世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第37手 中学2年生 その9

 明日美さんの新初段戦が終わった翌週の水曜、塔矢くんの連勝記録が止まった。相手は、あの倉田さん。低段者では敵なしだったけど、倉田さんには惜しくも敵わなかったようだ。でも、1目半の負けだったらしいから、ほんの少しの差しかない。

 でも、その週は木曜の勉強会に塔矢くんと明日美さんが来なかった。これはもしかしたら、落ち込んだ塔矢くんを明日美さんが励ましているのかな?

 勉強会の後、明日美さんに電話をしてみると、まったく別だったらしい。

 

「それがね。全然落ち込んでないんだよ」

「へえ。精神的に強いんだね」

「というか、倉田さんとの対局で、逆に手応えを掴んだって言ってた。高段者との対局は、囲碁の実力だけじゃなくて流れを持って行かれないようにしないと駄目だって。今日はそっちに行かずに、倉田さんとの対局を検討していたんだ」

 

 勉強会に来てもできそうなものだけど、わざわざ2人で? 怒られたくないし、変につついてこじれても嫌だし、必死に笑いをこらえる。

 

「でも強い人と互先での対局は羨ましいね」

「うん。そこまで行きたいね。……行ける、かなぁ」

「行けるよ。明日美さんなら。一緒に行こう」

 

 不安がっている明日美さんを励まして、電話を置く。と、同時に電話が鳴った。

 

「はい、藤崎です」

「夜分に失礼、塔矢と申しますが」

「と、塔矢先生!?」

「ああ、藤崎さん。ちょうどよかった。今、時間は大丈夫かな?」

 

 ビックリした。明日美さんと塔矢くんの話題で盛り上がったから、よけいにビックリした。

 あ、もちろん時間は大丈夫です。

 

「前に言っていた、ネット碁での対局なんだが。藤崎さんの新初段戦の翌週土曜はどうかな? それを逃すと、十段戦が始まるのでね。しっかりと時間が取れるのは、数ヶ月は先になってしまうだろう」

「えーっと。はい。大丈夫なはずです。もし無理そうなら、すぐにご連絡しますね」

「ああ。では、土曜の10時に。よろしく頼むよ」

「こちらこそ、わがままを言ってごめんなさい。ありがとうございます」

「いや、なんの。合格祝いだからね。気にしなくていい。それに、碁を打つのは楽しみだ」

 

 電話を置いて、すぐにお母さんに声をかける。

 

「お母さん、ちょっとヒカルのところに行ってくる!」

「え、この時間に?」

「ちょっと伝えたいことができただけだから。すぐ帰るよ」

 

 呆れた様子のお母さんに見送られて、ヒカルの家まで走る。

 ヒカルの家に行くと、おばさんにもビックリされつつ、中に入れてくれた。

 

「なんだよ、急に」

「ごめんね、勉強中だった?」

「ああ、まぁ棋譜を並べて佐為と検討していただけだから、大丈夫」

 

 対局中なら、中断はまだしも中止になったらもったいないから待とうかと思ったけど、検討していたなら言っても大丈夫そうだね。

 ヒカルと佐為に、塔矢先生から電話があったこと、新初段戦の翌週土曜に約束をしたことを伝える。

 

「はは、佐為が泣いて喜んでら」

「うん、ようやくだもんね」

 

 佐為と塔矢先生の対局は凄く楽しみ。でもそれより、ヒカルが碁を打たなくなるまで、あと半年もない。それはつまり、佐為が消えるまでの日数とも言える。推測だけど、これだけ仲が良いんだから、消えちゃったらショックも大きいだろう。

 佐為と塔矢先生の対局が終わったら、1度しっかりと話してみよう。

 

 

 新初段戦の対局当日。

 予定の時間より早い時間に、棋院へと向かう。ヒカルも一緒に行くか、後から行くか聞いたら、一緒に行くって言ってくれた。ふふ、小さなことだけど、面倒がらず来てくれて嬉しい。

 

「佐為との対局や棋譜を見ると、塔矢のオヤジの方が強いと思うけど、ichiryuだって凄ぇ強いよな」

「そりゃ、今の囲碁界でタイトルを維持するのは大変だよ。塔矢先生はもちろん、去年塔矢くんが負けた座間先生や、若手でも挑戦者になってる緒方さんや芹澤先生、それに少し前に会った倉田先生だって凄く強いんだからね」

「そういや、どんな人がいるかってあまり知らねぇな」

「日本だけじゃなくて、韓国や中国にも強い人はいっぱいいるし」

 

 というか、今は韓国の隆盛が凄い。塔矢先生がいなければ、韓国の一強とも言える勢いがある。

 

「ああ、確かに一柳……先生以外の強い奴は、中国や韓国の奴が多かった気がするな」

「うん。トップクラスでネット碁をやってるのは一握りだろうけどね」

 

 話しているうちに棋院に到着する。早速中に入り、職員と挨拶しながら時間が来るのを待つ。ヒカルは始まるまで適当に時間を潰すって言って、どこかに行っちゃった。

 そして予定時間の少し前に、一柳先生が棋院に入ってきた。

 

「おはようございます」

「おはよう。きみが藤崎さんかい。思ったよりべっぴんさんだねぇ。それに全勝だろう? これだけ可愛くて全勝するほど強いとか、将来が楽しみだ。俺が棋聖のうちに挑戦者になってくれたら話題になるし絵も映えるし、ぜひ頑張って欲しいね」

 

 う、うわー。あまり接点がなかったけど、一柳先生ってよくしゃべるというか、よく舌が回りますね。

 

「あ、ありがとうございます。まだまだ若輩者ですけど、せいいっぱい頑張ります」

「今日はそんなに固くなってちゃいかんよ。きみたちは高段者と打てる。俺たちは可愛い若手と打てる。お互い楽しまなきゃ損ってもんだよ」

 

 本当によく喋る。頭の回転が速いのだろう。

 そんなことを話していると、天野さんがカメラマンと一緒にやってきた。

 

「一柳先生、おはようございます。藤崎さんもおはよう」

「天野さん、おはよう」

 

 早速記念写真とのことで、棋院を背景に一柳先生と並ぶ。パシャパシャと何枚か撮り、向かい合って握手をする。何か話せと言われて、どうしようかなと思っていると、一柳先生が質問してきた。

 

「そういえば藤崎さんはネット碁をやってる? あれは良いよ」

「あ、はい。実は、一柳先生とも1度だけですが、ネット碁で対局していただいているんです」

「へえ。気付かなかったな。プロ試験全勝ほどの強さなら、覚えていてもおかしくないね」

「いえ、そんな。まだまだこれからですから」

「ネット碁といえば、saiと打ったことはある? 彼は強いよ。何度も打ってるけど、一度も勝てやしない。未だに正体が分からないのはシャクだけどね」

「あ、saiとも一度。相手が少し緩めてくれたので、凄く勉強になりました」

 

 そんな話をしているうちに、カメラマンから声がかかり、棋院の中に入る。うう、寒かった。

 そして、一柳先生に続いて幽玄の間に足を踏み入れた。入るのはまだ数回だけど、空気が少し引き締まるような気になるのは、これまで何度も凄い勝負が繰り広げられてきたからかも知れない。

 部屋の空気に呑まれちゃうと、緊張してまともに打てない。大きく深呼吸してから、一柳先生の前に座る。

 

「藤崎さんは、ここに来るのは初めてかい」

「いえ。院生の時に、何度か記録係で来てます。打つのは初めてですけど」

「ははは、そりゃそうだ。今のうちに味わっておいた方がいいよ。なかなか来られる場所じゃないし、ね」

 

 女流のタイトル戦でも使う場合はあるけど、混合戦より難易度は低いとはいえ、決して簡単に行けるようなものじゃない。一柳先生の言葉に頷いて、改めて盤面に目を向けた。

 

 

 時間が来るまでに気持ちを整えて、開始の合図で礼をする。

 そして第一手。私も普段の対局ではあまり打たない手だけど。ヒカルと一緒に、佐為に学んできた証。右上スミ小目。

 一柳先生はこれまで何度も佐為と打っているから、後々の追及くらいはしてくるだろうけど、秀策やsaiの棋譜を勉強していたと言えばごまかしは利くはず。佐為と私の実力差は、残念ながらそれくらい隔絶している。

 一拍おいて、一柳先生が左上の星に一手目を打った。そして布石が続いて、私が最初に打った場所から秀策のコスミへと変化したあたりで戦いが始まってから、一柳先生が口を開いた。

 

「俺はね。塔矢さんと違って、こういう記念対局はあまり本気で打たないんだ。ま、桑原先生のように巫山戯て打ったりもせず、真面目に打つけどね」

 

 何が言いたいのかと首を傾げると、一柳先生は普段の愛嬌がある顔を引っ込め、獰猛な笑みを浮かべた。

 

「こんな布石を見せられちゃ、本気で打つしかないな」

「ぜひ、お願いします」

 

 そうでないと、後を気にせず踏み込んだ意味がない。ヒカルと違って逆コミを含めて計算して打つけど、手を抜かれるのはもったいない。ネット碁はともかく、顔を合わせてトッププロと打てる機会なんて、今後の私にあるかどうか分からない。

 最初の1度が、人生で1度かもしれないんだ。

 

 

 時間が許す限り、思い付く限りの手を考える。かわせるだろうと考えたところも、深く追及してくる。そして気を取られて余分な手を打ってしまうと、他の場所で不利になってしまう。

 読みの深さそのものは、佐為や塔矢先生には及ばないけど、機を見る目は確かで、少しずつ逆コミの猶予が削れていく。

 守ってばかりだと、押し切られる。そう踏んで、左下の大石に手を出しつつ、布石の段階から仕込んでいた中央に対して地を主張する。通れば勝ち、通らなければ盤面は五分。通る算段が強いけど、油断はできない。相手は佐為並みと思って打つ。

 

「うーん、ここまでか。2目半の負けだな」

「ありがとうございました!」

 

 危なかった。中央の争いを押し切って、ヨセに入ったけど、そこでも少し詰められた。

 結果としては勝ったけど、問題点もたくさん見えた。私の打ち方で上に行きたければ、何かが得意というだけじゃなく、苦手を持たないのも大事。

 人によっては、欠点が多くてもそれ以上の利点がある戦法なんかも選べるかもしれないけど、私じゃ無理ね。

 

「いやぁ、プロ試験全勝はさすがだね。打てて良かった」

「そんな。一柳先生と対局させてもらえて、凄く勉強になりました。ありがとうございます」

「それに、同じ相手を目標にしてそうだ。俺もよく打ってるが、あくまで俺の打ち方で上回りたいんだよな。相手の棋風を柔軟に取り入れられるのは、若さかねぇ?」

「あ、あはは。よく一緒に勉強している人たちも、saiの碁は参考にしてますよ。それに、秀策の碁も」

「秀策か。ああ、そういえばきみのネット碁での名前を教えてもらっていいかな? またネット碁でも打とう」

「良いですか? ありがとうございます!」

 

 まさかそんなお話をいただけるとは思わなかった。

 名前を言って、意図を聞かれて北斎からの連想と伝えると、笑われた。

 

「いや本当に、公式戦での対局を楽しみにさせてもらうよ」

「はい。対局できるように精進します」

 

 その後は検討室にいたヒカルや明日美さん、和谷くんたちが来て、検討をしてから解散となった。

 塔矢くんは来ていない。用事があったのかもしれないし、別にいいんだけど、これは明日美さんからの一方通行じゃなくて、塔矢くんも憎からず思っているのかな。

 少しつついてみようかな。

 

 

 ヒカルの家に着いてから、佐為にも参加してもらって今日の碁の検討をする。私が思い付かなかった手を佐為はたくさん指摘してきた。ヒカルからもいくつか案が出て、それも含めて検討する。

 

「しかしお前の打った手、びっくりしたぜ。布石のあたり、佐為を意識していたよな?」

「うん。ああやれば、一柳先生は本気で打ってくれるかな、って」

「あれだけ露骨に煽ればなぁ。部屋に入った時、和やかに話していて安心したんだぜ」

 

 ああ、なるほど。険悪になる可能性もあったもんね。でも、そっか。心配してくれたんだ。

 そういう優しさが、凄く嬉しい。

 

「私に限らず、やっぱり女子は高段者との対局機会は少ないから。まだ七大タイトルのリーグ戦まで駒を進めた女性っていないからね」

「ふーん。でも、他人は関係ないだろ」

「それはそうなんだけどね」

 

 私自身は色々と動いてるけど、なかなか強くなる土壌が作りにくい。特にプロになったら、女流棋戦に時間が取られて、塔矢くんや倉田さんのような若手の実力者も参加する大会に出る機会があまりない。

 いつか大人になって落ち着いたら、女性でプロになる人の棋力を、プロ以降も伸ばせるような仕組みが作れるといいな。

 

「それはそうと、来週は佐為の番だね。頑張って!」

「……おう。お前と俺に恥じない碁にするってよ」

 

 そういえば、ヒカルに言っておきたいことがあったんだ。

 

「えっと。ちょっとヒカルと2人になりたいんだけど、佐為に席を外してもらうようにお願いできる?」

「……あー。もう下に行ったよ」

 

 色々と佐為には誤解されそうだけど、今は気にしない。それに、いつかは本当に……。

 それはそうと。

 

「佐為の様子は、問題なさそう?」

「塔矢のオヤジさんと打てるってんで色々とうるさいけどな。特に変なことは言ってねえよ」

「そっか。じゃあ、塔矢先生と打った後の数日は、特に様子を注意して見ておいて欲しいの」

「いいけどよ。なんでそこまで心配するんだ? それが分かんねえよ。佐為、千年前からいるんだぜ? あと数十年で何が変わるんだよ」

 

 ヒカルから見ると、私が過剰に心配しているように見えるだろう。

 今は佐為の集中を乱したくないから言えないけど、それが終わったら。

 佐為と塔矢先生の対局が終わったら、ヒカルと佐為に、逆行のこと、そして推定だけど佐為が消えたことを伝えたい。


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