世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
和谷くんたちが合格してしばらく経った頃、明日美さんが女流棋聖戦で負けを喫した。明日美さんが有利に進めていたけど、堅実に行こうとしていたところを相手が荒らしに来て受けきれずに薄い右辺を突破されて、負けに繋がっていた。
「悔しい。勝てばあかりちゃんと打てたのに」
「惜しかったね。でも全体的に見て、明日美さんが崩れたわけでもないし相手が上手く打った感じだね」
「うん。強かったよ。場慣れしてる感じもあったし」
明日美さんが負けた対局があった週末に、残念会と称してケーキバイキングに足を運んだ。こればっかりは、塔矢くんじゃ厳しいだろうから私の出番だね。
アップルパイにチーズケーキ、モンブランと続けて食べながら、会話に花を咲かせる。
「対局の結果を見て、塔矢くんは何か言ってた?」
「うん、終わった後にも相手の方と検討したけど、それを踏まえてアキラくんに色々と教えてもらったよ」
どんなアドバイスをもらったかを聞き終えてから、別の話題に移る。
「そういえば、天野さんが関西に行くみたいなの」
少し前にインタビューを取りに来たとき、様子が変だったので聞いてみたら、関西の上層部の人が体調不良らしく、急遽天野さんが穴埋めに行く必要が出たとか。
「ふーん。変な取材が増えなければいいけど」
「あはは。明日美さん美人だから、若い人が天野さんの後釜になったら大変かもね」
笑ってからかうと、明日美さんもため息まじりに言い返してくる。
「私のことより、あかりちゃんこそ気をつけなよ。囲碁を打ってる時以外は、ただの可愛い女の子にしか見えないんだから。内面はともかく」
「うん、気をつける。いざとなったらヒカルに守ってもらうよ。明日美さんも、何かあったら塔矢くんに相談しなきゃね」
「それ、変に大ごとになりそうだね……」
相談して、もし塔矢くんが怒ったりしたら、確かに大ごとになりそう。ヒカルが騒ぐ分には、またかで済みそうだけど。
人徳というか、なんというか。ちょっと大人っぽくなってきたとはいえ、ヒカルはまだまだ子どもだよね。
「そういや、和谷と越智が合格したし何かお祝いしてあげる?」
「そうだね。そうだ、お祝いと言えばね。しげ子ちゃんのお祝いっていうのがね……」
明日美さんにしげ子ちゃんの面白いエピソードを話して爆笑をもらったり、碁会所での研究会でサプライズパーティーやる計画を立てたり。
後日、塔矢先生と市河さんにも相談して了承を得て、準備にいそしむ。
12月に入り、女流棋聖戦の本戦決勝の日になる。
明日美さんとの対局や、その他過去の棋譜も研究して、ヒカルにも佐為にも鍛えてもらった。
「あなたが藤崎さんね。よろしく」
「よろしくお願いします」
相手は女性には珍しい、力碁を好んでいる棋風。持ち時間が一手30秒の対局だと特に荒れやすいけど、私もヒカルとさんざん打ってるし、勝負になるはず。
私が先手で対局が始まり、お互いの布石もそこそこに序盤から相手が戦いを仕掛けてきた。相手の土俵で戦う必要なんてないので、のらりくらりとかわしつつ相手のミスを待つ。
「あっ」
相手が、小さくつぶやく。ミスでもないような場面で。惑わせようとしたのかもしれないけど、とりあえず無視して打ち進める。
そうするうちに、相手は地が確保できていないので、無理な手が目立つようになってきた。
冷静に、自陣を守りつつ相手の石を攻め立てる。あとは応手で間違えなければ、勝ちが見えてくる。
「……負けました」
考慮時間も使い切るくらいギリギリまで考えていたけれど、勝てる道筋が見つからなかったようで、相手が負けを宣言した。
「あかり」
「ヒカル! 来てくれたんだ」
対局が終わって部屋を出ると、ヒカルが待ってくれていた。あれ、でもまだ授業をやってる時間だよね。
「先生に了承はもらったぜ。囲碁の用事で、外せない事情があるってさ」
「そうなの? ならいいけど、学校に行くのもあと少しだし、ほどほどにね」
そんな話をしながら棋院を出ようとすると、入り口付近で声がかかった。
「あ、きみが進藤くん?」
「はい?」
ヒカルが振り向くと、あまり見覚えのない男性だった。ヒカルと一緒に首を傾げていると、出版部の古瀬村さんと名乗った。
へえ、この人が天野さんの後釜か。
「韓国のプロで、洪秀英って子を知ってる?」
「秀英! 知ってるよ。あいつもプロになったの?」
ヒカルが、プロになる直前に碁会所で対局したと伝えると、古瀬村さんは嬉しそうにしている。
北斗杯で日本に勝ち目が薄いと聞いていたようで、不安だったようだ。
「出場選手って、どうやって決めるか知ってますか?」
「ん、きみは?」
「藤崎です。藤崎あかり。そっちの進藤ヒカルくんと一緒で、今年プロになりました」
「へえ。そういえば聞いたことあるような」
この人、考えたことがそのまま口に出るというか、そそっかしい感じだけど大丈夫かな。
「それで、選手の決め方だよね。うーん、渉外部の人ならある程度把握してると思うけど、僕は出版部だから知らないなぁ」
「そうですか、ありがとうございます」
残念ながら知らなかったようで、首を横に振られた。私の話はそこそこに、古瀬村さんはヒカルと話を続ける。
「それにしても、日本も塔矢くんに進藤くんがいれば、十分に勝ち目あるんじゃん」
「あー、まあ出られるかどうか分かりませんけどね。あかりだっているし、奈瀬や今年受かった越智や和谷だって強いし」
「でも塔矢くんはリーグ戦入りだし、そんな塔矢くんに勝った進藤くんとは比べものにならないでしょ?」
古瀬村さんの言葉に、ヒカルが怒っているのが分かる。
あーあ、この様子じゃ、今日は機嫌が悪そう。
古瀬村さんにすれば、自分が持ち上げられて悪い気はしないと思ってるんだろうけど、そんな単純な話じゃないよね。
「あかり、行こうぜ。検討の時間もなくなっちまう」
「うん。古瀬村さん、情報ありがとうございました」
ヒカルに手を取られて、棋院から出る。
これまで出版部には天野さんがいて、新聞に載せて良い内容と駄目な内容の線引きが上手かったけど、これからは気をつけなきゃいけない気がする。出版部任せじゃなくて、自分できちんと線引きしておかないと。
「なんだあれ。あかりの成績知っててあんなこと言ってんのかな」
「私の成績はともかく、あまり囲碁界について詳しい感じじゃなかったね。小さい頃から囲碁を打っていて、大人になって棋院で働くって人もいるけど、古瀬村さんはただ選んだ企業のひとつが棋院だったって感じだね」
それは別に悪いってわけじゃない。ただ、古瀬村さんの口の軽さに、ちょっと不安が残るってだけ。
まあいいや。そんなことより、ヒカルの言葉じゃないけど検討したいし。
「早く帰ろう。今日は、ヒカルと佐為の日だよね」
「おう。今日こそ勝ってやるぜ。……うるせーな、分かってるよ」
ふふ、かわいい。佐為と楽しく話してるヒカルは、中学3年生とは思えない幼さがある。今も何を言われたんだか。
そんな話をした翌日、塔矢先生の研究会の帰りに、明日美さんから相談を受けた。
「誕生日プレゼント?」
「うん。アキラくんが、来週誕生日だから」
「そうだったね。候補はあるの?」
「候補っていうか。最近はリーグ戦もあるし、スーツを着る機会も増えてるからネクタイとかどうかなって思ってるの。ありきたりだけどね」
恋人でもないのにネクタイを送って、変な目で見られたくないってところかな。
でも、それこそ今さらだよね。
「良いと思うよ。勘違いされて困るならともかく、明日美さんはもっとアピールした方がいいんじゃないかな。塔矢くんって、ヒカルと一緒で結構鈍感そうだし」
「そうなの。囲碁ばかりやってたからか、そういうことに疎いよね。私も似たようなものだけどね」
プロ試験に受かるまでは、それどころじゃなかった、と付け足す。
うんうん。塔矢くんは意外と押しに弱そうだし、明日美さんはドンドン攻めた方がいい。決して面白がってるわけじゃない。
「私も来年はネクタイにしようかな」
「誕生日まで待たなくても、クリスマスに贈れば良いんじゃないの?」
「もうマフラー編んでるもん」
ヒカルが明るめの色が良いっていうから、明るめのオレンジ色で編んでみた。柄は入れずにイニシャルだけ大きめに。
隠そうと思えば隠せるし、チラッと魅せたりもできる。外套に合わせて使い分けられる。
「はいはい、ごちそうさま。あ、そういえば話は変わるけど、北斗杯の予選、どうやらトーナメントらしいわよ」
「え、誰に聞いたの?」
つい先日、出版部の人から知らないって言われただけに、気になって首を傾げると、明日美さんがふふんと胸をはった。
「昨日、棋院で北斗杯の予選のスケジュール管理してる人が話していてね。1月に東京で代表を決める予選をやって、4月に東京4人、関西棋院とか別の棋院4人で決定戦とか言ってたよ」
明日美さんの説明で大まかに理解できたけど、3人を決めるのは難しそうな気がする。
それにしても、予選があって良かった。どうやって決めるのか不明だったし、3人を棋院が決めちゃうと指をくわえてみているだけになるところだったね。
「8人から3人選ぶの?」
「え? うーん、どうなんだろうね。近くで聞いていただけだし」
「そっか。でも1月に予選なら、そろそろスケジュール調整も兼ねて連絡が来そうだね」
ヒカルや私、明日美さんもだけど、特に塔矢くんは対局が増えていて、凄く忙しくなってきている。スケジュールを合わせるだけでも簡単じゃないはず。
「予選にしても本戦にしても、当たり運が大事になりそう」
「そうだね。ヒカルと一緒に出たいから、ヒカルとは当たりたくないな」
「実力を考慮してトーナメント作るなら、アキラくんと進藤とあかりちゃんは、別のブロックにしそうね」
「え、そんなことないよ。塔矢くんはともかく、ヒカルと私は実績も実力も足りてないよ」
棋力そのものも調子が良くて互角程度だし、場慣れという意味では足もとにも及ばない。
中韓の実力者に比べると、あきらかに実力不足だと思う。
「私は棋戦も負けてるのが多いけど、進藤とあかりちゃんは未だに負けなしでしょ。明らかに18歳以下で相手になる子がいるとは思えないけど。2次予選で勝ってるのって3人だけだしさ」
塔矢くんに関しては、2次予選どころかリーグ戦入りだから、私やヒカルと同じ枠に入れると失礼にあたる。
「こんなこと言うと失礼だけど、何年か前からプロなのに2次予選に進めてない人より、今年受かった3人の方が怖いよね」
「伊角さんに越智くんに和谷くん、3人とも強いからね。和谷くんに聞いたけど、伊角さんはこれまでより格段に強くなってるって言ってたよ」
私の言葉に、明日美さんは驚いて目を見開く。美人だと驚いても変な顔じゃないのはずるい。
「伊角さん、また強くなってるんだ。来年、当たらないよう祈らないと」
「まあ、伊角さんは北斗杯は出られないけどね」
そう、伊角さんは年齢制限に引っかかって、北斗杯の資格がない。和谷くんや越智くんは参加するので、かなりの強敵だね。
特に越智くんは、一柳先生に師事してから地にこだわる打ち方だけじゃなくなっている。
もちろん地にこだわるのは悪くないんだけど、深いところまで読む打ち方にいいようにやられる場合も多い。
「北斗杯かぁ。無理だろうけど、なれるなら代表になりたいよ」
「なりたいね」
塔矢くんにヒカル。他の棋院だと思うけど、もう1人、前世で参加していた人がいる。彼も凄く強いだろうし、当たり運を含めて壁は高い。
……明日美さんのプレゼント相談から変な方向に話が転がったけど、2人で気合いを入れて解散となった。
翌週の月曜、学校から帰り、荷物を置いてからヒカルの家に行くと、棋院から電話があったらしいとおばさんが言っている。
「帰ってきたら電話してほしいって」
「なんだろ。とりあえずかけてみるけど、あかりは上で待ってるか?」
「うん、分かった。先に上がって、準備しておくね」
気になるけど、あまり踏み込みすぎても良くない。プライバシーは大事。
部屋に入ると、佐為がギリギリまで見ていたのか、週刊碁の棋譜のページが何枚か開かれていた。まだ見たいかもしれないので、すぐに展開し直せるようずらしながら重ねる。
詰碁の本も、ベッドの上に置いたままになっていたので、本棚に戻す。
「おう、おまたせ」
「ううん。何だったの?」
私が聞くと、ヒカルは少し言い辛そうにしている。どうしたのかな。
「北斗杯の予選なんだけどよ。俺と塔矢が免除だって」
「へえ。塔矢くんはスケジュール管理すら難しいくらい忙しいし、分かるけど。ヒカルもなんだ」
「若獅子戦とはいえ、塔矢に勝ったのが評価されたとかなんとか言ってた。俺が免除なら、お前も免除でいいくらいだと思うんだけどな」
ああ、言いにくかったのは、私に遠慮していたからなんだね。でも、ヒカルが言うとおり塔矢くんは別格だし、塔矢くんに勝ったヒカルを特別視するのは、何もおかしくないよね。
「成績で見たら一目瞭然だよ。私は2人に劣ってるし、3人とも棋院で決めちゃったら、他の人もがっかりするでしょ」
それでもなぁ、と気にしているヒカル。私にしてみれば、ヒカルと塔矢くんが北斗杯に出るのは確定だし、2人が免除されてトーナメントで当たらないことがありがたいくらいなんだけど。
「残り1枠をかけて争う。分かりやすくていいと思う」
うん、と頷いて気合いを入れる。日程が決まったわけじゃないけど、あと1ヶ月ほど。
「意外と冷静だな。俺なんか、自分のことだけどずるいって思ったのに」
「ふふ。ヒカルと違って、私は大人だからね!」
「ちぇ。でも、予選でお前と当たるような事態にならなくて良かったとは思うよ」
本当にそうだね。ヒカルの横に並んで団体戦ができるチャンスは、北斗杯が最初で最後かもしれない。何が何でも、勝ちをもぎ取りたい。
「ヒカル、打とう。予選までにもっと強くならなくちゃ」
「おう。俺も油断してられねえしな。っていうか、あかりは北斗杯予選の前に、大一番があるじゃねえか」
「うん。ヒカルとどっちが先かなって思ってたけど、私だったね」
「楽しみだな。俺も早く打ちたいぜ」
来週の木曜。本因坊戦の1回戦、私は幼い頃からお世話になっている、森下先生との初対局が待っている。