストになると、部分点がもらえるようになるのはそういう事だ。例え答えが違っても、プロセスが合っていれば半分正解なのだから。
「だからその問題は―――って、聞いてるのか?」
「す、すいません!! もう1回お願いします!! 全部メモするので!!!!」
「せんでいいわアホ」
やっぱり何も分かってないじゃないか。俺はルビィのデコに軽くチョップ。ルビィは痛そうにデコを押さえるが、実際はちゃんと手加減している。大袈裟なんだよ。
それはそうと、少し生真面目すぎな気がする。素直なのは重々知っているが、普通ここまで入れ込むか? たかが定期テスト、それも進路とは無縁の1年生1学期だぞ。
「ったく、何をそんな意気込んでるんだか。全部満点を取ろうってんじゃないんだろうし」
「いえ、そのつもりです」
「は?」
俺は自分の耳を疑った。全部満点を取るだなんて、コイツは正気で言っているのか。ルビィの事だから、ハッタリだとは到底思えない。コイツの目は至って本気そのものだ。
言うまでもないが、全部満点だなんて無謀もいいところ。学年トップの秀才だってどこかミスを冒すし、単純に間違えたりもする。ロボットじゃあるまいし、むしろそれが普通である。
普通の奴なら『無理に決まってるだろ』と、一言で一蹴していたに違いない。だが、相手はルビィ。謙虚すぎるくらいに控えめなコイツがこんな事を言うなんて、事件も事件だ。
俺は出掛かった言葉を引っ込め、自分の頭を落ち着けた。とりあえず頭ごなしに否定するより、理由を聞こうか。
「また何でそんな目標を?」
「お姉ちゃんは、1年生の時からずっと好成績でした。だから、ルビィもそれぐらい取らないとなぁ……って。ルビィだってやれば出来るっていうのを、お姉ちゃんに見せたいんです!!」
「……黒澤ね」
その理由を聞いて、俺は頭を抱えた。ルビィの目標がとてつもなく高いことが分かったからだ。
黒澤ダイヤは網元の名家の長女。跡を継ぐ者として、高い教養と様々な技術を身につける必要があった。それは学業においても例外ではなく、アイツの成績は常に学年トップ。俺ですら、アイツに勉強では勝てない。
だが、ルビィまでもがそんな好成績を修める必要はないはず。家の習い事も止めて、縛られない生活が出来ているのに。家がどうだからではなく、ルビィ個人の挑戦だろうな。
いつだったか、ルビィは黒澤に対抗意識みたいなのを抱いていると聞いた。出来る姉がいるために、その圧力が知らずのうちにルビィに向けられていると。
だが、ルビィが偉いのはそこで腐らないところ。姉に負けないように頑張ろうと前向きに考えているところだ。目標も何もない宙ぶらりんな俺なんかより、よっぽどマシ。
「やっぱり、ルビィには無理でしょうか」
俺が渋い顔をしたのを読み取ったのか、ルビィはシャーペンを置いて俯く。ルビィも内心分かっているのだろう。黒澤に追い付くのは無理だということに。
それでも、諦めたら自分が自分でなくなる。それがたまらなく怖くて、ルビィは必死に手探りでもがいている。申し訳ないが、俺にはその気持ちが分からない。手助けになってやれない。
だが、これだけは分かる。何かを大成するやつは、必ずそれなりの努力をしていると。黒澤だって、幼少の頃から習い事を続けてきた結果いまがある。それも1つの『努力』の形。だったら、姉に追い付きたいという気持ちで勉強をするのも、立派な『努力』の形だ。
「自分で決めたら、とことんやればいいんじゃないか。努力しないと、多分結果はいつまで経っても見えないままだ」
「そ、そうです……よね」
「だからまぁ……勉強で詰まったら俺に聞けばいい。別に、1人で全部する必要はないだろ」
俺に出来ることと言えば、こんな事くらいだ。努力がどうとか、やってもない俺に無責任な事は言えない。だが、こうしてコイツの努力を応援してやる事はできる。
ここまで真摯な姿を見せられては、全く無視するという訳にもいかない。人の面倒を見るほど余裕があるわけではないのは分かっている。分かってはいるけど。
「ほ、本当ですか!? じゃあじゃあ、理科とかも教えてほしいところがあるんです!!」
「……お前まさかそれ全部か?」
「エヘヘ、いっぱい聞きたいところあったので」
ルビィはドサドサとバッグの中身をぶちまけて、それを山積みにする。ほぼ全教科あるじゃねーか。これ1日で全部教えろと?無邪気な顔で無茶を言う奴だ。
……これは、今日自分の勉強するのは無理だろうな。俺は自分のノートを閉じて、ルビィのノートに視線を移す。まだ時間帯は午前。こうなったら、ミッチリやろうか。
「お願いします、真哉先生」
「調子に乗るなっつーの。まずそこの問題は―――」
俺が要点を説明していき、ルビィはそれをノートに小さくメモで残す。俺の言うことに赤べこの如く頷き、ペンを動かす手を止めない。それだけ真面目に取り組めば、大丈夫だろう。俺は少し嬉しくなった。
黒澤にこの様子を伝えようかと思ったが、辞めておこう。きっと、ルビィはそれを良しとしないし。『結果』をしっかり出せないと、コイツの中では納得しないんだろうな。
努力を大してしてこなかった俺でも分かる。今のルビィの姿こそが、『黒澤ルビィ』たる所以なのではないかと。何にでもひたむきに、愚直に向き合うというのは、簡単なようで難しいから。
仮に今回のテストで全部満点が取れなくても、努力の爪痕が残せればいい。そしてそれを糧に、また努力を積み重ねればいつかは……。ルビィには、それが出来る。そう信じられる。
だから――――頑張れ、ルビィ。
黒澤ルビィってこういう子だと思うんです……ってのが言いたかっただけです。