いつか喪われるものを人は幸福という。
久遠が呼び出した英霊は姿を消してしまった。
凛は見えなくなっただけで遠くには行っていないとやたら難しい専門用語で教えてくれたが、にわかに信じられない。この辺にいるのかな、なんて自分の右隣あたりの空気に触れるが求める感触はなく空振りをしてしまう。
ひょっとしたら今までのことは幻想だったのではないか。
右手の甲には凛が綿密に魔術を施したおかげで、禍々しい紋様はなく、見慣れた肌色がそこにある。
ただ、英霊を召喚したときの急激に喉が渇いて張り付く、あの感覚だけなは生々しく身体に刻まれていた。
魔術を行使したのはあれが初めてだった。
今まで桜の授業は、占い師が手順を説明するのを聞くかのように、理解できても理論は分からず、空想的だった……。
「どうした久遠、帰ってからずっと呆けて」
「べつに……」
一晩遠坂邸に泊まり、今朝になって士郎は迎えにきた。
久遠の異変には気付いておらず、しかし冬木の不穏な空気を感じているのか帰り道はどことなくピリピリしていた。
でも家に帰ればそれもない。
普段通りの、優しく大好きな士郎のまま。
「まだ置いていったこと怒ってるのか?」
そんなのいつものことじゃない。
そう言い返す気力も湧かず、久遠は頬を膨らました。
いつだって正義の味方は誰かを救いに彼方へ行く、その度に久遠は我慢してきたし、きっと桜や凛も同じ気持ちなんだろうと思う。今更それを不満には思わない。
「今日は桜先生は?」
「調べたいことがあるって帰ったよ」
「じゃあ、久しぶりにふたりなんだね」
「ああ」
台所に向かう士郎の方に駆け寄る。大勢で食べるご飯は美味しいし大好きだけれど、養父を独り占めできる時間は久遠のご馳走である。この時だけは彼はただの父親だから。
しまい込んでいた真っ白なエプロンを取り出した。
フリルとリボンがふんだんに使われ、贅沢なことに絹素材である。明らかに家庭用ではないのだが、桜の趣味で凛の見立てだ。士郎に反対する余地はなかった。
「桜の時も手伝えよ」
「桜先生はお料理が趣味だからいいの」
手頃な台を持ってきて乗れば、養父の微笑みはいつもよりうんと近付く。
とんとん、とん、と小気味よいリズムが響く。
久遠が野菜の皮を剥き、士郎が野菜を切る。久遠が普段、桜の手伝いをしないのは不器用だからという理由が主だが、士郎が刃物を扱わせないことも大きい要因である。それどころか火に近付くことすら許してくれない。包丁もガスも使えないとなれば子供にとってこんなに詰まらないことはなく、今使っているピーラーも久遠専用にと購入したものだ。
刃先には過剰なくらいに保護がされており、更には魔術によって怪我をしないよう付加がかかっているため、切れ味はすこぶる悪く、皮はぼろぼろと削れ、実は歪む。
出来上がったそれを形を整えるのは士郎の役目だ。
久遠は皮を削り、たまに包丁を羨ましく見る。
「使いたいか?」
「うん」
とんとん、とん。
人参がころころとまな板の上で踊る。
「もう少し大きくなったらな」
「それ、ずうっと言ってるよ」
「ずっと大きくなって欲しいと思ってるから」
嫌でも大きくなるのに。
士郎は時々よく分からないことを言う。
でも決まってなんだか寂しそうにするものだから、それ以上のことを久遠は言えない。
「じゃあ、もっともっと大きくなるね」
「ああ」
なんて穏やかな時間なのだろう……。
満たされた胸の熱を確かめながら、やはり昨日のことは全て夢だったに違いないと久遠は確信をする。
怖い黒い騎士も、手に浮かぶ令呪も、凛の言葉も、そして久遠が召喚したエメラルドの目のあの人も。
日々は何も変わらず流れていく。
士郎が傍にいてくれるなら何も怖くはない。
心配しなくていいんだ、信じていいんだ。
そして見上げたそこに、士郎の頭はなかった。
「────え」
咄嗟に目線を下にさげる。
「しろう」
崩れるように床に倒れ込む大人を、初めて見た。
血の気が引くというのを、初めて体感した。
布が落ちるようになんの抵抗もなく、久遠の目の前で士郎が倒れたのである。あまりに突然のことだった。
「し、士郎!士郎──!!」
身体を揺さぶれど、起きる気配はない。青白い顔は固く閉ざされており、まだ暖かな手足はゆらゆらと細かく揺れる。
ぞっとした──……。
テレビや本で見るような、死体のようだと思った。
そして思い出す。
昨晩の凛の台詞を……。
「聖杯──を、手に入れなくちゃ」
これは夢ではない。
誰かが久遠の耳に囁いた──……。
……──衛宮邸の前。
立派な門前は不用心にも開かれたままで、邸内の灯りがそこまで伸びて道のようになっている。ふらりと手を伸ばせばすぐそこにある団欒に手が届きそうだ。
きっととても暖かく、柔らかいのだろう。赤子の命のように、それはそれは尊く、それはそれは壊れやすい。この手で握りつぶしたならばどんな悲鳴を上げ、どんな感触がするのだろう。どんな血の色なのだろう。
想像するだけで涎が滴る。
嗚呼、是非試してみねばなるまい。
唇を舐め、そうっと手を翳す。
さあ壊れろ、苦しめ、そして泣くがいい!
「嫌な予感て当たるものなのよね」
……絶頂を邪魔され頬が引き攣る。
今すぐこの不快感を消したく、声の方を振り向いた。
「アサシン?それともキャスターかしら、何れにせよここには一切の手出しはさせないわよ」
「……ヒャハ、フヒヒヒヒヒヒ!!」
手入れされた綺麗な髪、すっと伸びた細い身体。
作り上げられたかのように端正な顔には自身と余裕。
嗚呼、この女の悲鳴はどんなだろう────?
とあるマスター
彼は全うかつ善良な聖職者である。人のため祈りを捧げ人のために悲しむことの出来る、平和を愛する聖職者。ただそれだけの彼がマスターとなり英霊を召喚することが出来たのは、偶然でも才能でもない。それは己が身にかけた呪いを利用し限界した彼の英霊による逆指名である。英霊の甘い誘惑に唆され、彼は聖杯戦争に身を投じる。因みに気が強い女性がタイプ。