愚かな姉妹たち。
「ああ、ああ悪い、朝には迎えに行くから……」
士郎の電話の相手は恐らく凛だろう。久遠を置いてけぼりにしてしまったからと彼女の保護を頼んでいるらしい。本当ならあの小さくて愛らしい少女を守るのは師である自分の役目であり、姉にそれを取られてしまうことは些か癪であるのだが、この状況下では仕方がないことだと、桜は繰り返し自分に言い聞かせた。
衛宮久遠の家庭教師を買って出たのは、彼女の属性に対応出来るのが自分しかいないと理解していたからである。攫われたイリヤを救うため侵入した城で初めて彼女を見た時、桜は彼女が間桐により近しいということを直感したのだ。
放置すればいつかの自分のようになるかもしれない。だからなるべく久遠の傍にと望んだのである。それには凛も賛成してくれたが、士郎だけは渋い顔をした。
彼の首を縦に振らせるのに五年もかかったくらいだ。
桜は士郎の考えをよく分かっている。
イリヤの忘れ形見を、危険に巻き込みたくない。
(少しだけ羨ましい)
家族にそこまで思われるのは、どんな気持ちだろう。
思い出すのは遠坂家での日々である。
「桜」
名を呼んだのは魔術師としての将来を望んだ父でも、この世で一番に会いたい母でも、ましてや愛する姉でもない。
「久遠ちゃんは大丈夫でしたか、先輩」
「すぐに遠坂が見つけてくれたみたいだ」
ふうと息を着いた士郎を見て桜も安堵した。彼女の魔力もまた膨大な量と質を誇るため、桜のように狙われる可能性があったからだ。三人がかりで甘やかし愛でてきたあの子に英霊や他の魔術師の存在は毒だろう。
桜が平穏に、士郎が普通に、凛が幸せにと望み育ててきた子だ。何かあっては悔やみきれなかった。
「桜、もう一度見せてもらってもいいかな」
差し出された手に迷いなく左手を重ねる。
それを包む彼の手に曇りはない。
「どうして令呪が──」
「……」
それは自分が間桐だから。
それは桜が魔術師だから。
かつての苦い思い出を噛み締める。あの頃の桜は嫉妬と自己嫌悪のまま周囲を傷つけた。左手に宿るこれは負の象徴である。それを知る士郎は桜より苦しげな面持ちをしていた。
「──辞退しよう」
「え?」
聞き返しながらも、どこか納得をした。
この人はきっとそう言うだろうと思っていた。
「マスター権を譲渡するんだ、俺でも誰でもいい、もう桜がこんなことに関わる必要はないんだから」
ああ──……と、桜は落胆する。
自分はまだこの人の守りたい世界の一部に過ぎない。
彼が桜に与えるべきは甘ったるい情でも庇護欲でもなく、スパイスの効いた信頼であるのに。士郎は一向にそれを与えようとしない。桜はもう子供ではないし、ましてや弱者でも可哀想な被害者でもないのに。
士郎の中ではまだ彼女の存在は可憐で儚い後輩なのだ。
黙した桜の顔を、どこか情けないようにたれ下がった眉が覗き込んだ。その琥珀色の瞳に見つめ返す闇色の女がいる。虚無のような人形ではなく、強く意志のある女が。
「辞退はしません」
「桜──!?」
「先輩の提案には賛成できません」
愛しい人を睨む。
「今の不安定な先輩ではすぐに死にます、この聖杯戦争の正体を暴かなければならない以上私は辞退しません」
「それなら遠坂でも……」
「これは、間桐家当主としての役目であり決定です」
正義の味方は唖然としていた。
ここにいるのはか弱い後輩ではなく、一人の魔術師だ。
何度でも自分に言い聞かせる。
遠坂桜はもう死んだ、自分は間桐桜だ。
「守るものを見誤らないでください」
「……」
「先輩が守るべきものは久遠ちゃんです、どうか私から、闘う術を奪わないでください」
しばらく静寂が漂う。
長い思案と短いため息。
「……なら、せめて見届けさせてくれ」
結局、士郎は桜に甘い。
ここに凛が居たならばそう叱責しただろう……。
桜の魔術師としての素質は、ある意味限界が見えている士郎や凛に比べて未知数である。それは久遠にも通じるところがあり、単純に魔術だけの勝負であれば彼女に負けはない。未知ほど恐ろしいものはないからである。
そして未知に対し魔術師は弱い。
かつての聖杯戦争でも、桜が何の縛りも遠慮もなく臨めばまず間違いなく聖杯は彼女の白魚の手に落ちただろう。
(だから私が喚ぶべきなのはアサシン……)
この聖杯戦争を探るためにも、派手で魔力の強い英霊より隠密に徹した暗殺者が好ましい。それに、戦いにおいてもゴリ押しの力強くが利く桜をうまく援護する英霊が好ましかった。間桐邸に行けば祖父が集めたそれらしきガラクタはあるだろうが、まともな触媒なしに最優たる剣士を呼び出せる保証もない。無謀なことはできない。
問題は、この異例な聖杯戦争において、どこまでのルールが通ずるかという点のみである。汚濁した聖杯のその欠片が綺麗であるはずがないのだから。
そこまで考えたところで、魔法陣が書き上がった。
手のひらを翳し、魔力を注ぎ込む。
緊張と微かな恐怖が沸き立つ。
微かに震えた肩を士郎が後ろからそっと支えた。
「素に銀と鉄、礎に石と契約の大公──」
大丈夫、怖くはない。
後ろにこの人がいてくれるなら。
「──告げる、汝の身は我が下に、我が運命は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!
誓いをここに。
我は常世総ての善と成る者。
我は常世総ての悪を敷く者。
汝、三大の言霊を纏う七天。
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──……!!」
光がそれを導き、風が訪れを告げる。
よろめいた桜を士郎が今度はしっかりと支えた。
時は満ち、魔力は注がれ、そして彼の者は応えた。
やがて光が溶け英霊は姿を現す。
そして桜はこの聖杯戦争がやはり特異であるということを痛感したのである。
「ふふ、女神を現界させるだなんて面白くて哀れな人ね、あなた、お名前は?」
それは、少女の姿をした女神。
そして恐らく最悪の姉であった。
ステンノ
ギリシャ神話における女神。ゴルゴン姉妹は全うな女神ではなく、神話中においてはむしろ暗黒の部分を抱えている。そんな危うく奔放な女神であるが、偶像を冠するだけあって淑やかで上品、それでいて優雅で可憐な面も持ち合わせている。その表裏一体な部分が間桐と遠坂の間で苦悩する桜と共鳴し召喚された。妹が執着する人間に興味があったから……というわけではないらしい。