世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
当日、一柳先生が来ると言っていた時間より早めに、本日の参加予定者が全員揃っていた。私とヒカルも碁会所に到着している。
そうして迎えた一柳先生。
「よろしく。若いのが集まっていて楽しそうだね」
「一柳先生、わざわざありがとうございます」
私の挨拶を皮切りに、口々に挨拶をかわす。一通り挨拶を済ませた後、一柳先生が早速本題を持ちかける。
「さて、弟子になりたい越智くんと福井くんってのはどれだい?」
「僕です」
「はーい」
越智くんがきまじめに返事をして、フクくんも手を上げる。
じゃあ打ってみるか、と2面打ちができるように少しだけ机を動かす。
準備をしながら、和谷くんが一柳先生に伝言を伝えている。
「一柳先生、後で森下師匠も顔を出すって言ってました」
「森下さんが? そういえば藤崎さんや和谷くんの師匠だったか」
「はい。あと、そこの進藤も」
「そういえば今月頭の授与式で聞いた気がするな。というか、今年のプロ入り3人は仲が良いんだね」
「そうですね、全員院生だったので」
「まあ、院生同士でも仲が良いとは限らないけど。ま、それはいいやね」
準備が整い、置き石なしで越智くんとフクくん相手に打ち始める。2人とも少し緊張した様子だけど、普段通り打てるよう頑張って。
私たちも、思い思いに対局をしたり、一柳先生の打ち方を見ながら検討をしたり。
「師匠」
「おう、お邪魔するぞ」
和谷くんが真っ先に気付いて、みんなで再び挨拶。
来るって話をしていた時にどうしてか聞いたら、弟子経由でのお願いで世話をかけるのに、挨拶なしってわけにもいかん、とのことだった。
森下先生は、塔矢先生以外にはきっちりしているし、色々とイベントの主催もしているし、和谷くんと同じで凄くお人好しだよね。というか、森下先生のお人好しが、和谷くんに引き継がれているのかもしれない。冴木さんも、懐に入れた人には相当世話を焼くし。
ともかく、森下先生と一柳先生は目線で挨拶だけして、和谷くんや私たちの様子を見始めた。
対局の合間で手が空いた時に周りを見ると、受付の方から何か視線を感じる。目を向けると市河さんに呼ばれたので、足を運ぶ。
「藤崎さん、気付いてくれてありがと」
「いえ、どうかされましたか?」
「えっとね、北島さんが森下先生のファンで。もし余裕があれば打ってほしいってお話なんだけど。もちろん、相応の対局料は払うわ」
「聞いてみますね」
多分、断られないと思うけどね。森下先生に聞いてみると、首を傾げながらも了承した。
「いいけど、ここは行洋の碁会所だろう。何だって俺のファンなんだ?」
それは本人に聞いてください。とはいえ、私も気になるので付いていく。
「ええと、受付の姉ちゃん。普段こいつらがお世話になってるから、指導料は今回はいいよ。俺のファンだってのも珍しいしな」
森下先生が軽く請け負って、市河さんと北島さんが恐縮している。
「どうも、ありがとうございます」
珍しく北島さんが緊張した様子になっているけど、森下先生も慣れたもので、上手く話をしながら、指導碁を打ち始めた。
「どうして森下先生のファンなんですか?」
私が水を向けると、北島さんは嬉しそうに話し出す。
「いや、もちろん塔矢先生の華麗な打ち方は素晴らしいんだけどよ。森下先生がリーグ入りしてた時も、力強い打ち方で憧れたもんです。あ、今がリーグ入りする力がないってわけじゃなくて……」
慌てたように付け足す北島さんに、森下先生が笑って手を振る。
「いや、リーグ入りできてないのは確かですから。近頃不甲斐なくて申し訳ない。でも、まぁこのままだとあそこにいる行洋のせがれやこいつらにも抜かれかねんからな。気合い入れて対局に臨んでますよ」
ははは、と笑いながら、森下先生も嬉しそう。過去の成績も把握しているような、歴としたファンだって分かると嬉しいよね。
そうやって研究したり一柳先生の対局や森下先生の指導碁を見ているうちに、越智くんとフクくんの対局が終わった。
一柳先生が顎に手を当てて考え込んでいたので、口を開くまで待つ。越智くんも、一柳先生の前だと借りてきた猫みたいになっている。注目されているのに気付いてか、一柳先生が口を開く。
「こっちの越智くん、今のままでも順当に行けばプロ4段くらいまでは順調に上がれるだろう。地味な碁だから目立ちにくいけど、打ち筋が悪いわけじゃない。むしろよく勉強していて好感も持てるよね。どうしてこの子がプロ試験で落ちたのか、不思議なくらいだよ」
一柳先生の目から見ても、越智くんは素質があるらしい。一柳先生の疑問には、和谷くんが答えた。
「受かった奴が、もっと強かったってだけですよ」
「和谷! 僕は実力で劣ったつもりはないよ!」
「でも、プレーオフまでやって負けたのは事実じゃねーか。プレーオフまで行かなかった俺が言うのも情けねえけどさ」
和谷くんの言葉に、なるほどと頷く一柳先生。
「まあ、ちょっと気になるところもあるけど、いいだろう。越智くんだったかな、俺の研究会に来るといいよ。それと、福井くんだったかな」
「は、はいっ」
「きみは少し足が軽すぎるね。軽いのは良いけど、常にそれじゃ良くないね」
「はい」
「先を読まずに緩手になっていることもしばしばあるね。直感で打つのも悪いことだけじゃないが、プロになるには、今のままだとちょっと物足りないかな。でもまあ、今年から中1なんだろ? 十分に見込みはあると思うよ。越智くんと一緒にうちの研究会で学ぶといい」
良かった、許可を出してくれるらしい。
安堵したところで、越智くんが口を開く。
「気になるところって、どこですか?」
「ん?」
越智くんってば、ふてぶてしいというか、我が強いというか。大人しくしていたと思ったけど、言いたいことは口に出しちゃう性格には困ったもんだ。一柳先生にもかみついちゃうとは思わなかった。
私も周りも、注意しようと動きかけたけど、それより早く、一柳先生が気にした風もなくあっさりと答える。
「ちょっとね、遊びがないよね。こっちの福井くんが自由に打つのに比べて、最善手を追求する姿勢はいいけど、ちょっと硬すぎるね」
「……遊ぶ必要はないと思いますが」
「そんなことねえさ。なあ、森下さん」
指導碁が終わったようで、森下先生も会話を聞いていた。
「そうですな。一柳棋聖ほど柔軟な碁はなかなかないけど、遊ぶっていうか、もうちょっと余裕を持って、視野を広げた方がいいかもしれねえな」
「今のリーグ戦棋士で言えば芹澤くんが越智くんに近い碁を打つけど、それにしてももっと柔軟性はあるからね。まあ、今すぐじゃなくていいけど、もっと楽しく打った方がいいよ」
越智くんも思うところはあるのか、それ以上は反論せず頭を下げた。
越智くんは、ひとつの局面での読み合いは凄く強い。でも、大局観が弱いとまでは言わないけど、各所が薄い状態で打ち合うのは苦手そうだ。
「一柳先生、ありがとうございます」
「いいってことよ。俺もかわいい弟子ができて嬉しいし。まあ、藤崎さんやそっちの奈瀬さんみたいな女の子の方がいいけど、美人過ぎてヨメさんに怒られちまうかな」
あっはっは、と笑う先生に、愛想笑いを返しておく。フクくんはともかく、越智くん大丈夫かな。性格が違いすぎて疲れそう。
帰り道、ヒカルが佐為と話をしていたようで、笑いながら話しかけてくる。
「佐為がな、碁からも感じていたけど、一柳先生がかなりお調子者だってよ。平安や江戸の世にも、滅多にいないタイプだったらしいぜ」
「そりゃ、あれだけの実力で、あれだけ個性豊かな人も珍しい……と言いたいところだけど、みんなそれぞれに個性強いよね」
「塔矢のオヤジはもちろん、本因坊のじーちゃんも変な奴だよな」
「言葉遣い悪いよ。でも、桑原本因坊だけは本当に気をつけないと」
勘でヒカルに目をつけるって、塔矢くんや緒方さんたちとは気をつけるの意味合いが違う。
そのうち、ヒカル越しに烏帽子の幽霊が見えるって言い出してもおかしくない。
「それより、来週はいよいよ塔矢くんと対局だね。決まってから塔矢くんとは打ってないけど、やっぱり意識してる?」
「うーん、俺が避けてるというか、塔矢が避けてるというか。勉強で打ちたくないってわけでもないけどさ、やっぱり正式な場で勝ちたいじゃねーか」
うん、大変だけど頑張って。私も頑張ろう。
「お前は誰だっけ?」
「山田さんっていう、二段の人。ヒカルが塔矢くんに勝った時に、私が負けてると悔しいから、頑張らないとね」
「まあ、お前なら大丈夫だろうけどさ。そういや、女流の大会とかもあるんだよな?」
「うん。女流であるのは本因坊、名人、棋聖だね。他にも細かいタイトルもいくつかあるけど、やっぱり国内だとこの3つが重要かな。女流棋聖戦は6月頃から予選が始まるから、楽しみなの」
へーって、話を振っておきながら、軽く流してくる。
「女流かぁ。でも、女流で1番強い人でも、普通の棋戦はリーグ戦に入ってないんだろ?」
「うん。三大棋戦でも二次予選を突破する人は時々いるけど、三次予選で落ちたりしてる。でも二次予選突破って凄いんだよ」
森下先生でも、二次予選を突破している棋戦は半分あるかどうか。さっき、ファンの人に言っていた通り、最近は調子が良くていくつか二次予選を突破している。
ヒカルや私が発憤材料になっているのなら、それはそれで嬉しい。
そして、いよいよヒカルが対局する前日。ヒカルと相談した結果、いつものように打つと決まった。
「今日は、俺とあかりで打つ日だからな。お前と打つと落ち着く気がするぜ」
「本当?」
「ああ。そんな嘘を言ってもしょうがねーじゃん」
そう言ってもらえると嬉しい。前世でも、塔矢くんと打つ前に打ってくれたよね。ふふ、変わってないといえば良いのか、やっぱりといえば良いのか。
普段より心持ち丁寧に、ゆっくりと打つ。ヒカルも、一手ごとに気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりした展開になった。無理に荒らすような打ち方をせず、ともに最善を尽くすための碁。
碁は、勝ち負けを決めるためのものなのに、こうやって会話をするように打てる。不思議だけど、これも碁の魅力なんだと思う。
「塔矢とは、若獅子戦で打ったのが俺との初対局だったから、次が2戦目だな」
「最初は佐為で、部活の大会だと、途中まで佐為が打っていたもんね」
「ああ。これが終わったら、また佐為とも打たせてやりてーな」
「最近、塔矢くんはネット碁をやってないみたいだし、難しいかもね」
「そうなんだよなぁ。佐為にこだわっていたようにも見えたのに、どうしたんだろうな」
気にしているのは確かだけどね。
ヒカルの手で佐為の碁を打ったんだから、他の人と違って塔矢くんを誤魔化すのは難しい。でも、簡単に言える話じゃない。
信じてもらえるかどうかというのは、実のところ、どっちでも構わない。本当に困るのは、ヒカルが打っているのに佐為が打ったと思われること。
ヒカルは、碁を覚えてから真剣に取り組んでいて、ずっと成長を続けている。それなのに、打ったのが佐為かヒカルか、なんて疑心暗鬼になっちゃうと、ヒカルにとっても、塔矢くんにとっても良い結果にならないと思う。
「塔矢くんは、ちゃんとヒカルを見ようとしているのかもね。佐為は佐為、ヒカルはヒカルだから」
「そうなのかな。それなら良いんだけど」
「きっとそうだよ」
また機会を見計らって、佐為と塔矢くんを打たせてあげたい。塔矢くんはもちろん、佐為も打ちたいはず。
そんな話をしているうちに、夜が更けていった。
そして、ヒカルと塔矢くんの対局当日。学校が終わって大急ぎで棋院に行くと、大騒ぎになっていた。どうしたのかと思うと、塔矢先生が倒れたとかなんとか。
詳しい話を聞きたくて、ちょうど入り口ホール近くを通りがかった天野さんに声をかける。
「塔矢先生が倒れたって、どういうこと!?」
「あ、藤崎さん。それが……」
病院から明子さんが電話をかけてきたようで、容態がどうなのかは、まだ分からないみたい。もし私の方に情報が入れば教えてほしいと言われた。うん、言っていいようなら伝えよう。
それはそうと、ヒカルはどこかにいるのかな。塔矢くんと打てたのかも気になる。
「あかり」
棋院の中を見て回ろうとすると、ヒカルの声が聞こえた。
声の方へと振り向くと、階段から降りてきたヒカルが近づいてくる。良かった、すぐに合流できた。
「ヒカル!」
「なかなか来ねえから、帰った方がいいか迷ってたんだ」
「待たせてごめんね。それで塔矢先生が倒れたって」
「うん、全然詳しい話は分からねえから、どうしようかと思って」
緊急性が高ければ手術しているだろうし、過労が原因で倒れただけなら、検査くらいで済むだろう。まだ棋院の関係者もあまり情報がないことを考えると、今日は何も分からない可能性が高そう。
「棋院にいるのも迷惑だし、いったん帰ろう。塔矢くんは?」
「あいつ、来なかったんだ」
「そっか。多分、ずっと塔矢先生のお側にいるんだね」
対局できなかったのはお互いにとって残念と思うけど、今はそれどころじゃない。
いったん自宅へ帰り、ヒカルの家に行く前に明日美さんへ電話してみたけど、繋がらなかった。お母さんに、もし電話があったら連絡してもらうようお願いしてからヒカルの家に行く。
「明日か明後日、塔矢先生のお見舞いに行こう」
「うん。佐為も塔矢先生の容態が気になるってさ」
落ち着くまで部外者は無理だろうけど、数日経てば行ってもいいだろう。今日はヒカルと佐為が打つ日なので、佐為の指し示す場所に碁石を打ちながら、そんな話をしていると、明日美さんから電話があったと連絡が入った。
ヒカルのお母さんに了承を得て、ヒカルの家から直接明日美さんへ電話を入れる。
「明日美さん、塔矢先生どうだった?」
「私は直接お伺いしてないよ、恐れ多い。アキラくんに聞いたところ、心筋梗塞だって。明日は十段戦の第3局だったけど、とてもじゃないけど行けなそう」
「そう、十段戦は残念だけど、無理しちゃ駄目だよね」
「でも早期発見だったから、そこまで酷くはならないだろうって」
酷くなさそうだって、と横で様子を伺っていたヒカルに声をかける。ヒカルも、ホッとした様子で息を吐く。
「そっか、なら良かった。いつならお見舞い行けそうかな?」
「明後日以降なら行けそうだって。どうする、一緒に行く?」
「私は土曜に行こうかなって思ってるの」
「そっか、進藤と一緒に?」
「うん、そうだよ」
探るような声音の明日美さん。ヒカルが一緒だと何か問題あるかな?
「じゃあ別々にしておこっか。私は、その」
ああ、塔矢くんと一緒に行くんだね。塔矢先生に勘付かれてそうだけど、いいのかな。
「分かった。それなら、また来週、研究会で」
「うん、またね」
電話を置いて部屋に戻って、ヒカルに説明をする。ついでに、塔矢先生には佐為のことを伝えてもいいんじゃないか、聞いてみよう。
「ヒカル、分かってると思うけど、私が佐為と塔矢先生の対局を整えた時に、塔矢先生は繋がりがあるって気付いてるの。言いたくないって態度を取ったから、先生が気を遣ってくれて言わないだけで」
「ああ、そうだろうな」
「佐為が幽霊ってこととか、ヒカルに憑いているとかは別として、私の知り合いというよりヒカルの知り合いっていう方が、佐為との対局をもっと増やすには良いと思うんだけど、どうかなぁ?」
「そうだな、塔矢のオヤジには言っていいと思うけど、黙っていてくれるかな? 塔矢には言いたくないぜ」
「どうして?」
むしろ、誤魔化すには言っちゃった方が良い気がする。そして、習い始めの頃に佐為から教えてもらって、偶然あの碁になったとか。
「どう伝えても、誤魔化したら嘘になっちまうじゃん。説明できないから言えないけど、嘘は言いたくないんだ」
「そっか、そうだね」
思った以上に、塔矢くんに対して誠実だったので、少し驚いた。でも、ヒカルは昔から素直だし、考えたらおかしくない。
言えないから黙るというのは、それが正しいのかどうか分からないけど、口先だけで誤魔化すよりよっぽど良い。
でもね、洗いざらい伝えちゃうっていうのも、手段としてはあると思うよ。
「いつか、言うかもな」
今はそれ以上、ヒカルを説得する意味もない。塔矢くんとの関係は、ヒカルが決めることだ。
そして、塔矢先生のお見舞い。果物は定番だけど、足が早いから避けておきたい。無難にそれなりに日持ちのする洋菓子を選んだ。
ヒカルはお見舞いの品を考えてなかったみたいだったけど、それだけ塔矢先生の様子が心配だったんだろう。
病院で場所を聞いて、病室に入る。すると、中には緒方先生と市河さん、広瀬さんも来ていた。
「あら、藤崎さんと進藤くん。こんにちは」
「こんにちは」
市河さんが挨拶をしてきて、私たちも返す。
「じゃあ、我々はおいとましますか」
私たちはまだ子どもなのに、次のお客様が来たら席を空ける、という大人な対応をしてくれる。
話の腰を折ったら申し訳ないな、と思っていると、ヒカルが慌てた様子で手を振った。
「いや、俺たちはちょっと塔矢先生がお元気かなって思っただけで……」
「進藤が見舞いとは意外だが、藤崎も一緒ならまあ分かるか」
「ちょっと緒方さん、そんな言い方しなくても」
くくく、と小さく笑う緒方先生。病室の空気も、少し軽くなる。お見舞いが置かれているのを見て、私も持ってきた品物を市河さんに渡す。
「わざわざ済まないね。おかげさまで、今はもうなんともないよ」
「そうですか、それは何よりです」
「まあ、医者はあと10日ほど入院しろって言ってきたがね」
それは本当に大丈夫なのかな。塔矢先生も囲碁が絡むと無茶をしそうだし、本当に心配だね。
そして病室にいてもネット碁を打つから楽しんでるだの、来週の第4局は問題なく行けるだの。
そういった話を少ししてから、話題は私たちのことに移る。
「君たち付き合ってるんだろう? いいね、若いねえ」
「広瀬さん、そういうのは……」
市河さんがたしなめるも、緒方先生も話に乗った。
「幼馴染みらしいし、いいんじゃないですか。まあ、知り合って1、2年で良い雰囲気になってる子もいますが」
話に乗ったというか、なんというか。
さっき軽くなった病室の空気が、一気に重くなる。負の発生源は市河さん。知らないよ、もう。
「緒方さん。馬鹿言ってないで、そろそろ出ましょうか。私、塔矢先生のご自宅に、お見舞いの品を持って行きましょうか」
「アキラくんは今日は外出していたと思うが?」
「緒方さん」
あ、駄目だ。完全に市河さんをからかう方向へ行ってる。塔矢先生は苦笑いしながら、緒方先生をたしなめる。
「緒方くん、ほどほどにな」
「はい」
さすがに塔矢先生に言われては黙るしかない。荷物持ちを申し出て市河さんの機嫌を取りつつ、部屋を出て行った。
「さて、騒がしくて済まなかったね。座りなさい」
いえいえ、塔矢先生が騒がしかったわけじゃありませんから。
「進藤くん、アキラとの対局が駄目になってしまって悪かったね。アキラも、平静に打つ自信がなかったのだろう」
「倒れられたの、当日でしたから。まともに打てないのは当然ですよ」
「今はそれでいいが、もっと成熟しないと今後は困るだろうがね」
厳しいようだけど、ある面では正しい。
私も森下先生に聞いただけの話だけど、周りに影響されて打てなくなるようでは、タイトルを獲るのは到底無理だそうだ。
私自身は、そこまで精神状態に左右されるような場面は少ないけど、プロ試験中でもヒカルが気になって私自身が危なくなったこともある。
お父さんやお母さんが倒れたら、碁を打ちに行くなんてできなそう。もちろん、ヒカルが倒れた場合でも。
「ところで、今はネット碁を打つ余裕はあるんですか?」
「うむ。ある意味で時間に余裕はあるからね」
ヒカルに目配せすると、ヒカルが頷いて塔矢先生に向き直る。
「塔矢先生、またsaiと打ってくれますか?」
「……彼は、きみの知り合いかね?」
「はい。前にあかりを経由して打ってもらいましたが、あかりはsaiと話したこともありません。俺の知り合いで、他の人と話せないから」
「ふむ。何やら事情がありそうだね」
ここからは、誰かに聞かれると大変。2人にひと言断ってから部屋の外に出て、お見舞い客が来てもすぐに分かるように待機する。
少し開けた扉を挟んで、声が聞こえる。佐為の詳細については触れず、ネット碁しかできない、本人はたくさんの人と打ちたがっている、と。
それを聞いて思うところがあったのか、塔矢先生も考え込む。
「来週は木曜に十段戦があるが、その週末は空いている。1日おいた土曜にお願いしたい」
「はい、ありがとうございます。あの、連続で打って、体調は大丈夫ですか?」
「ははは、それほど悪いわけじゃないし、心配ないよ。それよりも、saiに伝えてくれないか」
何をだろう。会話に口は挟めないけど、凄く気になる。
「あれほどの碁は、私の棋士人生でも特別な1局だった。saiには少し届かなかったが、あれからも私は成長しているはずだ。胸を借りるつもりで挑ませてもらう、とね」
「……saiも、あれだけの碁は久方ぶりだって。それと、次の対局も、望むところだって。……きっと、そう言いますよ」
時間も決めて、塔矢先生の病室を出る。
「良かったね、問題なく対局できそうで」
「ああ。あかり、色々とありがとな。あ、そういや今の十段戦って、緒方さんと塔矢先生なんだろ? 緒方さんとも、打たせてやりてえよな」
そうだね。緒方さんとも塔矢くんとも、和谷くんとも打たせてあげたい。それは佐為だけじゃなくて、相手にとっても凄く有意義な時間になるはずだから。
まずは、塔矢先生との再戦。見応えは十分、楽しみな一局になるのは間違いない。