そして少女は夢を見る   作:しんり

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第四十一話

 

 重たい体を引きずりながら、衛宮士郎は暗い獣道を歩く。見通しは、あまりよくない。自身の唇からこぼれる吐息は、やけにうるさい。

 だがそれでも、と足を動かすのは止めなかった。

 

「くっ……そ……」

 

 しかし視界が悪く、込み上げてくる吐き気は気持ち悪く、限界は感じている。そろそろかと思い、ここに来る前にイリヤスフィールから渡された薬を震える手で取り出して、口の中に含み急いで嚥下し口を手のひらで覆う。

 痺れている気がする舌先に、エグみという刺激が走って別の吐き気が込み上げて、くる。しかしそれを我慢してまたのろのろと歩きだす。

 まだ、まだ、もう少し。あとちょっとで、効くはず。大丈夫だ、イリヤもこれがあれば死にはしないと――たぶんと呟きながら――渡してくれたし大丈夫、のはず!

 

「っぉ、ぇえぇ……いや、セーフ……」

 

 口からは勝手に嘔吐く声が出たが、吐瀉物はないからセーフだ。飲めている。胸焼けのような気持ち悪さは増しているが。

 だが、多少視界は明瞭になった。そのことにイリヤに感謝の念を送りつつ、士郎は更に奥を目指す。

 一歩、一歩。重く引きずるような足取りで。それでも、確かな一歩を踏みしめて。

 

「――……こんばんは、衛宮君」

 

 そうして、ポッカリと空いたその場所で。

 

「水、谷」

 

 同級生であり、友人の少女が微笑んでいた。

 その姿はずっと変わらない柔らかさがある。いじめられていたことさえも気にしていないと言わんばかりだったあの頃から見慣れた笑み。

 

 衛宮士郎は、その笑みに感じていた気持ちを思い出す。理不尽であっても微笑みながら受け止めていた彼女への憤り。反応が変わらぬことへの不安。そのままではよくないのではないかという心配。友人と認めてくれたことへの安堵。

 付随する記憶は古くて十年近く前のものだ。だって彼女は自分の他の唯一の生き残りで、同じ地獄(もの)を見たはずの仲間で、だから守るべき存在で。

 だけど、今、この時は。この、聖杯戦争というものは。

 

「私を殺す覚悟は、できたんですね?」

 

 くすくすと悪戯っぽく笑う彼女を、敵にさせた。

 改めて相対してもどうして、と思う。どうして、彼女は、水谷響は。

 殺されたがっている? 殺されるのを、許す?

 

 ――いいや、ずっとそうだ。出会った時から変わらず彼女はそうだった。

 だから衛宮士郎は、見ないふりをし続けてきたのだ。そんなはずはないと、そんなことはさせないだろうと。でも、どうだ。

 

「俺は」

 

 彼女の前に立つ男の胸中には、ふたつの選択が激しく渦巻いた。

 そんなことをする必要はない。どちらが勝っても、きっと悪いことにはならないと思う自分。

 反して、どうしようもなくここで彼女を殺さねばならない予感を抱いている自分。

 どちらともが明確な未来(ヴィジョン)を描いているわけではない。漠然とした感覚だ。

 

 その動揺した顔を見上げて、響は微苦笑を溢してゆっくりと立ち上がる。並行して支援のための魔術行使を行っていたりするが、彼女にとって大したことではない。

 だが、その決着が近いことは未来視の言葉を聞くことがなくたってわかっていた。

 

「言峰さんから、私のことをあなたに話したと聞かされました。だから、そうですね。……思い出話をひとつ、お聞かせしましょうか」

 

 とはいえこれは時間稼ぎのようなものだ。アサシンとセイバーの決着までの。衛宮士郎(あなた)の決断までの。

 そう微笑んで、響は何かを思い出すように天を見上げた。

 

 ――十年前の聖杯戦争。水谷響は一騎のサーヴァントを召喚した。……事故のようなものだったが。

 彼は戦闘能力なんてなく、ただ内側の傍観者として過ごしていただけだった。それでも、響にとっては不思議で特別な数日間という記憶があるのだけど。

 所詮子供のマスターと戦闘能力の低いサーヴァント。自滅のような形で、彼女らは静かに聖杯戦争から身を引いた。

 ……あるサーヴァントに気に入られて振り回されもしたが、そこは偉大なる英雄を召喚して戦い合う戦争なのだからそういうこともあるということで片付けるとする。

 

 そして終わりの日。響は最初から最後まで特に何もしないまま過ごし、それから生きていた言峰の元で過ごすことになった。

 とはいえそれは回復するまでの間のことで、響にとっては短い期間の話だ。なにせ親戚が冬木市内にいることを知っていたものだから。

 

「ちょ、っと、待て。……言峰に世話になっていたのか? あの野郎、一言もそんなこと言わなかったぞ……」

「あはは……言峰さんとしては言う必要がないと思ったからだと思うけど、なんだかごめんね」

「なんで水谷が謝るんだよ」

 

 ややムッとした言葉に苦笑を返しつつ、肩をすくめる。世話になった人ではあるが、だからこそやや意地の悪いところがあることも知っているからだ。

 

「私の思い出話はその程度のものです。さて。それでは衛宮君。あなたはこの、私の背後にある大聖杯のことをどれだけ聞きましたか?」

「……遠坂とイリヤ、慎二の家がはじめたことくらいは知ってる」

「なるほど。それでは聖杯の中身については?」

「中身?」

 

 パチパチと目を瞬かせる衛宮に、イリヤスフィールが口を噤んだことを知った。彼女なりの、勝者への褒美のようなものだろうか。水谷響が何かということも含めて。

 いや、それは仕方のないことか。響のことを話すのならば自分自身のことを明かさねばならないのだから。

 ならば響も、彼女のために必要ないことは話さないでいるとしよう。そう結論づけひとつ頷く。

 

「この器の中にはこの世すべての悪。アンリ・マユと呼ばれる反英雄の呪いで満たされています。だから誰が勝とうとも、結果として願望は歪んでしまうことになるでしょう。たとえあなたが望まずとも、セイバーの望みは……十年前に聞いたものと違わないのなら、彼女の消滅で済めばいいところですか。多少違ったとしても、彼女に害が及ぶだけならばいいほうですね」

 

 英霊の座に死せぬままこの地に降りた彼女がいくら望めど、あの願いでは……アーサー王の愛したブリテンを救うのならば、呪いが振りまかれるだけだ。

 とはいえここにあるものだけでは、冬木の街が死滅する程度で済むだろう。無論、近隣の市にも被害が出はするはずだが。

 セイバーだけに限るのなら、彼女自身には大きく影響が出るはずだ。単純に飲み込まれてしまうだけで済めば彼女の個が失われるだけの可愛らしい結末で、そうでないならば英霊の座ごと汚染されるのではないかというのが響の予想である。あくまでも予想ではあるが、近からずも遠からず、といったところだろう。

 

「――……なら、水谷は。……水谷響(お前)は何を、願ってるんだ」

 

 何を聖杯に託す。

 

 そう問いかける眼差しに、彼女はただ凪いだ瞳で「何もありません」と口にした。

 何もない。透き通るような、けれど世間話でもしているような柔らかい声音だ。たった数日前までの日常を感じさせるそれは、しかしこの場所においてはひどく違和感を感じさせる。

 けれど「強いて言うならば」と続いた言葉に、士郎は大きく見開く。

 

聖杯()に望まれたから、と言ってもいいのでしょう。聖杯に再び選ばれたのも、ここに私がいるのも、呪いのような(願望による)ものです。だから私はその呪い(願い)を飲み干す……それが聖杯戦争に勝利した後の願い、というべきですか。私のアサシンの願いも両立しようとすると、少々難しい願いですけども」

 

 困ったとでもいうような笑みが浮かぶ。愛おしいものを語るような表情に、聖杯に対する拒絶感はないようだった。

 そのことにざらりとしたものが胸の内を撫でる。それは恐ろしい、とは違う。怒りでも、嫌悪でもない。ただ……何だろうか、この感情は。

 

『疑念』

 

 不意に、気に食わない神父の言葉が士郎の脳裏に浮かんだ。だが、やはり疑念……とは些か違う。違う、はずだった。

 その疑念、いや違和感というものを抱いた日を思い出す。あの日、新都の公園に彼女が居たのを目にした時から。どうしようもなく、その姿が気になっていた。ずっとずっと、この十年近く見てきたそのはずなのに。

 

「それは……そんなのは、願いなんて言わないだろう」

「ふふ、そうですね。ですが私にとってはそういうものですから」

 

 この微笑みは、何かが違う。いや、いつもと同じではある。その顔立ちに損なわれたものがあるわけでもない。

 ただただ友人が、友人の在り方(性質)が、決定的に変質してしまったのではないか、と。そう感じてしまうのだ。

 

「……なら」

 

 そこでイリヤスフィールからの言葉を思い返し、士郎は迷っていた言葉を、ひとつだけ選ぶ。

 水谷響は問に答えると、彼女は言っていた。そして昨日。あのビルでも、真実彼女は敵だと即答した。

 戦うためにと迷いは飲み込んだが、それでも話し合える今。問いかけるのは、もっと別のことだとそう思う。

 

「お前は、どうなるんだ水谷。願いを叶えた、その後は」

 

 数歩空いている距離を一歩、踏み出す。

 呪いだという聖杯の中身を飲み干して、無事でいられるわけがないだろう。幾ら魔術の世界に疎くてもそう断ずることくらいはできる。

 

「私の中に満ちた呪いに蝕まれるだけですよ。食い破られて街に被害が出るか、ただ食い潰されるだけなのか、それはわかりませんが」

 

 それは、想像するだけで悍ましい。水谷は平然と、さも当たり前のように言っているが、そんなの。そんなのは、だめに決まってる。 

 彼女を死に至らしめる呪いなんて。

 

「俺は、認めない。そんなの、間違ってる」

「……間違い、ですか?」

 

 そう、間違いだ。間違いだろう。士郎にはイリヤが言いたかったことの意味の半分も理解できていない。彼女らが自分自身をもののようにいう意味も、違うようで同じであるという意味も。

 だけど、でも。水谷がそうなる必要も、そうする必要もない! 彼女がどんな人間だとしても、犠牲になるような真似なんて、到底認められるはずもないだろう!

 

「ええと、お言葉は嬉しいですけれど、衛宮君。私はあなたに会う前から――いいえ。遠い遠い、昔からこういうものですから。あなたが気に病むことはありませんよ。殺すのを躊躇う必要も、ですが」

 

 それならば、選ぶべき道はたったひとつ。

 

「俺は聖杯なんて壊してやる! お前が、水谷響が呪い殺されるというのなら、その前に!」

 

 これまで士郎にとっての響は、鏡にも似たものだった。

 同じ地獄から生還した者でありながらすべてが違う彼女。性別も生まれ育った環境も違うのだからそれは当然だが、そうではなく……もっと、根本的なところが。

 しかし、それも違うのだとここに至って、理解した。彼女は自分自身をさも人形(もの)であるかのように言う。それは間違いではないのだろう。これまでの会話で続く平坦な声音も、言葉遣いも、以前よりもずっと温度が低い。

 だが逆に、衛宮士郎が知っている彼女こそは人形(もの)ではない、人としての水谷響である。きっと、それは矛盾していないのだ。

 

「驚いた。……それだと正義の味方なんて夢、叶えられないよ? 衛宮君。いいの?」

 

 ほら見ろ。こうして戸惑ったように首を傾げる水谷は、水谷響だ。いつかに話した夢を、呆れもせずに『無理して体を壊さない程度にやりなよ』と微笑みながら背を押してくれたあの時と同じだ。

 

 ――彼女に語った正義の味方。士郎が目指す正義の味方は、目の前の命を助けるもの。

 そして、今この場にいる命は、ただ一人。ならば、叶えられないなんてことは、ないはずだ。

 

「う、うーん、いや……なんていうか、私はもう聖杯の呪い(こと)自体は受け入れてるというか、ね? 壊さない場合は腐りながら死ぬ(生きる)ようなものになると思うけど、だからって壊しても聖杯()が私の中に既にいるのも事実というか。選ぶ余地はあまりないというか」

「……お前、なぁ……! なんでそんな……そんなことになるんだ?! 水谷、お前はなんで、なんで」

 

 困惑した様子の水谷の肩をがっと掴んで、ギリリと奥歯を噛みしめる。

 どうしたら、よかったんだ。慎二を放っておいて、凛と戦ったほうがよかった? 教会にもう一度見舞いに行ったほうが? それともあの新都の夜、声をかけていたならば違っていたのだろうか?

 もしくはずっと前。出会った頃から、もっと彼女のことを知ろうとすればよかったのだろうか。そうしたらきっと。きっと、敵対なんてしなかったろうに。

 

「……ありがとう、衛宮君。君は本当に私のために怒ってくれる人ね。ありがたいよ。だから――……ああ、うん。なるほど。これが、キャスター()が願ったことの結実になるんだね。ふふ」

 

 悔いたように顔を歪める衛宮を見上げ、響は心の底から安堵した。彼――アンデルセンが知れば、どう思うだろうか。どこが、と思ってしまうだろうか?

 でも、響にとってはこれが水谷響の結実だった。それが人形(ガラクタ)なりの、答えなのだ。

 聖杯の呪いに自身の中身を満たされながら、しかしハサンの、クー・フーリンの、メディアの、ライダーの願いに水谷響としての外殻()は留められ。……言峰やギルガメッシュは結末を眺める観客だがそれは兎も角。衛宮士郎はただ彼女を終わらせるのではなく、破壊することを選ぼうとしている。

 その結末が、彼にとって善きものか悪しきものなのかも気に留めずに。

 

 ――今までも、■■■にそうした人間が現れなかったわけではない。だけど、ただ、そこに至る芽が摘み取られていただけのことだ。

 それに今回だって、ハサンが願うような普通の人間らしく、なんていうのは土台から無理な話だった。だけれど水谷響が大舞台の幕引きに立ち会っていること。これが、違うものを見出させた。結末への分岐点とも言い換えれよう。

 

「なぁ、水谷。……俺は友人として、お前を助けたい」

「うん」

「……だから、教えてくれ。お前が生きられる方法を。お前は、わかってるんじゃないのか」

 

 その言葉にうんと困ったように頷いて、響はもう一度だけ彼のことを思い描いた。彼の願いを。

 ――水谷響の未来を願った、ひとつの物語を。


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