世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第47手 プロ1年目 その7

 若獅子戦決勝戦の前夜、いつものようにヒカルの家で勉強会。できる限りの対策は練った。

 佐為に仮想塔矢アキラをやってもらったり、私が持っている塔矢くんの棋譜を用意して、打ち筋を確認したり。

 続けて研究や対局をしていたから、かなり疲れた。準備万端整えてから、休憩する。

 

「ヒカル、明日頑張ってね」

「おう。去年はまだまだ力の差が大きかったけど、今年は勝ってみせるさ」

 

 うん、確かに去年よりもずっと実力差は縮まっているはず。その上で対策までしているんだから、勝ってもおかしくない。

 おかしくないんだけど、塔矢くんに勝てるっていうことは、リーグ入り間近の実力とも言えるわけで。一足飛びに強くなっていくヒカルに、付いていくので精一杯にならないよう、私ももっと頑張らないと。

 本当に、プロ1年目だからと甘えずに女流タイトルくらい取れなきゃ、塔矢くんやヒカルと肩を並べられない。

 

「ああ、私にも佐為が見えて話ができたらな。たまには連れて帰って、ひと晩中相手をしてもらえるのに」

「……それは嫌だな」

「もー、ヒカルのケチ」

 

 口をへの字にしつつ駄目出しをするヒカル。1日くらい借りてもいいじゃない。

 ……無理を前提で話しているけどね。

 

「ケチとかじゃなくて……。あーもう、うるせーよ!」

 

 何だろう、ヒカルが何やらぶつぶつ言ってる。

 大事な対局前夜に言うことじゃなかった。つい口から出ちゃったけど、反省しなきゃ。

 

「ごめん、本気で言ったわけじゃないから。それより本因坊戦の一次予選の1回戦、早く決まるといいね」

「あー、そうだった。あかりの方は連絡来たんだよな」

「うん。7月末の水曜。ヒカルは8月頭あたりかなぁ?」

 

 ついに、男女混合の七大タイトルの1つが始まる。塔矢くんは勝ち続けているから当たらない。そうなると、一番当たりたくないのはヒカルだね。

 二次予選ならまだしも、一次予選で当たるのは避けたい。

 

「そういや和谷から聞いたんだけど、伊角さんが戻ってきたってよ」

「へえ。中国から? じゃあプロ試験受けるんだね」

「みたいだな。和谷が会ったらしいが、去年よりも落ち着きを増していて、さらに手強くなってそうだってよ」

 

 へえ。それは和谷くんや越智くん、本田さんたちにとって強敵になりそう。

 みんな去年と比べて格段に強くなってるけど、そもそもの棋力は伊角さんの方が高いくらいだし。

 って、そんな他人の心配をしている場合じゃない。

 休憩を終えて、最後にヒカルと私で早碁を打って1日を終えた。

 

「くそぉ、今日は負けちまった」

「たまには良いじゃない。早碁だとかなり負け越してるし」

「確かに早碁だと、俺の方が勝ってるな。でも、早碁じゃなきゃお前の方が勝ってるよな?」

「うん、今月も少し私が勝ってる。でも、2人とも佐為には勝てないよね」

 

 ヒカルは当然、私も随分と強くなった。塔矢くんには私も練習手合いで勝てる時もあるし、読みの鋭さならヒカルと塔矢くんは五分に近い。

 明日もヒカルならもしかしたら勝てるかも、という希望が持てる。

 それでも、私やヒカルが佐為に勝つ場面は想像できない。

 真剣勝負をする時、佐為は目に見えないのに、確かに存在するんだっていうくらい空気が張り詰めたものに変わる。あれは私たちには出せないし、気圧されているようでは勝てるはずない。

 それでも、高段者との対局を繰り返している塔矢くんと真剣勝負の場で打てるのは、大きな財産になると思う。

 

「ヒカル、明日は頑張って。私もすぐに追いつくから」

「おう、見てろよ」

 

 ふふ、頼もしい。まだまだ子どもっぽさもあるけど、随分と顔付きもしっかりしてきた。

 大手合いでも当たらないし、しばらく塔矢くんと対局できる機会はないけど、その時までに、しっかり力を蓄えておかないと。

 

 

 若獅子戦決勝の日。事前に確認すると、明日美さんは当然、和谷くんたちも見に行くとのこと。私はヒカルと一緒に向かうので、現地で合流する。

 

「おはよう、あかりちゃん」

 

 ヒカルは対局に集中しているので、目で合図してからヒカルと離れて明日美さんと合流する。和谷くんや越智くんも来ているので、挨拶をかわす。

 対局が始まるまで、あえて2人の対局に触れず、食べ物や服の話で時間を過ごす。どちらが勝つかという話で外野が勝手に盛り上がるのも、2人に失礼だし。

 でも、ちょっとヒカルの顔がこわばっているのは気になる。何か声をかけた方がいいのかな。

 

「おう、進藤」

「和谷」

 

 私が考えていると、和谷くんがヒカルに声をかけた。

 

「何だよ、柄にもなく緊張してるのか?」

「そんなわけねーじゃん」

「そうか? 顔がこわばってるぜ。……そろそろ、若手は塔矢アキラだけじゃねーって知らしめねえとな。俺も今年、絶対にプロ試験受かって、塔矢にもお前にも勝ってやるから、今のうちに勝ち星を貯めとけよ」

 

 煽っているようだけど、そういうわけじゃないと思う。気負いすぎるなってところかな?

 2人の言い合いに、明日美さんが口を挟む。

 

「あら、和谷。私やあかりちゃんは眼中になし?」

「奈瀬、そんな話じゃないだろう」

 

 そんなやりとりをしているうちにヒカルの緊張もほぐれたようで、落ち着いた表情になっている。良かった、和谷くんに感謝。

 

「よし、じゃあ行ってくる」

「うん。ヒカル、頑張って」

 

 

 ヒカルが先番で決勝戦が始まり、序盤はお互いに無理せず、布石を打っていく。静かに進む局面の中、先手を打ったのはヒカルだった。

 左辺が塔矢くん、右辺がヒカルの地になっている中で、下辺に伸ばした塔矢くんの石をヒカルが攻め立てる。一気に攻めるというより、自ら地を確保しつつ、相手の地を削れるようプレッシャーをかける打ち方。

 ヒカルは碁を打つ時は凄く我慢強いし、並みの打ち手ならミスをするまで粘れるけど、塔矢くんの場合はミスなんて期待できない。そんな中でヒカルは右下隅のアタリに対して、手を抜いて左上隅を攻める一手を打った。

 

「あれ、右下死ぬんじゃねえか」

「どう見てもミスだよな」

 

 ひそひそと、周りから小声で聞こえてくる。

 私の見立てでは、それなりにヒカルの地も残る。それより右上の打ち込み、放っておくと塔矢くんの形勢が非常に悪くなるから、塔矢くんこそ油断すると一気に流れを持っていかれるよ。

 

「く……」

 

 さすがに分かっているようで、塔矢くんが長考している。この手でヒカルの方が僅かだけど優位に立ったはず。塔矢くんは甘くないから、このまま行くとは思えない。ヒカル、気を抜かずに頑張って!

 応援しかできないのがもどかしい。というより私がヒカルと打ちたい。塔矢くんに勝っていれば、この場所でヒカルと打てたかもしれないのに。

 ヒカルの会心の一手で塔矢くんが不利になる。巻き返すために塔矢くんは果敢に攻めるけど、ヒカルも応手で間違わず最善手を繰り出している。

 うん、さすがヒカル。一切気後れしてないね。それにしても、いつの間にか視野が広がっているというか、大局観が優れている。この対局に向けて強くなった? それとも、この対局自体で強くなった?

 

 

 終盤のヨセに入るまで、ヒカルの優勢が揺るがなかった。でも、ヒカルはヨセが苦手だし、まったく油断できない。

 そう思っていたら、ヨセでミスが出てヒカルの有利が消えた。これで半目勝負になった。残り時間は……。あれ、塔矢くんの方が随分少ない。

 この局面で、塔矢くん相手に時間が残っているなんて。早打ちしていた? ううん、気がつくほどじゃなかった。

 それよりも、今日のヒカルは長考がほとんどなかった。

 塔矢くんも終局までの流れは見えているだろうけど、ヒカルが何か仕掛けたら、読み切るだけの時間はないんじゃないかな。

 そして、ヒカルが若干長考に入る。持ち時間の半分ほどを使い、中央に伸びていた白石の頭を押さえる。悩んだ割には平凡な手だけど、目的はその手自体ではなさそう。

 

「あ」

 

 ああ、声が出ちゃった。ヒカルの意図が分かった。中央を打ち合いつつ、右下隅に下がっていくと、中盤で小さく生きた黒石が邪魔で、ヒカルに大きな有利がつく。

 多分塔矢くんも気付いてない。私も、取り返しの付く段階だと気付かなかった。

 

「……2目半」

 

 結果、ヒカルが塔矢くんに公式戦で初勝利をおさめた。

 勝てるよ! なんて気軽に言いつつ、実際に勝つと思っていなかった。それだけ塔矢くんの壁が厚いんだけど、ヒカルは今日、運じゃなくて実力で勝ったんだ。

 凄いし嬉しいけど、それと同時に焦る気持ちも出てくる。このまま2人に置いていかれるなんてことになったら……。

 

「まさか、進藤に負けるとはね」

「なんだと! 俺だって強くなってるさ!」

「それは分かってるが。……小6の頃とは性質の違う強さ、か」

 

 ほんの小さくつぶやいた塔矢くんの声が、何故か耳に残った。

 ヒカルは和谷くんに背中を叩かれて振り向いていたから聞こえなかったみたいだけど、佐為にも聞こえたかな?

 性質が違うというよりも、佐為は別格だから。ヒカルの碁にも、佐為の影響は色濃く出ているけれど、あまり大声で言い回ることじゃないし、塔矢くんもそれは分かっているはず。

 

「こら、あんたたち騒ぎすぎ! 塔矢くん、お疲れ様」

「あ……奈瀬さん。情けないところを見せちゃったね」

「ううん! 凄かったよ。打ち筋も良かったし、ミスもなかったし」

 

 負けた塔矢くんに、私が話すのもはばかられるし、明日美さんに任せておこう。

 

 

 その後、優勝したヒカルが表彰されて、色々と説明を受けた後に解散となる。

 

「ヒカル、どうする? どこか寄っていく?」

「疲れたし帰る。へっへっへ、ついに塔矢に勝ったぜ。この調子で、佐為にも追いついてやるぜ!」

 

 佐為に? へーそう。

 いくらなんでも、まだ無理じゃない?

 

「……あー、佐為のやつ、嬉しそうに返り討ちにしてやるってさ」

「今は無理でも、いつか佐為に勝てるように、一緒に頑張ろう」

「おう。塔矢とは勝負できたし、次はあかりと公式戦で打ってみたいな」

「……私と?」

「ああ。プロ試験だと負けてるし、お前もプロ試験から今まで、塔矢にしか負けてないだろ?」

 

 あ、ちゃんと覚えていたんだね。ヒカルのことだから、そういうの気にしていないと思ってた。

 

「それぐらい覚えてるさ。今日、塔矢と打って思ったんだよ。いつも打ってるけど、勝負の場で打つのは大分違うなって」

 

 ヒカルが凄く大人びた顔をしている。塔矢くんに勝てたのは、何か大きな変化に繋がったのかな。そうだと良いな。

 家に帰って、ヒカルの家族と私の家族みんなで優勝祝いをした。塔矢くんに勝つのがどの程度凄いのか、ヒカルのお母さんはピンときていないみたいだけど、賞金が出る大会で優勝したのが凄いのは分かってくれている。それで十分だよね。

 

 

 お祝いが一段落ついて、ヒカルの部屋に向かう。お姉ちゃんがにやにやとしていたけど、うん、そういうのと違うから。

 今日は佐為と私が打つ日だけど、ヒカルが疲れているようなら、今日は打たなくてもいい。

 

「打てるよ。まあ、あかりと佐為の碁を見ながら考えるのも疲れるって言えば疲れるけどさ。あかりと一緒に勉強する時間は結構好きなんだぜ」

「そう? それならいいけど。体調崩さないように、無理しないでね」

 

 えへへ、ヒカルが好きって言ってくれた。変に喜びすぎて、引かれないようにしなきゃ。

 ああ、でも顔に出ちゃうかも。でもいいよね、恋人なんだもん。

 その日は、終始顔がにやけるのを抑え続ける1日になった。

 

 

「取材?」

「あー。なんか塔矢に勝ったのが、話題になったみたいでさ」

 

 若獅子戦から少し経った頃、ヒカルの家でいつものように打っていると、ヒカルから出版部からインタビュー記事を載せたいと依頼を受けたと報告された。

 それはまあ、そうだろうね。塔矢くんがプロになって1年と少し。負けた対局は新初段戦の座間先生と名人戦での倉田さん、そして若獅子戦でのヒカル。その3局のみ。早ければ今年にもリーグ戦入りしちゃいそうな勢いがある。

 それに勝ったヒカルも、近しい実力があると判断するのはおかしくない。実際に若獅子戦の棋譜を見ると、十分な実力を約束している打ち筋が記されているし。

 

「良いんじゃない? あ、でも余計なことは言っちゃ駄目だよ」

「言わねえよ」

「だからといって、黙って仏頂面っていうのも駄目だからね。プロなんだから、ファンサービスも意識して記者さんの質問にはなるべく答える方がいいよ」

 

 面倒だなぁ、とうんざりした顔をしている。もー、そんな顔してるとモテないよ。……他の人にはモテなくていいけどね。

 

 

 そんな話をしていたけれど、後日、ヒカルのインタビュー記事が載っている週刊碁を読んで驚いた。

 

 

『進藤ヒカル初段 そうですね、師匠っていうのとは違いますけど、最初は幼馴染みのあかり(記者注:藤崎あかり初段のこと)に教えてもらいました。今も毎日打ってるから、師匠に近いのは確かです』

『記者 毎日? そういえば、同じ森下先生の門下ですね』

『進藤ヒカル初段 ええ。でもそれは関係なくて。家が近いので、毎日俺の部屋で打ってるんです。少し前まで負け越していたけど、最近は互角に近い成績になってきたんです』

『記者 なるほど。では、藤崎初段も進藤初段に近い実力がある、と?』

『進藤ヒカル初段 近いっていうか、今の時点だとあかりの方が上かもしれない。塔矢にも、1回勝っただけで上回ったわけじゃないですから』

 

 

 ヒカルってば! 嘘じゃないけど、毎日ヒカルの家で打ってるとか、よからぬ噂が立ったらどうするのよ。

 早速明日美さんから、からかいの電話がかかってきたので、逆に文句を言ってしまった。

 

「でも進藤も、それくらい分かって言ってると思うわよ。むしろ色々と考えていて、周りへの牽制じゃない? あかりちゃんに色目を使う連中へのね」

「色目? そんな人いた?」

「いた? じゃないよ。いくらでもいるよ。私にも寄ってくるのいるけど、どうにもピンとこないのが多いんだよね。私とあかりちゃんで話していると、どっちでもいいからお近づきになりたいって感じで話しかけてくる人いるじゃん」

「えーっと」

 

 おかしいな。別に鈍感ってわけじゃないのに、本当に覚えがない。

 

「恋は盲目ってね」

「それを言うなら、明日美さんも塔矢くんしか目に入ってないんじゃ?」

「そんなことないよ。恋愛対象にならないだけで、上手い人は凄いと思うもん」

 

 うん、それはつまり恋愛対象としては塔矢くんしか目に入ってないのと一緒だよね。

 上手い人と言えば、と明日美さんが受話器の向こうで手を叩く。

 

「そういえば、伊角さんが予選受けてるって」

「うん。和谷くんに聞いた。予選で落ちるとは思えないし、和谷くんや越智くんにとって強敵だね」

「あかりちゃんが来るまで、ずっと院生トップだったからね」

 

 伊角さんの地力は凄く高いし、普段の打ち方は安定感がすごい。問題はメンタルの弱さなんだけど、中国で色々と勉強してきたって聞いているし、楽しみ。

 それに、伊角さんが参加するって聞いて、和谷くんが凄く嬉しそうだった。ライバルが増えるっていうのも確かだけど、それ以上に伊角さんがプロを諦めていなかったのが嬉しいんだろう。

 和谷くんは周りを引っ張って一緒に強くなるタイプだと思う。ヒカルに色々と教えだしてから、それまでに比べて一気に強くなっていたし。

 

「しかし、進藤もアキラ君に勝ったんだから、もっと自信ある回答すると思ったけど、思ったより謙虚だったね」

「そうだね。強くなったからこそ、相手の強さも分かるようになったんだよ」

 

 自分の立ち位置をしっかり把握してないと、言葉に説得力がないもんね。

 明日美さんとは、その後も女流棋戦の話で盛り上がったりしつつ、夜が更けていった。

 

 


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