「この辺りでいい。積み荷と一緒に俺も降ろしてくれ」
「ですが、シキさん……」
「いいんだ。そういう決定だ。抗う気はない」
「……分かりました。遺書などがあれば受け取りますが」
「いや、いい。俺が言うと皮肉だが、人が生き残ることを願う。今話している、お前も含めて」
「……はい」
東の山脈を越えた、人の文明圏の遥か先にある荒野の果てに降り立って、俺は飛び立つ飛空船を見送った。
これからまたあの船は戦地へと赴いていく。竜と龍が空を飛び交って炎を降り注がせる都市の只中へと。
都市は陥落しかけていた。多くの人は周辺に小さな拠点を作って避難した。しかし、龍たちの都市への攻撃は止まない。まるで、人の文明そのものを消し去ろうとしているかのようだった。
周辺の街や国の首都との連絡は取れなくなっていた。もう国家としての機能を失ってしまっているのだろう。人類という単位で、組織立った抵抗は難しくなってきている。
そんな非常時にあっても、人々は貴重な飛空船を遠き地へと向かわせた。
それはその必要があったからだ。こうすることで、龍の襲撃がほんの少しでも落ち着くかもしれないという希望があった。何よりもそれを人々が望んでいた。そして俺は、拒む道理などなかった。
飛空船が点となって、望遠鏡でも見えないだろう空の彼方へと消えていっても、俺はそれを見送り続けた。
そのまま夜になって、空に星が瞬き始めた──星なんて見たのはもう何年ぶりだろうか──冷たい風が頬を撫でて、俺はやっと振り返った。
振り返った先には竜車数台分程度の残骸が打ち捨てられていた。
ぼろぼろに砕けた装甲、あちこちから飛び出している導線、腐りかけた肉がこびりついた骨格。原型を思い浮かべることなどできないだろう。
この場には、俺とその残骸しか存在しなかった。
俺は残骸へ向かって歩いていく。静かな足取りで。月光が俺とそれを照らしていた。
そして俺は、残骸の中心、人の身程度の大きさの、不出来で醜悪な肉の塊を力づくでこじ開ける。
その中にいた
そして、俯いた。
「どうして……どうしてこんなことになったんだろうな」
それは、ある一人の青年の独白だった。
人は決定的に龍と道を違えてしまった。
互いにその存在を認められず、現に今、滅ぼし合うまでに至ってしまった。
その理由は分からない。龍が何を考えているのか人々は知ることができないし、その逆も然りだろう。
しかし、現象だけなら、何が発端になったかくらいは分かる。それはもう明確に。
ならば、それをできるだけ遠ざけようとするのは集団として当たり前の心理なのだ。
第二世代竜機兵は初陣から帰還、回収が不可能になった。
来襲の頻度が急激に上がった龍や獰猛化した竜。それらの標的が竜機兵へと移っていたため、帰還すると都市がさらなる危険に晒される可能性があった。
倒したモンスターの肉を喰らい、湖や川の水を飲むことで高い継戦能力を有してはいたが、それにも限度はある。メンテナンスが不要な兵器など存在しないのだ。
テハヌルフが常時戦い続けるような状況に陥るまでそう時間はかからなかった。その頃には信号で命令を伝達する余裕すらなくなっていた。
それでも第二世代竜機兵は戦い続けた。幾十幾百もの竜や龍の死体を積み重ねて、その身をぼろぼろにしながらも砂鉄の剣を振るい、開発コストを遥かに超える戦果を短期間で叩き出した。
このままでは竜機兵が持たないのは誰もが分かっていた。つまるところ、それは都市に残された猶予期間と言っても過言ではなかった。砦の修復や各地の拠点の設営もそのときに行ったものだ。
人々は都市を守るために戦い続ける第二世代竜機兵に感謝した。そして、それと同じくらいに恐怖した。それを排しようとした。
なぜなら、龍の襲撃が増えたのも、竜たちが獰猛化したのも、他の街までもが龍に襲われ出したのもちょうどその時期だからだ。因果を疑うのは必然だった。
一月を超えて、テハヌルフは戦い続けた。都市から遠く離れた地で龍を屠り続けた。
終盤は半ば暴走していたことが分かっている。砂鉄の波濤で周囲を更地にして、手当たり次第に磁力砲やブレスを放っていた。とても人が近づけるような状況ではなかった。
最後の止めを刺したのは風翔龍だったそうだ。なんの皮肉か、テハヌルフに対して最も相性が悪いとされた龍である。もうテハヌルフに戦う力が残っていなかったのか、その風翔龍が相性の差を覆しうる個体だったのかは分からない。だが、風翔龍もまた致命傷を負って、何処かへと逃げ去ったそうだ。
風翔龍は完膚なきまでに、やや過剰ともいえるほどに第二世代竜機兵を破壊していた。その結果が目の前にあるこの残骸だ。
俺はその間、何もしてやることができなかった。
彼女がここに戻れば都市が危険に晒されることは分かっていた。彼女が倒した竜や龍から彼女を遠ざけて、素材を回収させ、彼女に戦闘続行の命令を出し続けた。テハヌルフはそれに淡々と従った。
テハヌルフが都市で禍を呼び込んだものとして糾弾されても、それを否定せず成り行きを見守った。その世論が俺にまで波及することも分かっていて、前もって仕事を辞めた。第二世代竜機兵二号機、三号機の計画も進んでいたが、俺が関わることはなくなった。
この大きな流れ、集団の動きに抗うことなどできない。それが正しいか、間違いかは分からないが、真実であることは確かだ。
破壊された第二世代竜機兵は、龍たちが触発されないように東の果てに破棄することが決まった。
俺はこの異変を引き起こしてしまった責任を取るという名目で同行を申請し、それは誰にも止められず受理された。流刑というやつだ。だから今、俺と彼女はここにいる。
これが、第二世代竜機兵一号機を巡る話の顛末だ。
龍に等しく在れと願われた兵器の結末だ。
テハヌルフは奇跡的に外的損傷を受けなかった。龍たちもまさか胸元の肋骨の辺りに竜機兵の頭脳がいるとは思わなかったのだろう。
しかし、それは無事であるというわけではない。現に今、彼女は力なく肉の壁にその身を委ね、目を覚ます気配がなかった。竜機兵本体から受け取る痛覚はある程度遮断していたはず、それでも本体が全壊した負荷は大きすぎた。
残骸の運搬のために戦場で彼女を回収したときには、彼女の心臓は止まっていた。俺は彼女の死亡を確認するふりをして、密かに心肺蘇生をして彼女を生き永らえさせた。
なぜそのようなことをしたのか、当時の俺は分からなかった。咄嗟の判断だった。そのまま死なせておいても結末は変わらないのに。
しかし、それ故に今も彼女は生きている。何とか命を繋いでいる。放っておけばすぐに消え去る灯。俺は夜闇の中でただ一人、それに向き合っていた。
遠く、風の音が聞こえる。
「……俺は、どこから間違ってたんだろうな」
俯きながらそんなことを呟いた。
お前を心のない兵器として育てていた頃からだろうか。
お前が生み出されようとしているのを否定せずに計画に参加したときからだろうか。
竜機兵工学の門戸を叩いた時からだろうか。
「人は、どこから間違ったんだろうな」
人の文明圏を押し広げるために竜の棲み処を追いやり始めた頃からか。
竜の捕獲業者が出現し、龍殺しの武器が量産され、第一世代竜機兵が生み出された頃からか。
対龍兵器と謳って、龍の領域に手を伸ばしたからだろうか。
何一つ根拠のない憶測にすぎない。しかし、そういうものこそがこの世界のルール、理と言うべきものかもしれなくて。
人はきっと、その道を踏み外してしまっていたから。
「そんなもの……どうやったって、止めようがないじゃないか」
人は進むのを止めない。そういう生き物だ。俺一人がどうこうしたところで、その歩みの先は寸分も変わることはない。
つまり、人が進むのを止めさせるには、人という種そのものを文明の維持が不可能なレベルにまで減らすか、滅ぼすしかない。
だから人を殺す。文明を否定し、壊す。後世にそれを残させない。
それが龍たちの、これから人に淘汰されるはずだった種の選択なのだろう。
昔に読んだ『環境』という概念について解説した本にそのような言葉があった。心の片隅に引っかかっていた言葉がまさかここで思い出されるとは。
理を正す力。抑止力とも言うべき星の防衛装置。それに近しい何かと人は戦っているのか。
「もし、この考え方が少しでも正しかったなら、俺たちはとんでもないのと戦ってたんだな……」
途方もないスケールの話だ。今になってそれを実感する。
俯いていた顔を上げて、空を見上げる。満天の星空とまではいかないが、それでも幾多もの星が明るく瞬いている。
人の文明圏の外にある土地にしては珍しく、ここにはモンスターがあまりいないようだ。ひょっとしたらこの残骸を警戒しているのかもしれない。
遠く、風の音が聞こえる。
俺は小さく息を吐いた。
「なぁ、テハヌルフ。俺は、この終わり方をどこかで予感していたような気がするんだ」
この、どうしようもない結末を。
思い返せば、それは彼女と初めて出会った日から。
踏み越えてはいけない一歩を人が踏み越える瞬間を見届けようと決めたときから。
俺が話しかければ、彼女は必ず応答した。たとえそれが機械的な反応に過ぎないとしても、返事をしてくれた。
そんなテハヌルフの返事は、返ってこない。
「それでも、まさかこんなことになるなんて……なんて、他の人たちもそう思ってるだろうな」
街の中で暮らしていた人々も、竜の討伐を生業としていた人々も、等しく。
それは当事者だった俺たちだって同じだ。それに少し近かっただけだ。
こんな結末、誰だって予想はできなかった。
テハヌルフの返事は、返ってこない。
「だから、だからさ…………俺は、お前に……」
不意に声が詰まった。
胸の内で燻っていた感情が滲みかける。
彼女の指導を始めてから、あの日を除いてずっと誤魔化し続けていた心の内が、零れ出す。
テハヌルフの返事は、返ってこない。
俺が野垂れ死ぬまで、目を覚ますことはないだろう。放っておけば、このまま死ぬだろう。
彼女は、ただの兵器としてその生を終える。そういう風に彼女をつくったのは、俺だ。
そんな俺が、こんなことを口にするのは滑稽を通り越して、呆れ果てられるのだろうなと思った。
「……お前に、
それが、俺の傲慢だ。
テハヌルフへの最初の書き込みは、もし彼女が自らの存在意義に疑問を持ってしまったときに、その理由を示してやれるように。
テハヌルフへの指導は、これから幾多もの生き物の命をその手で奪うだろう彼女の精神を護るために。
あれらの非人道的な行いの裏にはそんな俺の思惑があった。
だからあれは仕方のないことだった──など、本当に、反吐が出る程におこがましい。
俺は、俺自身が最も嫌う理不尽の押し付けを彼女に強いていたのだ。
テハヌルフの指導を始めてから、俺はよく魘されるようになった。自分への嫌悪感が抑えられず、衝動的に物にあたってしまうこともあった。
何が仕方がなかった、だ。この偽善者野郎が、と。
それでも、その行いは兵器として合理的であることが分かっていたから──俺はテハヌルフの指導を続けた。淡々と、笑わずに、冷酷に。胸の内で自らを呪いながら。
最近笑顔を見なくなった、という元同僚の言葉は正しかった。こんな精神状態で笑えるはずもない。ただ、そのおかげでテハヌルフに対し意識せずとも笑顔を封じることができた。
さらに、それに追い打ちをかけるように、分かってしまった事実がある。
テハヌルフという少女は、その存在自体が人の罪なのだと。
俺はそれを否定することができなかった。その通りだ、と思っている自分に嘘をついても虚しいだけだ。
彼女自身がそうなりたくてそうなったのではない。しかし、ここではその話は意味を成さない。人の罪を彼女が背負っているという事実は覆しようがない。
本当に罪深いのは俺なのだと訴えかけても、何も変わりはしないのだ。
そんなどうしようもない俺が、これから死にゆく彼女にしてやれることは──
滲みかけた涙を引っ込めて。空を見上げていた顔を目の前の少女へと向けて。
久しぶりに、本当に久しぶりに──俺は、笑った。
「
彼女の第二世代竜機兵としての責務はもう終わった。
ならば、これからの俺は、竜機兵を造る技師としてではなく、ただのひとりの人として生きていく。
「一月、一年、十年。そんな規模じゃない。千年、万年の単位でお前を生かす。死なせない。それがお前に最後に与える理不尽だ」
それが何を意味するかは分かっているつもりだ。
最悪、後世に生き延びた人々へ向けて禍を送ることになる。竜大戦が不可逆な域まで至る引き金となった存在が蘇るのだ。人間という種族に対しての叛逆にも等しい。
しかし、あえて言ってやろう──それでも、俺は後世に彼女を託す。
竜大戦はもうじき終わるはずだ。人も龍も滅びる寸前までいくだろう。
それから先はどうなるか分からない。人と竜の禍根はなかなか消えないかもしれない。ひょっとしたら、もう元には戻らないかもしれない
だが、もしそうだったとしても。
「千年、万年の先に人と龍がこの大戦を忘れている可能性があるなら……それに懸ける価値がある」
龍を倒すための兵器がいらない未来を、身勝手に願う。
その未来に、彼女が生きることができるなら。
きっと彼女が背負った存在の罪は、世界に咎められないだろうから。
ようやく、本心を曝け出すことができた。後は行動に移すだけだ。
「食料は……隠れて持ち込んだのが二か月分で限度だったな。まあ、ぎりぎりまで節約すればさらにあと一月は持つだろう。その間にどうにかしてみせる」
残骸というものはこういう時に役立つもので、工具なども一揃い隠すことができた。
これから彼女を含め、残骸に施す処理は修理ではない。改造だ。
見るに堪えないがらくたになったとしても、テハヌルフがまだ生きているように、竜機兵の生命維持機構は死んでいない。それを最大限に活用する。兵装はもういらないのだ。彼女を生き残らせることのみに特化すればいい。
さらに彼女は人の姿を持ちながら龍の心臓を持ち、龍の血が流れている。龍の寿命は人よりも遥かに長く、老齢の個体は数千年の時を生きる。寿命の心配がないならばいくらでもやりようはあるはずだ。そう自分に言い聞かせて、俺は脳内で設計図を思い描いていく。
「だから、それまでの間に死ぬなよ、テハヌルフ。お前の中にいる龍の生命力を信じるぞ」
しばらくして、俺は工具箱からいくつかの道具を取り出した。眠気はない。ならば夜でも作業をすべきだ。期限は俺が死ぬまで。飢え死になどよりも通りかかったモンスターに殺される可能性の方が圧倒的に高いこの状況下で、時間の浪費などしていられない。
月明りを頼りに作業を始める。まずはこのテハヌルフを包み込む揺りかごから不要なものを取り外していくとしよう。
テハヌルフは自らが生き永らえることを望まないかもしれない。そもそも、彼女は自らの望みなど見出せないだろうが。そういう風に彼女をつくったのは俺で、だから俺は、この改造という行為を通して彼女に命じるのだ。
ただ「生きろ」と。
まったく、本当に度し難い罪深さだ。苦笑しながらそう思う。
胸の内は自らへの嫌悪感と罪悪感に焼け爛れてしまって、もうその辺りの感性は狂ってしまっているのかもしれない。
それが自らを誤魔化し、嘘をつき続けたことに起因するというのなら、今度こそは。
たった独りの戦いが始まった。
無残に破壊された何体もの第一世代竜機兵をこの目で見てきた。
使いまわせる素材だけを回収して、残りは廃棄した。肉は燃やして灰にした。新しい竜機兵を造っては壊されて、それを何度も繰り返した。
注目されるのは開発コストに見合った成果を挙げられたかということのみ。壊されるのは前提で、如何に効率的に竜を討てるかについて日々話し合った。
それを続けていった末に、彼女と出会ったとき。その瞳を見て。
これまで作ってきた竜機兵たちに、自らの所業を覗き込まれているような気がした。
「くそっ……このやり方はだめだ。もっといい方法があるはずだ」
工具を持った手を額に当てて顔を顰める。頭の中で思い描いていた設計図にさらに手を加えていく。
無策で改造に取り掛かったわけではない。だが、そういう作業には外乱や想定外の事態はつきものだ。その度に柔軟な対応が求められる。素材はこの地から調達するか、残骸から回収するしかない。限られた状況の中で最善の手を探していく。
妥協はしない。今までも、これからも。
彼女の感情が発達することはなかった。
羞恥も、哀愁も、怒りも、喜びも発達していない。素体は人間のため、原始的なものはあるにはあるのだろう。しかし、それらが表層に出てくることはない。
人間の赤子のように、泣き叫ぶようなこともない。完全に漂白された自意識は生きることにすら支障を及ぼしかねないが、演算機がそれを機械的に補完している。むしろ、彼女は演算機を介さねば発言や感情の表現ができない。
彼女にとって感情は一から学ぶものだ。しかし、彼女がそれに触れることはなかった。俺自身が感情をできる限り封じたからだ。
兵器に感情は不要で、不純物に過ぎないという俺の考えは変わることがないし、たとえ彼女との出会いからやり直せたとしても、その方針を変えることはないだろう。
彼女が対龍兵器として人に求められる限り、決して。
残骸の周りを取り巻いて低く唸り始めた鳥竜たちを見て、残骸の中に隠れていた俺は舌打ちをした。
「狗竜、か。さすがに見逃してはくれないよな」
遠方でアプトノスたちの群れを見かけたときから嫌な予感はしていた。アプトノスたちの渡りについてきた連中なのだろう。この残骸は肉付きこそ少ないものの、大型の生き物の死骸にほぼ等しい。匂いを嗅ぎつけてやってくるのは悔しいが道理だ。
竜の捕獲業者たちの間では油断しなければ一人でも数匹を相手取れる脅威度の低い竜とされていたが、俺にとっては一匹一匹が命を脅かす恐ろしい竜だ。
俺は以前に作った竜機兵の鱗を用いた簡素なナイフを手に取り、息を吸って残骸の中から這い出た。
狗竜たちが警戒の声色を強める。俺も残骸を背にして剣を構えた。彼らは食欲よりも興味本位で近づいてきているだけだ。割に合わないと判断されれば撤退するはず。
覚悟の強さなど勝ち負けに関与するはずもないが、それにすら縋ろう。
手だ。この手だけは守る。
テハヌルフを生かすための手だ。あとは眼。これらだけは何があっても失うわけにはいかない。
群れのやや後ろにいた狗竜の長が咆哮を上げ、竜たちの牙が迫る。
これから俺は命を奪う。奪わなければ奪われる。
その眼を、逸らさないように。
俺は、俺以外の誰も知らない夢のようなものを抱えている。
例えば、龍と話してみたい。方法はどうすればいいのか、手話か、笛の音か、鳴き声を模倣する道具を作るべきか。
その方法について高い可能性を持っていたのがテハヌルフだった。彼女はひょっとすれば通訳のようなことができたかもしれない。彼女は声帯が人と同じ仕組みなのでこちらから意思を伝達することはできないだろう。しかし、龍の意思や感情を受け取ることができるだけでも、手探りの状態から一気に脱することができる。
しかし、その可能性は棄却された。俺自身の手で潰したのだ。
例えば、この世界をどこまでも旅してみたい。
その夢のためには残念ながら竜たちが邪魔だ。全て殺してしまってはきりがない、というよりも彼らの営みも観察対象としたいので、見つからない方法を模索したい。
霞龍の皮で外套を作ってみたら視覚は誤魔化せるのではないか、迅竜の素材は消音性に優れると聞いたことがある。その他、聴覚、味覚、触覚を誤魔化して、そこに居ないものと誤認させる。そんなことができたら竜たちの世界に紛れて生きていくことができるだろう。
全て理想論だ。荒唐無稽な夢物語に過ぎない。それでも俺はそんな想像を止められなかった。旅に出たら絵を描きたい。道端でしゃがみこんでそこに咲いている花をスケッチするくらいがいい。
設計図よりも、そうやってありふれた絵を描いていたかった。
例えば、それは、どう足掻こうと絶対にありえないことだとしても──
「……いった……か」
残骸の装甲にもたれかかりながら、俺はこちらに背を向けて走っていく狗竜たちの姿を見送った。
彼らは諦めが悪かった。数匹の息の根を止めても、俺とその後ろにいるテハヌルフに襲い掛かるのを止めようとはしなかった。
ひょっとしたら、竜もまた本能的にこの少女の危険性を悟っているのかもしれない。敵意を向けているとするならこの執念深さも頷ける話だ。
そんな襲撃は、今日でちょうど十回目となる。
「ははっ……そろそろ、見逃してはくれないかね……」
そう呟きながら歩き出す。竜の返り血と俺自身の血で装甲はべったりと赤く染まった。
竜の捕獲業者なんて職には俺は確実に向いていないだろう。戦い慣れることはなく、いつも取っ組み合いのように傷つけあった。
狗竜の長が深く噛みついた右脚とわき腹からの血がなかなか止まらない。傷の治りが遅くなっているのだ。
無理やりにでも止血しなければ失神する。朦朧とする意識の中で俺はなけなしの傷薬を塗り込み、包帯で止血する。
そして、狗竜たちの亡骸へと歩いていって、分解されずに残っている肉を手に取り、それを直接食べた。口元を血塗れにしながら、がつがつと肉を喰らった。
持ち込んできた食料はとうに尽きた。口にできるものなら何でも口にするしかない。病原体となる寄生虫や細菌を体に入れているかもしれないが、食べずに餓死するよりはましだ。それで苦しみが大きくなったとしても、生きる期間が延びるならば。
最後の肉片を咀嚼し、手についた血を舐め取って、俺は背後を振り返り、そこで死んだように眠っている少女の元へ、足を引き摺り、わき腹を抑えながら幽鬼のように歩いていった。
「……あと、少し、なんだ。まって、ろ、テハヌルフ。はは……今回も、手だけは、守ってみせたぞ……」
この両手の五指がまだ動くことに感謝しよう。この目がまだ光を失わず、ものを捉えることができることを喜ぼう。
それさえあれば、俺はお前に向き合い続けられる。いや、たとえ片目、片手、それ以外の何もかもを失ったとしても。俺は。
その日は、嵐と見紛う程の強い雨が降っていた。
雨は数日前から耐えることなく振り続けていて、周囲には次々と川ができ、悉くが濁流となっていた。天変地異と言って差し支えないだろう。
ここが安全という保証はどこにもない。何かしらの対策を施さなければならない状況にあったが、俺は何もすることなく残骸に背を預けて座っていた。
もう、何をすることもできないからだ。
「……おわ……った」
結局目覚めることのなかったテハヌルフと、その身体を包む肉の揺りかご。
その外装の強化。たとえ大型の竜が踏み潰そうと潰されることはない。
生命維持装置の改良。至る所に堅木の種を埋め込むことにより、植物の根の因子を発現させることに成功した。
テハヌルフの仮死状態化。生命活動を極限まで抑えて、揺りかごが張る根から供給される僅かな水分と栄養で生き続けられるようにした。テラリウムという技術の応用に相当する。
その他、細かな調整を加えた箇所はざっと数千か所にのぼる。
これが俺が最低限やっておきたかったことで、ここまでやりきるのに今日までかかり、そしてそこで俺の体力は限界を迎えたらしかった。
以前から何らかの病気にかかっているのは分かっていた。残骸がある程度雨風を凌ぐとはいえ、ほとんど野晒しに等しい。そんな場所に長くいれば病気になるのは当たり前の話だ。
衰弱した身体は水以外を受け付けなくなり、腕を上げることすら難しくなるのにそう時間はかからなかった。
それから先は気力勝負だった。熱にうなされながら点検を繰り返し、おかしなところがあれば調整する。それを延々と繰り返す。何度も気絶して、その場で起き上がり、血痰を吐きながら作業を続けた。
そして、そんな俺の苦労など露ほどにもどうでもいい話だ。俺は最低限までしかできなかった。もっとするべきことはあったのに。
「お……まえ、の……なかの…………じこ、はかい……きこう、とりはずせ……なかった……ごめん、な」
自己破壊機構。彼女の身体の中に埋め込まれた安全装置のようなものだ。
意思を持った兵器という初めての試み、裏切りや暴走の可能性を危惧しないはずがない。そのためにテハヌルフの胸部に埋め込まれたのがその装置だった。新しい臓器のようなもので、彼女自身の意志か、人から命令されることで強制的にそれは作動する。一度発動すると彼女自身では解除がほぼ不可能になる。自らの身体を融かし尽くすまでそれは続くのだ。
以前、竜機兵についての後ろ冷たい気持ちを彼女に聞かれてしまったことがあったが、それが彼女には致命傷になり得る理由がそれだ。「自分は人々にとって不必要である」と彼女が判断した時点で、自己破壊装置は作動してしまうのだから。
できるなら、それは取り除いておきたかった。人間側の都合を優先させた枷でも最たるものであり、未来の彼女の大きな障害になる。しかし、それは強固に彼女の身体と結びついていて、簡素な手術程度ではどうにもならなかった。
ああ、心残りが残るばかりだ。だが、最低限を成せたというのはまだ幸いだったのかもしれない。そうでなければ俺は死んでも死にきれなかっただろうから。
と、そのとき。近くの山の方から何かが崩れるような音が聞こえてきた。
その音は瞬く間に轟音へと変わる。目だけを動かして山の方を見ると、山がその身を削り落としたかのようにごっそりと欠けて、岩や木々、川を次々と飲み込んでいくのが見えた。
大規模な土砂崩れだ。その波濤はこちらの方へと迫ってきていた。
そうか。あれが俺の死か。
このまま野垂れ死ぬのだろうと思っていたが、あちらから命を奪いに来てくれるとは。
むしろ、感謝するべきなのかもしれない。あれに飲み込まれれば、テハヌルフを土の中に隠すことができる。発見は難しいものになるが……その方が野晒しにしておくより生き永らえやすいだろう。大丈夫だ、あの程度では生命維持装置は壊れない。
走って逃げようなどとは微塵も思わなかった。竜に噛まれて膿んだ脚は、まともに立つことすらできなくしていたからだ。
しかも、もう生き足掻く理由もない。
迫り来る土砂を見て、こういうときに走馬灯は見れるのだろうかと思ったが、そんなことはなかった。竜に襲われ血を流し、作業中に体力を消耗して昏倒する度にそれと似たようなものを見てきたから、もう流せる映像もないのかもしれない。
ならば、この残り僅かな時間は、俺に許された最後の猶予なのかもしれなくて。
俺は。
俺は────
「どう、か。たのむ……おねがい、だ」
誰か、この想いを継いでくれ。本当にどうしようもない、人の罪ばかりを重ねた俺だが、願いを託させてほしい。
「あい、つに……そとの、せかいを」
灰色に満ちた空、血の色と匂いが染み込んだ地面を普通の光景だなんて思ってほしくない。
世界はもっと美しくて、残酷で、活き活きとしているはずだから。
「べつの、いきかたを……」
竜機兵が必要とされない世界を。
蘇ったテハヌルフは戸惑うかもしれない。それを悟った段階で自己破壊装置を作動させてしまうかもしれない。立ち会った者の選択次第だが、できれば、それを止めてやってほしい。
どんな生き方でもいい。人としても、龍としても、彼女は生きていけるから。せめて出会ったときだけでも、その道を示してやってほしい。
そして、そして────。
「わら、って」
瞬間、膨大な量の土砂が俺と残骸を飲み込んだ。
俺は一瞬で押し流され、圧し潰され、血潮すら揉み消されてただの土くれへと変わる。
テハヌルフの感情を封じたのは俺だ。思考を縛ったのも俺だ。彼女から笑顔を最も遠ざけた俺は、ただそれを願った。
そこまで至る可能性が、たとえ数億分の一ほどに小さかったとしても。
あいつに、笑顔を教えてやってほしい。
彼女はきっと、笑顔が似合うと思うから。
いつしか、その豪雨は止んでいた。
もとは山の麓の荒れ地だったそこは、数百万年もの時を一気に駆け抜けたかのように変わり果てた姿となっていた。
水によって削られた山々は急峻な渓谷を形成した。渓谷は大河からの湿った風を受け止めて、雨を降らせた。長い時間をかけて、ゆっくりと植物や生き物たちが進出していく。
幾千年が過ぎ去った頃には、そこには豊かな自然ができあがっていた。四季が存在し、竹林と森林が生い茂る色彩豊かな自然だ。空には竜たちの姿も垣間見えた。
さらに千年が経つと、そこに人間たちが集い始めた。地下から湧き出る温泉と強靭な木々を資源として集落が形成されていく。いつしかそこは、その地域の拠点ともいえる村となっていた。
そして、ちょうどその村に滞在していたひとりの
竜狩猟の依頼を請けて狩場に赴き、小高い岩壁の中腹に洞窟ができているのを見かけて。
その少女と、出会う。
「なんだこりゃ……」
これは、誰からも語られることのない物語だ。
一人の技師と兵器の、ただの戦物語だ。
あらすじとしては、これで十分だったのだろう。
ただ、
例えば──
遥かな過去に、栄えた人が竜を乱獲し、人と竜の摂理が崩れ、人と竜が明確に敵対し、怒り狂う竜が人を殺し、人造の竜が兵器として投入され、数多の竜を殺し、その死骸から竜が創られ、人は龍の領域にまで手を伸ばし、そして全てが清算された歴史があったとして。
その記録をすべて消し去り、無から始める道を人が選択したとして。
知ることなどできないはずのその歴史を知ってしまった者は、真実に立ち向かわなければならないのだろうか。
物語を紡ぐ狩人は、きっとその問いを否定する。立ち向かうか立ち向かわないかは勝手だろうと。立ち向かわない選択を掴み取ることが困難でも、それを目指してもいいはずだと。
物語を紡ぐ『 』は、きっとその問いを否定できない。かといって肯定もできない。その問いは『 』にとって、恐らく、あまりにも重かった。
物語を
だから、どうか、ささやかな物語であれと願うのだ。ただの旅物語になることを目指すのだ。
ぱちぱちと、薪が燃える音がする。
暖炉から発せられる柔らかな光に包まれた木組みの部屋、傍にあったベッドの上で少女は身じろぎをした。
「…………ん……」
「テハ、起きたのか?」
少女の声を聞きつけて、椅子に座っていた青年が声をかけた。
二人は揃って寝間着を着ていた。ユクモ村という村の人々がよく用いる庶民的な寝間着だ。
「……はい。少し眠っていました」
「まだ夜も早いが、お前がうとうとするなんて珍しいこともあるもんだな。何かあったのか?」
青年の問いに彼女はふと考え込むような仕草をして。
「……夢を、見ていました」
「夢?」
「はい。
「へえ……何気にテハから夢の話を聞いたのは初めてだな。今まで夢を見たことってあったっけか?」
「いいえ。しかし、
「そう、か。よければ、その夢の話をもう少し詳しく教えてくれないか。作業があと少しかかりそうだから」
「はい」
青年は机に置かれた紙に羽ペンを走らせる。少女はベッドに腰掛けて、夢を辿るように遠くへ目線を走らせた。
「
「教育とか訓練を受けたってことか」
「はい。砂鉄の剣を効率的に作る方法や、竜機兵本体との同期試験など、人と話し合いながら調整を進めていきました」
「そう言われると、なんだか現実味が出てくるな……」
彼にとって竜機兵の本体というのは知識として知ってはいてもなかなかイメージしにくい存在だった。この時代にそういった兵器は存在しないからだ。
しかし、こうして少女の話を聞くと、人間が試行錯誤して作り出したのだなという実感を僅かながら得ることができた。意思疎通ができるという少女の特性も活用していたようだ。
「なあ、テハ。少し踏み入ったことを言ってもいいか?」
「どうぞ」
「ありがとう。……今のテハの話を聞いて思ったんだが、テハの兵器としての原則とか、自己破壊装置を組み込んだのもその人たちなんだよな」
「はい」
「お前をあの洞窟に封じ込めたのも、誰かの思惑だったと思うか?」
「恐らくは。竜機兵本体には生命維持装置が搭載されていましたが、それは
「だよな……。なあ、テハ。お前を生き永らえさせた人は、何を思ってそうしたんだろうな」
「…………」
「もちろん、そのおかげで俺はお前に出会えたし、お前との出会いを否定するつもりは全くない。だが、それでも数千年だ。僕と出会わなかったらそのまま朽ちていた可能性だってある。いくら眠っていたとはいえ、お前は数千年の間、独りだったんだ」
そうなることは分かっていたはずだ。そのために生命維持装置というものを改造したのだから。
人間の彼にとって、千年は長い。途方もなく長い。人間ならば何十もの系譜を積み重ね、竜人族でもそこまでは生きられない。それだけの時を生きるのは古龍くらいだ。
だからこそ彼は割り切れない思いを抱えていた。納得のいかなさ、と言うべきか。何の目的でそれを成したのかが分からなかったのだ。
「……こんなこと言われても困るだけだよな。すまない。要領を得ないことを言ってしまった」
「……いえ、アトラが何を言いたかったのか、今の
青年は少しだけ驚いた。少女が意外な反応をしたことと、「気がする」という曖昧な言葉を自然と用いたことに。
少女は言葉を選ぶようにして話を続けた。
「竜大戦時代、
「それはまた……凄い人だったんだな」
「アトラと同程度の年齢でした」
「まじかよ」
俗に言う天才というやつか。老齢の学者のような人を想像していた彼はそのイメージを見事に覆された。
「とても淡々とした人でした。ですが、
記憶を辿って彼女は言葉を紡いでいく。
「本当は竜機兵を造りたくはなかったそうです。それでも竜機兵が必要とされているから造るのを止めないのだと
竜機兵のことをとても大切に思っているのだということは、当時の
他にも大切なものがたくさんあって、そのために矛盾も抱えてしまっているようでした」
今だからこそ分かることがたくさんあると彼女は話す。感情と曖昧さ、この世界を学んだことで過去を振り返ると、本当にいろいろなことに気付ける、と。
青年は思った。「その人」はあえて少女にそれらを教えなかったのだろうと。いずれ少女も分かるはずだ。いや、もう気付いているかもしれない。
しかし、少女はそれを気に留めている様子はない。割り切っているのではなく、ただ受け入れているのだ。自らの内の
少女の話は核心へと移ろっていく。訥々とした話し方がはっきりとしたものになっていく。
「
それは、第二世代竜機兵一号機が物言わぬ残骸へとなり果てて、遠く東の地、未来にユクモ地方となる荒れ地へと破棄された頃の少女の記憶。
視覚、聴覚、触覚も途絶えていた中で、彼女だけが持ち得た龍の感覚器官が受け取り、龍の感性が残した記憶だった。
「
ごく曖昧にしか覚えていませんが、いろいろな感情が混ぜ合わされたような心理状態で、ただ、
少女は自らの胸に手を当てる。それは、自らの心臓が多くの人に支えられて鼓動を続けられていることを学んだから。
それを大切だと思うことが、できるようになったから。
「その人の心はその人にしか分からないのでしょう。
少女は──テハヌルフは、笑った。
「あの人は、誰のためでもなく、
「その人」が最後に託した願いに、確かなかたちで応えてみせていた。
「そう、か。テハがそう言うなら、いや、テハが笑ってそこまで言うんだ。ここまで説得力がある理由もなかなかないな」
「
「ああ、笑えてた。久しぶりに見れてよかったよ」
少女は不思議そうに首を傾げ、青年もまた笑みを浮かべた。
相変わらず表情は乏しいが、それ故に笑ったときの印象が映える。それは彼女らしさと言っていいものだろう。
「しかも、ちょうどいいタイミングだ。推薦書への返信とギルドへの手紙、書き終わったよ。あとはこれを集会所に持って行くだけだな」
「分かりました。左手で文字を書く速さが向上していますね」
「ようやく慣れてきたって感じだな。さて、眠ったらまた旅支度だ。忙しくなるぞ」
そう言って青年は立ち上がった。
青年の歩き方はややぎこちない。右手は木製のフレームで覆われていて、日常生活には使えない。
少女の左腕は繋がっていない。声は掠れていて聞き取ることは難しく、相変わらず頭に髪飾りをつけている。
それでも──それでも彼らは、狩人を続けることを選んだ。
「心なしか楽しそうです」
「もちろんだ。本当に久しぶりの旅になる。何より……」
彼が手に取って彼女に見せた封筒には、一陣の風を模した標が彫られていた。
共に生きることに真剣に向き合った彼らが掴み取った、まだ見ぬ地への片道切符だ。
「お前も調査団に選ばれたんだ。一緒に新大陸に行こう、テハ!」
再び、旅が始まる。
今話を持ちまして過去編「追憶の彼方へ」完結です。
「とある青年ハンターと『 』少女のお話」もまた完結扱いに戻します。完結ったら完結なんです。
ここまでお読みくださった全ての方へ。本当に、ありがとうございました!