棺よさらば1
○月○日
俺――香椎万里はいつもと変わることなく、あらかじめ寝る前にセットしておいた携帯のアラーム音により眠りから目を覚ます。
布団を跳ね除けながら起き上がると、今もなお止まることなく成長を続ける自慢の体を大きく伸ばしながら、携帯を手に取りアラームを止める。
窓に向かいカーテンを開け放つと、遮光カーテンにより遮られていた日光が差し込み、部屋中に明かりが満たされる。
「うしっ! 今日も気合入れて行くぜ!!」
全身でたっぷりと日光を浴びながら、両手で自分の顔をぱんぱんと叩き、しっかりと脳も体も覚醒させる。
これも朝に最初に起きた時に行っている今まで通り慣れ親しんだ動作だ。
その後も自分の部屋でいつも通り、いつもと変わらぬように、身支度を整えてから空腹を伝える本能に従い、朝食を求め居間を目指す。
部屋のドアを開けると、つい最近になって起きた一大変化が現れた。
「あっ。おはよう。お兄ちゃんっ」
「あ、あぁ……お、おはよう……愛莉」
せっかく愛莉の方から俺に挨拶を掛けてくれたというのに、いまだに俺は大切な妹に挨拶を返す事さえも緊張してしまっている。
ちょうど俺がドアを開けるのと同時に、廊下を挟んで向かい側の妹の部屋も開き、朝一番にお互いに顔を合わさせるのが自分達ということが最近増えてきている。
……というか、ヤバい。もしかして俺は今日一日の運を全て使い果たしてしまったのでは!?
……いや、そうじゃないっ。逆に考えるんだ。朝一に愛莉が俺に声を掛けてくれたんだ。ならば今日は紛れもなく最高の日だ!!
――直後その想いが真実となって具現化する。
「お兄ちゃん……良かったらでいいんだけど、これ受け取ってくれるかな?」
「ん? ……これって、ストラップか?」
俺に向けて差し出された妹の手の上には小さなカメのストラップが乗っかっていた。
「お兄ちゃんの今週の運勢を調べてみたら、これがラッキーアイテムだったんだけど……い、嫌なら無理しないで全然いいんだよっ!」
「お……俺が……ほ、本当に俺が受け取っていいのか?」
ダメだ。何も考えられない。妹の事しか考えられない。妹の声しか聞こえない。
「あ、ありがとう……愛莉、本当にありがとうっ!!」
俺の手にそっと置かれた小さなカメを両手でしっかりと包み込み掲げる。
思わず涙がこみ上げてくるが、ダメだ! 愛莉に泣いているところなんか見せられるものか!!
「そ、そんなに喜ばなくてもいいよぉ。喜び過ぎだよ、お兄ちゃん」
いかん。どうやら照れさせてしまったようだが、これが喜ばずにいられるか。
妹からのプレゼント以上に嬉しい物なんてあるか。
本当はもっともっと喜びたいし、思いっきり吠えたいんだ。
だが、叫んでしまうと絶対に妹を驚かせてしまうため、それはあとで自分の部屋で一人でさせてもらうとしよう。
「えへへ。良かった。勇気を出してお兄ちゃんに話した甲斐があったよ。お兄ちゃん、受け取ってくれてありがとうございますっ」
歓喜の感動に全身が震わせている間に、目的を果たした妹は一足先に居間へ向かってしまった。
くそっ。なんて不甲斐ないんだ。せっかく愛莉から俺に話しかけてくれたというのに……
急いで愛莉の後を追いかけて、一緒に朝食の時間を過ごしたが、やはりまだまだ上手く話しかける事ができなかった。
「それじゃ、愛莉。気をつけて行って来いよ。バスケもしっかりな」
「うん。お兄ちゃんも気をつけてね」
見送りの挨拶くらいはと、必死に頭の中で何度も復唱した言葉をやっとの想いで絞り出す。
……良かった伝えることができたし、愛莉からも返してもらえた。
今まではたとえ心の中で思っていても、どうしても伝えられなかった言葉を掛けてやれる事の幸せを身をもって実感する。
本当に気をつけて楽しんで来いよ。
学校へ向かう途中に何度も大切な妹からもらったカメのストラップを確認する。
愛莉からもらった以上、ちゃんと携帯に結び付けてはいるが、落としたり無くしてしまわないかと心配になってしまい、そのたびに携帯を確認し安堵する。
さて、学校に到着したわけだが、まず何よりもこの喜びを他の人間とも分かち合いたいな。
そんな事を考えていたら、さっそく俺の喜びをしっかりと理解してくれる打ってつけの人物の顔が思い浮かぶ。
時々、もしかしたら俺以上に愛莉の事を知っているかもしれないし、親しくなってしまっているかもしれないと思えてしまうくらい、妬ましい事この上ないが。
おそらくすでに登校しているであろう、そいつの姿を確認しに目的の教室へと向かう。
「うっす。昴。今日も湊さんと朝練してきたのか?」
「あぁ、まあな。なんか今日はご機嫌だな? いい事でもあったのか?」
「おぅ。聞いてくれよ。実は愛莉がな――」
今日の朝の出来事をたっぷりと自慢させてもらった。
すごく羨ましそうにしてくれるのはいいが、さすがに大切なストラップにまで手を伸ばそうとしたのは死守させてもらったがな。
「そっか。良かったな。すっかり愛莉と仲直りできてたみたいで」
「おぅ。これも全て愛莉の友達のおかげだな」
正直口に出したくはないが、目の前にいる男のおかげである事も理解している。
こいつの事だからあり得ないとは思うが、万一この事を笠に愛莉を狙ってくるとも限らない。
さすがに後ろから俺を襲ってくるような卑怯な事をするような奴ではないだろうが。もし、正面から堂々と受けてくるようなら俺もしっかりと受け止めてやる。
まぁ、受け止めてやった上で、俺という男の大きさと強さをしっかりとその身に味あわせた上で、愛莉の事はきっぱりと忘れされてもらうがな。
お前だって、今後の将来を考えたら愛莉よりも俺とより親密な関係になる事の方が重要だろう。
「そういえば、万里は愛莉のお兄さんだったんだよな……万里、俺はお前に謝らなければならない事がある」
「なんだ? 言ってみろ」
不穏な気配を感じたが、こいつに限って、絶対に俺を裏切るような事はしないと信じている。
まずはしっかりと話を聞いてみるべきだな。
「俺は昔、何も知らない愛莉を騙して、その恵まれた体をたっぷりと利用させてもらった事があるんだ。無知な愛莉は俺の言う通りに従って、その小学生離れした大きな――」
突如、ゴンという鈍い音が教室中に響き渡った。
別になんて事はない。ただ俺が思い切り長谷川の机に拳を振り下ろしただけだ。
本当だったら、また昴をぶん殴ってしまっていたかもしれない事に比べれば、だいぶ自制できた方だと思う。
スポーツ推薦で入った教室のためか、クラスメイトの大半がまだ朝練中で教室には幸いな事に俺達以外の生徒はいない。
たとえ俺とこの男の間で何かが起きたとしても、それはきっと不幸な事故として処理されることだろう。
「……なぁ、昴。お前がバカで、どうしようもないバスケバカだってのは、今までの付き合いでわかってる。だから今の失言については一回だけは聞き流してやる。言葉に気をつけろ。誤解の無いように正確に伝える努力をしろ。二度目はないぞ。いいな?」
今もなお机に振り下ろされてる俺の拳と、決して表に出したり込めてはいけない方に分類される強い意志が含まれた視線に、恐怖に引き攣った表情と青筋を浮かべながら、コクコクと頷く。
「す、すまなかった。実はだな、俺が彼女達のコーチになるきっかけになった話なんだけど、女バスの存続を掛けて男バスで試合をする事になって――」
「あぁ。その話なら、愛莉に聞いた。愛莉にセンターをやらせるためにスモールフォワードって言ったって奴だろ」
ったく。最初からそう言えってんだ。なんで事あるごとにわざわざ誤解を生むような話し方をするんだ。
「なんだ知ってたのか。ま、そりゃそうか。愛莉もお前にバスケ教わるようになったんだし、色々話してるよな」
「あぁ。騙されたと知った時は驚いたけど、でもみんなの役にしっかりと立つ事ができていたんだと喜んでた」
今では立派なセンターになれるように俺も教えられる事をどんどん教えているところだしな。
「……で、愛莉を騙したっていうのはそれだけか?」
もしまだ何かあるなら、直接体に聞いてやってもいいんだぜ。と言外に含めて問い詰める。
「ん? あぁ。他にはしてないよ。俺や智花だって勝つためとはいえ、あんなに良い子を騙す事に、すごく心痛めてたんだぜ」
「それも聞いた。愛莉がお前を許したんだったら、俺からは別に何も言う事はねぇよ」
どうやら本当にそれだけだったみたいだな。変に律儀なくせにバカだから余計に誤解を生むってのを理解してねぇな。
不意に携帯にメールの受診が通知される。
「ん? 愛莉?」
「なんかあったのか?」
「おいこら。なに人のメール勝手に見ようと身を乗り出してんだよ」
「あ、すまん」
すぐに自分の非常識な行動に気づき、俺に謝りながら身を引っ込めるが、やはり気になるのか俺の方をチラチラと確認している。
こいつ……どんだけ普段から愛莉達の事が気になってんだよ。
まぁ、俺がこいつと出会った時にはもう女バスの練習メニューどころか試合の作戦まで立案してたらしいからな。気になってもしかたねえか。
だが俺と愛莉の大切な兄妹のやり取りまで覗き見ようってんなら、容赦はせんが。
さっそく携帯を開き、送られてきたメールを確認する。
……不本意だが、さっそく目の前のバスケバカに打ち明けなければならないようだ。
「なぁ、昴……愛莉がなんか俺に頼みたい事があるらしいんだが、何か知ってるか?」
学校から帰った後に、相談に乗って欲しい。そんな内容がかなり控えめな文章で俺の携帯に送り届けられていた。
大切な妹からの相談事なんだ。乗るのは当然としても、できるだけ良い答えを返すためにも、まずは情報が欲しい。
「あーもしかして智花が言ってた事かな?」
……本当に小学生達と仲良いな、こいつ。俺達がなんで休部になったのか理由忘れてねえよな?
さすがにバスケバカのこいつに限ってそんな事はないか、いや、それよりも――
「なんか知ってるのか?」
「あー。まぁな。実は愛莉の身長の事についてなんだけど」
「身長? それがなんかあるのか?」
「自分の身長が伸びた方がいいか、できるだけ今のままの方がいいか、それとなくお前に聞いて欲しいって頼まれて」
こいつやっぱりバカだ。
俺にそれとなく聞いて欲しいって言われてんのに、なんではっきり聞いてんだよ。
確かに直接聞きづらいなら、誰かに頼るのも手だが、よりにもよって長谷川を選ぶのは悪いが湊さん達の人選ミスだろ。
バスケ以外に何も考えてないようなバカだぞ。
まぁ、湊さん達が頼れそうなのが他にいないのも事実か。
「なんだその憐れむような目は」
「いや、気にするな。それで、愛莉の身長についてか。なかなか難しいな」
「確かにな。バスケをやる者としてはいくらでも欲しいくらいだが、普通の女の子として考えると、なかなかデリカシーに配慮が必要な問題だ」
本当にただのバスケバカかと思ったが、意外にもちゃんと愛莉の事を考えてくれてたのか。
……いや、違うな。おそらく湊さん達の受け売りだ。こいつにそんな発想ができるわけがない。
「ま、俺達の視点で考えれば身長なんていくらでも欲しいし、バスケ選手としての愛莉を見るなら答えは決まってる」
……だけど、愛莉の兄である万里としてはどう思ってる? と言外に聞いてきている。
「過去に愛莉を深く傷つけてしまった俺には何も言う資格はない……だけど、俺は愛莉の自然のままでいて欲しいと思ってる。このまま止まっても、例えさらに大きくなったとしても。きっと大切な友人達がいるから、愛莉はもう大丈夫だ」
「そうだな……それに優しいお兄ちゃんも帰ってきてくれたしな」
目の前のバカの一言にひどく動揺させられてしまった。
「な!? 何言ってんだよっ!?
「智花達じゃカバーしきれない事がでてきたとしても、今はお前がいるんだ。妹をしっかり支えてやれよ」
「当たり前だっ!! 大切な妹との絆を。もう二度と無くしてたまるかってんだ!!」
「そうだよな。俺だってせっかく出会えた大切な小学生達との関係。このままずっとずっと大切に繋がっていきたいもんな――ぐはっ!?」
すまん昴。今度はマジで殴っちまった――だが、言ったよな。二度目はないって。
「だからお前はもう少し言葉を選べって、言ってんだろうがっ!!」
「なんで……俺はただ自分の気持ちを正直に口にしただけなのに……」
俺に殴られて突っ伏している目の前の大バカに吐き捨てる。
せっかくお前のおかげで自分の心をしっかりと決めることができたってのに、なんでテメーがそれを台無しにしやがってんだよ!!
さすがに殴り倒してそのまま放置するのもあまりに不義理を感じたため、目を回しているバカの回復を待ってやってから、謝罪と礼を伝えてから自分の教室へと引き上げた。