ここに至るまでにアントワネットは、もうさんざん戯画の対象にされてきた。(中略)それでもダヴィッドのこの一枚に比べれば、女性としての誇りを真に傷つけるものはなかったとさえ言えるくらいだ。
──中野京子『怖い絵』(角川文庫)
参考リンク:ダヴィッド『マリー・アントワネットの最後の肖像』
> [1/1] ザ・ロンゲスト・デイ・オブ・オルレアン⑤
[PM 20:20]
黒外套の処刑人──シャルル=アンリ・サンソンは、ただ殺戮をもたらすためにこのリヨンを襲っているわけではない。
もとを正せば、召喚主である魔女ジャンヌ・ダルクの命令ではあろう。だが、彼を突き動かすモチベーションという意味であれば、そんなものは些末な動機のひとつに過ぎなかった。
「邪魔を……するなっ!」
サンソンの手に握られた
そしてこの霊基に与えられた宝具、【
苦痛なき処刑のための道具であった「ギロチン」を宝具として具現化する力。
サンソンは、自らの精神が魔女の与えた狂気に侵されていることを認識している。
生前の自分は、このような殺戮のための剣を振るう人間ではなかった。人が人を殺すことの意味について、生涯悩み続けていた。
しかし同時にサンソンは、サーヴァントと化した自分が、身体的な側面において処刑人として限りなく完成形に近づいていることも分かっていた。
ゆえにサンソンは戦場に赴く。
フランスのために戦う忠義の兵たちを斬り殺し、斬り殺し、斬り殺す。
その果てに待つ『彼女』の首を再び刎ねるまで。
……そしてその時は至る。
すなわち今日、この瞬間。
サンソンの瞳が、首を落とされたプレイヤーの死体の先に、生前の記憶と変わらぬ輝きを見た。
「見つけた……」
闇の中でも鮮烈な印象を与える赤いドレスに、奇妙なシルエットでありながらとても良く似合っているとしか言いようのない巨大な帽子。白銀の長い巻髪がゆるく波打ち、サンソンを見据える青い目の眼差しは内なる精神の気高さを表している。
猛然と走り寄る。
行く手を阻もうとする敵兵も、周囲から撃ち込まれ続ける呪いの
あの日の使命を、今度こそ全うするために。
不出来な処刑人が汚してしまったフランス王妃の最期の姿を、今度こそ正しい形でこの世界へと知らしめるために!!
「マリーィィィッ!」
不敬であると知りながら、その名が口をついて出た。
血に濡れた右手の剣が、羽のように軽い。
身体の中で渦巻く魔力が、宝具として現出するときを──処刑のときを待ちわびるように、その濃密さを増していくのが分かった。
「サンソン!」
王妃が己の名を呼んだ。ただそれだけのことで歓喜に溺れそうになる惰弱な精神を、鞭打つように平静へと保つ。
──もうすぐ。もうすぐです。王妃様。
──不肖、このシャルル=アンリ・サンソン。貴女の首を、今度こそ、その美しさのままに斬り落として差し上げる。
しかし次の瞬間、戦場には不釣り合いな美しい音が響いた。サンソンの足が突然もつれ、地面に倒れ込みそうになる。プレイヤーたちのガンドとは違う、何らかの魔術による行動阻害か。
王妃の背後の闇の中から、指揮棒を構えた男が彼女をかばうように進み出た。王妃と行動をともにする音楽家のサーヴァント。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
「とうとう殺人狂にまで堕ちたのか、処刑人」
情感豊かに奏で続けられる演奏とは程遠い、ただ冷たいだけの声が、足並みを乱して立ち止まるサンソンの耳を捉えた。
「邪魔をするなよ、音楽屋。今すぐそこを退いて彼女のために葬送曲を奏でるというなら、この場は殺さずにおいてやる」
「やってみるか? 君の剣が音より早く僕の首を刎ねるというなら、目的を達することもできるだろうさ……僕はそう思わないけどね」
ギリ、とサンソンが歯噛みする。
睨みつけられたアマデウスは、哀れむような視線を投げ返しながらも微動だにしない。
「やめて、アマデウス。それにサンソン……」
そこに、王妃が口を挟んだ。
いつの間にか、後方から追いかけてきたプレイヤーたちの攻撃がピタリとやんでいる。
「イベント北」「会話シーン入った?」「うるさい黙れ」「回り込んで撮影して」「マリーちゃんprpr」
オルレアンの監獄で出会った『彼』を思い起こさせるような意味不明な囁き声が、さざなみのようにプレイヤーたちの間を伝わり、消えていく。
彼らもまた、王妃の言葉に耳を傾けているように思われた。
「……サンソン。あなたが魔女の狂気に侵されていることは知っています。魔女に敵対する私を殺そうとしていることも。けれど、それを認めるわけにはいきません。なぜなら、この戦いはフランスの未来のためのものなのです。
かつて私は、革命の中であなたにこの首を差し出しました。あの日処刑の広場に詰めかけた人々は、王政を倒すこと、すなわち王を殺すことが、フランスの未来のために必要だと信じていたからです。経緯はともあれ、結末はともあれ、そこにはフランスの民としての大義があったのです。
けれど……今のあなたに大義がありますか? 狂気の中にいるあなたが処刑人の剣を振るうことを、法も秩序も、あの魔女以外の何者たりとも認めはしないでしょう」
王妃の口調は落ち着いていた。
この身が彼女に剣を向けていると知りながら、フランスの王妃たる者として、あまりにも堂々とした語り口だった。
けれど──
「──違います、王妃様。違うのです」
サンソンの口から言葉がこぼれる。その舌が、口の中全てが、血を吐くように苦々しく思われた。
口に出して言う気はなかった。それは彼女の名誉を汚すことになってしまうから。
無言のうちに
そう考えていたはずだった。
だが、一度漏れ出してしまった言葉は、
「王妃様はご存じないでしょう。貴女の処刑の後、どれほどの血と
そして、そういった人々は、こぞって王と貴女の名誉を
……処刑の日、僕は貴女の髪を短く切り落とさねばなりませんでした。首筋にかかる髪は断頭の刃を滑らせるからです。処刑のための道具として考案されたギロチンでさえ、それは避けられなかった。ギロチンは完璧な道具ではなかった。僕とギロチンの不出来さが、死にゆく貴女から美しい髪を奪い、そして貴女の本当の気高さ美しさを知らぬ者たちに嘲りの理由を与えてしまった。だから、僕は……」
渦巻く魔力が、見慣れたギロチンの姿を具現化させていく。
人を超えた英霊としての力で、今度こそ完全なる処刑を遂行するために。
美しい人が、美しいままに首を落とされる様を。あの日フランス全土に示されるべきだった正しき処刑の姿を、人の悪意に汚されることなく世界へと知らしめるために。
「魔女の復讐など、僕にとっては戦いの動機になりえません。あれは彼女たちの、彼女たちだけの復讐です。そして
けれど、それでも、今度こそ僕は処刑人としての務めを果たします。
──どうか安らかに清らかにお眠りください。【
王妃の頭上に具現したギロチンの刃が、ギリギリと巻き上げられていく。
しかし王妃は……マリー・アントワネットは、ただ悲しげにつぶやいた。
「……やっぱり、あなたは狂ってしまったのね」
「何を──」
「明日あればこそ、死は明日への希望たりうるのです。かつて私の死は、少なくともそれを望んだフランスの市民たちにとっては、確かに明日への希望でありました。しかし今、
「──それは、」
「プレイヤーの皆様、ご配慮をありがとうございます。もはや語るべきことはありません。後はどうぞ、ご存分に」
す、と一礼し、マリーが後ろへと下がる。
「待ってくれ!」
焦り、宝具を発動させようとするサンソンの全身を、待ちかねたように四方から放たれた無数のガンドと矢の雨が貫いた。
「ッーーー!!!」
思わず膝をついたサンソンに、雄叫びを上げながらプレイヤーたちが襲いかかる。
「【瞬間強化】ァ!」
「【反応強化】ァ!」
「【完勝への布石】ィィィ!」
「あ、あああ……」
見る影もなく動きを鈍らせたサンソンを袋叩きにするように振り下ろされたプレイヤーの剣が、彼に無数の傷をつけていく。
「やれる! やれるぞっ!」
「俺たちの手で! サーヴァント撃破報酬を!」
「ああ………………それなら……僕の行いは……全て……」
「トドメの一撃ぃ!!!」
その首を落とすべく、プレイヤーが大上段に振りかぶった剣を振り下ろそうとする。
プレイヤーの筋力と複数のバフスキルによる攻撃力強化、そして重力加速度が加わった大剣の一撃が、ブオンと盛大に音を立てながら彼の首を斬り落とさんと放たれ……しかし、サンソンの腕がそれを止めた。盾代わりに使われたサンソンの左腕は半ば断ち切られた状態でひしゃげ、白い顔も髪も血の赤に染まっている。
「マリー。僕は、ただ……貴女を…‥。マリー……」
うつむき、王妃の名だけをボソボソと繰り返すサンソンに、プレイヤーたちが気圧される。
その一瞬の隙に、サンソンは周囲のプレイヤーを振り払い駆け出していた。王妃のもとへと。かろうじて無事で残された右手に、処刑人の剣を振りかざしながら。
その全身から、黒い魔力の波動が、目に見えるほどの濃度となって溢れ出す。
全身血まみれのサンソンの赤く血走った目に、再び力が宿った。血よりも
「僕には……ワからナい」
「正義も使命も……もウ何モ」
「なのに……召喚さレタあの日かラ、消えなイんだ」
「怒リが……憎悪ガ」
「タトえ貴女が彼らヲ
「………………ダカラ。邪魔ヲ……スルナッ!!!」
【
プレイヤーの視界にシステムアナウンスが走った。
血涙を流しながらサンソンが咆哮し、獣のような荒々しさでマリーに向かって猛然と進む。
「マリアァァァァーーッ!」
「バーサーカーモードだと!?」
「誰か止めろ!」
慌てて後を追うプレイヤーだが、狂化されたサーヴァントの速度に追いつけるはずもなく。
瞬く間にサンソンはプレイヤーの包囲を食い破り、マリーへの距離を詰めていく。
「くそっ、あの処刑馬鹿……心が折れて魔女の狂気に飲まれたのか!?」
「アマデウス、下がりなさい」
「マリア! 危険だ!」
「下がりなさいと言いました」
「ッ……」
苦い顔をしたアマデウスが一歩下がり、マリーが一歩前に出た。
その表情には、一点の怯えもない。普段の温和で優しげな彼女とは違う、気高く凛々しい王妃の立ち姿がそこにはあった。処刑の日、ギロチンの刃が落とされる最後の瞬間まで凛々しく在り続けたという逸話を再現するごとく。
「サンソン。あなたは、私のためにずっと苦しんできたのですね」
「■■■ーーーーーーッッッ!!!!」
もはや言葉にならぬ叫びを上げて振り下ろされる渾身の一撃を、マリーは両手を差し出すように迎えた。
その全身から、水晶の輝きがほとばしる。
「【
マリーの首筋めがけて叩きつけられた処刑剣は、しかしその白磁の肌に傷一つつけられぬまま勢いを止めた。
結界宝具【
王権が失われても愛した人々とフランスは永遠に残る、という彼女の信念が作り出したひとつの幻想。
そのまばゆい輝きが、マリーとサンソンをともに包み込んでいた。
「サンソン。明日の希望のため、今ひとたびお別れいたしましょう。次にお会いしたときは、ともに笑いあえますように──」
語りかけるマリーから、再び魔力の光が溢れ出す。光の粒子をまとう
「──ヴィヴ・ラ・フランス。【