ーー魔女。
その言葉を聞いた瞬間、スバルの全身に力が入った。
なぜ?どうして?
自分は今まで買い物をしていただけなのに。
気づけば見知らぬ草原で白い布一枚という特異な出で立ちと、この世のものとは思えないほどの美貌を持つ魔女に遭遇している。
「……何でもありかよ」
スバルは瞬き一つ忘れて、彼女から目を離せずにいた。
すると、
「尊き命が、尊き愛を救う」
彼女ーーパンドラはそう零して、足元まで伸びる白金の長い髪を揺らしながら、ゆっくりとスバルに近づく。
「なんだ、何なんだよお前……っ!」
自分よりも小さい、幼い、あろうことか孅いようにすら見える少女に、しかしスバルの身体は緊張の汗を滴らせる。
無垢な少女のようでありながら、概念を捻じ曲げる超常的な存在のようである。その全てを見透かすような蒼の双眸の前では、逃げるという行為自体が無意味であることを、一瞬で悟らされた。
「何なんだよ……というのは、私の名前をもう一度教えて欲しいということでしょうか?それとも存在について?目的についてでしょうか?」
「その全部だよっ!」
脂汗が噴き出る。
本能が最大限の警笛を鳴らす。
「名前はパンドラ、虚飾の魔女です。目的は……
パンドラは真っ直ぐにスバルを見つめ直し、微笑む。
「貴方の願いを聞いて、手助けを差し上げようとこの場にいます」
「…………は?」
その妖艶な笑みは、朗らかさや誠実さといった所謂“光”のようなものを内包していて、思わず頭を垂れそうになった。
「お分かりいただけませんでしたか? 貴方が慈悲を得ようと伸ばす手、震える小鹿のようなその腕を、さらにその先へと誘いに来たんです。目的のものに届くように、掴むように、掬い上げるように」
彼女の言葉には良い表せない力があった。語気が強い訳でも、確固たる自信があるわけでも、納得させられるだけの説明があるわけでもない。しかし、彼女が言うと本当に起きそうな、出来そうな、叶いそうな気がした。
ーーパンドラ。虚飾。聞いたことがない。でも、魔女は悪いやつらだ。全てを奪う、全ての元凶。でも、力がある? レムを救うだけの力が?
「貴方は彼女を救いたいのですか? それとも貴方が助かりたいのですか?」
「え……」
突然彼女が切り出した言葉に、スバルはポカンとした。
「貴方は彼女が今まで通りに楽しく生きていれば、貴方がどうなっても良いのでしょうか。それとも、貴方は憔悴しきった自身の輝きを取り戻すために、彼女を日常に還すことで、自分を助けたいのでしょうか」
パンドラの瞳には、さぞ困惑する少年の滑稽な姿が映っていることだろう。
そこにあるスバルの気持ち、本音。取り繕うことを許さない、本当の気持ち、愛。それを半ば強制的に求めながらも、彼女の表情は柔和な笑みを崩さない。
彼女の顔はこう言っている。
「どちらを取っても、貴方の意見を尊重しますよ」と。
「お、俺は……」
しかし、スバルの答えはそこにはない。
無理解による心の混濁の中でも、愛する人達を想う気持ちだけは、絶対に見失わない。彼が繰り返す残酷な世界を、その二本足で立ち続けた理由。それは絶対的な優位を持つ悪意ーー魔女を前にしても、決して揺るがない。
スバルは吠える。
今まで目覚めないレムの顔を見るたびに、湧き上がってきて、それを優しく零してきた。誰に向ける訳でもない、強いて言うなら天に、神様に。願うように請うように。
「俺がいなくなってレムだけが残る世界? 魅力的な話だが、却下だ。自分が今の状況から脱したいから、レムを助ける? そうかもしんねぇ……でも、それだけじゃねえっ!」
スバルの唇は恐怖に震えていただろう。いや、口だけではない、肩も腰も両の足も。魂ですらパンドラという目の前の存在に、畏怖して逃げたくて消えがかった。
しかし、ナツキ・スバルはレムのためなら、一味も二味も違う。しっかりと目に光を宿し、屈することなく、続く言葉を言い放った。
「レムにとって俺は英雄だ! レムがそう言ってくれた。それに俺にとってレムは必要だ! 元に戻して何が悪い! 一緒に居て何がダメなんだ? 笑い合って未来の話を、寄り掛かかり合って過ごすんだ」
スバルの想い。
そしてレムの想い。
二人の想いが、二人を繋ぐ。
ーーあの日に戻りたい。
目を覚ましたら隣にいて、どんな危険な場所でも歩調を合わせてついてきてくれた。彼女の笑顔を見るだけで、スバルの心は燃えた。何度でも、決して消えることのない聖火を灯してくれた。
ーーあの気持ちを共有したい。
こんな自分を好きだと言ってくれた、かけがえのない人。何度も助けてもらって、スバル1人では絶対になし得なかったあらゆることを、彼女の愛が救った。自己満足かもしれないが、自分もその愛を返したい。彼女を笑顔にできたなら、自分も……いや自分だけじゃない。スバルの知る多くの人が笑顔になるだろう。
ーーレムに……
レムに会いたい……
いや、そんなんじゃ駄目だ。
レムを……レムを……
「レムを助けるんだっ!! 俺が彼女の英雄だからっ!」
どれだけ涙を流しても、流し足りないほど、切望している。その熱の奔流が、パンドラの選択肢を押し流した。
しかし、パンドラはスバルの啖呵を聞いて、別段驚いた様子もなく
「自分は彼女の英雄…ですか」
ただ柔和な笑みを浮かべて
「やはり傲慢……ですね」
小さくこぼした。
***
「あが…っ、ぐぅ……」
気づけば冷たい地面の感触を頬で感じていた。
理解が全く追いつかない。この状況、この絶望、いったい誰が想像できた?どうすれば避けることができたというのか?
「とてつもなく強い義侠心と、それに準ずる恵愛、信念、覚悟、そして渇望ッ! アーッ、そそる! そそられる! そそのかされる!」
魔女教大罪司教、『暴食』担当。
ライ・バテンカイトスと、スバルは対峙していた。それも、一対一で……だ。今までとは訳が違う。スバルには何の助けもない。仲間が、頼れる強者も賢者も、ここには居ないのだ。
***
「その少女が皆様から忘れられているのは、目を覚さないのは、全て『暴食』の権能によるもの」
淡々とそう口にするパンドラは、先程会話していた時とまったく変わらない。慈愛に満ちたその表情は幼い容姿に見合わない、神をも彷彿とさせるような、後光が差しているかのような出立ちだ。
ただその言葉の節々から、来たる最悪を感じ取ったスバルは、激しい耳鳴りと吐き気を催した。
「貴方が持てるすべての輝きで、巨悪に立ち向かって、まるで物語の主人公のように打ち倒せば、それは素晴らしいことだと。それが無謀でも、抗う貴方の血潮が、人の心に活力を生むのだと」
「なに……を?」
矢継ぎ早に紡がれる言葉の数々には、その意味とは裏腹に、まったくもって情がない、熱がない。
「貴方の無限に続くような苦労も、凄惨な過去も、本来は尊くあるべき命のはず。そしてそれが少女の思い描く英雄譚というもの。自身をそれに重ねるというのなら、貴方にはそれを証明して欲しいのです」
はたしてそれが押しつけであることを、彼女は理解しているのだろうか。いや、そんなものは彼女にとって、差して重要ではないのだろう。言葉の意味を考えること、行動の意味を考えること、それらに熱情を抱くこと。全てが虚飾だ。理外でありながら、理を押し付け、意のままにする。それが彼女だ。
パンドラは両腕を広げる。そして一人の少年はこの日突然、絶対的な強制力と理不尽に抱擁されることとなった。
「ーーであればこう言った物語はいかがでしょうか。鬼の少女の英雄、ナツキ・スバルはその矜持と愛の力で持って、今、『暴食』と対峙している」
「は……?」
そうパンドラがこぼした瞬間、スバルの前に『暴食』は現れた。嘘でも何でもない、何の前触れもない、絶望のファンファーレは少女の戯言《たわごと》だった。
あまりに突然のことに、スバルは空いた口が塞がらない。しかし、それは『暴食』も同じようで、
「なんだ、お前? ここはどこだ? わかる? わかれない? わからない? わかりあえない?」
目の前に現れたのはスバルが想像していたよりもずっと華奢で、矮躯で、痩せ細っていて、すこぶる体調が悪そうだった。スバル以上に目つきの悪い三白眼は、状況を理解しようと右往左往している。
「さあ、目の前に元凶がいますよ?」
いつのまにか隣にいたパンドラが、耳元でスバルに囁いた。
未だ状況の読めないスバルを、しかし暴食は待たない。視界にパンドラを捉えると同時、
「ああ、わかった! わかるよ! わかるともさ! あんたが呼び出したってことは! 良いんだろ? 良いよなあ? 良いはずだ! 良いからこそ! 暴飲! 暴食!」
「ええ、貴方にも平等に権利はあるのです。思うままに、存分に、誰もが何かを願うように、貴方は饑餓からの解放を、渇望を……」
誰がどう見たって、明らかに異常だ。
その渦の中に、スバルは囚われた。
「お前は……お前は俺たちの英雄じゃないか!」
ライがスバルに気づいた突如、一際大きな声で呼びかけた。
「何を、何を言ってやがるお前は、それは……英雄? 俺はお前の英雄になった覚えはねぇ!」
「そうは言ってもさ、俺の中に! 俺たちの中に! 英雄ナツキ・スバルはいるのさ! いるんだよ! いるともさ! 入り乱れてるのさ!」
ーーこいつは一体何を。
暴食と対峙したのはこれが初めてのはず。だというのに、暴食はスバルの名前を知っていた。いや、それどころかスバルを自分の英雄だと豪語し、悦びに打ち震えている。
(これじゃあ、これじゃまるで……)
「その通り、これこそが暴食の権能です。……確かに彼の中には、貴方の求める少女がいること、もうお分かりですよね?」
心を読んだように話すパンドラに、確信を得たスバルの頭と心は容易にグチャグチャにされてしまった。
「これは……レムを?」
瞬間、レムの顔が脳裏に浮かんで、ライを見るスバルの瞳の色は、一気に復讐のそれへと変わっていく。
「お前が、レムをーーっ!」
「レム……そうだよスバルくん。僕たちは、俺たちは、今はただのひとりの愛しい人。ーーいずれ英雄となる我が最愛の人、ナツキ・スバルの介添え人、レム……だったかなァ?」
「レムを語るんじゃねぇよッ!!」
スバルは暴食に立ち向かった。どれだけ無謀だとわかっていても。感情の爆発を止められるほどの理性を、スバルはもう持ち合わせていなかった。
***
「ああ……射幸心? 憎しみ? 怒り? 無謀? 愚鈍? 勇姿? 花道? 最後? 全てがない混ぜになってグツグツに煮込まれて、腹の虫が疼く! 蠢く! 喝采に湧く! ああ、ありがとう! 僕たちの最愛よ! 俺たちの英雄よ!」
一瞬で他に伏せられたスバルの頬に手を触れ、ライはそのまま自身の手を舐めた。
「1へと、いいや……ゼロへと……イタダキマスッ!」