その視点は、
料理を作る見慣れたハサンに比べて丸い指先。
淀みない動きを見せるその手が、ふっと止まると。
瞬きの如き一瞬で場面は切り替わり、一人の老人の顔が映る。
杖をついて腰を曲げる翁の姿。
その表情に悪意に似た笑みが浮かび、廊下だった背景が薄暗い灰色の、何もいない
『──それはできません』
どういった会話をしていたのかはわからないが、響の声がした。
しかしその言葉を完全に拾い上げるより早く、黒に視界が埋まっていく。
ざざざ、と耳障りで目障りなもの。
それは山のように主に折り重なっていた蟲だろう。
おぞましい、と常人ならば思う事だ。
けれどもそのビジョンはまるで映画のワンシーンを再生しているように嫌悪の念も感じず。
『可哀想な方ですね』
ただ、憐れみの声だけが過った。
「響、様……!」
額に落ちるかのように仮面に当たったものを払い、手に触れている肩らしい部分を掻き抱くように引きよせながら、彼女は声を上げる。
あまりの醜悪さに自然と狭めていた視界を、思い切り押し開いて、強く叫ぶ。
「響様っ!!」
そうして、暗殺者は主の表情を捉えた。
何時もと変わらぬ寝顔にも思える穏やかな笑みを。
開かれた眼差しの、揺るぎのない柔らかさを。
それはあまりにも、変わらない。
変わらなさすぎる、ものだった。
「……──」
だからか以前、金色の王に言われた事を、ふと思い出す。
もしも。
もしもの話ではあると、歪曲な前置きの末。
あの王にしてはやけに静かで、平淡な声音で囁くように。
『アレが人に、人形にさえ成れぬものになれば』
赤い眼を冷たく突き刺すように細めながら。
『アレのサーヴァントである貴様が──殺せ』
そう、英雄王ギルガメッシュは告げたのだ。
その真意を、ハサンが知ることはない。
けれど彼の王は自分の所有物の行方を簡単に他人に譲るような人物ではない事はわかっている。
それなのに響の死をハサン・サッバーハに委ねたということは、何か意味があるのだろう。
人への思いやりなどでは決してないはずだ。
響のためでも、ハサンのためでも、まして人間のためでもない。
あくまであの王が主体の、命令のようなものだったろう。
だが。しかし。
「響様……?」
幾ら響が、主自身がギルガメッシュの所有物なのだと認めているのだとしても。
ハサンがその言葉に、従う必要なんてない。
まして、
従えるはずが、ないのに。
「……来てしまうのは想定内でしたが……いけませんね。アサシン、私から離れて
目の前にいるものの違和感に、固唾を飲む。
ただそこに立って、彼女は微笑んでいる。
それだけだけれど、何かが、ずれている。
「間桐君と妹さんには、先にご飯を食べていてと伝えてください。勿論貴女も食べていてもらって構いませんから」
「響、様……我が主、ですが……」
「ふふ、心配しなくても大丈夫ですよ。ここを終わらせたら私もすぐに行きますから」
では、響ではないのかと言われればそうではない。
まだ、そうではない。
だからこそ留めようと口を開いたハサンだが、苦笑がその顏に浮かんだ事で言葉に詰まる。
その笑みは、自分の知るままだ。
故に、まだ大丈夫ではないかと。
そう思えてくる。思えて、しまう。
「……何を、なさるおつもりですか」
「何を、ですか? 何をと言われると難しいけれど……」
絞り出すように問いかけられた言葉に、彼女はきょとりと目を丸くした。
それから少し考える様子の後に、ひとつ頷く仕草を見せて。
「──罪過は追いつかねばなりませんから」
たおやかな笑みで、告げた。
その言葉が紡ぎ終わった時、地下に嗄れた絶叫が響き渡った。
何故。何が、どうして。違う。
儂は、
そんな声が、足元や天井や壁というあらゆる場所から、聞こえる。
声の全てが同じもので、重なる耳障りなそれは蟲の羽音と大差ない。
深い関心はない眼差しをハサンへと向けた響は、自身を掴む毒の滲んだ手を優しくほどいてさぁと促す。
「命令ととっても構いません。だから、はやく……ね?」
そっと腕を押すように突き放された事で、自然とその足が動き出す。
ハサンの意思には、関係なく。
それが響の成した事であることは明白だった。
焦るハサンの声に、しかしその眼は向くことはないまま扉に遮られて見えなくなってしまう。
自身の手で扉を閉めさせられたハサンが慌てたようにもう一度扉を開こうとするが。
どうにも、空間がずれているような、そんな妙な手応えで扉は開かない。
人よりも強いはずのサーヴァントの手で叩いても、微かな音さえしなかった。
そんなアサシンに、扉の近くで未だじっと佇んでいた桜が声をかける。
「アサシンさん……水谷先輩、は……」
青白い顔で呟くような惑う声音を向けてきた彼女に、アサシンはギリリと強く拳を握った。
怒りを向けてしまうのは簡単だけれど、暗殺者であるからこそその怒りは表面上から消し去り……しかし消しきれない震えた声で返す。
「……貴女は何をもって、我が主に害をなした」
冷たく、殺意が密かに込められたその問いに、間桐桜はざわざわとした違和感を覚える胸を押さえながら血色の悪い唇を震わせた。
ハサンが出た音を聞き届けて、響は何かを持ち上げるように片手を上げる。
するとピタリと声が止み、次いで
ひゅるりひゅるりと、風を切って。
あるいは床で悶え苦しむように殻を震わせて波打って。
けれどそれは、それらは、形を保てなくなったように捻れて、捩れて、崩れて、消えてゆく。
悲鳴もなく、怨嗟もなく、疑問もなく。
最初からここには何もなかったように。
そうして広く、重く、沈むような静寂だけが残った。
一秒。
十秒。
一分。
十分。
いいや、もしかしたら一時間が経とうとしているだろうか。
それどころか、一日、二日か?
「――……ぁ、……ぉ、……」
そんな思考を途切れ途切れに浮かべながら、地下に在るものがひとつ、動き出す。
おおよそ人と呼ぶにはおぞましい姿をしたものだ。
人の骨格を無理矢理継ぎ接ぎしたように皮膚のあちこちには骨が突き出し、あるいは剥き出しにしている肉体。
肌は老衰しきったようにカサカサに乾いた木乃伊の如き肉体。
背中や足、あるいは手には蟲と思しきものを生やした肉体。
呻く声は最早言葉を紡ぐ事さえも難しいかのように枯れきっていて。
生きた人間と呼ぶには、それはあまりにも。
「ふふ。本当に、可哀想なお姿ですね」
憐れなものだろう。
「己が生命のために蟲の身となり人を貪り、魂を汚した結果こそが形となっているのです。……ですが、情報を繋ぎ合わせた結果まだ生きてらっしゃることは、とても素晴らしい事だとも思います」
何かを、言っている。
そう捉えた思考が、肌を震わせた。
言葉の意味を捉えるには、程遠いけれど。
「あなたがそこまで生を望む事は理解しました。けれどその魂では既に半年……いえ、数ヶ月も保たないのでしょう。故に私を喰らいたかったのでしょうけれど、本当に申し訳ありません。この身が叶えられる願いの数は──」
虚な眼に、見知らぬ女の顔が映る。
その気配がどこか懐かしいような。
その姿がどこか空恐ろしいような。
それはどこか、人ではないような。
「既に満ちているのです」
唄うような声が、やけに明瞭に響く。
穏やかさと冷淡さを共存させる声が。
声におされたように、何かを言わねばならぬとかさかさに乾いてひび割れた唇が開く。
誰かを、何かを、思い出さねばならぬと、焦りが生まれていた。
悪寒にも似たぞわりとした焦りの感覚に、肉体が塗りつぶされていく。
「な……ぜ…………だ…………」
そうして溢れた言葉は、正しく伝わっただろうか。
いいや、そもそも何に対する疑問だろうか?
千々に千切れていく思考の中で、間桐臓硯であったものが思う。
何かを、違えたのか。
しかし何を。
儂はただ、死にたくなくて。
何故だ。
何故、何故……儂は、私は、何のために。
「……だから生を願った貴方にしてあげられるのは、これだけになります」
どうしてこんなにも、生きようとしたのか。
その答えを差し出すように、朧な思考領域に白い、雪のような白磁の指が開く。
白い白い、雪の花のような、形が。
盲いた眼に映るそれは、幻なのかもしれない。
ああ、しかし。それでも。
「…………──」
その幻は、きっと。
きっと、かつての理想と今までの罪禍。
己の中に積もった夢、なのだろう。
「ですが、結局のところこれらは私の身勝手な行いに過ぎません。貴方の深い場所に眠っていた記憶を取り戻した今、何を選択するのかは貴方次第ですけれど……どうか、よき夢を」
いつの間にか近づいてきた柔らかな笑みを浮かべる女が黒い何かを手にしていた。
その黒いものがとぷり、と水面に投げ込まれた石のように骨の浮いた胸元に沈む。
痛みは、ない。
どころか違和感のひとつもなく、その手は抜き取られた。
だがその瞬間、どこか遠くに感じていた何かが、明確に肉体へ宿ったのだと理解した。
欠けたパズルを、嵌め込まれて完成したように。
明瞭な記憶が、思考が、感情が、
「────!!!」
吠えるように上がった言葉にならない叫びに、しかし言葉は返らない。
彼女は、何も言うことはなくその存在を視界から外してしまったのだから。
彼の声は、自分に向けられたものではないとでもいうように。
憐憫の眼差しをひとつだけ残して、
残されたものはただ何かにすがることも出来ず、追いつく時がきた罪禍を濯がなければならない。
それが善いこととも、悪いこととも。
善いことをしたとも、悪いことをしたとも。
水谷響という存在は考えてはいないが。
どう受け止めるのかは、間桐臓硯が断ずるべきことだろう。
もっとも、そんなことを思うことができるのかは、彼の意志次第にはなるけれど。
心中でそう呟いた少女に、小さな笑みが浮かんだ。