善を悪に、光を闇に。
薄暗い洋館の一室で、一組の男女が向き合っている。
男の方は鍛え上げられた上半身を露わにし、女はその白く細長い指を男の褐色の肌に這わせる。一見情事の最中かのような艶めかしさがあるが、二人の深刻で重苦しい空気はそれを打ち消している。
しばらく二人はそうしていたが、やがて女が徐に立ち上がった。緩く巻いた長い髪をかき揚げ首筋の汗を拭う。かなり疲労をしているらしく、形の良い眉の間には深いシワが刻まれていた。
「いつも悪いな、遠坂」
遠坂と呼ばれた女は上着を羽織る男を一瞥する。
「……ふん、高くつくわよ」
「分かってるよ」
「馬鹿ねウソよ」
遠坂凛は意外にも柔らかく微笑んだ。
こうして凛と、そして衛宮士郎が対面するのは久しいことである。主にロンドン近辺で活動をする多忙な凛が日本に帰国するのは年に数回しかなく、士郎は士郎で国内と国外を日帰りで行き来しているため、会うことの出来る時間は少ない。しかし今日ばかりは二人ともわざわざ時間を開けた。
それは恋人同士の逢瀬のためではなく、友人達の近況報告会でもない。医者と患者の診察のそれである。とはいえ、凛は医者ではない。ないのだが、士郎の身体を診ることが出来るのは医者ではいけないのだ。
それは魔術師だ。
これは病ではない、呪いだ。
凛は年に一度、士郎の呪いの進行を確かめるためこうして時間をつくり会いに来るのだ。
「年々、進行が早くなってるわ」
「そうか」
「やっぱり一緒にいる時間に比例するのね、桜の身体もかなり力が及んでいた……衛宮くんがぶっちぎりだけど」
「魔力が強い者ほど影響を受けやすいんだな」
「全く魔力がない人もよ、あなたみたいに中途半端に回路を形成している人が一番安全ということ。……まあ、それでも安心は出来ないけど」
「あとどれくらい持ちそうだ?」
凛はぴくりと口端を引き攣らせた。
士郎の肌は出会った頃のそれに比べると、随分浅黒くなったように見える。本人に自覚はないだろうがたまに会うからこそ分かる。いや、凛だからこそ分かる。かつて凛が背中を預けたもう一人の士郎に、彼は確実に近付いている。皮肉にも彼が一人の少女を守ろうとする度に……。
冷静に分析をする。士郎の身体だけでなく、その思考や心が汚染されるまでの猶予を。
「そうね……一年、かしら」
「そんなに短いのか」
「あの子の力も、年々強くなってる」
ちらりと窓の外を見やる。
陽の光の下を、手入れの行き届いた庭で妖精のような少女が駆け回っている。髪と肌は粉雪のように白く絹のようで、華奢な手足を溢れんばかりの生命力が巡る。小鳥か何かを捕まえようとしているらしく、表情は真剣そのものだ。
「大きすぎる力は身を滅ぼす……」
「久遠は俺が守るよ」
「それであなたが犠牲になって、意味がないじゃない!ミイラ取りがミイラになるって言葉知らないの!?」
「遠坂」
「自分のことはどうでもいいわけ……!?」
「落ち着けって」
「その声!気付いてないんでしょうけど、段々アーチャーに似てきているのよ」
はっとして口を閉じた。
士郎は少しだけ、困ったように微笑む。
「ごめんなさい……」
責めるつもりはなかった。士郎が少女を大切に思っているのは分かっている。彼があの子を育てることを決めた時、自分はそれを応援することを覚悟したというのに。
情けなさで凛は死にたくなった。
「遠坂、久遠が呼んでいる」
士郎に言われ、再び窓の外を見た。先程の白い妖精が満面の笑みでこちらに口を動かしている。両手にはしっかりと、青い小鳥を抱いて。
凛は窓を開けた。
「ど、どうしたの、久遠」
「凛おばさんにあげようと思って」
「インコかしら?ありがとう」
何も知らない無垢が矯声をあげる。
「うふふ!」
「でも、首輪がついてるわ。どこかから逃げてきたのよ、放してあげなさい」
「せっかく捕まえたのに?」
「あとでロンドンでの話をしてあげるから」
「ほんと?絶対だからね!」
少女は両手を大きくあげ、鳥を解放した。
ようやく放された小鳥は空へと一直線に舞う。
名残惜しさもなさそうに少女はそれを見ていた。
衛宮 久遠 (えみや くおん)
イリヤスフィールから取り出されアインツベルンの調整を受けた士郎の養女。アインツベルンが彼女に施した調整は「反転」という属性により現れる。善を悪に、光を闇に反転させる強い力は周りを否応なしに反転させる。それは彼女に近しいほどに作用する。故に久遠は、幼い頃から親しい者から突如襲われたり、裏切られたり、という経験を繰り返してきた。それでも久遠が歪まず育ってきたのは、彼女の唯一の家族が変わらずそばに有り続けたからに他ならない。