マーちゃんと初めて逢った日のことは、よく覚えている。
マーちゃん、という呼び名は、もちろん本名ではない。
本名をもとにした愛称でもない。
出逢ったとき、あの子は沢山の“ゆでたまご”を持っていた。
ホントに沢山、ゆでたまご
それを「さあ、食べて食べて」とばかりに私へ振る舞ってくれて、あの子自身も凄く美味しそうにパクパク食べていた。
ゆでたまご
とっても幸せそうに、うっとりと陶酔しながら食べていた。
その様を見た私が、面白がってあの子を「タマゴちゃん」と呼び始め、それがいつの間にか「マゴちゃん」、「マーちゃん」という風に変わっていったというわけだ。
自分で名付けておいてなんだが、
たまごが由来の愛称なら「タマちゃん」とでも呼んだ方がまだ自然だろう。「マーちゃん」では、なんだかキュウリのお漬け物みたいだ。
だから、けっこう後になってから、試しに「タマちゃん」と呼んでみたこともあった。けれど、
「やめてよ、ネコじゃないんだから」
と、あえなく本人にボツにされてしまった。
実は、私があの子を一目見た瞬間、「ゆきんこ」と呼んだのを覚えている。意識せず、思わず出た呼び名だった。
その呼称も本人に即座に却下されたのだけれど、私があの日、あの公園に来るまでに、見たり聴いたり嗅いだりしてきたことや、あの子と出逢ったときの状況、本人の第一印象などから、雪の精霊「ゆきんこ」の名は自然に発せられたものだった。
私の記憶の中で、いちばん最初の
幼稚園の卒業と小学校への入学を控えて、小さな胸に大きな不安を抱えていた頃。
あの日のことは今でも鮮明に思い浮かべられる。
もうすぐお別れの幼稚園の先生が、
「今日は四年に一度のうるう年だから、二月が二十九日まであるのよ」
と教えてくれたことと、その時期にしては珍しく雪が積もったこと、そして、帰ってから親と大喧嘩して家を飛び出したことなどと、印象的な出来事が多かったためだろう。
親との喧嘩の理由は覚えていないが、どうせ些細なことから始まったのだと思う。
所謂、反抗期だったのだろう。
家から脱走した私は、足下の雪を乱暴に蹴り飛ばしたり、道端に作られていた雪だるまに丸めた雪を投げつけたりしながら、ただひたすら、町をさすらっていた。
後ろから怒った家族が今にも追いかけて来そうで、とにかく、できるだけ遠くまで逃げたかった。
どのくらい歩き回っていたのかは判らない。
ふと気がつくと、見知らぬ静かな住宅街の中にある、見知らぬ小さな公園の前にいた。
今になって考えれば不思議なことなのだけれど、大抵こういう雪の積もった日には、公園は子供たちの恰好の遊び場となり、あの時間帯には、もう既に無邪気な小鬼たちに蹂躙されていそうなものだけれども、その公園の雪は、朝から誰にも足を踏み入れられていなかったのか、まっさらな状態を保っていた。
そういえば、私がここへ来てから一人の人間にも会っていない。これもやはり、今思えば不可解な話である。
しかし、あのときの私は、そんなことは気にすることもなく、目の前一面に広がる、白いふわふわの
雪の匂い。
純白の絨毯。
ジッと眺めているうちに、目がチカチカしてきた。
雪は、あの頃の私の足首くらいまで積もっていた。地面はもちろん、ベンチやブランコ、ジャングルジムや鉄棒などの遊具の上にも。
よくこんな細い形の物の上にまでのっかっているものだと、公園の入り口の手すりに積もっている雪に触れると、ひと塊の雪がパサッと落ちて、下の雪に呑みこまれた。
真っ白な上に真っ白なものが落っこちたものだから、
まっさらな白だったところへ小さな変化が生まれたことが、子どもの私を何故か少しドキッとさせた。
公園の中に視線を戻すと、目が慣れてきたのか、園内にも、そんな凹凸や陰影があることに気がついた。向こうに見えるのは、おそらく砂場だろう。なんだかモコモコしてて、雲みたい。
──あの砂場の方まで行ってみよう。
唐突に私はそう考えた。
とはいえ、これだけきれいに敷かれた白い絨毯に第一歩を踏みだすのには、少し
じゃあ、出来るだけ足跡をつけずに砂場まで辿り着くには、どうすれば良いか──
幼い頭なりに思考した結果、なるべく敷地の隅っこや、地面から離れた高いところを伝って、目的地まで進んでいくことにした。
今となると、何故そんな考えに至ったのか、自分でもワケが判らない。
ともかく私は、ひとまず公園の入り口を離れて、道路上を公園の端にあたる位置まで横に移動した。
そこには、この公園を囲んでいる、太い針金を組まれた柵があり、それ越しに公園内を見れば、蓋のない側溝が、園内を縁どるようにのびていた。側溝の中には水はないようで、底に雪を少し溜めていた。
私は柵に手を掛けてよじ登り始めた。
幸い
むしろ、子どもの小さな手なので、指や
足を掛けやすく、猿みたいにスイスイ登れた。
割と、こういうことをするのが好きな子どもだったのだ、私って。
なんだか怪盗かスパイにでもなったような気分で、ちょっとワクワクしていた。
この瞬間を大人に見られたら、きっと叱られるのだろうな、なんて考えながら。
調子にのって柵のてっぺんまで辿り着いて
大人にとっては大した高さではなくても、小さい子どもにとっては、まるで鉄塔の頂上のようだった。
それでも、こういうことをするのに慣れていた私は、柵のてっぺんをまたいで公園の内側へ体を入れ、柵を降りていった。
そして、ある程度の高さまできてから、
「えいっ」
側溝に向かって飛び降りた。
着地の瞬間、ズルッと足が滑りそうになったが、なんとか持ちこたえた。
危ない危ない。
そのまま側溝を通路代わりにして、しばらく進み、ベンチのあるところまで到着。
自分の位置から、ベンチと目的地の砂場が一直線に見えた。
私の計画はこうだった。
まずは目の前のベンチに飛び移り、そこから跳んで砂場へ着陸する、というもの。
我ながら本当に向こう見ずなガキだった。
もし今の私がその場にいたら、
「そんな危ないことはやめなさい!」
と、絶対に止めただろう。
しかし、そこは無人の公園。
誰もこの無謀な作戦を止める者はなく──
「ほっ」
私は、短い手を精一杯のばして、ベンチの背もたれに両手を掛けると、そこを支点にして跳び箱のようにジャンプし、ベンチの座席の上に着地した。
危険なアクロバット。
ただでさえ、失敗したら大怪我の恐れがあったうえに、そのときベンチは雪で滑りやすくなっていたのだから、下手したら大惨事だった。
しかし当時の私は、自分の運動能力に割かし自信を持っていた。幼さゆえの過信、自惚れだった。
その頃、通っていた幼稚園で、仲間内で通称「ヒコーキ」と呼ばれた危険な遊びが
鉄棒の上に足を広げて乗り、両足の真ん中で鉄棒をつかんで、ぐるんと回転し、その遠心力で飛ぶという恐ろしい曲芸。
それが私の得意技だったのだ。
まだ体が柔らかく身軽だったからできた芸当だろう。
子どもというものは、時々こうして怖いもの知らずなことをするから怖い。
──因みに、
私は、ベンチの上に立って深呼吸をした。まるで何かの競技の選手の気分。
はたして、自分の跳躍力で、このベンチから砂場まで上手く飛び移れるか。
両足に力を込める。
そして、溜めた力を解放するように、思いっきり跳ぶ──
バフン。
……。
跳びすぎた。
私は、砂場に着地というよりもダイブして、雪にうつ伏せで埋まってしまった。
公園の外から見たときにはフワフワして見えた雪は、砂場なのだから当然、その下に大量の砂を埋蔵していたわけで、私は、期待していたフワリとした肌触りではなく、不快なジャリジャリした感触を全身に受けていた。
口の中で、雪と氷と、砂と泥の混じった変な味がする。
急に、自分のしたことが恥ずかしく思えてきた。
空しかった。
せめて、誰にも見られていなくて良かった──
そう思ったときだった。
「何してるの?」
どこか呆れたような声とともに、銀色の影が目の前に差してきた。
《つづく》