人の気のない円蔵山のはらの中。地下となったその場所で、小岩に腰掛ける影がひとつ。
「――――、――――」
小さく鼻歌を歌いながらゆらゆらと体を動かして、彼女はただ天を見上げた。暗い岩壁に埋め尽くされ、しかし微かに仄明るい光を放つ構造体を背にしながらぼんやりと。
「響様」
かけられた声にふわりと柔らかく微笑みを浮かべ、振り返る。その笑みはどこまでも自然で、ピクニックにでも来ているような穏やかさだ。
だが、しかし。間違いなく最後の戦いが始まろうとしていた。聖杯戦争の終わりを迎える戦いが。
響には、それが手に取るようにわかっていた。山門に続く石段を踏みしめる足音も、迷うように茂みをかき分ける仕草も、潜めるような吐息さえも目に浮かぶように。
「アサシン。わたしからの最後の命令です。あなたの動きやすいように戦ってきてください。当然――あなたは、苦戦するでしょう。傷つきもするでしょう。それでもわたしはここであなたのことを支えながら待っています」
「はい。必ずや帰還してみせます、我が主」
強く頷いて、ハサンは毒を封ずる礼装をするりと外す。そうして閉ざされた洞窟に自身の毒を張り巡らせていく。最初は弱く薄い毒ではあるが、セイバーと戦う頃には流れた血が、詰めた息が降りかかれば幾ら優秀な騎士でさえ動きを鈍くすることだろう。
大聖杯と呼ばれる彼女たち英霊を召喚するための陣がここにはあるが、そんなものに毒はきくまい。主を汚染する忌々しい無機物なのだから、当然なのだろうが。
「……来た……」
仮面に隠した眼を閉ざしていたハサンが、小さく呟く。山中にわざとらしく痕跡を残したのだから、警戒すれど追うようにこの洞窟に足早くやってくるという読みは正しく当たっていたようだ。
セイバーほどの技量ある騎士であれば、対峙したアサシン自身は簡単にねじ伏せられるのは間違いない。あの短い戦闘でこちらの能力も理解したはずなのだから。
故にこの身の毒を警戒して対策は練ってきたはずだ。セイバーというよりは彼女のマスターの対策ではあろうが。
「シロウ、――――」
「――――ってる……、……だ……」
暗闇の中、微かに聞こえてきはじめた会話も、足取りも淀みない。多少はふらついてもいい頃合いだが、これはバーサーカーのマスターが手助けでもしたのだろうとは主の言である。現在アーチャーのマスターは治療中だと言峰も楽しげに言っていたことと照らし合わせれば自ずと出る答えだ。それは己の主でも同じことが言えるが、それはそれ。
一先ずと手の内にある暗器をジャラリと金属音を立てさせて空に擲つ。途端にとぷりと空間に沈んだ刃は響が遠隔で起動させた魔術によりセイバーとその主へと飛来していく。
間をおかずひとつ、ふたつと擲つ度に空に波紋が広がり、黒い雨のように洞窟のやや開けた空間に降りしきる。
「――――!」
「――――」
完全に手を止めて気配を遮断したハサンだが、雨が止むことはない。だが、その程度の攻撃で沈んでくれる程、セイバーというサーヴァントクラスは甘くはなかろう。なにより金色の極光を放つ聖剣を持つ彼女は、世界にも名のしれた英霊なのだから。
昨日の今日で宝具を使用した反動があると見込むのはいささか甘い想定だ。マスターの衛宮士郎は間桐慎二と比較しても大した魔術の腕ではなく、その分サーヴァントとしての性能が落ちているはずだとキャスターが言っていたが……あの宝具に太刀打ちできることはない確信はある。
だからこそハサンはマスターからの支援を惜しむことなく浴びながらこの最後の戦いに臨むのだ。主のために。自身の望みのために。
「…………」
弾かれた刃さえ再び降り注ぐ雨とする魔術に痺れを切らしたのか、微かに風が唸る。次いで爆発さえするように岩肌を削り、小さな竜巻が狭い洞窟内を駆けていった。
大聖杯のある場所にまでは至っていないが、どうやら嵐のような風を纏った剣圧が昨日のように主のいる方向へと走ってしまったようだ。そして刃の雨が降り止んだ今を好機と見てセイバーは周囲を警戒しながら。衛宮士郎は急かされるような覚束ない足取りで。
だが、まだ機ではない。
『響様、お願いします』
『うん』
しかし次の手はそろそろだろう、と念話で主を頼れば柔らかい了承の声と共に空を閃光が走る。ここでセイバーが反撃に転じようとしても、主の身を案じてはいけない。それでは負けてしまう。
水谷響というヒトは、ここで終わってはいけない。だから、と光が止む前に、できる限り接近する。
「あなたの命を、頂戴します」
そうして、ハサンは。光を眩い剣で打ち払うセイバーの不意をつくように彼女とそのマスターの左後方から刃を構え駆けた。
「っ――――シロウ! 伏せて!」
「あ、あ!?」
アサシンの表情は仮面に隠れて窺うことは出来ない。けれどその唇の笑みだけが、不吉な予感を与える。
そうして、一瞬の逡巡を行う。この暗殺者は毒を扱う。セイバー自身には効きが悪かったが、士郎という人間には耐えられないだろう。あの遠坂凛という優秀な魔術師でさえ触れられ、少量の血を浴びただけで皮膚が爛れたのだから。
衛宮邸に訪れていたイリヤスフィールによってそれ自体は癒されはしたが、しかし意識を落とすほどの毒までは癒やしきることは出来ていない。だが、情報としては十分だ。
つまるところ今、この瞬間に斬り伏せるのは容易ではある。けれど共に来ることを選んだマスターを守るためには、そうするわけにはいかない。せめて遠ざけてからでないと、と足を浮かせて闇に潜む体に沈めて。
「はぁぁっ」
「グッ……、…………!」
蹴り飛ばそうとした。けれどその存在に気づくのに遅れたが故か、はたまた蔓延する毒により集中が本人の意識しない内に撓んでいた故か。
「っ……!?」
自身でも防ごうと身を捻った士郎の脇腹に刃が掠めた。それを認識しながらもセイバーは足を振り切り、くるりと空で一回転して岩の上に着地したアサシンへと剣を振って魔力を纏った風を放つ。
牽制程度にしかなっていないが、距離を稼いだ次は攻めたてるのみ。魔術の砲撃は止んでいないが、ハッキリ視認している今こそアサシンを倒すチャンスだ。だが、と目を細める。
「シロウ、走れますか?」
「……ああ。行ける」
「では行ってください」
「わかった」
マスターにそう声をかけて、セイバーはしっかりと両手で剣を握りしめ腰を低くし。それからすぐさま離脱しようと後退するアサシンを逃さぬように駆ける。
アサシンとしては白兵戦に持ち込まれては分が悪い。しかしサーヴァントとして最後にこの二騎が残った以上、この戦いから退くなどできないことだ。それこそ、お互いに。
(想定以上に、効きが悪い)
セイバーの追撃を真正面から受け止めないように避けつつ、響が隆起させた岩や先程崩された岩を遮蔽物として利用しながらもハサンは眉を寄せた。山中に充満した己の毒は間違いなく常人では身動きが取れなくなるものだ。
そして数度刃を弾いたハサンの手足にはかすり傷が幾つもつき、さらに毒を撒き散らしている。けれど、騎士王の剣技に陰りはない。
じりりと後退りするセイバーのマスターは流石にそろそろ効いてきたのか、息苦しそうな表情を浮かべている。これならばそちらは放っておいても問題ないだろう。
たとえ主のところへ向かおうとしたとて、辿り着く前に濃くなる毒によって倒れる。はずだ。ここよりもあちらの方が毒が染み付いているのだから。
「はぁぁっ!」
「ッ……」
しかし、問題はセイバーだ。主の支援砲撃もあり消耗はしているが、決定打に欠けている。
だからといって宝具を使うにもハサンのそれは他のハサン・サッバーハと比べて更に距離を詰める必要があるため、現状では難しい。もっとも、この剣技を相手に猶予があるわけではないが。
ならば、と脳裏に浮かんだ金色の王のニヤつく顔を振り払いつつ地面を蹴り、更に毒を撒き散らす。せめて屋内……この山の中にあるという洞窟内であればもう少しやりようはあったかもしれなかったけれど。
「そう逃げてばかりいても私は倒せないぞアサシン」
激しい剣戟に傷つきながら、セイバーの煽りにハッと鼻を鳴らす。その程度の煽り文句では心乱れることもない。微かな焦りは確かにないこともないが、顔にはまだ表れていないはずだ。
「最優のサーヴァントが暗殺者程度に手こずるなんて、マスターの質も知れたものですね」
煽り返しつつ、ハサンは目潰しも兼ねてザックリと斬られた腕を振るい血を飛ばした。流石に避けられてしまうが、問題ない。
大きな傷口はすぐに塞がるが、汗と血の毒はセイバー自身の手で更に拡散していくのだから。だから焦りは禁物だ。落ち着け、と心中で呟く。
セイバーのマスターの姿が暗闇に紛れて見えなくなってしまったが、大丈夫。大丈夫だ、とも言い聞かせる。
「今頃は貴様のマスターの元に辿り着いていよう。我々とて無策で乗り込んできてはいないのでな」
「……そうだとして、あなたのマスターに我が主を害することは不可能です。我が主は優れた魔術師ですので」
それにその煽りは真実ではないとセイバーとて理解していよう。だが冗談いえ、と口にして支援に行かれも困る。
アサシンはこの場面でセイバーを倒さねばならないのだから。いや。倒さずとも、ギルガメッシュから渡された刃を突き立てることができたのならば。
そうすれば勝利することは可能だと見ている。白兵戦はどこまでいっても劣勢ではあるが。
「だとしても、それならば私が貴様に勝てばいい話、だっ!」
「っく、ぅ……そう、簡単に、は、いかせません」
それでも、まだ戦いは続く。セイバーの魔力が尽きるまで。響からの支援がなくならない限り。
均衡は、保たれ続けた。
――――ふたつの姿が、掻き消えるその時まで。