広い屋敷の長い廊下の道を少女ーーペトラ・レイテは物陰に隠れながらゆっくりと移動していた。
「どうしよう、どうすれば誰にも見つからずに村に帰れるかな」
昨日のことだ。
メイドも板についてきたはずのペトラだったが突然、何の前触れもなくやる気を失ってしまった。いや、正確に言えば与えられた仕事はこなすのだが、向上心であったりやりがいといったようなものがすっぽりと彼女の中から抜け落ちたのだ。
その理由は全くわからないのだが、ただ一つ言えるのは、ペトラには今“目標”というべきものが存在しないということだ。
「たった1日で。......今まであれだけやる気を見せてきたのに......い、言えない。フレデリカ姉様やラムお姉様にこんなこと。辞めたいだなんて......」
ペトラは頭を抱える。
フレデリカのこともラムのこともペトラは大好きであった。だが、それとこれとは別の話である。はっきり言って、メイドの仕事はたいへんだ。家事はもちろん、広い屋敷の掃除であったり、在庫チェック、庭の手入れなど多岐に渡り長時間の労働となる。
まだ12歳で、ついこの間まで遊んでいるだけだった彼女にとっては些か辛い仕事であった。
「なんでこんなお仕事はじめたのかな。服はすごく可愛いんだけど......私は王都で服職人になりたかったはずなのに」
ため息をつく彼女は観葉植物から少し頭を出してあたりを見回す。どうやら近くには誰もいないようだ。
このまま一気に駆け抜けて屋敷を出ようかと思慮していたところだったが、思わぬ出来事がペトラの足を止める。
「ぇぐっ......ぅうぅ...ぅ」
「ーーーーぇ?」
(エミリアお姉ちゃんのお部屋から泣き声が聞こえる)
おそるおそる近づき扉を少し開けると、エミリアがベットで蹲っていた。
扉の開閉に気づいたのか、啜り泣く声がピタリと止む。ペトラが「しまった」と感じた時にはもう遅かった。
「......誰かいるの」
小さく、エミリアが呟いた。
その声は聞こえないフリをすることも
できたかもしれない。
しかし、ペトラは盗み聞いてしまった罪悪感と、彼女なりにエミリアを心配する心から、名前を名乗る。
「し、失礼しましたエミリア様! ......ペトラです」
ばつの悪そうな顔をしながら謝る少女にエミリアは服の袖で涙を拭いながら「ううん、大丈夫」と優しい声をかけ、ペトラの方を向く。
部屋の中へと一歩踏み出した彼女は、おずおずとエミリアの顔を見た。
確かに涙を流していたであろう彼女の表情だが、思いの外落ち着いているように見えた。
ただゆっくりと、柔和な笑みを浮かべる。そんな中を、時計の針が進む音だけが支配した。
「............」
(き、気まずい。気になったからってすぐ突っ込んで、状況分かってるの私のバカァ!)
ペトラは心中で自身を叱責しながら、エミリアに釣られてぎこちない笑みを浮かべたまま、しばらくの沈黙がすぎる。
気まずさに耐えきれなくなった彼女が謝罪しようとしたそのとき、エミリアが咳払い口を開いた。
「ごめんね、みっともないところを見せちゃったかも」
「そ、そんなことないよ! じゃなくてそんなことないです。私が盗み聞きしてしまっただけで」
エミリアの優しい口調での謝罪にペトラは罪悪感で胸が締め付けられる。
「みっともないついでに......少しだけ。もう少しだけお話しさせてもらっても良い?」
「は、はいどうぞ!」
もはや拒否する考えはなかった。
邸から逃げ出したいとは言っても、エミリアやベアトリス達が嫌いな訳はない。寧ろロズワール以外は、全員良好な関係を築けているはず。
どこか哀愁を感じる瞳と声音、普段とは違うエミリアを見て、ペトラはメイドとしてではなく、単純に彼女の話を聞いてあげたいと思った。
「ありがとう。......じゃあまず、もっと砕いた話し方でいいわよ。ほら、いつもみたいにお姉ちゃん?で......」
「わ、わかった! じゃなくてわかりました!」
「その話し方も、メイドとしてじゃなくて良いから」
「え、えと、わかった!」
ペトラは言われるままに、まだ村娘だったころの話し方に戻した。エミリアの気持ちを汲んだのもあったが、ペトラは油断すれば敬語でなくなってしまうので正直有難かった。
(良かったー。お姉ちゃんも怒って無さそうだし……)
なんとなく雰囲気が和らいだと思い安堵の息を吐くが、続くエミリアの言葉に顔が引き攣る。
「メイド......辞めちゃうの?」
「ーーッ!? え、え、どうしてそれを?」
ペトラはひとことたりとてその話をした覚えはなかった。ラムやフレデリカにすら打ち明けていない気持ちを、昨日から会っていないエミリアが言い当てるという不可解な事態に、ペトラは思わずびくりと肩を震わせた。
「今の貴方を見ていると、なんとなーくわかるの。多分、ラムやフレデリカも気付いているんじゃないかな。そのうえで、貴方の好きなようにさせてくれてる」
「............あ」
そういえば、今日はラムもフレデリカもペトラと一切顔を合わせていなかった。それは昨日の時点で既にペトラの考えが彼女らにバレていて、気を利かせられていたのだろうか。だとしたら、ペトラがその口で辞めたいと言うのを待ってくれていたのかもしれない。或いは逃げる道を選択しようとも、彼女らはそれを許そうとしてくれていたのかもしれない。
「そっか。エミリアお姉ちゃんが言うなら間違いないよね」
ーーどうせなら。
ちゃんとラムとフレデリカに話をして、手を振って別れを告げたいと思った。そして図々しいかもしれないけど、時々はお屋敷に遊びに行って、彼女らとお話をして、ベアトリスと遊びたい。だから先程のエミリアの質問にも今度はおどおどせず、まっすぐ彼女の瞳を見て、こたえた。
「はい。私は正直、このお仕事を辞めようと思っていました。......せっかく雇ってもらえたのに、すぐに辞めちゃって本当にごめんなさい!」
今まで色々なことを教えてくれた恩人達に、失礼を承知して頭を下げる。それも期待を裏切るという意味合いでだ。
ペトラは幼いながらも人ができていたので、その謝罪の意味をしっかりと理解していた。
だからこそ、誠心誠意頭を下げて謝罪した。
「大丈夫。貴方の気持ちが1番大切だもの。......ただ、理由を教えてほしいの」
「ありがとうお姉ちゃん。......その、理由はね、何のためにやっているのかわからなくなっちゃったんだ。どうしてこのお仕事をしているのか、何が目的だったのか、それが突然分からなくなって......」
ペトラは思ったことを素直に打ち明けた。
エミリアはそれを真剣な様子で聞いて「やっぱり」と、何か得心したように頷き、
「ーーでも」
ペトラの思いを、確かめた。
「でも、前にお姉ちゃんには負けないって言ってなかったっけ?」
「ーーーーーーぁ」
ーー言った。
確かにペトラは以前、白鯨を討伐した後に、エミリアに向かって言い放っていた。その時の感情は羞恥、勇気、意地、そして恋慕が混ざり合ったものだったことを、ペトラは朧げに覚えている。
エミリアが問う。
「それは一体なぜ? 何に対してだったの?」
「............」
「ごめんね、別に責めているわけではないの。でも、あの時に貴方が言った言葉
一体どういう意味だったのかなって、ずっと考えていたの」
わからない。
確かにそれを言った記憶はあるし、それがロズワール邸でメイドを務めるきっかけになっているような気がする。しかし、その時の気持ちを思い出すことがどうやってもできない。その気味の悪さに、ペトラは思わず口を抑えた。
「落ち着いて。私がここにいる。貴方とおんなじ気持ちの、私が......」
「なんで? 同じ気持ち? お姉ちゃんは何か知っているの?」
エミリアはベッドに座り込み隣をポンポンと叩き、ペトラを座らせた。
不安からか、小刻みに震えるペトラの頭を撫でながら、ゆっくりと言い聞かせるように話す。
「私ね、今朝パックの前で泣いちゃったんだ。自分がとんでもないものを失ってしまったんじゃないかって、今までの自分が分からなくなって、すごーく不安になってしまったの」
ペトラが覗くエミリアの瞳は、まだ少し過分な潤いを残していて、それでも心配をかけないように振る舞っているのがわかる。
エミリアは「それでね」と、言葉を繋ぎながら、至近距離でペトラの顔を見つめる。
「部屋に戻った時、鏡で自分の顔を見たの。貴方の顔、その時の私の顔と、よーく似てる」
「......そぅ、なの?」
エミリアの紫紺の瞳には、困惑の表情で唇を震わせるペトラの姿が映っていた。
「うん。きっと......いいえ、絶対。貴方と私の忘れているものには、繋がりがある」
エミリアはペトラの手を取って、扉に向かって話しかけるように呟いた。
「だから一緒に探しましょう。"ベアトリスも"連れて」