ファンタシースターオンライン2~Stardust Dreams~   作:ぶんぶく茶の間

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第三話 俺(私)達の始まり by憂人&祈

 始業のチャイムが鳴り響く。私はクラスメイトのみなさんの視線を背中で受けながら、電子ボードに名前を記入し、踵を返して振り返る。

 見れば26人ほどの生徒達の中に、憂人くんが居た。

 窓際で後ろから三番目の彼は、私と目が合うと小さく笑いながら軽く手を振ってくれる。

 それにかなり安心して、私も微笑んでしまう。

「おし。上條、自己紹介だ」

「はい。――みなさん、初めまして。今日から皆さんと同じクラスで学ばせていただきます上條祈と申します。まだこちらに来て日も浅いので、色々と教えていただければ幸いです」

 よろしくお願いします、と一礼しながら自己紹介を終えると、ぱちぱちと拍手が上がる。

 するとガタッ! と金髪に癖っ毛が目立つ男の子が席から立ち上がり、その翡翠色の瞳を輝かせながら質問してきた。

「なぁ上條! 出身はどこなんだ?」

「ちょっ(カケル)! 机の上には乗らないこれ常識でしょー!?」

 翔、と呼ばれた金髪の男の子を、隣に居た白髪をポニーテールにまとめ、紅い瞳をした女の子がけしかける。

「あぁん!? 少しくらい良いじゃんかよ進堂!」

「いやよくねぇわ。座れ城之内」とけしかける雨宮先生。

「……ちぇー。でっ、出身はどこなんだ?」

「は、はい。千葉です」

「へえ。そうなんか~。東京からだと思ったわ! オレは城之内翔! よろしくな!」

「はい。お願いします」

 快活に笑う城之内さんに笑顔で返すと、ぎろっと憂人くんが彼を睨みつけた。そんな視線を城之内さんは気付いていないのか机に肘をついて着席する。

「とりあえず質問タイムは後でな。上條の席は……あのうるさいヤツの後ろだ」

「わかりました」

 廊下側の一番後ろの席、か。隣の席の人も今日はお休みみたいだし……えっ? お休み? 初日からっ!?

「う、うるさくねぇやい!」

「いや、翔は十分うっさい」

 うんうんと進堂と呼ばれた女の子の言葉にクラスメイト及び雨宮先生が激しく同意していた。むむ……なんだか彼の立ち位置が一瞬で解ってしまったぞ。

 私は改めて城之内さんの後ろの席へ歩いていくと、彼と挨拶を交わす。

「城之内さん、進堂さん、で大丈夫ですか? これからよろしくお願いします」

「おう! よろしくな!」

「うん。進堂亜理紗だよ、よろしくねー」

 わ、二人の笑顔がまぶしい……。

「んじゃ、今日の日程からな。九時に体育館へ集合完了なんで、HRが終わったらすぐに移動だ。お前ら無駄話ばっかしてねぇで早いとこ並べよ?」

『うーっす』

「……んじゃ、HRは終わりな」

『はえーよホセ!?』

「もっと何かないのかよ!? こう、新年度の担任としての挨拶とか!」

「だってだーれも俺の話聞いてくれないじゃん?」

「いやだって……なぁ?」

「ぶっちゃけタローの話聞いても誰得って感じだし……」

「お前らがそういう反応だから言わないんだよっ察せ!」

 おら並べ並べ! と雨宮先生は苦笑いを浮かべながら騒々しくHRを閉じるのだった。

 

 

 ……帰りのHRを終え、これから食材を買いに行こうと思ったとき。

 雨宮先生に呼びとめられた。

「なんでしょう先生?」

「……お前は、俺の誇りだ……ッ」

「はい? って、本当にどうされたんですか!?」

 がっしと私の両肩に手を置かれて一瞬で号泣してしまった先生に慌てる。

「そいつウチのクラスじゃ先生って呼んでもらえねぇんだよなー」

「ぶっちゃけハブなの」

「あ、あぁー……」

 私は頭の後ろに両腕を組んだ城之内さんと、溜息をつきながら腰に手を当てる進堂さんの言葉に苦笑を浮かべた。

「それで、ご用があって呼ばれたのでは?」

「おう……。悪いがこの後時間あるか? 30分くらいでいいんだ」

 私は腕時計で時刻を確認する。時刻は10時45分。ちょっとした用事でも大丈夫だろう。

 その言葉に城之内さん達がどこか食いつきたそうな顔をしていたけれど、どこかこらえている様にも見えた。

「はい、大丈夫です」

「そいつぁ良かった。実はちょっとした体力テストをしてもらいたくてな……?」

 目の周りが赤くなっている先生は、ずびっと鼻水をかみながらもとの姿勢に戻る。

「えっ、た、体力テストですか!? すみません……今日はちょっと、ジャージがなくて」

「あーいや、それなら心配ない。テストはARで行われっから、身体ひとつあれば十分だ」

「そうなんですか?」

「おう。どうだ、体調面で厳しいのならまた今度でもいいんだが」

「――ってことはタロー! 早速戦闘かよ!?」

「タロー呼ぶな単位さげんぞ」

 ぱしっ! と両手で拳を撃ち合わせた城之内くんは嬉々として舌打ちをした雨宮先生へと尋ねた。

「お前らのテストじゃないんだが……。まぁいいだろ。上條、PSO2のアカウントは持ってるか?」

「はい。一応は」

 それでも本当に申し訳程度でレベリングしたくらいなので、憂人くんと戦力レベルを比べられると雲泥の差だ。

 雨宮先生はそいつぁ話が早いと言ってこくっと頷いた。

「……祈、どうした? またセクハラでもされたのか?」

 と、ここで憂人くん登場。欠伸を噛み殺しながら再び雨宮先生へメンチ切った。

「お、おう……今日はぐいぐい来るな憂人」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「丁度いいや。4人揃ったわけだし、お前らも手伝え」

「「はぁ?」」

「おっしゃああああ!!」

 三者二様の反応を見せると、雨宮先生はそそくさと先ほど始業式が行われた体育館へと移動を開始するのだった。

 

            †

 

 ――そして、今に至る。

 

「――祈ッ!」

 

 憂人くんの声がしてハッと顔を上げると、すぐそこには目の前にいたダーカー――ウォルガーダの拳があった。

「っ?!」

 咄嗟に割って入ったカミトくんが大剣でウォルガーダの拳を弾いて逸らし、私達の横を過ぎった城之内(フェザー)さんが、拳に炎を宿しながら高く跳躍して体勢を崩したウォルガーダへ殴りかかり、その後ろを駆けていた進堂(アリーザ)さんがチャージモーションへ入る。

「オラァァアアッ!!」

「シフタ、行くよ!」

 連続の回転蹴りを繰り出し、そう言い放った瞬間上空からの蹴撃がウォルガーダを襲う。

 瞬間、私達に攻撃力の上がるバフ、シフタが付与された。

 ガードを解いたカミトくんは動揺しきっていた私へと振り返る。

「お前のテストなんだ、二人とも加減は――」

 

「うぉおおおおおっ!!」

「はぁあああああっ!!」

 

「……してる、と思う」

 ウォルガーダを蹂躙している二人をちらっと見ると、それが苦笑いにかわり、軽く頬を掻く。

「俺は先に行くけど……お前も乗り遅れるなよ」

「……はいっ……!」

 よし、と言ってカミトくんはひとつ頷くと、大剣を手にウォルガーダへと駆けていく。

 そんな彼の背中がとても大きく見えて、普段の彼とはまったく違う印象を受ける。

 いつもはだらけていて、のんびりしている。そんな彼を変えてしまうほど、このゲームは楽しいのだろう。

 それなら。

(――私も、行かないと……!)

 ぎゅっと手に持った銃剣のグリップを握りしめ、走った。

 

「おっ――」

 

 視界の端で雨宮先生の驚きの声があがり、その口角が嬉しそうに持ちあがった。

 射撃モードにして威嚇射撃を行いつつも走る、走る――。

 その時、ウォルガーダが接近しながら射撃を行っていた私を見た。

 右拳が肩まで思い切り引き付けられる。攻撃の予備動作!

 ――来る!

「ふっ!」

 私は右拳のすれ違いざまに右方向へ前転しながらグレネードをウォルガーダの足元へ放り、起き上ってから射撃によって爆発させる。

 途端にウォルガーダは身体のバランスを大きく崩して前のめりに転倒した。

「いいダウンだぜ!!」

「みんな一気に行くぞ!!」

「おうっ!!」「わかった!」「はいっ!」

 カミトくんの掛け声とに私達は呼応し、全員がウォルガーダへ距離を詰め、思い思いの攻撃を放つ。

「この一撃で教えてやるぜ! ビリーフ――ブローッ!!」

「炎鳴流奥義――極炎紅脚ッ!!」

「ライジング……エッジ!!」

「これで――終わりですっ!」

 フェザーさんの拳による攻撃(?)、アリーザさんの蹴撃、カミトくんの逆袈裟による連続斬りが決まり、ウォルガーダの巨体が浮く。

 そして私の五連続で左右の連続斬りに加え、留めの銃撃によって、ウォルガーダは黒い霧となって消滅した。

「っしゃあ~っ!」

 それを見届けたと同時に、フェザーさんがガッツポーズし、アリーザさんは「どうだ見たかーっ!」と言って脚部武装を解除し、カミトくんはふうっと息を吐いて大剣をくるくる回しながら背中に戻した。

 そしてカミトくんが私へと振り返り、それぞれの反応に呆然としていた私の肩に手を置く。

「お疲れ。いいダウンだったな。狙ってたのか?」

「い、いえ……最初の挙動で足元が少し不安定そうに見えたので……。その、チャレンジしてみようと、思いました」

 チャレンジ、という私としても少し浮ついた単語を聞いた彼は、小さく吹き出しながら笑った。

「それでいいんだよ。祈は憶病すぎなだけでさ。もっと……」

「……もっと?」

「いや……」

「カミトさん?」

 カミトくんは軽く頬を赤らめて、私は小首を傾げながらゆっくり彼の言葉を待っていたけれど、やがて後ろ頭を掻いて「なんでもない」と笑う。

「よう、お疲れさーん。話中悪いな」

「あ、いや」

 彼の後ろから雨宮先生がやってきて、私達へ労いの言葉をかけられる。カミトくんは少し曖昧な返事をした。

「とりあえずテストはこんなもんだろう。……にしても」

 顎のおひげに触れながらニヤッと笑った雨宮先生は「お前ら過保護すぎんだろ」と笑い、三人がそれぞれ苦笑いを浮かべた。

 AR空間が解除され、それぞれが本来の制服へ戻る。

「俺も入った方がよかったかねぇ」

「な~にいってんだよ先生! ウォルガーダなんかオレらの敵じゃないぜ!」とフェザーさん、もとい城之内さんは両腕を頭の後ろに回しながら笑う。

「ナハハ、そいつぁ悪かったな。上條……っと、憂人の方はどうだった?」

「なんで俺に振るんだよ」

 カミトくんは仏頂面になって、右手を襟足にあてる。

「やっと従妹が来るーって一番喜んでたのお前だろうが」

「………ふぅーっ………」

 ダッ!!

「あっ!?」

 カミトくん――もとい憂人くんは額に手をあてて深いため息をはいたと思ったら、途端にどこかへ走って逃げてしまった。

 私は声をあげて驚いてしまい、右往左往。口元をわぐわぐさせながら雨宮先生を見ると、彼はいやらしい笑みを浮かべたまま吹き出してしまった。

「ブフォッ……。まさかあいつがあそこまで恥ずかしがるとは思わなんだ」

 悪かったな上條、と言って雨宮先生は合掌して私へ謝罪すると、そんなやり取りを近場で聞いていた城之内くんと進堂さんは目を点にして見ていた。

 幸いそれほど大きな声じゃなかったし、ギャラリーの人達には聞こえていなかっただろうけれど……。

 明日から憂人くんが不登校になっちゃったらどうしよう。

 昔から彼は結構親しくしてくれていたけれど、まさか家の人以外にぽろっと口に出すほど懐かれていたとは思わなかった。

(ご機嫌とりに好きなもの作ってあげないと……)

 なんて思っていたら、後ろからちょんちょんっと肩を指でつつかれ、振り返れば進堂さんが顔を真っ赤にしてすぐ近くまで寄せている。

「ち、ちちちちょ~っと聞いてもいい上條さんっ?」

「は、い……?」

「かみっ……憂人と従兄妹なのっ?!」

「は、はい……。言ってな……かった、ですよね」

 すみません……と謝ると、進堂さんはぎゅっと私の両肩を掴んできた。ちょっと痛い。

「つまり……内縁?!」

「にゃぃっファッ!? ……こほっ。どうしてそんな話になるんですかっ。実家で同居していただけですっ。それに婚姻関係ではありません!」

 確かに従兄妹同士での結婚は認められてはいるけれど……。それとこれとは話が別。

「そ、そっか……じゃあどうやって同棲するのうらやま……っじゃなくてふじゅんいせーこーゆーはダメ、絶対! オーケーっ?」

「ですからそんな目でお互い見てませんてばっ!?」

 そこで進堂さんに窘められ、ようやく拘束の手が緩む。び、びっくりしたぁ……。結婚とか年齢的に無理に決まってるでしょう憂人くんまだ十六ちゃいですよ?!

 そんな私達のやり取りを眺めていた城之内くんは、終始目を点にしながら頭上に「?」マークを浮かべ、雨宮先生は終始ニヤニヤしていた。

 ――って、それより早く憂人くんを追いかけないと!

「お、お先に失礼します! ありがとうございましたっ!」

 そう思って、私はみなさんにお礼を言ってすぐさま体育館を飛び出すのだった。

 

            ◇

 

 どうしてあんな事を言わせてしまったのだろう。

 私が余所余所しかったから? 遠慮していたから? それとも――

 罪悪感に、囚われていたから?

 人気がすっかりなくなった廊下を走りながら、今日から通い始めた教室へ向けて足を動かし続ける。

 ――階段を上るのがここまで辛いだなんて思わなかった。彼がいるであろう場所(そこ)へ向かう気持ちが、こんなにも強くて、辛くなるだなんて思ってもいなかった。

「はっ、はぁっ……はぁっ……」

 三棟が連結している学校の廊下はなかなかきつい。体育館から教室のある普通棟は            正反対だから、余計に。

 二階で廊下が繋がっているところを走りながら、普通棟三階にある教室前の廊下の窓を見ると、黒い髪がちらっと見える。

「(憂人くんっ……!)」

 息を切らしながら、かすれた声で彼の名前を呟く。

 いつもあの背中が大きく見えた。

 ちいさいころから、ずっと。

 何をしてもできてしまう彼。

 人付き合いはもちろん、勉強だって、スポーツだって、なんでも。

 そんな彼がとても眩しく見えて……私はいつからか、劣等感を抱き続けてきた。

 冷たい態度もとってしまう事だってあった。時にはきついあたり方をした記憶だってある。

 家も離れているから当然謝る機会なんてなくて、時間が経つことで忘れてくれることを祈っていた。

 でも。

 そんな自分勝手な願いは、通じなかった。

 今の彼を見たら一目でわかる。

 彼もずっと……私達なんかを負い目に感じていること。

 やればできる人なのに、それをせずにただ……隠し続けていたこと。

 もとは明るい性格なのに、それを封じ込めてああいう性格で通していることを。

 ただひたすらに、過去を引き摺ってここまで来てしまっている。

 それは私も同じだった。

 でも――だけど。

 彼は、待ち続けてくれていた……。

 ずっと、そこで。あの頃のままで。

 ――教室の上の階にある、屋上へ出るための扉の取っ手を掴んで、ぱんっ! と勢いよく開くと、バッグを肩にかけながらフェンスに指をかけて外を眺める彼がいた。

 流石の私は息も切れ切れで、呼吸を整えながら生唾を飲む。

 彼が振り返る。そして驚いたように目を見開いた。

「祈――ごめ」「――憂人くん(・・)っ!」「――っ!?」

 お互いに名前を呼び合って。私も今までで一番大きな声で彼の名前を“くん”付けで呼んで。

 彼の謝罪を、遮った。

 私は肩で息をしながら彼へゆっくりと歩み寄った。彼はフェンスから一歩前へ出て、面と向き合う形でお互いの顔を見る。

 そして――告げる。

 三刀屋祈としての決意を。上條祈としてのこれからを。

「あの……謝罪はなしにしましょう。……私はあなたとの過去を無かったものにしたくありませんし、全部が大切なものなんですから……。それをあなたに赦されてしまったら、私は上條という苗字をいただけません。全部を背負っているから。昔のあなたも、今のあなたも、覚えているから……知っていますから。それだけは、忘れないでください」

「祈……」

 まとまっていない言葉。ただ伝えたかった想いを乗せてばらばらに放った言葉(きもち)

 彼は、ちゃんと正しく、受け取ってくれただろうか?

「……私は、昔とそんなに変わっていません。ただ……変わりたいです。あなたのようにとは言えませんが、しっかりと今と、そして過去と向き合って。前へ進んで行きたいと」

「……そうか」

 憂人くんはふと目を伏せて、それから……笑った。

「ぁ」

 彼の、本来の笑顔。私が見たかった、一番の表情。

 純粋で、誰もがそんな笑顔を見たらつられて笑ってしまう、そんな魅力的な笑顔。

 不安な時でも勇気をくれる。安心感をくれる。とても……とても、強い笑顔。

 ここのやってきて、初めて見る事の出来たその笑顔に、私はつい、涙腺が緩んでしまう。

 ――でも、やらなければ。

 この笑顔を、ずっと近くで見守るために。

 彼へ、追いつくために。

「え?」

 目を伏せた私はおもむろに両手を動かす。

 左手で自分の後ろ髪を束ね、さらに右手で彼のバッグの中から、工作用のカッターナイフを取り出した。

「祈、なにを――!?」

 憂人くんが驚いたように目を見開く。私は数歩後ずさりながらカチカチと程よい長さまで伸ばす。

「……すぐに信じて欲しいだなんて言いません。でも、これで――」

 そして、束ねられた自分の髪をバッサリと切り裂く。

「――今までのわたし(・・・)とは………さよならです」

 左手に握っている、切り裂いた髪を風に乗せて放す。灰色のそれは春の日差しによって、まるで銀色の軌跡のように宙へ舞って行った。

 私と彼はその軌跡を見つめると、祈、と彼が私の名前を呼んだ。

「なんでしょう?」

「ずっと……ずっと言いたかったんだ。――おかえり、祈」

「……はい。ただいま、戻りました」

 立ち止まり続けてきた彼に、私は今でも追いつけたとは思えない。

 これからもそうだろう。もう一度歩みだした彼の背中を、私は追い続ける。

 それは不安にもなるし、劣等感の種にもなる。

 でも。それでも………。

 ゆっくりと伸ばされた彼の両腕は、私を包み込む。

 すぐそこに彼が居ることを教えてくれる。それを伝えてくれる、安心できる温かさがあった。

「その……祈は謙虚で、おしとやかで、頑張り屋で。言葉にすればキリがないくらい、俺にとって魅力的な人だ。けど――」

「へぁ……?」

 ぽん、と頭を押さえられ、服の上からでも触れてみて分かるほど、逞しい胸板に乗せられる。

「俺のために命を張ってくれた人が苦しむような事は、絶対に許せないかな。たとえそれが、俺自身であってもさ」

「ご存じ……だったんですか?」

「もちろん。自分のことだから」

 そっと私の左手に背中を抑えていた手が添えられて、優しく撫でられた。

 それがなんだかとてもくすぐったくて、「ふゎぁぁああ……っ!?」と思わず変な声が出てしまう。

「だ、大丈夫か?」

「ひぇ、ひぇいきれす……」

「(手でダメか~……)」

 ぽそっと憂人くんの呟きが聞こえてしまって、恥ずかしさで顔が熱くなってしまった私は顔を俯けた。

 何も考えず切ったせいか、首のあたりの髪がちくちくとこそばゆい。

「その、俺も祈が来てくれて嬉しいのは本当なんだ。でも、それが苦になっているんじゃないかって」

「そ、そんなの当たり前じゃないですかっ」

 はっとして顔をあげて否定しようとしたら思わず本音が出てしまった。

 憂人くんはパッと私から離れて胸のあたりを抑える。

「うぐっ。……で、デスヨネー」

 そんな姿が私の胸を締め付けて、彼と同じように胸を抑えてしまう。

「でも」

「――え?」

 熱くなっていた顔はそのままだけれど、それでも小さく笑って。

 改めて自分が、上條祈である事を伝えたいと願いながら、告げる。

「今は、そんな苦しさよりもずっと……あなたと一緒に居たいです」

「い、のり……」

「……憂人くん」

 だから私は、()のように彼の名前を呼ぶ。

 自分が上條憂人という男の子を忘れないために。上條祈である事を忘れないように。

 これから共に未来を歩んでゆく、家族として。

 


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