世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第28手 プロ試験 その4

 日が明けて、ヒカルと明日美さんの対局がある日曜日。

 私がヒカルや明日美さんと対局するのも辛いけど、一緒に合格したいと思っている2人の対局を見るのも、結構辛い。

 ヒカルと一緒に研修センターに入ると、明日美さんはすでに来ていた。

 

「あかりちゃん」

 

 座って目を閉じていたから声をかけていいものか迷っていると、視線を感じたのか明日美さんが目を開けて、私の顔を見ると笑って小さく手を振ってきた。

 ヒカルに目を向けると、ぽんと軽く肩を叩いてくれたので、明日美さんのところに向かう。

 いつも通りとはいかないまでも、あまり硬くなりすぎても駄目だもんね。

 

「明日美さん、おはよう」

「おはよ」

 

 今日の対局については話題に出さず、当たり障りのない会話に終始する。あと少しで開始かな。

 

「あ、そうだ。あかりちゃん、ちょっと進藤借りるね」

「え? うん。別に気にしなくていいのに」

「まあ、念のため」

 

 明日美さんがヒカルのところに行って、何やら話している。塔矢くんのことを言って揺さぶるとも思えないけど、どうしたんだろう。気になるけど、こっちから聞きに行くのは良くないし、勝負に影響があると困るし。

 

「始めます、会場に集まってください」

 

 ああ、始まっちゃう。そのまま2人で話しながら、席に座る。

 私も所定の位置につく。気になるけど、気にしていてもしょうがない。というか集中せずに対局して私が負けちゃったら駄目だし、周りを気にするのはここまで。

 

「では、始めてください」

 

 挨拶をして、対局が始まる。

 意識を切り替えて、盤面に目を向ける。私が白で、開始する。じっくり打つ碁の方が好きだけど、できるだけ早く終わらせたい。最近はヒカルや佐為との対局で攻めもたくさん学んでいるし、頑張ろう。

 

 

 それなりに展開が早いけど、お昼までに終わるほどじゃない。お弁当を広げてヒカルと一緒に食べる。

 聞いていいかどうか迷っていると、ヒカルから口を開いた。

 

「奈瀬のやつ、秀英と対局した棋譜を見たって言ってさ。ちゃんと研究したから、ああいう手は通じないと思うってわざわざ言ってきたんだ」

「へえ、そうなんだ」

 

 誰に聞いたか、とかは言ってないみたい。塔矢くんの名前を出すと、きっと動揺するもんね。

 明日美さんも、事情は分からないなりに何らかの因縁があるっていうのは察しているんだろうな。気を遣わせちゃってごめん。今度、ケーキでも奢ろうかな。

 

「奈瀬、やっぱりかなり強いんだよな。なんとかしたいけど、かなり先まで読まれてる感じがする」

「へぇ……」

 

 ヒカルに絞って対策したとか? でも、ヒカルが強敵だからってそこまでやると他の人との対局に支障が出かねない。

 後で教えてくれるなら聞いておこう。

 

「午後からの対局、頑張って!」

「おう! 簡単には負けねえよ!」

 

 さて、私も頑張らないと!

 と勢い込んだは良いものの。すでに形勢は大きく有利で、よほどポカをしない限り負けないだろう。そして対局を進めるうちに、ふと明日美さんがハンコを押しているのが目に入った。

 明日美さんがハンコを押してるってことは、つまりヒカルが負けたわけで……。ヒカル、これで2敗だから、残りの対局と他の人次第で、合格が危うくなってきた。ヒカルは明日も本田さんで強敵だし、このままズルズルと負けちゃったりしたら……。

 って、駄目。

 よそ事を考えながら打っていたら、変な場所に打っちゃっていた。自分の地になるのが確定している右辺をさらに厚くしていて、手を入れるべき左辺が手つかず。

 こんな碁を打ってるようじゃ駄目ね。集中しないと。

 

 

 ……良かった、なんとか勝てた。結構ギリギリになったけど。

 一息ついて立ち上がり、ハンコを押す。休憩室に行くと、明日美さんが座ってぼうっとしていた。

 

「明日美さん」

「あかりちゃん、どうだった? って、勝ったよね」

「ちょっと危なかったけど勝てたよ。明日美さんも勝ったみたいだね」

「危なかった? 今日は院生の沢井だっけ?」

 

 明日美さんが不思議そうにしていたので、笑って誤魔化す。それより、ヒカル知らないかな。

 

「進藤、今日は先に帰るって言ってたよ」

「そっか。もしかして、伝言のために待っててくれたの?」

「いや、ちょっと休憩してただけよ」

 

 明らかに待ってくれてたよね。ヒカルも気になるけど、一人で考えたい時もあるだろう。特に、負けた時は。

 佐為がいるから、厳密には一人じゃないけど……。

 

「明日美さん、どこか寄っていく?」

 

 幸い、今日は日曜日。次の対局は明後日だし、少しくらい時間が遅くなっても大丈夫なはず。

 

「いいけど、進藤を放っておいていいの?」

「こういう時は、ちょっと時間をおいた方がいいかなって」

「そっか、そうね。じゃあ行こう」

 

 研修センターを出て、駅近くの喫茶店に入る。飲み物とケーキを注文して、食べ始めてから話し始める。

 

「聞きたいこともあるんだけど、まずは私の話からでいいかな」

「うん。色々と聞きたい。特に、塔矢くんとの話とか」

 

 指導してもらうようになったの、ヒカル絡みっていうだけじゃないよね。

 

「そうそう。どうして進藤に執着するのか分からないの」

「塔矢くんには聞いてないの?」

「聞いたけど、濁された」

 

 ふうん……。ヒカルとの対局がまだだったし、変に警戒し過ぎても困ると思ったのかな。実際、塔矢くんの基準で警戒すると、佐為と戦うことになっちゃうし。

 

「韓国の子との対局は並べてくれて、こういう不思議な一手は気を付けた方が良いって言われたの。実際に若獅子戦でも、塔矢くんも苦戦した原因みたいだし」

「なるほど。私も後から並べてもらったけど、あの対局はヒカルにとっても会心の碁だよね。若獅子戦の対局も、いい碁だったし」

 

 それで知ってたんだね。でも、だとすると……。

 

「もしかして、毎日のように打ってもらってた?」

「え、そこまでじゃないよ、週に4日くらい」

 

 思った以上に多かった。ヒカルに執着してるのか、それにかこつけて明日美さんに近付こうとしてるのか……。

 

「それで、自分が指導できない日は、秀策の棋譜を並べたらいいって。進藤の対策にもなるし、そうじゃなくても秀策の棋譜を学ぶのは凄く勉強になるからって」

 

 ああ、ヒカルに執着してるだけの囲碁馬鹿だった。ほんの少し感じていた警戒心を下げる。

 それにしても、秀策の棋譜かぁ。佐為を知っている私を除けば、ヒカルのことを1番理解しているのは、間違いなく塔矢くんだと思う。

 

「実際に進藤と打っていると、時々秀策のよく使っていた手を打つし、よほど研究しているんだろうね。あかりちゃんの強さも、そこが原因?」

「あはは。うん、秀策の勉強をやってるのは否定しないよ」

 

 秀策そのものに教えてもらってるけどね。考えるまでもなく、とんでもないことだよね。

 明日美さんの事情を知れたのは収穫だった。ヒカルに言ってもいいか確認すると、対局が終わったし構わないけど、もし動揺するなら困るから、言うタイミングは私に任せてくれるとのこと。

 

 

 明日美さんはこの後、塔矢くんに碁の内容を伝えに行くんだそうで、嬉しそうに向かっていった。勝ったと報告できて、嬉しいんだろうな。こっちはヒカルの状況次第で、どうするのがいいか、悩ましいのに。

 とはいえ、もし落ち込んでいたら、早々に持ち直すようにしなきゃいけない。

 

「こんばんはー。ヒカル帰ってます?」

「あら、あかりちゃんいらっしゃい。いるわよ、どうぞ。ヒカル! あかりちゃん来たわよ!」

 

 ヒカルに声をかけつつ、上がらせてもらう。そのままヒカルの部屋まで行って、扉をノック。

 

「ヒカル、いいかな?」

 

 声をかけると、おー、と声が聞こえて、扉が開いた。部屋には碁盤。今日の対局内容かな?

 

「ちょうど佐為と検討してたんだ。あかりも参加しろよ」

「うん!」

 

 良かった、それほど落ち込んでいないみたい。

 検討した結果から見ても、明日美さんが秀策の勉強をしっかりしていたのが分かる。

 佐為からも同じような意見が出た。対局中から気になっていたそうだ。

 明日美さんとの対局は終わったし、言っても問題ないよね。

 

「明日美さん、塔矢くんに鍛えられたみたいなの。今日聞いたんだけど、塔矢くんが指導できない時は、秀策の勉強しろって」

「秀策の勉強ねぇ」

「ヒカルも私も、佐為に色々と教えてもらってるから。私は小さい頃から森下先生に教わってるけど、特にヒカルは佐為から学んだことが全てだし」

「昔の対局を覚えてんのか。あー、面倒だよなぁ」

 

 ヒカルがあーあ、とため息を吐きつつごろんと寝転がる。お行儀悪いよ。

 何やら佐為と話していたようなので、碁石を片付けながら待つ。

 

「まあ、いいや。それより明後日は本田さんと対局だし、まだお前も和谷も、越智も残ってるからなぁ」

「うん、手強い相手ばかりだね。プロ試験、楽じゃないね」

「そりゃそうだけどな。あかり、門脇さんにも奈瀬にも負けんなよ」

「誰と当たっても、手は抜かないよ」

 

 当然じゃないの、と返すと満足そうに頷く。今後抜かれるにしても、今は私の方がヒカルより実力は上だと思う。

 だから、1局でも多くしっかり真剣勝負でヒカルと打ちたい。プロになっても、ヒカルと同じ場所に立てるとは限らない。

 

「あかり、打つぞ」

「うん」

「あ、後で佐為とも打ってくれよ。こいつ打ちたいってうるさくてさぁ」

「そうなの? 週に1回くらいはネット碁打ってるのに」

「ネット碁で打つのもいいけど、やっぱり人と向き合って打ちたいんだとさ」

 

 なるほど。そういう望みもあるんだね。考えてみたら顔を見ながら打ちたいっていうのは当たり前だと思う。もっとも、佐為自体はヒカル以外には見えないけど。

 佐為がネット碁以外で他の人と打つのは難しいよね。まさかヒカルが仮面を被って打つってわけにもいかないし。

 何か私にできることがあればいいんだけど、なかなか難しい。

 

「ともかく、今はプロ試験に集中しねーと」

「うん、そうだね。佐為の対戦相手探しは、後で考えよう」

「おう。とりあえずこうやってあかりと打てるのは嬉しいみたいだし、ネット碁で強い相手も増えてきたし、今のところ大きな不満はないって言ってるけどな」

 

 ヒカルも、なんだかんだ佐為が大事だよね。いっつも気遣ってる。

 そして、ヒカルのおばさんに心配されるくらい遅くなっちゃったので、急いで家に帰った。

 

 

「ただいまー」

「おかえり。遅かったのね」

「うん、ヒカルが連敗しちゃったから、ちょっと検討とか長引いちゃって」

「ふうん。お母さん、碁のことは分からないけど、あかりは調子良いんでしょ? ヒカルくんとの対局で負けてあげるわけにはいかないの?」

「うん、それは無理」

 

 勝ち星だけで考えると、ヒカルや明日美さんに勝たせたら、随分楽になるだろう。

 ただ、それは絶対にやっちゃいけない。今後プロになってからも、絶対に悪影響がある。

 

「プロがゴールなら、それでもいいかもしれないけど、あくまでプロはスタート地点だから。ヒカルも私も、明日美さんだって、プロになってタイトルを狙って打つんだもん」

 

 もちろん、一歩先に行っている塔矢くんも。

 

「大変ね。じゃあ、あかりが全勝で勝ったらご褒美用意しなきゃね。何がいい?」

 

 ご褒美。ずっとやりたいと思っていたことがひとつある。反対されるだろうと思いつつ、口に出してみる。

 両親の説得が大変だし、ヒカルも簡単には説得できないとは思うけど。まずはお母さんを味方に付けよう。

 

「あのね。じゃあ、合格してすぐとは言わないけど、中学を卒業したら家を出たい」

「えっ」

 

 予想外だったみたいで、お母さんが一瞬固まる。うん、15で一人暮らしって言われたら、反応に困るよね。でも、止まるつもりはないの。

 

「それで、いつヒカルが来てもいいようにして、夜通し碁が打てる環境を作りたいの。私がイベントやらでいない時も、ヒカルが使えるようにしておきたいし」

「……まあ、言いたいことは分かったわ。お母さんは反対しないけど、お父さんがね」

 

 やった! お母さんがいいなら、お父さんは何とでもなると思う。あまりにしつこく反対してきたら、一ヶ月も話しかけなければ折れるだろう。

 ヒカルに、というかおばさんに話して、早めに味方にしておこう。あ、お姉ちゃんにも言っておかないと。時々戻ってくるつもりだし、部屋の荷物も、しばらくそのままにしてもらえたら助かるし。

 

「あかり、その顔、ヒカルくんに見られないようにね。だらしないよ」

「え、本当? 気をつける」

 

 いけない、ちょっと緩んでたかもしれない。

 よし、やる気出てきた!

 

 

 火曜日を迎えて、17戦が始まる。

 ヒカルの相手は、本田さん。決して油断できない強敵。

 会場に向かう途中、ヒカルに檄を飛ばす。

 

「ヒカル、頑張って。何が何でも、今日は勝たなきゃ駄目」

「お、おう。そりゃ負ける気はねえけど……」

 

 なんだよ、気合い入りすぎてねえか? とか小さい声で言ってるのが聞こえたけど、佐為と話しているのかな。私だけ受かって、ヒカルが落ちちゃったら、せっかくの土台作りが台無しになっちゃうもん。ヒカルには受かってもらわないと。

 まあ、今年落ちて来年受かっても、中学生卒業と同時にプロだから、間に合うといえば間に合うけど。

 

「よおし、俺もあかりに負けてられねえからな。見てろよ!」

「うん!」

 

 ヒカルもちゃんと気合いが入ってる。気負いすぎたら駄目だけど、これくらいの重圧をはね返せなきゃ、将来タイトル争いなんてできないもんね!

 

 

 結果としては、ヒカルがきわどいところで本田さんに勝った。昼の段階で、序盤の布石がよほど上手く打てたのか、白を持った本田さんががっちり守って、優位に立っていた。仮に私が打っていたとしたら、追いつけるかどうか怪しいほど。

 でも、早めに対局が終わったので見に行くと、ヒカルが細かなコウ争いを利用して僅かな隙を突いて、1目、また1目と差を詰めて、ついに逆転に成功した。

 

「……半目差、か」

 

 本当にきわどい、本田さんの強さをしっかりと感じ取れた一局。ヒカル、プロ試験の最中にも、とんでもなく成長している。

 

「あかり、勝ったぜ!」

「うん、見てたよ。凄かった」

 

 終わってすぐ、ヒカルが声をかけてきた。あまりはしゃぐと周りの迷惑だし、本田さんにも失礼だから、お互いに声は抑えめ。

 と、そこに明日美さんが寄ってきた。

 

「あ、進藤。勝ったの?」

「おう。ギリギリだったけどな」

「おめでと。進藤は、後は強敵は足立とあかりちゃん、和谷と越智くらい?」

「他の人との対局でも、もちろん油断しないけどな」

「そりゃそうね、ごめん。私は、週末に門脇さんで、来週が伊角さん。ああぁ、ここまで1敗とか、今までだと考えられないくらいの成績だけど、まだまだ先が長いわ」

「でも、本当に明日美さんもヒカルも、プロ試験中も強くなってる。ヒカルと当たる再来週まで、私も強くならないと」

 

 さっきの本田さんとの対局、打ってるのが私だと、多分負けていた。それほどに、本田さんの会心の碁と言える程の内容だった。それをはね返す今のヒカルは、すでに私より上かもしれない。

 

「あかりちゃんが、今より強く? まったく、どこまで行く気なんだか……」

 

 明日美さんが呆れているけど、ヒカルの成長について行くには、全然間に合ってないよ。

 前世と6才からの積み重ねが、ほんの2年未満のヒカルに追い抜かれそうになってるんだから。

 とはいえ、私もヒカルが打ち始めてからの2年で、凄く密度の高い碁が打てている。

 ……ヒカルとの対局を、凄く楽しみにしている自分に驚く。

 

 

 ヒカルが好きでたまらないけど、それと同時に、ヒカルと碁で真剣勝負を続けたい。プロ試験でのヒカルとの対局は、その大事な第一歩。

 一手も緩めず、それこそタイトル戦の気持ちで挑もう。


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