『小学生を舐めてはいけない』
そう。これは至極当然。すごく当たり前の常識だ。
だというのに昨今ではその『当たり前の事』を忘れてしまっている者が増えてしまっているのではなかろうか?
まったくもって嘆かわしいことだ。
……まぁ、かくいう俺自身も同じ一つ屋根の下、あるいはテントやホテルで実際に小学生たちと一夜を共にする様な機会がなければ実際のところ舐めてしまっていたかもしれないのは否定できない。
そんな過ちを犯しかねない危険な状態だった俺は昔、偶然目にしたとある論文に『小学生とは奇跡の上位互換である』という記述があったのを思い出していた。
当時の俺は「何を言ってんだこいつは」などとまるで気にもかけなかったが、今ならわかる。これは真実だと。
だからこそ俺は自信を持って言える。
――俺は絶対に小学生を舐めたりはしない。
「おにーちゃん。よろしくおねがいします」
「こちらこそよろしくね。ひなたちゃん」
これから一戦交える相手に輝かんばかりの笑顔を浮かべながら、ぺこりとお辞儀するひなたちゃん。その姿まさに天使。
決して他の少女たちと比較するつもりはないが、おそらく純粋な小学生力は間違いなく彼女が部内で一番だ。
奇跡の上位互換である小学生のトップ。言わば小学生オブ小学生。
そんな彼女がバスケの才能を完全に開花させる前に、すでに別の才能の片鱗を見せてくれたこともある。
例えるならポーカーもその一つだ。
もし然るべき機関が先にひなたちゃんという才能を見つけてしまっていたら、もしかしたら俺はこの天使と邂逅することが叶わなかったかもしれない。
だが彼女は数多の才能の中から仲間と共に歩むバスケを選んでくれたのだから、やはりこれは運命を感じずにはいられない。
さて、そんな天使――ひなたちゃんだが、ポジションは真帆と同じく慧心女バスのフォワードを担当。
真帆のチェンジオブペース・クロスオーバーといった急激な変化で相手を翻弄するプレイスタイルとは似て非なるもの。
独特なリズムとセンスで相手の虚を突くことに特化したトリックスター。なによりも小さくてかわいい天使。
バスケにおいて背が低いのは弱点と思われがちだが、決してそんなことはない。
このチームの中でも特にひなたちゃんに至ってはその小ささを、もはや自分の個性として最大限利用しているのだ。
何よりも恐ろしいことに彼女はそれを無意識に極々自然体で当たり前のように行っている。
そう。俺自身がようやく自覚した自分の真のプレイスタイルである自然体。『静のバスケ』をひなたちゃんはすでに会得していたのだ。
こんなにも身近なところに最もバスケの神に近い天使がいたのだ。
これはもうひなたちゃんには胸を借りるつもりで全力で当たらせてもらうしかあるまい。
何も知らない奴からしたら『小学生相手にお前は何を言ってんだ?』と冷ややかな目で見られるかもしれないだろう……が、そんなことは関係ない。
小学生に舐められてどうするだって?
むしろ望むところだ。いくらでも舐めてもらってかまわない。むしろ望むところだっ。
ちんけなプライドなんてかなぐり捨て、俺はひなたちゃんに胸を貸してもらい、彼女が知っている絶頂の更なる高みへと導いてもらうのだ。
「おー? おにーちゃん、なんか嬉しそう?」
おっと。いかんな。思わず頬が緩みすぎてしまったようだ。
「あー長谷川さん、ヤバいかもね。これは本当にひなに初めて奪われちゃうかもしれないわよ。トモ?」
「ふぇぇっ!? べ、べべ別に昴さんの初めては私のものってわけじゃ……う、うぅ。で、でも……はぅぅぅぅっ」
「長谷川さん、みんなに優しいけどひなちゃんには特に甘いし、もしかしたら……」
「こらーっすばるーん!! マジメにやれーっ!!」
どうやらコートの外で見守っている少女たちにもあらぬ誤解をかけられてしまっているようだ。反省。
言い訳しているように聞こえてしまうかもしれないが、当然油断などは一切していない。
むしろ俺は今歓喜に震えているのだ。
とはいえ、あまり表情を緩めすぎてしまうのも失礼だな。決してそんなつもりはないのだが、もしかしたら小学生を舐めていると思われてしまうのも心外だ。
手にしたボールを軽く弄びつつ二人目の相手――ひなたちゃんに尋ねる。
「先にひなたちゃんからしたいよね?」
「んー? ひな、おにーちゃんに攻めて欲しいかもー」
ここでさっそくトリックスターはこちらの思惑と正反対の選択をとる。
てっきり真帆と同じく先に攻めたいと思っていたのだが、どうやらひなたちゃんは俺に攻めて欲しいそうだ。
「おにーちゃん。いつでもいいよー」
ボールを持っている俺をまっすぐ見つめながら、とおせんぼーと言わんばかりに小柄な肢体を大きく開き、俺を受ける準備も万端なご様子。
さてどうしたものか。
……白状する。実はめちゃくちゃ困ってる。
はっきり言ってしまうと、ひなたちゃん相手に抜くことは自体はそこまで難しいわけではないが抜き方が問題だ。
高校生と小学生という圧倒的な身体能力差でぐいぐいと強引に攻めるわけにはいかない。
俺の本来のスタイルはここまで小さく柔らかな女の子とのプレイを想定していないのだから。
日頃から毎朝、俺に新鮮な刺激と高揚感で満たしてくれる智花のおかげで慣れてはいるものの、ひなたちゃんは彼女それよりさらに小柄。加えて得意なプレイも全く違うのだ。
そんなひなたちゃんのウィークポイントを探り当て、そこを高校生の肉体ではなくテクニックで攻め抜いてこそ、完全勝利と言えるだろう。
俺が目指すべきバスケの神に最も近い天使相手にとんでもないレベルの難題だが、やるしかあるまいっ。
「いくよ。ひなたちゃん」
俺からの勝負開始の合図に勝負前のにこやかな天使の笑顔から一転、じっと真剣な表情で俺に熱い視線を向けている。
気合もやる気も十分といったところだな。
さて、どういう攻め口で切り崩していこうか。
「じー」
その場でドリブルを始めた俺とひなたちゃんで熱い視線を交わし合うが、相変わらずというべきか、ひなたちゃんの考えは読み切れない。
見た感じひなたちゃんはおそらく何かを狙っているような気はするのだが、基本的には俺の出方を待ち続けているのか、完全に受けの体勢になっている。
真帆のように攻め気の強い相手に対してならば、先の焦らしプレイはなかなか効果的だったのだが……。
おそらく同じ手は、きっとひなたちゃんは焦らされているとすら思わないかもしれない。
何より今の俺が感じ取れるレベルでは、ひなたちゃんの意識の隙間とも言える穴が見つからないのだ。
相手が防御に徹している以上、やはりこちらから動いて閉じられている穴を少しずつ広げていくべきだろうか?
いや、それとももっとひなたちゃんを隅々までじっくりと――
――ひなたちゃんと目が合った。どうやらひなたちゃんも俺の一挙手一投足を見逃さないよう熱い視線を向けていたのだろう。
小さな少女がこちらに向けてくる熱い双眸。なぜか吸い込まれるように魅入られ、目が離せなくなってしまっていた。
例えるなら輝かんばかりに眩い光を放っている。言わば小学生の輝きを放っている部分を表層とするなら、その瞳の奥の深層部。
そこはまるで正反対のどこか無機質な鈍い輝きを放ち、妖しく俺の心を惑わし、誘っている。
瞳の奥底に感じたソレは俺の知っている『袴田ひなたちゃん』のものではなかった。
まるで異質の名状しがたいナニカの存在に気づいた俺は、その正体を探ることに意識の大半を奪われてしまっていた。
「めー」
不意に俺と熱い視線を交わし合っていた天使――の姿をした小学生が山羊さんの鳴き真似を始めた。ちょーかわいい。
直後――
「――なっ!?」
俺が意図しないタイミングで場が激変する。
予備動作を一切感じさせない動きで一瞬で距離を詰めてきたのだ。
反射的に身を翻すように反転し、背中で庇うようにボールをキープ。
事前知識としては持ち得ていたはずなのに……不覚。と言うべきか対応が完全にワンテンポ遅れてしまったことを認めざるを得ない。
外野からしたら完璧に俺の油断が原因だとヤジが飛んでもおかしくないだろう。
だが、これだけははっきり言える。俺は油断などしていなかった、と。
ひなたちゃんから目を離せるわけがない。俺はずっとひなたちゃんを見続けていたのだ。
なんにせよ今はその是非を問うより、この状況を打開する術を模索することに心血を注ぐべき。
小柄な少女に身体と身体が触れ合う密着寸前の超至近距離まで接近を許してしまったものの、幸いにもボールは俺の手中にある。
主導権はまだこちらのままだ。
「めー」
ちょーかわいい山羊さんの鳴き真似をし続けるひなたちゃん。
しかしその愛らしい声と容姿とは裏腹にその小さな体からは、あまりにも場違いなまでの異質な威圧感が放たれていた。
幸いと言うべきか、追撃は来ないよう――
「――うおっと!?」
幽かに視界の右下側から入り込んできた細長い何かの存在にぞわりと背筋が震え、ボールを右から左へと流す。
いつの間にか、ひなたちゃんがするりとこちらの右側面に回り込むと、その手がボールを狙っていたのだ。
「おー。おしかったーざんねん」
普段のおっとりとした口調で空恐ろしいことを呟いた天使に思わず戦慄しつつも、スティールの回避からそのまま反撃に転じるべく、仕掛けて来たひなたちゃんと立ち位置を入れ替えるようにターンを決め一気に抜き去る――つもりが。
「めー」
女バス一のバランス感覚と柔軟な肢体が驚異の敏捷性を発揮し、体勢の悪い状態からの走り出しでスピードに乗り切る前の俺より速く進路上に立ち塞がる。驚くべきリカバリーの早さ。
深淵の底のような昏い瞳は変わらずこちらのボール狙っていた。
普段のあのひなたちゃんからは考えられないぐらいのアグレッシブなプレイ。
初戦の真帆にすら匹敵し得るのではないかと思われるレベルの攻めっ気をオフェンスではなくディフェンスで発揮してきたのだ。
「これが、ひなたちゃんの更に進化した山羊さんモードか」
ひなたちゃんの背後にまるでヌシがいて「お前のボールを寄こせ」と威圧してきているような錯覚に思わず息を飲む。
『山羊さんモード』
以前ひなたちゃんは自身の天使としての愛くるしさの極々一部を代償にし、代わりにヌシを自身に降臨させるというとんでもないプレイを見せてくれたことがあった。
もし、ひなたちゃんがその独自で編み出した技術に更に磨きをかけていたとしたら……。
そんな思いがよぎった瞬間、すぐに自分の甘い考えを切り捨てる。
そう。『もし』なんて生易しい発想をすること自体がそもそも間違っている。小学生を舐めまくっている行為だ。
間違いなくひなたちゃんは天使の外見を残したままヌシになりきることができるくらいに考えた方がいいだろう。
ん?
幽かに自分が至った思考に引っかかりを感じた。
今のひなたちゃんは、ヌシに成り切っている――そう。『成り切り過ぎて』しまっている。
あの名状し難い畏怖と威圧感を放つ眼光で目を合わせてしまった相手を委縮させてしまうような、あまりにも強大な存在感を有するヌシに。
――勇敢に恐怖に立ち向かう? 違うな。はっきり言って何をされるのかわかったもんじゃないし、めちゃくちゃ怖い。
「めー」
再び思考を巡らし始めた俺をまるで威嚇するようにじりじりと擦り足をしながら鳴き声を発する。うん。すごくかわいい。
今にも油断したら音もなく一瞬で飛び掛かってきそうな相手に抱くべき感情ではないだろうけど、実際ヤギに成り切っているひなたちゃんもメチャクチャかわいいのだから仕方ない。
さて、俺はまた一つひなたちゃんの見たことがない部分を見せてもらえたな。
自身が志している道の一つ――ひなたちゃんマスターに一歩大きく前進できた確かな手応えを感じながら、山羊さんモード攻略を開始した。
『山羊さんモード』その正体は、相手を無意識に降ろすバスケ。
見た目からは想像もできないくらいの気合と闘志……のようなものを発し、獰猛な肉食獣が虎視眈々と相手の隙をじっと待ち構えている……ような感覚に近い何か。はっきり言って得たいが知れなすぎるのだ。
そして、不意に気づいて――いや気づかされてしまうのだ。こんな小さな相手と気合勝負?
負けるわけがない。まるで最初にカードが配布された時点で勝ちを確信したギャンブラーのように――
誘われるままに相手のナワバリに無警戒で踏み込んでしまう。実は分の悪い勝負を挑まされてしまっていることに気づかないまま。
そして得体の知れない威圧を孕んだ視線を再び受けた時に、不意に迷いや戸惑いを受けた者は足を止めてしまう。
そうなってしまえば主導権は完全にひなたちゃんのものだ。
腰が引け、待ちの体勢になってしまった相手に容赦のないドライブが、あるいはスティールが飛んでくるのだ。
この駆け引きの技術もヌシから教わったものなのだろうか?
いやはや。なんとも末恐ろしい。今後の成長がますます楽しみで仕方がない。
さて、攻略法だが。
多少変則的なものではあるがやはり気合勝負であることには変わりない。
気持ちで負けないことがまず第一。
ギャップに惑わされずひなたちゃん本人をしっかり捉えることができれば、あとは今回に限って言えばガチンコでやり合うだけ。
まぁ、俺の場合は――
重心を傾けながら右サイドに大きく1ステップと同時にボールは右から左へ
直後ボールを奪うという明確な強い意志に引っ張られるようにひなたちゃんの重心が大きく左に傾くのを感じながら、再びボールを左から右へと
「お? おー、とと」
すぐさまリカバリーに入ろうとするが、やはり最初のフェイクに掛かってしまったのが致命的だった。
重心が大きく横にブレてしまった少女の脇を通り抜けるべく半ば強引に抉り込むように侵入し――抜いた。
ウィニングラン代わりのレイアップを決め、まず1本目を先取。
予想通り今のひなたちゃんは、俺のちょっとした動きにさえ身体が正直に反応してしまうくらい敏感になっていたのだが、それも当然だろう。
もともとそういう勝負を挑んできたのがひなたちゃん自身であり、相手の幽かな揺るぎを見つけたらその瞬間に動けなくてはいけないのだ。
幸いと言うべきか、一時期もっと熱く苛烈な選手との勝負を想定した練習を積みまくった経験が活き、山羊さんモードに入ったひなたちゃんを逆にこちらの思惑通りに誘導できたのが今回の勝敗を分けたと言っていいだろう。
「おー。さすがおにーちゃん。ひな、簡単に抜かれてしまいました」
「ひなたちゃんのディフェンスもすごく迫力があってビックリしたよ」
先ほどまで感じてた荒々しい気配がすっかり霧散し、ぱちぱちと小さな両手で拍手をするひなたちゃんと、その小さくふわふわの柔らかな髪を撫でる俺で互いのプレーを称賛し合う。
そこでふと気づく。
……はて、俺はひなたちゃんから彼女の静のバスケを見せてもらうつもりだった気がするのだが……?
あのヌシを模したアグレッシブなプレイスタイルは『静』とは全くの正反対のむしろ『動』。
確かに積極的に動き、時折可愛らしく鳴くひなたちゃんというのも、それはそれはすごく魅力的で何よりお相手して頂いた俺自身も素晴らしい体験ができたのは間違いない。
実際、初見殺しとしても十分通用しそうだな。
とはいえ、このまま山羊さんモードを続けるつもりならば、ひなたちゃんには悪いが俺の勝ちは揺るがないものになると確信している。
残念ながらひなたちゃんがどんなにヌシに『成り切ろう』としてもヌシになることはできない。
あの名状し難い威圧と存在感は強靭な肉体を有しているヌシだからこそ、その真価を発揮できるものだ。
今は真剣勝負の最中だから、無粋な真似はできないが、この勝負が終わったらコーチとしてしっかりひなたちゃんを諭してあげないとな。
ない物ねだりは俺自身も、そして、きっとこの場にいる誰もが通った道。
もちろん手に入れるための努力を怠らないことは大切だが、それに縛られ過ぎてしまってもいけない。
などとすごく偉そうな事を考えていたが、そんな俺のつまらない懸念は杞憂だったようだ。
小さな両手でボールを抱えながら、輝かんばかりの笑顔を浮かべている少女の姿に確信せざるを得なかった。
「今度はひなが、おにーちゃんをいっぱい攻めるね」
ぞくり。と背筋が震えた。
ドキドキと胸の高鳴る鼓動が抑えられない。
これを喜ばずにいられるか。
――俺の前に天使が舞い降りた。
長谷川昴はこの瞬間、全身全霊をもって天使の降臨の悦びにその身を捧げるのだった。
「おにーちゃん、いくよー」
「いつでもおいで、ひなたちゃんっ」
俺は今もイノセント・チャームにかかっている。ひなたちゃんから目が離せない。きっとこれからも。ずっといつまでも。
彼女が流れるようにごく自然に流麗な動作でその場でドリブルを始めた。
何も知らない素人ならば、ただ天使がボールをついているだけにしか見えないだろう。特別なことなど何もしていない極々普通のドリブルだ。
だが、当然その練度は素人なんかとは比べるまでもないのは言わずもがな。
ただ純粋に仲間とのバスケを楽しみたい。楽しめるようになりたい。という健気でひたむきな努力で培われてきた彼女のバスケが――
――今この瞬間。俺のためだけに繰り広げられようとしていた。
「とおーっ」
どこまでも楽しそうな笑顔を浮かべながら天使が滑空してきた。
まるで地表スレスレを滑るような超低空ドライブ。相変わらず予備動作なしで繰り出されるドライブはまるでタイミングが読めず、せいぜい進路を塞ぐだけが精いっぱいの対応となってしまうのは内心少し悔しい。
とはいえ多少強引にでもと、不用意に手を伸ばしてしまうことは、あまりにも危険すぎる。
おそらく、そんな危険を冒してしまう者が今後も間違いなく大勢増えてしまうだろうことは容易に予測できる。
日ごろから観察させてもらっている俺でさえ、彼女のふわふわと柔らかそうな見た目と雰囲気に惑わされ、まるで誘われてしまったようについ手が伸びそうになるのだから。
しかし、実際に俺が、130cm程度しかないひなたちゃんからボールを奪おうとするには、体勢をより低く身構えなければならないのだ。
それでも、ドライブのタイミングや軌道を読み切ることができれば、十分対処可能なのだが……独特なリズムと絶妙なまでに間をずらしてくる、ひなたちゃんの自由奔放な動き。どう対応したものか。
答えは目の前にあった。
というよりも、最初からひなたちゃんがずっと教えてくれていたのに、俺が気づかなかっただけだった。
俺はひなたちゃんから俺の知らない『静』を学び取ることを目的としていたが、それがそもそもの間違いだった。
彼女はディフェンス――山羊さんモードになった時から彼女自身のバスケ、言うならば『生』のバスケで俺に挑み、存分にトリックスターぶりを俺に見せつけてくれていたのだ。
当たり前だ、俺がどんなにひなたちゃんを隅々まで調べ尽くし、本人が知らないであろう部分まで知り尽くせたとしても、俺は絶対にひなたちゃんになれるわけがない。
気づいてしまえば、簡単だった。最初から止まる必要なんてなかったんだ。
半ば確信めいた予感に従い、俺は抜くか抜かれるかという真剣勝負の最中、今この瞬間のプレイを心の底から楽しんでいる少女に引き寄せられるまま、それでいて自分の方からも全力で手を伸ばした。
「おー。おにーちゃんに奪われちゃった」
「ふふふ。ひなたちゃんのおかげで、俺はついに至ることができたよ」
小学生に導かれるままに昇りつめ、初めて未知の領域を知った。
まぁ、知ったと言っても、せいぜい指先程度のごく浅い範囲でしかないし、きっと俺にはこれ以上奥を知ることはできそうもない。
だが、確かに俺が知らない世界が存在していたのは間違いない。
その証として、俺の手にはしっかりとボールが握られていたのだ。
ひなたちゃん――イノセント・チャームの導きのままに手を伸ばし、彼女にスティールを決める刹那、不思議な感覚に包まれた。
まるで俺の手の中にあるのが当たり前だと言わんばかりに、吸い寄せられるようにひなたちゃんの手から離れていくボール。
深い集中状態に入っていたのだろうか、ひなたちゃんの動きが全て手に取るようにわかるような万能感。
なんかよくわからないけど、今の俺なら例え相手にどんなディフェンスを敷かれたとしても30秒あれば6得点ぐらい簡単に取れてしまえそうだ。という自分でも意味不明なまでに傲岸不遜な自信が湧き上がったかと思うとすぐに霧散。
そして一瞬でもそんな考えをしてしまった自分がめちゃくちゃ恥ずかしくなる。いくらなんでもハイになりすぎだろ、俺。
しかしほんの一瞬とは言え知覚したあの感覚の先には、なんかバスケを超えたバスケの様なとんでもない可能性が秘められているような……?
……いや、深く考えるのはやめよう。俺は俺が知っているバスケだけで手いっぱいだ。
スーパープレイは日々の弛まぬ努力の果てに偶然起こりうる奇跡の様なものであって、突然都合よく目覚めたり覚醒してできるようなものではないんだ。少なくとも俺の世界では。
今回はひなたちゃんに特別に見せてもらえたけど、俺が俺自身のバスケを極めない限りは絶対に辿り着けない境地であることには変わりない。
「おにーちゃん。ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。ひなたちゃんの成長振りしっかりと見せてもらったよ」
「おー。またひなの、おあいてお願いします」
「もちろん。またいっぱいしよーね。ひなたちゃんっ」
大戦前同様にぺこり。と可愛らしくお辞儀をしてコートの外へ出ていくと、ひなたちゃんはすぐに四人に囲まれ労いと称賛に包み込まれた。
「おつかれさま、ひなたっ」
「やっぱし、すばるんはてごわいな」
「ひなたちゃんのヌシさんのマネ、離れてた私でもびっくりしたよ」
「長谷川さんに破られちゃったけど、でも最初はすごい驚いてたし、意外と有効なのかもね」
「おー? こんどヌシにもバスケおすすめしてみよーかな?」
「それはやめておきなさい。誰も手が付けられなくなるから」
何やらすごく盛り上がっているようで、みんな話に夢中になっているみたいだし、俺も興奮した心のクールダウンをさせないと。
まだあと三人も控えているのだ。その誰もがみんな個性豊かな少女たちなのだから、万全を期して当たらないと。
不意にコート内にひゅう。と一筋の風が吹き、
――ウィ。ワタシもいつかコーチとオテアワセ、ネガイたいデス
俺の耳元を通り過ぎるのと同時にそんなとてつもない幻聴を残していった。
「――っ!?」
まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚にどきりとしながら、ばっ。と後ろに振り返るが当然誰もいない。
疑心暗鬼気味に念入りに辺りを見渡すが、爽やかな風がそよそよと吹いているだけで、やはり俺たち以外の人影はなかった。
ひなたちゃん並に小柄でいて、智花並の突破力を持ち合わせている銀髪のフランス少女、ミミちゃん。
幸いと言うべきか残念と言うべきか、今のところミミちゃんはそこまで俺に興味を持っていない(むしろししょーと敬意を示している智花にご執心だが)ため、まだ直接対決の場は設けられたことがなかったが、いずれ相まみえる可能性も無きにしも非ず。
比較的小さい子との経験が豊富な方だとは思っていたが……どうやらまだまだ経験を積んで守備範囲を広げていく必要がありそうだな。