世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
3子で始まった勝負。曽我さんは置き石分のリードを守ろうとした手が多い。それに対して、私はどんどん攻めていかなきゃいけない。
普段なら打たないような手を打ち、一見すると荒れた碁になった。でも先を読んで、無理そうだと思った攻め方はしていない。相手のミスを待つ打ち方ではなく、上手く打ったら勝てそうな展開にしたい。
結果、曽我さんに読み合いで勝って、なんとか勝利をもぎ取った。疲れたー。
「嬢ちゃん、若ぇのに大したもんだ」
「ありがとうございます。えっと、曽我さんも強かったので、凄く楽しかったです」
周りから、儂もあの子と打ちたいとか聞こえてきたけど、大丈夫かな。孫の感覚で見られる分にはいいんだけど、犯罪の気配が漂うような人とは、ちょっと関わりたくない。
それはそうと、打っていて感じたことだけど、思ったより状況に左右されず打てている気がする。普段と違う場所で、普段と全然違う相手だったのに。どうしてだろう、って考えたらそれらしい理由が思いついた。
普段、ヒカルの家で打っているのが、私にとって一番であり、特別なんだ。そこより緊張する場所なんて、今の私にとって、あまりない。
それが良い方に働いているなら、良いことだと思っておこう。プロ試験の時とか、先々は分からないけどね。
周りを見ていると、伊角さんは有利に進めている。明日美さんが互角で、和谷くんとはちょっと形勢が悪い。ヒカルは……思ったより頑張ってるけど、ちょっと相手に上手く打たれてる。
うわぁ、3人とも負けたら、碁石洗い? 頑張れ-、と内心で応援しながら3人の碁を見ていると、伊角さんも終わった。
「どう?」
「明日美さんが勝てるかどうか。和谷くんとヒカルはちょっと厳しそう」
言いながらも目は離さない。あ、ヒカルの中央に打った石、後々生きれば逆転の目が出るかな?
「終局だね」
「ちぇ。途中、勝てると思ったんだけどな」
和谷くんが負けた。悔しそうだけど、ちょっと無茶な手が目立ってたから、しょうがないよね。
一方で、明日美さんは勝利を収めた。
「あかりちゃん、勝ったよ!」
「うん、見てた。明日美さんで3勝だよ。ありがとう!」
「結構上手く打てたと思うんだけど、どうだった?」
明日美さんに良かったところと、気になったところを答える。ついでに、和谷くんも検討をしていたので、お互いの良かったところにも少し口を挟む。
明日美さんは、少し前まで勝負どころで緩い手を打っちゃう時があったけど、最近明らかに減ってきた。塔矢先生のところで検討をしていると、1局のうち1番大事な局面について話すことが多い。そういうのも影響して、緩んじゃいけないという意識が高まっているのかもしれない。
もちろん、なんでも頭をぶつけて戦えばいいわけじゃないし、抜くところは抜かなきゃ駄目だけど、そのあたりは明日美さんも把握している。
「あ……」
伊角さんがヒカルの打った手に驚きの声を漏らす。ああ、さっきの中央の石が生きて、関係なさそうだった左辺で有利になった。これで10目以上稼げたから、後はミスなく打ち切れば、ヒカルの勝ちね。
全員の対局が終わり、扉の外にある自販機エリアで、一息。
「あんなこと言っちゃってた和谷くんだけ負けたね」
「うっせー。相手のおっちゃん、結構強かったぜ」
和谷くんが言い訳する一方で、ヒカルが相手のおじさんと意気投合して、また打とうって約束している。碁会所もいいけど、明日は森下先生の研究会だよ。忘れないでよ。
夜になっていたので、早々に解散して家路につく。
「佐為がさ、今日俺が打った手に気付いてたのは、お前だけだったってよ。慣れてるのもあるけど、やっぱり伊角さんとかよりあかりの方が強いよなぁ」
「うーん、そうなるのかな。勝負の場では分からないけど」
「そこなんだよな。お前、なんで強かったのに大会とか出てなかったんだ?」
ヒカルがいなかったからだよ。とは言えないし、どう言えばいいかな。
「強くなりたいっていうのはあったけど、子ども囲碁大会とかは興味なかったの。勝ってもいたたまれないし、負けたらへこむし」
「いたたまれない?」
あ。そうよね、おかしいよね。えっと。あはは、どう言いつくろうかな。
「えーっと。私って昔から森下先生に教えてもらってるから。土台が違うのに、負けるわけにはいかないじゃない」
「ふーん。そんなもんかな」
「そんなもんなの」
ごまかせたようで、何より。もしかしたら佐為は何か気付いてるかもしれないけど、そこは気にしてもしょうがない。
「俺の今の目標は、塔矢も当然なんだけど、あかりに勝つことなんだぜ」
そのためには、碁会所にも足を運ぶし、ネット碁でも鍛えるって。
その言葉に、私の足が止まった。
「ん、あかり?」
「私も」
そうだ。私にはライバルがいないなーって思っていたのは間違いなんだ。元々、ヒカルと塔矢くんを、羨ましく横から見たかったわけじゃない。
「私も、ヒカルに負けたくない。それに塔矢くんにも追いつきたいし、2人と一緒に、いつかタイトル争いしたい」
塔矢くんとヒカル。2人がライバル同士というだけではなく、私もそこに入っていきたい。なんとなく燻っていた心のもやもやが、一気に晴れたような気分。
「過去に女性でタイトルホルダーどころか、挑戦者になった人もいないのに、何言ってるんだって話なんだけどね」
「なんだ、そんなこと。過去にいないってんなら、あかりが初のタイトルホルダーになっちゃえばいいじゃん。そんな話になったら、幽霊から囲碁を学んで院生になる奴なんざ、いるわけねーじゃん」
ふふふ。なにそれ。ヒカルにしては気の利いた返しに、笑顔を向ける。
「うん。確かにそれはいないね。ヒカル、一緒にプロになって、ずっと一緒にタイトル争いしよう」
「おう。楽しそうだな」
遅くなっていたので、ヒカルの家での勉強会はなし。家に帰って、ご飯を食べてお風呂に入る。
今日は、本当にびっくりした。こんな日常の何気ない一日の中に、とても大きく心に響くことがあるなんて。
ヒカルと一生一緒に碁を打つ……。いいな、そうなりたい……。
「あかりー、お風呂長いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫! もう出るー」
おっと、あぶない。気持ちいいからって湯船で考え事してると、のぼせちゃう。
部屋着を着て、自室でその他ファイルに今日の棋譜を追加だけしてベッドに横になった。
「何だか感じが変わった?」
「そう?」
塔矢先生の家での研究会、お昼に近くにあったおそば屋さんで注文したメニューを待っている時、明日美さんからそう言われた。
同じ席には塔矢くんもいて、子ども3人でおそば屋さんって渋いなあと思っていた時だった。おそばは好きだから、大歓迎なんだけどね。
「塔矢くんもそう思わない?」
「そうだね。何というか、藤崎さんと打った時、普段より勝つぞという気迫を感じた気がする」
「そ、そうかな」
きっとヒカルとのタイトル争いしようという約束が、その理由だろう。
「これは、何か良いことがあったようね。何かな、お姉さんに言ってごらん。……進藤関係よね?」
「……明日美さん、顔」
お姉さんぶってるけど、顔はにやけていて面白がってるよ。そして塔矢くんには聞こえないように耳元でささやいてきたけど、なんで分かったんだろう。勘が良すぎじゃないかな。
「おっと、失礼。で?」
「明日美さんの思ってることとは違うと思うよ。先週の碁会所の後、ヒカルと一緒にタイトル争いしようって言ったんだ」
「……確かに、思ってたのとは、ちょっと違う」
「進藤と? なぜ?」
おっと、塔矢くんが食いついた。そうだよね。塔矢くんはヒカルしか目に入ってない。これまでは気にしてなかったけど、今は少し違う。私の方にも目を向けさせたい。うぬぼれかもしれないけど、今、同年代で一番塔矢くんに近いのは私のはず。
やり直している私はずるいとは思う。でも、それは考えてもしょうがないし、気にしないって決めている。
「ヒカルの目標が、塔矢くんに追いつくことだけじゃなくて、私に勝つことだって。それなら、私も負けないように頑張らなきゃ行けないなって思ったの。だから、そのためにタイトル争いできるくらい強くなりたいの」
へーって言いながら水を飲んでいた明日美さんが、水を噴きだしかける。危ない、噴いてたら塔矢くんが大変なことになってたよ。
塔矢くんも目を丸くしてる。何かおかしいのかな?
「あかりちゃんがタイトル争いっていうのは前にも言ってたけど、進藤が追いかけるからタイトル争いっていう意味がわかんないよ」
「藤崎さんは、進藤がタイトル争いするって思ってるの?」
「思ってるよ。塔矢くんは違うの?」
私の質問には答えず、何やら考え込む。そのまま黙っちゃったので、明日美さんと顔を見合わせ、お互い苦笑する。
「考え込んだら周りが見えなくなるね」
「うん。私は塔矢くんともあかりちゃんとも違って、気になるお相手っていうのがいないから、ちょっと羨ましい。あかりちゃんと塔矢くんで、全然意味が違うけど……」
明日美さんは塔矢くんと私を同じ扱いにしてくる。
どう反論しようか考えていると、注文した料理が運ばれてきた。そこでようやく塔矢くんも意識がこちらに戻ってきて、雑談に興じる。
「もし2人が気にするほど進藤が強くなるなら、来年のプロ試験は厳しそうね。あかりちゃんに進藤、伊角さんに和谷、最近上がってきた越智も強いし」
「明日美さんも強くなってるし、プロ試験の頃には立場は逆転してるかもしれないよ」
明日美さんがプロだったかどうかは全然覚えてないけど、院生1組でやっていけるんだから、遠くないうちにプロになるんじゃないかな。
それにプロ試験って30才まで受けられるよね。だから、諦めていなければ、前世の時もプロになっていたと思う。明日美さんならイベントでも引っ張りだこだろうし。
「いやいや。あかりちゃんに追いつくの、ちょっとやそっとじゃないから。それに理由はともかく、あかりちゃんも気合い入れて頑張るんだよね。ますます追いつくの大変になるよ」
「そうだね。気を抜いたら僕も藤崎さんに抜かれちゃうな」
塔矢くんに追いつくのは、それこそちょっとやそっとでは無理だけど、私も院生1位になれたんだし、思ってるより実力が付いている。
まだ半年以上時間はあるし、苦手な戦い方を減らしてしっかり地力を付けていこう。
「私、早碁や力碁が苦手なの。でもプロ試験を突破して、プロとしてやっていくには苦手なんて言ってられない。なんとか克服しないとね」
「なるほどねぇ。早碁って言えば、院生だとフクが一番得意かな? あと、進藤もフクと打つと異様に早く終わるよね。しかも進藤結構勝ってるし、早碁得意なんじゃないの?」
「進藤、早碁得意なのか」
意外そうにつぶやく塔矢くん。そうなのよね、ヒカルは早碁が得意なんだよね。
そして、乱戦になっても読みの深さは維持しつつ荒らしも意外と得意な塔矢くんは、力碁が得意と言ってもおかしくない。
2人に追いつきたいって言いつつ、苦手な棋風がその2人っておかしいな。ヒカルは早碁が棋風ってわけじゃないか、得意ってだけで。先週の碁会所のように、腰を据えた一局でも、ヒカルの強さはしっかり出ている。
「そうね、ヒカルは早碁も得意ね。塔矢くんは苦手?」
「いや。苦手じゃないよ。研究会じゃない日とかに、緒方さんや芦原さんともよく打つし」
「そっかぁ。私もヒカルと打つようにしよう」
佐為と早碁で打てたらいいんだけど、ヒカルを介している分、どうしてもテンポが遅れる。本当、私にも佐為が見えて声が聞こえたらいいのに。
「早碁?」
夕方、ヒカルの家での勉強会。さっそく早碁を打ってほしいと切り出してみた。
「うん。今日明日美さんや塔矢くんと話していた時に話題に上がったの。というか私が苦手って話をしていたら、フクくんやヒカルが得意だって明日美さんが言ってね」
「ああ、フクとは打ちやすいな、打ってて楽しいし」
「だから私とも1手10秒の早碁で打ってもらえないかな?」
「おう、いいぜ。確かに早碁だとお前に時々勝てるもんな」
ヒカルが引き受けてくれて、早碁を何度も打つ。勝率は私の方がいいけど、やっぱり他に比べると格段に下がる。
というより、私の碁が早碁だと荒れるのに、ヒカルは安定して打てている。私が早く考えるのが苦手というのもあるけど、それにしたってヒカルの安定度は凄い。センスというか、状況を瞬時に読み取る力が凄いんだろうな。
私はちょっと時間をかけて、全体を見つつ打つ方が楽しい。だから1組で時間が多いのは打ちやすい。多分、持ち時間半分だと伊角さんや越智くんにもあまり勝てないんじゃないかな。
「ヒカル、佐為とは早碁を打ってるの?」
「佐為と? 打たねえよ。石並べるの両方俺なんだぜ。めんどくさくてやってられねえよ」
「あ、そっか。佐為と早碁打ってみたいなって思ってたけど、ヒカルも厳しいんじゃ無理だね」
私が言っちゃったせいで、佐為も打ちたがったみたい。ヒカルと一緒に良い案はないか考えるも、なかなか出てこない。
軽い気持ちで言っちゃったけど、早碁はヒカルと打って、佐為には読みや一手の深さを教えてもらう方が嬉しい。
「うーん。やっぱりゆっくり打つと落ち着いて考えられるけど、早碁だと布石はまだしも、序盤を越えたら相手の手を読むのなかなか厳しいよ」
「ん? 早碁だと俺だって相手の手を読むとかできてないぞ。どっちかというと直感というか、なんとなくここが薄いとか、そういうので打ってる」
「分かってるんだけどね。例えば一場面を見て、生き死にを見極めるとかならまだしも、それが続くと難しい」
「そうだなぁ、俺の場合は……」
いつもと逆で、ヒカルに教えてもらいながらなんとか早碁のコツを掴もうと努力する。一朝一夕でできるものじゃないから、時間はかかるけど、ヒカルから良いところを学ばなきゃ。
卒業式まで大きなイベントもないし、しばらくはヒカルと打ったり、研究会に行く日々。
ん? イベント?
……囲碁のイベントは何もないけど、そういえば2月にバレンタインがあった。院生研修のメンバーって、何かあげた方がいいのかな。後で明日美さんに聞いておこう。
去年までは小学生だし、あまり大仰に考えてなかったけど、今年は中学生、周りもそれなりに色気づく時期。それに、院生研修だと年上の子もいるし。明日美さんは大丈夫だと思うけど、他にもヒカルに近づこうとする人がいないとも限らない。お金は厳しいけど、いつもより手の込んだプレゼントを用意しなくちゃ!