世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
8月27日、プロ試験初日。
ついにこの日が来た。うぅ、緊張するなぁ。
「あかり、忘れ物ないわね。ハンカチ持った? お財布は?」
「大丈夫、全部持った。頑張ってくるね、行ってきます」
お母さんに手を振って、ヒカルの家に向かう。すると、珍しくヒカルが準備を終えて、家の前に出てきていた。
合流して、おばさんに挨拶してから、並んで歩き出す。ヒカル、結構背が伸びてきた。もう追い抜かれてるけど、そろそろ目に見えて差が分かりそう。
「おはよう、早いね」
「おー、おはよう。俺だって、今日くらいは早起きするさ」
「そうだね。今日は大事な日だし。でも、気負いすぎないようにね」
「だ、大丈夫。あー、今日は誰と当たるだろう」
「誰になるだろうね。ああ、1戦目でヒカルや明日美さんじゃなければいいんだけど」
私が少し憂鬱な気分になっていると、ヒカルは力強い声で励ましてくれた。
「必ずどっかで当たるんだから、1戦目でも問題ないさ」
「……うん。そうだね、ありがと。当たったら、簡単には負けないよ」
「俺だって!」
あっけらかんと言ってくれる。
ヒカルってば、私よりずっと堂々としてる。本当、負けないように頑張らないと。
「誰が相手でも気は抜けないけど、特に手強いのは、お前を除けば伊角さん、越智、和谷と奈瀬あたりだな」
「うん、そうだね。門脇さんって人も、気を付けた方が良いと思う。あと、今まで2回対局してるけど、本田さんも強いよ。布石が安定していて、白を持つとコミ分をそのまま守るのが凄く上手いの」
「あー、確かに」
私の寸評に、ヒカルも頷く。ヒカルが打ったのは少し前だけど、その時は負けていた。他に気になる人は、というと。
「足立さんと小宮さんは、悪いけど今名前が上がった人よりは少し落ちるかな。ちゃんと打てば、勝てると思う」
「えっ、そりゃそうだけど、勝てるって言い切るのは難しくねえ?」
「うーん。弱いわけじゃないんだけど、怖さがないの。そういう意味では、フクくんの方が苦手かな。院生研修で、唯一半目差のギリギリになったの、フクくんなんだ。早碁に釣られたんだけど」
「へぇ。俺はフクには負けなしだぜ。すっげぇ打ちやすいし」
「2人とも、早いもんねぇ。プロ試験だと持ち時間が長いから、フクくんの長所が活かしきれないよね」
まだ小学生だし、強くなるのはこれからだろう。というか、去年もプロ試験本戦まで進んでいるのは、結構凄い。
そんな話をしているうちに、棋院センターに到着した。プロ試験の本戦は、本院ではなく、センターで行う。
「おう、進藤。藤崎も」
「和谷くん。おはよ」
着いて早々、和谷くんが声をかけてきた。他にも院生がちらほらいるので、挨拶をかわす。明日美さんはまだみたい。
外来も結構来ている。
雑談していると、飯島さんが寄ってきた。
「よう。お前ら、今日も一緒に来たのか? 仲良いなぁ」
「べ、別に俺はそんな! ただ家が近いだけで!」
「ヒカル、落ち着いて。怒鳴るようなことじゃないよ」
あら、意外。飯島さんが盤外戦とは。
「羨ましいですか? ヒカルの隣は変わってあげませんけどね!」
「……普通、進藤の隣じゃなく、進藤の位置じゃないのか?」
うふふー、と笑いを返す。適当なところで飯島さんが離れたけど、ヒカルもちょっと離れた気がする。
「あかり、今のは?」
「ここ一番の時に、ああやって気を散らす目的で色々と言ってくる人もいるの。真に受けず冗談で返すのが一番だよ」
「冗談、だよな。うん。俺はお前の発言の方が驚いたぜ」
「あはは。じゃあ作戦成功だね」
佐為は見えないからどうしようもないけど、ヒカルの隣を渡したくないのは、本当。親友という立ち位置に納まるつもりもない。まあ、今はそれどころじゃないけど。
入り口の方をちらちらと気にしていると、ようやく明日美さんが到着した。
軽く手を振って、明日美さんを呼ぶ。
「明日美さーん」
「あかりちゃん、おはよー。ちゃんと眠れた?」
「うん、大丈夫。明日美さんは?」
「まぁほどほどに。進藤は大丈夫?」
「うん」
私たちが話し始めると、ヒカルは和谷くんや伊角さんのところに向かった。
10分程度雑談していると、集まるよう放送が入った。
明日美さんと頷き合って、対局場へ向かう。
順番に名前を呼ばれて、くじを引く。出た番号は18番。
1戦目からいきなり、ヒカルとの話にも上がった本田さん。これは気を引き締めないとね。ヒカルは……飯島さんと対戦ね。
「いきなり藤崎か」
「当たっちゃいましたね。でも27戦、必ず全員と当たるから」
「そうだな」
さっそく準備を進めて、合図を待つ。ここから27戦、長丁場だから1戦ごとに一喜一憂せず、前の結果を次の試合に持ち込まないようにしないと。
「よろしくお願いします」
対局が始まり、私が白石になる。本田さんの攻めを避けつつ、逆に薄いところをこちらから攻める。昼を挟んで、早い段階で本田さんが守れず地に明らかな差が出てしまい、勝敗が決した。
「ありません」
本田さんの投了の言葉に、お互いに挨拶をかわす。良かった、勝てた。今日はちょっと緊張しちゃってたから、怖かったんだよね。
「じゃあ、押してきます」
一言残して、勝ちのハンコを押しに行く。
他の組み合わせを見ていると、私はヒカルとは23戦目、明日美さんは最終戦だった。明日美さんのひとつ手前が門脇さん。
うわぁ、和谷くんと越智くんが隣り合ってる。そのせいで、ヒカルが26戦目が和谷くん、最終戦が越智くん。最後の山場になるかもしれない。
「お、藤崎も勝ったの?」
「うん。替わるね」
和谷くんが終わったみたいで、ハンコを押しに来た。横に避けて、和谷くんが押すのを見ながら、雑談に興じる。
「どうだった?」
「なんとかな。俺、次が門脇さんって人で、続けて奈瀬と本田さんだからなぁ。結構きついぜ」
「続くと大変だよね」
そういえば、と部屋を見渡す。
門脇さんの顔を見ようと思ったけど、対局相手も外来のせいで、どちらが門脇さんか分からない。
邪魔にならないよう近づいて、盤面を見る。うわ、圧倒的。きっと、勝っている方が門脇さんね。確かに伊角さんと同じくらいに強いと思う。実際のところは、打ってみないと分からないし、相性もあるけど。
そのまま、周りの様子を見る。ヒカルも勝って、明日美さんも同じ院生の女性、佐々木さんに勝った。
フクくんは残念ながら越智くんと当たって負けたけど、他はだいたい勝ったみたい。
「あかりちゃん、勝った?」
「うん。明日美さんもおめでとー」
「ありがとね。でも、3戦目が和谷で4戦目が越智、序盤からシビアな相手が続くよ」
「うん。さっき和谷くんとも話してたけど、続くと大変だよね」
まったく同じことを言っちゃってるけど、本当にそう思う。
私は伊角さんとの対局が連戦に混ざらないから、比較的楽な位置にいると思う。あと、明日美さんは嫌がっていたけど、明日美さん自身も、すぐ後ろに本田さんがいるし、前に門脇さんがいる。そのせいで門脇さん、明日美さん、本田さんが並んでいるんだよね。当の明日美さんは、門脇さん、伊角さん、本田さんと並んでいる。相当大変な3連戦よね。
……。ん、あれ。門脇さんの顔、どことなく見覚えがあったし、この3人の並びにも見覚えがある気がする。
駄目駄目、今はプロ試験中なんだ。ちょっと気になるけど、よそ事に意識を向けている場合じゃない。
「あかりちゃんとは最終戦かぁ。ってことは、受かろうと思ったら、それまでに合格を決めておかないと駄目かぁ」
「弱気じゃ駄目なんじゃない?」
「うん、まあね。でも、あかりちゃんに勝つのは、最終戦で全勝対決するより難しいと思ってるからね」
いやいや、そこまでじゃないよ。さすがにそれは買いかぶられてる。塔矢くんほど圧倒的な実力じゃないし、どこかで取りこぼしは出るだろうし、立て続けに取りこぼしたら、合格も怪しくなっちゃうし。
でも明日美さんと当たった時、どっちも合格が決まっているというのは、凄く素敵な話だよね。そうなれるよう、途中で負けないように頑張らないと。
帰り道。ヒカルと一緒に歩きながら、プロ試験中の勉強会はどうするか相談する。
「どうしよっか。もし邪魔なら、行かないようにするけど」
「邪魔じゃねえよ。っていうかさ、俺が打ち始めてから、ずっとお前来てるじゃんか。今さら気を使ってどうすんだよ」
「うん。でもプロ試験だから。私も一応、ライバルなんだし」
「まあ、そうだな。お前とは、23戦目だったかな。だいぶ先だし、気にしすぎてもしょーがねえよ」
良かった。たった2ヶ月だけど、お預けになるのは寂しいと思っていたから、気にしないなら何より。
と、ふふっといきなりヒカルが笑った。
「どうしたの?」
「佐為が、しばらく自分のネット碁はいいってよ。佐為が打てる機会を譲るなんて、滅多にないぜ」
「あ、それは駄目」
「え?」
私が駄目を出すと、ヒカルが首をかしげる。あれ、分からないかな。
「もし佐為が、二度とネット碁を打たないならいいんだけどね。今後も打ちたいなら、プロ試験の期間だけ打たないっていうのは、避けた方がいいよ」
「ああ、そういうことか」
そう、まるでプロ試験に夢中だったから佐為が現れなかった、そう思われたら大変。
誰とは言わないけど、同じ年齢の、妙に最近大人しい男の子にね。
「だから、ヒカルは、というか佐為はネット碁を続けなきゃなんないの」
「分かった。じゃあ、今まで通り、俺とお前、俺と佐為、お前と佐為、佐為のネット碁を日替わりで回す感じだな」
「うん。それが良いと思う。今までだって時々ずれていたから、必ず4日ごとじゃなくていいんだけどね。ついでに、本戦があった日は、その検討も少ししようか」
「おう」
プロ試験に挑む同士で情報共有するのはずるいかもしれない。
でも、勝ち星を奪い合うからといって疎遠になる必要なんてないし、実際にヒカルと当たった時は本気で挑むつもりだし、卑怯なことをしているわけでもない。
考えすぎると混乱するし、この件は深く考えない。
これまで通り。プロ試験で、緊張感のある対局が続くけど、それ以外は、何も変わらない生活が続く。そう思う方が、気負いすぎずに良いんじゃないかな。
続く2戦目。私もヒカルも、明日美さんも勝ったけど、和谷くんが門脇さんに負けた。
ショックだったみたいで口数は減っていたけど、しばらくしたら復活した。さすが、場数を踏んでいるだけある。
でも和谷くんの次の相手は明日美さん。厳しい対局が続く。
夏休みが明けて、学校が始まってから行われた3戦目。明日美さんが和谷くんに勝った。和谷くんは2連敗。実力は十分なのに負けが先行すると、気が沈む。和谷くんは明日が本田さんと対局だし、ちょっと心配ね。
ちなみに、和谷くんに勝った門脇さんは、越智くんに負けていた。
「和谷くん。大丈夫?」
「ん? 何が?」
「負けが続いたから、気落ちしてないかなって」
「大丈夫。俺が負けた相手、強かったからな。言っちゃ悪いが、格下だったら落ち込んでたかもしんねーけど、俺も実力を出して打った結果だからしょうがないさ」
話を聞いて安心する。ちゃんと打てたのなら、何より。
「大丈夫そうね、良かった。3枠しかないから、人の心配している場合じゃないんだけど、実力を出せなかったら、後悔するもんね」
「そうだな。待ってろよ。俺だってここからだからな。直接負けたからって、それで結果が出るわけじゃない」
うん。お互い頑張ろう。
そして、4戦目。明日美さんが越智くんと当たって、越智くんが勝った。他には、全勝同士の伊角さんと小宮さんは、伊角さんに軍配が上がった。同じく全勝だった足立さんも、外来の片桐さんという人に負けた。
明日美さん、落ち込んでいるかなと心配したけど、なんともなさそう。
「負けちゃった。そこそこ打てていたんだけど、越智は攻めにくくて苦手なのよね」
「今まで打った感じ、越智くんは地を気にしすぎるところはあるけど、攻めるのも守るのも、読みの鋭さも高レベルだよね」
「そうだね。ああ、悔しい。次やる時は負けないんだから」
次やる時、か。どちらかが受かったら、相当先の話になる。意識して言った言葉じゃないと思うけど、明日美さんのリベンジ、いつになるのかな。
5戦目、6戦目と順当に進み、6戦目終了時点で、ヒカルと越智くん、伊角さんと私が全勝、門脇さんと明日美さん、小宮さんが1敗で続く。和谷くんは2敗。外来の片桐さんも2敗。片桐さんは私と伊角さんに負けたけど足立さんに勝ってるし、かなり強かった。
「全勝が4人かぁ。進藤も負けてないけど、今のところそれほど強豪とは当たってないな」
「ああ。他には、現状の全勝者にだけ負けているのは、門脇さんと奈瀬か」
「去年は塔矢が突出していたけど、今年もやっぱり厳しいよな」
和谷くんと伊角さんが話している。明日美さんもいたので近寄ると、成績表の前を空けてくれた。雑談を続けながらも、伊角さんがこちらを気にする。少し話して、すぐに移動し始める。ヒカルを待たせてるし、早く行かないと。
「伊角さん、明日はよろしくお願いします」
「ああ。お手柔らかに」
そして、7戦目。私は伊角さんと対局がある日。
伊角さんは最終月で越智くんに院生順位を抜かれていたけど、伊角さんの評価が下がるわけじゃない。
警戒しつつ打っていたせいで、お互いにゆっくりと進行した。お昼の時点で、まだ序盤から中盤に入ろうとするところ。
時間は、お互いに1時間以上使っている。
さて、昼からは少しペースを上げないと、秒読みになって打ち間違いも気にしなくちゃいけなくなる。
「明日美さん、どう?」
「確実なわけじゃないけど、今のところ悪くないよ。伊角さんと、きつい?」
「んー。やっぱり強いね。でも今のところ、まだ中盤に入るかどうかってところだけど、そんなに悪くないよ」
私も結構慎重に打つ方だけど、伊角さんはそれに輪をかけて慎重な打ち方をしている。色々と考え過ぎちゃうのかな。こうして真剣勝負をしていると、色々と知らなかった部分も見えて、面白い。
「私も1敗したけど和谷には勝ってるし、残り全部勝つ気で頑張るよ」
うん。頑張ろう。
そして昼休憩を終えて、午後から続きを打つ。途中、上手く打たれて困る場面があったけど、別のところで相手の地を潰して、ギリギリ2目半差で勝利を収めた。
「くそっ、勝てそうだったのに」
「うん、危なかったです。こっちの地を潰しに行くのが一手でも遅かったら、間に合わなかったです」
自分でも上手く打てたと思う。佐為ならどう打つか、と考える癖がもう身についちゃった感じ。実際に佐為のように打てるわけじゃない。盤面全体を睨んだ一手なんて、打てるものじゃない。
でも、2つの意味を持たせた一手や、今しかないというタイミングでの打ち込みは、かなり安定してきたように思う。
だから塔矢くんとも良い勝負ができたし、研究会での手合わせでは勝つ時もあるくらい。とはいえ深く考えないと厳しいから、時間制限があるとそう何度も考え込めない。今はまだいいけど、普段はもっと早く打てるようにならなきゃ。
ヒカルが時々打つ、一見すると悪手だけど、打っていくうちに好手へと化けるような打ち方は、あまりしていない。読み負けたら丸々損になるし、私にはまだ早い。ああいう打ち回しは、もうすでにヒカルの方が上手なんだよね。
もっと相手に合わせてプレイスタイルを変えられると、勝ちやすいんだろうな。伊角さんと打つなら、ある程度早碁を意識したら、きっと伊角さんの持ち時間が厳しくなって、もっと楽になると思う。
って、伊角さんとの対局は終わったし、次のことを考えよう。
2試合挟んで、和谷くんと越智くんの連戦。負けないように頑張ります。
プロ試験の日程について。
原作、第79局の表紙では、4戦目が8月27日になっています。
しかし、第86局では16戦目が9月30日になっています(逆算すると4戦目は9月3日)。
また、対局結果の一覧でも、1戦目が8月27日になっています。
作中で、2戦目終了後3戦目開始前に夏休みが終わったこと(東京のため8月末まで夏休みと判断)、その時に10月末までヒカルが火・土は休みであると教師が伝えていたこと。
これらを考慮して、8月27日が1戦目とします。
この日程による違いが出るわけではありませんが、数少ない月日が把握できるタイミングのため、念のために記載致しました。